2017年9月29日金曜日

何も期待しない



細かいことや、難しいことはわからんけど、なんとなく、なんとなーくおもえるのは、何も期待しないってこと。

父の手術の結果も、畑の野菜の結果も、起こる出来事の結果も、なーんも期待しないってこと。

こうあってほしい。あああってほしいとおもうことを、そうあってほしがるのでもなく、ただその後に起こったことに任せる。。。というのかなあ。

結果は、ただ勝手に起こる。

けれども人は、その起こる前に、「こうあってほしい」と願う。
「願う」ことは美しいけれど、そうならなかった時に、哀しみを生む。
だから人は、こうあってほしいと願う。

ところが、起こる出来事は二つない。こうあったり、あああったりしない。
ただひとつだけ起こる。

どうあろうと、どう思おうと、ただひとつだけ起こる。

そのことに、手放しになる。

そのとき、自由になる。縦横無尽になる。

期待もしなければ、起こった時に、起こったことに対処する。
前もって考えなければ、そのとき対応する。

シンプルになる。

こころがそこにいる。



父の頑張り


父の3度目のがんの手術のために高知に帰って来た。

注:お食事中の方は、今日の記事はちょいとスルーして下さいまし。

2度目の手術の時に開けたお腹の筋肉がその後あるときパカッと割れて、そこから内臓が飛び出して来ていたのだ。このまま置いておいては皮膚から内臓が飛び出してしまうのと、腹の上にあった4センチほどの癌が皮膚に触れて、痛いらしいので、その応急処置として(にしてはすごい手術のよーに見えるが)緊急にやった。

「どや。すごいやろ」
手術の前日、飛び出したお腹をみせてくれた。
「すげー。これ、なに?」
「ここら辺が癌よ。ほんで、この下が全部内臓よ」
「ウソ!これが内臓??」
動揺する自分の心に気づきながら、でこぼこした父のお腹を触った。固い所が癌だそうだ。
「どーやってへっこますが?」
「癌をとって、両脇に開いた筋肉を引っ張るがよ」
「引っ張れるが!?」
「しらーん。けんど、引っ張れんかったら、人工のなんかを貼付けるらしいが」

癌以外の手術をあわせると、この5年間で4回目の手術。なんとなく慣れて来ているようにも見える。落ち着いた様子には見えるのは、娘へのええかっこしいか?

術後、外科の先生の説明を受ける。
オペ室から出てきたばかりの先生は、ドラマに出てくる格好そのまんまだった。
でかいがっちりした体格の、いかにも外科の先生ってかんじがした。
三日月型の金属のお皿を指さして、
「これが癌。これが痛みの原因。皮膚の下にあったからね。」
目の前には赤い血の滴る美味しそうな肉片が3つ。一見するとホルモン焼きの肉に見えた。
一番大きい肉片をはさみで触りながら、
「これが筋肉の下にあったから筋肉を寄せることができないのでとった。もうひとつは、やはり腸にくっついていたから、腸と一緒にとったがよ。これが腸。ほら、ここにうんこがあるやろ?」
はさみでうんこをぽろっと触る。
「おお!ほんまや!」
覗き込んでた身体が一瞬後ろにそる。
「腸は閉じました。ほんで、ここまでいじると、メッシュを入れるといろいろ合併症が起こるかもしれないので、本人の筋肉だけで、ガッチリ閉じました」

手術中の待ち時間に、病院内の広報誌で、この先生がアーチェリーをやってる記事を読んでいた。弓をぐーっと引っ張ってる写真をおもいだす。彼の「がっちり閉じました」の言葉に信憑性を感じる(笑)。
横で説明を聞いていると彼の存在の暖かさを感じる。にこりともせず、顔はかなり怖いが、なぜか安心感を与える雰囲気が漂っていた。

病室に戻って来た父は、ベッドが揺れるぐらいブルブル震えていた。冷たいオペ室の中で、術中はすっぽんぽんらしい。体温がぐっとさがる。術後直後は34、2度。からだは自らの身体を震わせて、体温を上げようとしているのだ。
電気毛布をかけ足をもみ、どんどん体温が上がってくる。30分ほどで平熱に戻った。

