2017年6月21日水曜日

土佐和紙で作品

家の庭に咲いたホタルブクロとドクダミ。


先日、高知に帰った時、土佐和紙を大量に購入してきた。
地元出身の人間としては、これほど豊かな和紙の種類があることがうれしい。

ずっと洋紙だけを使って来て、和紙だけはなぜかアンタッチャブルにして来た。でももうそろそろ触ってもいいだろうと思い、材料に和紙をくわえはじめたのが3年前。今は、和