それにしても体中にチューブがある。ヘタに動くとどっかのチューブが外れる。
一部が横にある機械につながっている。
「この数字は何ですか?」
「これは心拍数です。その下が血液中の酸素濃度で、その下が血圧、そして。。。」
と色々教えてくれる。
その他、廃液を出すクダ、点滴のクダ、痛み止めのクダ、血圧を調節するクダ、おしっこのクダ、血を出すクダ、足のマッサージのコード、、、、あとなんだっけ?
もの凄い数のクダがあり、それを調節し、管理し、あっちに移動させ、こっちに配管し直し、なんなくこなす看護士さん。

人体を一カ所切ると、いかにバランスが崩れるか、そしてそれを元に戻すためにどれだけの労力を使うのかを教えてくれる。医療の現場では、この複雑なシステムを、間違いのないように日々こなしている。

ちっちゃいとき、
「大きくなったら、看護婦さんになる~」
などと、ちょっとだけ言ってた自分がおそろしい。
世のため人のためにも、ならんでよかった。

不安定な時期もあったが、だいぶ状態が落ち着いて来た。翌日起き上がった様子を見て、こっちに帰って来た。
電話すると、その後病院内を歩いたようだ。

父は頑張り屋さん。目標に向かって確実にそれをこなしていくタイプ。
何度かの手術のときも、人並み以上に頑張って医者や看護士を驚かせて来た。
今新たな目標をもった。退院すること。
きっと彼のことだから、あっというまに退院することだろう。

さて。
その次の目標は?(笑)



「不屈の人黒田官兵衛」/MF新書表紙イラスト



2017年9月21日木曜日

なにすんねん!2


きのうの怒りについての続き。

数学的に怒りを解消する方法や、言葉で怒りを解消する方法以外にも、別な解決法がある。
スポーツやって気を紛らわせる?友ダチにグチる?飲んで忘れる?
ちゃうがな。


怒っているとき、からだはどう反応しているだろうか。
心の中を見ることが出来たら、今度はからだの中を見てみよう。
あたまの中がぐちゃぐちゃ言ってるのはほっといて、
ソファにでも座ってくつろぎ、からだにフォーカスする。

まず、怒る自分に許可を与えてあげる。
「怒って、ええで

ただじっと座る。怒った感情をそのままに、自分の身体を観察する。
CTスキャンみたいに、頭からスキャニングしていくでもいいし、
胸のあたりを意識してみるでもいい。

不動明王みたいに、体全体が燃えてる感じがする?
みぞおちが重たい?
反対に寒気がする?
足ががくがくする?
胸の所が、ぎゅーっとねじられている感じがする?
なんかいてもたってもいられないような、落ち着かないかんじ?
ワナワナ震える?

あんまりこうやって自分の身体を見るって経験ないとおもわん?せいぜいからだが痛いときぐらいじゃないかな。ほんとはね。これがほんとのじかの体験なんだ。頭はそれにいろんな解釈を与えて、ドラマチックに展開させているだけなんだ。



私がはじめて自分の怒りを見たとき、全身がカアーッと熱くなっているのに気がついた。胸から後頭部を通って、頭を抜けていく熱いエネルギー。

「なんだこりゃ?」と思っていると、そのエネルギーは腕に移動し手の先に向かい、何かを叩きたくなる衝動が起こった。
「ははーん。人はこれで他人を殴るんやな」と納得する。
そして今度は足先に向かってエネルギーが移動。
「ほほー。これで何かをけりたくなるんやな」と納得。

いつのまにか、怒りは怒りを与えた相手に向けられるのを忘れて、自分の中で起こっている壮大なエネルギーの感覚の観察に夢中になっていた。

やがて消えはじめるエネルギーに
「イヤイヤ。もっと怒ってええで」と、催促する。
しかし催促しても、あおっても、再びあの怒りを再現しようとしても、
ピタッ。。。。。。とやんだ怒りは、再び戻って来なかった。

「なんや。怒りって、単なるエネルギーやったんや。。。。。」


私たちは自分の中に起こるあらゆるエネルギーに、名前をつけた。
これは怒り。これは哀しみ。これはよろこび。これは不安。これは恐怖。。。。

それぞれにこれは味わってもいいけど、これは味わってはダメと良い悪いと区別した。
自分の中に自然と現れてくるエネルギー。それをいい、わるいとレッテルをはって、受け取ったり、受け取らなかったりしているのだ。

現れたエネルギーを受け取ると、消化して消えていくようだ。
受け取らないと、ズーーーと居続ける。クローゼットの中にムリヤリしまいこんでも、あるものはある。だから似たような事件が起こって、似たよーな感情がわきおこっちゃうのだ。同じよーなことでいつも怒ってない???

でもこの世の中はうまいことしてくれているもんで、その人にあったタイミングで、ちょうど良い時に、出来事は起こる。だから見れないときは見れないで良いし、怒りをためていることをいけないことだと思わんでよろし。

頭で考えても解決できないものが、からだを感じて、からだの反応を受け取ることによって、今まで気がつかなかったアイディアや、それを起こした原因が、腑に落ちたり見えて来たりする。これがどうしてこうなるのかは、まったくわからない。

そして、こっちの怒りが消えていると、相手の中にも怒りが消えている。どうも同時進行にうごくようなのだ。これがこの世は投影と言われるゆえんなのか。

いくら相手に対する怒りを抑えていても、心で煮えくり返っていたら、相手はいつまでも、こっちの気に入らないことしかしない。
けれども、こっちの中の怒りが完全に抜け落ちると、事態は真反対になる。
そういう体験を何度もするうちに、これはマジかもしれない。。。とおもったしだい。


自分の感じていることや感情を淡々と見てられるか。それをおもしろがれるか。
そんな所にヒントがあるように思える。

長くなりました。
怒りについてを自分なりの考えを書いてみました。

大事なことだから、二度言います。
真に受けないよーに。




2017年9月20日水曜日

なにすんねん!




今日は怒りについてちっくと書きます。

今んところ、私が感じる怒りについてです。
まちがってるかもしれんので、真に受けないよーに。


怒りがおこる理由は、防衛本能やとおもう。
何にもなく、いきなり怒る人は竹中直人ぐらいちゃうか。(それは笑いながら怒る人)

たいていは、誰かに何かを言われたり、されたり、見たりして怒る。何かの出来事に触れて、怒りがわきおこる。
なんで怒るかっちゅーと、その見たものが、その人の何かに触れるからや。

何かとは、言葉。
ある観念があって、それに反するものに抵抗をする。こうであるべきなのに、そうならない誰か、そうなっていない現実、そういうものに反応して抵抗する。
もちょっと掘り下げると、死に直結する感覚が起こるので、死を回避するために、自分の身を守るために起こる反応が怒り。
これが瞬時に起こる。

崖で、自分でこけそーになって怒る人はいない。
崖で突き落とされそーになって、はじめて怒る。「なにすんねん!」


ネガティブな感情は出してはいけないというオキテがわしらの中に根強くあるので、特に怒りなんかは顕著にあるので、なかなか自分の怒りをみようとしない。怒りを見ようとしたとたん、それを止める衝動も起こる。そういうことにも気がついてみよう。

いかに自分に「正直」でいられるか。
それが自分の中を見る必須条件。
そしてそれに心が反応していることにも気がつく。「いけないっ!」とおもっている自分に気がつく。
ほんとは自分の心を見ることに、いけないことなんかない。むしろみていったほーが、「なーんだ。こんなことだったのか」ってなことになる。

「今、怒ってるでしょ」
「いや。そんなことない」
「ほんとに?」
「んー。。怒ってはいないよ。ちょっとイライラしているだけだよ」

イライラも、ムカムカも、むっつりも、不機嫌も、ありえない!も、怒り。
人は自分を守るためにそういう言葉で自分をごまかす。
そういう自分に気がついてみよう。


ためしに他人が怒っている所を観察してみる。
その人は自分の意見を正当化しようとしてないだろうか。いわれている相手もまた自分を正当化しようとして、戦ってないだろうか。
どっちもお互いの意見を主張し合ってケンカしている。
それが見れたら、今度は自分の怒りも見てみるとおもしろい。自分が怒る理由を、口に出して、または心の中で言いまくっているはずだ。

これ、怒って当り前。だって、それぞれ生まれて来た環境、育った環境、親の教え方、生きて来た過去、ぜーーんぶ違うんだもん。同じ環境で育った兄弟でさえケンカする。むしろそっちの方がえぐかったりするんだが。

とゆーことは、これ、言い合ったって、解決の方法がないんだ。どっちかがどっちかに妥協するとゆー消極的な解決法、または足して二で割る算数みたいな方法しかない。
ときには天から降って来たよーな、神的解決法が見つかるときもあるが、まれ(笑)。


長くなりそーなので、この次、別バージョンの解決法、書いてみます。
解決法なのかどーか、わからんが。




2017年9月17日日曜日

「ん?」って思えたら、チャンス到来



人にレッテルをはるとき、それは快感。

「あいつは、ああいうやつだ。。。ふっふっふ。。。」

人にレッテルをはるとき、それは恐怖。

「げ!あのひとったら、ああいうひとなんや!マジ!?こわっ!」

人にレッテルをはるとき、それは不安。

「あのひとは○○なのね。。。。ああ、将来が不安だわ、どうしよう。。。」

レッテルってたいていネガティブ。

ポジティブなレッテル、たとえば、
「あの人ったら、とーってもいいひとなのよね~~うんうん。」
と、毎日考える幸せなお人はあんまりいない。

どっちかっちゅーと、いやーなレッテルをはって、毎日確認する(笑)。

思考は問題定義が大好き。やなヤツ、やなことを思いだしては、いやーな気分になって「問題解決」にいそしむ。
それが思考としてのゆえんだからだ。


政府でもゴシップネタでも何でも、なんか「問題」を見つけてくると、ぶつぶつ言ってる自分っていないだろうか。
「ったくよお。なってねえんだよ、政府は!」とか
「やっぱりな。あの女優、なんかやらかしそーな顔してたんだ」
とか、言ってね?(わしは言っとったw)

そん時の自分って、上から目線。何でも知ってるかのよーな口ぶり。
しかしそこには何の解決法もない。テレビに向かってぶつぶつ言ったって、自分の気分がいい気分になったり、いやーな気分になったりするだけ。

それと似たよーなもん。
だ◎なにレッテルはったら、上から目線になれる。
「あんたのことは何でもまるっとお見とーしよ!」
と、捨て台詞を吐いて(心の中で)、ふんっ!と鼻を鳴らしても、
テレビに向かってぶつぶつ言ってるのと一緒。
気分がムカついたり、勝ち誇ってみたり、もっとイライラしたり、やっぱりいやーな気分で終ってしまう。

なんつーか、ただ不幸な気分が倍増するだけなのじゃ。
それはある意味、生きている実感が得られるよ。
自分と他人がガッチリ分裂して、
自分はここ!相手はあっち!って、ガチ勝負が出来る。
ひゃっほーう!

物語は、いつも不幸からはじまるのじゃ。
問題だらけのだ◎なと暮らす、不幸な私~~。
ドラマちっくを味わうには、最高のシチュエーション!
ジェットコースターに乗って、アップダウンを楽しめる。
それもまたよし。


んが。
耳元で思考がいつもささやく「問題」に、
「ん?」って、気がつけたら、
その時が別の次元へのチャンス到来。

ドラマチックなじぶんの人生に
「そろそろ飽きたなあ~。。」
と、思いはじめたら、チャンス到来。


いつも聞こえてくる「声」を、引いて聞いてみそ。

ひょっとしたら、あんがい似たよーな言葉ばかりしゃべっているかもよw



2017年9月16日土曜日

千社札「ぱっ!」



こないだっから、レッテルはるのをやめてみている。
自分のもそうだけど、人へのレッテルもやめてみた。

だんなへのレッテル、かーちゃんへのレッテル、人へのレッテル。。。
くわー、いっぱいあるわーーー。
お寺や神社にべとべと張ってある千社札みたいなもんや。
あるわあるわ。はり過ぎて、その人が見えなくなるくらい!

千社札は、あれは「おれ、参上!」って意味らしいけど、
レッテルはりは「おまえ、これ!」って意味やな。

んで、その千社札。。。あ、ちがうわ、レッテルはりは、その人の存在感を強くする。

「あいつはああ言うヤツや。。」と、レッテルをはる。
そういう色眼鏡でそいつを見るから、そのように見える。
で、「ああ、やっぱりそうや。。」と、確認する。
そしてまた次も同じようにそれを見て確信し、
さらにそのレッテルはずしりと重く、
びくりともしない不動のものとなる。

最初は紙で張っているレッテルも、だんだん信憑性を帯びてくると、厚紙になり、木になり、レンガになり、鉄板になる。今度はそれをコンクリで固め。。。。
てなかんじ。

じつはその重ーいレッテルも、気のせい。
そのよーにみてるから、そーみえているだけなのじゃ。

相手に与えているレッテルを、「ぱっ」って、消してみる。
親指で人差し指と中指と薬指をおさえといて、いきおいよくはじくように、手をひらく。
「ぱっ!」

そこには相手に対して、なーんも知らない自分がいる。
相手は、何だか軽い存在になってる。それでも視覚の中で動いている。その動く様子に、何の解釈もなくなっている。けどことは勝手に起こっていく。


相手にレッテルをはっていると、重くて存在感があり過ぎで、心の中をいろんな思いがめぐっていたのに、「ぱっ」とときはなつと、軽くなる。相手が視覚の中で何をしようと気にならなくなっている自分に驚く。

なーんだ。
相手の問題じゃなかったんだ。
自分がただ重くしていただけだったんだ。

「ぱっ!」


絵:「ミステリマガジン」扉イラスト

なんでこれを出したかって?
なんとなく。。。w




2017年9月14日木曜日

今日の一枚「ドイツトウヒ」


今日の一枚。
「ドイツトウヒ」

我が家の庭に、年々巨大化する一本の樹があった。
ドイツトウヒ。

アルプスの少女ハイジのお家の後ろにある巨大な樹。あれあれ。
引っ越して来たころは、小さな樹だったのに、12年このうちに住むうちにどんどん成長して、庭全体をおおいつくさんばかりになった。
台風が来て倒れたらえらいこっちゃ。気になってしょうがなかった。

ある日、家に帰ると、庭の様子がちがう。なんだかすっきり。
なんとダンナがあの巨大な樹の枝をことごとく、たった一人で切ったのだ!
さすがに根元までは切れないようで、そのまま放置。

しばらくして、その樹に山芋のツルが登って来た。
命を全うしたドイツトウヒは、今淡い若草色の衣装をまとう。
その姿が美しい。思わず絵にする。

素材/和紙、水彩、色エンピツ、オイルパステル


わしらは背中にいろんなもんを背負い込んでる



私たちは普段、無意識に自分にレッテルをはって生きている。

私はイラストレーター。
私はおんな。
私は日本人。
私は56歳のおばさん。
私は畑をやっている。
私の収入は少ない。
私にはダンナはいるが、子供はいない。
等々。

そのレッテルをいったんはずしたらどーなるのか?
ふとおもいつき、変な実験を開始。
今、ここで、何のレッテルもない私。。。。

。。。。。

。。。。。?

。。。。。。。。。!

なんと。
何が変わった?
何の問題もなくなったのだ。

心配事も、気になる問題も、将来の不安も、誰かにあるうっぷんも、
消えた。。。。。

そのとき感じたんだ。
わしらは、背中にいろんなもんを背負い込んで生きているんだって。

車の助手席に座っているとき、
「私はイラストレーター」と考えなくてもそこに座ってられる。
「私はおんな」と考えなくてもそこに座ってられる。
「私は日本人、56歳のおばさん、畑、収入少ない、ダンナはいるが子供はない。。。」などと考えなくても、私はそこに座ってられる。。。!
なんてえこったい!
座ってられるじゃあないか!

なのに、無意識にレッテル張りが行なわれている。
「ああ、私はイラストレーター。。。なのに、収入が少ない。。。ああ、どうしたらいいの?そうだ。先日出したスケッチの返事が、まだピーターから来てない。。。ああ、直しが来るのか?それとも私のスケッチがひどくって、今ごろ仕事がポシャっているのかもしれない。。。また収入が消える。。。あああ。。。」
などと、車の助手席に座りながら考えるのだ。
これって、考える必要があるのか。
そこで考えて何になる?


人は考えて何かをする、考えたからこそ、いいことができると思っている。だからつねに考えようとする。しかしやまんばは実験した。結果、考えたっていいアイディアなんてほぼ浮かばない。考えのほとんどはネガティブなことばかりだった。ネガティブが浮かぶと、あせる。あせって行動をする。ろくな結果が出ない、を繰り返していた。

そして今車の中。
今ごろ仕事がポシャって。。。。と考える意味がどこにあろうか。むしろそれでどれだけ心の疲れを引き起こしているか。そこに建設的なものなど皆無だ。
それはただ自分をいじめているだけだった。

だから、レッテルをはっている自分に気がつき、それをはずした。。。。

夜寝る前、思いだしてまた実験。
そこにはなーんの問題もない。布団の上で座っていることに、何のレッテルも必要なかった。
ただ、そこにいる。
それだけだった。痛快だった。



朝、パソコンを開けてメールチェックをする。
NYのピーターから直しのメールが来ていた。

またいつものレッテルはりがやってくる。
「ああ、やっぱり直しか。。。私のアイディアが悪かったんだろうか。。。アートディレクターは、私の才能なしにあきれているんだろうか。。。やばい。はやくやらないと。。。!」

「おっと!また同じパターンにはまってらい。
レッテルはり、なしね!」

レッテルはりは、過去をつねに連れてくる。
あのときあれが失敗だった、あれをもししなければああはならなかった。だからあれを繰り返さないようにしないと。過去を振り返って、直していくというのが今までのやりかた。

しかし今はそのやり方に疑問を感じる。もうそれは散々やった。それによって、過去の失敗に引っ張られ、過去を背中に背負い込んで、重たい背中で事を進めていた私がいた。


過去は過去。
今は今。

透明になって、今を生きましょ。






2017年9月13日水曜日

哀しいんやろ?ええで。。。



二階で洗濯物をたたんでいたら、開け放した窓からアシナガバチが入って来た。
「やべ!出さなきゃ!」
あせって色々やって、ようやく窓からふわりと出て行った。あわてて窓を閉める。

「いてっ!」
ばあーん!と思いっきり閉めたガラス窓でゆびをはさんだ。

一瞬、燃えるような怒りが起こる。
そして急に哀しみがこみあげてきた。

その場に座り込む。
左手の人差し指がはげしく痛い。
「なんで。。。。?」
哀しみがドーーッと押し寄せて来た。

ああ、泣きたいんやな、あたし。
そーかそーか。泣け。おもいっきり。
自然と涙がでる。

ふえ~ん。

哀しいんやね。哀しいんやね。ええで。おもいっきり。
と、心の中で言う。
哀しみを味わう。

哀しいんやね、かなし、、、、あれ?
いや、哀しいんやろ?
うん、たしか哀しいはず。。。。
哀しい、、、んか?わし。

う~~~わからん。。。

痛みも、哀しみも、90秒で消えとった。

かんかんかーーん!


2017年9月10日日曜日

快と不快




ここんところ感じていた感覚「目標達成~が消えていった。
それはそれでちと寂しいが、そういうもんだとおもう。

人は現れてくる感覚が心地よいと、長く続いてほしいと思い、不快なものだったら、すぐに消えてほしいと思う。

でもすべては平等にやって来る。快も不快も平等に。
それがじょじょにわかってくると、快を追いかけなくなる。そして不快もまた取っ払おうとしなくなる。
そうすると快も不快も現れては消えていく。


先日、畑でブヨに小鼻をさされた。「あっ、やられた。。!」と立ち上がって、かぶっていたネットと帽子を取る。小鼻がジンジンする。痛みが激しくなってくる。指で触ると固くぷっくりと膨らんでいる。塗り薬もない。ためしにつばを付けてぬりぬりする。つばのにおいが鼻について臭い(笑)。

ふと、これも現れては消える現象なのか?とおもい、痛さを味わうことにする。
抵抗すると余計不快が増すことを知っている私は、抵抗しない。じっとその場に立ち、痛さを観察する。かなづちで叩かれるような痛さが来る。まずい。。。と感じる。しかしそれもめげずに味わっていると、小さいとき母親にいわれた言葉を思いだした。
「悪いもんと、いいもんが、今戦っているのよ」
私がケガをした時、オロナインを塗りながら母が言った言葉だ。

そうか。今、ブヨ菌と私のからだが折り合いを付けているのだ。だから痛みを感じさせて動かないようにさせているのだ。じっとしてろと。
それから間もなくして、痛みが変わりはじめた。さっきのまずいと思うような痛みではない。そっと指で触ると、さっきより腫れが大きくなっている。しかし痛みの種類が穏やかになっていることに安堵した。このまま、ほっておこう。

そのまま畑で作業をし、しらないあいだに痛みは消え、家に帰りシャワーを浴びた頃にはまだ固さはあったが、腫れは引いていた。夜寝る頃には、すっかりもとの小鼻にもどっていた。


現象、特に不快なものは、自我がはっきりと抵抗する。痛みなどは肉体への死を暗示させるものなので、その反応は顕著だ。
ブヨの痛みも花粉症のかゆみも、最初に激しい症状が起こる。その激しさに心は揺さぶられ、抵抗するのだ。しかし痛みもかゆさもジッと観察していると、激しいのは一瞬だけ。ピークのあとは、ゆっくりと、じょじょに、下り坂に向かう。そして消えていく。

感情もまた同じこと。
よろこびも長くは続かない。続かせようと、同じことを繰り返しても、最初に味わったよろこびは、二度とやって来ない。
「美味しい!」って、感動したものを再び味わおうとしても、最初の感動ほどのものはすでになくなっている。

また哀しみも、怒りも、嫉妬も、心配も長くは続かない。
しかし私たちは不快の方をいやがる。
一瞬でも味わうのがいやなので、無理矢理ひっぺがそうとする。これがいけない。ひっぺがそうとすればするほど、その不快は巨大化する。巨大化するのでもっと抵抗する。そして延々とそれに取り組む負の連鎖がおこる。

おなじ巨大化してくれるなら、よろこびもわざとひっぺがそうとすれば、巨大化してくれるか?

しかしよろこびに抵抗したことがないので、成果のほどは知らない(笑)。



絵:「Much Obliged」ペーパーバック表紙イラスト


2017年9月6日水曜日

目標達成!


「目標、達成。」

ドアのノブを回すとき、
ふとんをあげるとき、
トイレの便座に座るとき、
コーヒーを入れるとき、
パソコンを打ってる最中、
「目標達成や〜♥」とつぶやいてる自分がいる。

そのことばがなんともいえず、からだがほわ〜んとゆるんでくる。

べつにアファメーションしてるわけではない。
そう、おもいこもうとしているわけでもない。

ああ、そうなんや。そうやったんや。。。。という、安堵感とでもいうのかな?
そんな感じがじんわ~りと、2、3日前に起こった。(劇的やないで)

すべてはこれだけ。という言葉の意味というのかいな?
もし、などというものはなかったんやってことかな?



罪悪感まみれだった私。
もし、あのときああやっていたら、こうはならなかった。。とか。
もし、あのときああやっていたら、今ごろはこうなっていたのに。。。とか。
そういう後悔と罪悪感の中で翻弄されて来た。

小さい頃、大人に「もし、もっとお勉強頑張ってたら、いい成績になっていたのに。。。」
という励ましの(ありがた迷惑の)言葉のおかげで、頑張れない自分、いい成績になれない自分を責めて来た。

それが。。
「もしも」。。。なーんて、なかったんやな。
そんなもんあるんかいな?
この世の中に、二つの経験をした人おるか?
実際の経験と、もしもの経験。
おるか?

そんなもんが存在していると思っているから、出来なかった自分を責めるねん。
じじつは、それしか選択の余地なかったから、そうやっただけや。

お勉強、頑張れない私。授業、ろくすっぽ聞いてなかった私。
じつはそれで目標達成(笑)。
大人の言葉に応えられない私。
じつはそれも目標達成。
そして罪悪感を感じても、
じつはそれも目標達成。

すべてがそのまんまで、目標達成!

そう気がつくと、どこにも「行こう」としなくなった。
どこに行こうとしてたんだろ。
ここじゃないどこかに。
ここじゃないどこかって、どこ?

たとえ、目先の目標が見えても、そこにたどり着いたときの一瞬の安堵感ののち、すぐにまた次の目標を探している自分。そういう自分に気がつきはじめ、その衝動の虚しさを知る。

私はどこにもいかない。
どこに向かっても、全速力で走っても、ちゃりんこでぶっとばしても、飛行機でぶっとんでも、つねに自分の中にいる。
何をしようと、もう目標達成やねん。

私=目標達成!

こわれて来たんかいな?「私」





2017年9月3日日曜日

ないないつくし




白状しちゃうけど、やまんばの年間化粧品代はゼロ円だ。

56歳のおばさんは、女っけまるでなし。口紅やファンデーションはおろか、化粧水もクリームももってない。

お化粧は高校の卒業式にしてたぐらい、不良な生徒(いまはそれはあたりまえらしいが)だったが、30歳前にやめちまった。ブスな自分の顔をいろいろいじくっても、なんか自分で自分をごまかしているようで、いやになった。

それでも冬はかさかさお肌になるので、クリームとリップクリームは手放せなかった。

そして石けんなし生活が始まった。

石けんを使わないおかげで、冬のかさかさお肌は消えてうるおい、唇もリップクリームぬらなくてもうるおった。踵のかさかさも消え、つるつる。夏の肌のべたつきもなくなった。冬のパチパチ君もかゆさもない。

ははは。な~んだ。人間の身体って、ちょーシンプルじゃねえか。色々つけるから、ややこしくなるだけで、なーんもつけないと、勝手に整っている。勝手に油分を出し、勝手に調節してくれている。
だからゼロ円。

シャンプーもリンスもまったく使ってないのでゼロ円。
歯磨き粉は仕事のとき、ツマヨウジの先っちょ程度に使うので、年間1個買う程度。あ、歯間ブラシとデンタルフロスは買うよ。

やまんばのお風呂場には、なーんもない。洗面台にちょこっとあるだけ。もちろん化粧台もない。

畑にも農薬も肥料も入れない。
入れなくても自然は勝手に野菜を育ててくれる。
石けんなし、肥料なし。
無い無い尽くし。

あ、『ないないつくし』だあー(笑)。


2017年9月2日土曜日

今日の1枚「夏の終わり」


今日の一枚。
「夏の終わり」

春、我が家に夏のカーテンゴーヤの代わりに、キュウリの苗を植えた。手づくりのネットに絡みながらひょろひょろと上に登って行く。

肥料も何もない庭で、一生懸命キュウリをならせてくれた。
絵の中の一個のキュウリは、彼が残りの力を振り絞って今作ってくれているものだ。

黄色くなって行く葉っぱがなんともいえず味わい深い。
生命力の美しさもいいが、枯れていく美しさは、心に響く。

和紙、水彩、色鉛筆、オイルパステル

2017年9月1日金曜日

この世には私しかいない!


幼い頃、「この世には私しかいない!」と感じて、がくぜんとした。

目の前に見える世界が広がっているだけ。

私がぐるっと向きを変えると、そこに世界が現れるだけ。
見えていない所は、なにも、ない。自分の後ろも、なにもない。

母のように見えるものも、父のように見えるものも、ただそこに見えているだけで、かれらの後ろには何もない。ハリボテの世界。

この世にはたった一人、私がいるだけ。
という実感。


それが恐ろしくて、いつも母の背中を触っては、
「あ、あるある。ここにおかあさんがいるんだ」
と、確認していた。



あれから50数年。
私以外に人がいるという証明は、いまだに誰もしてくれない。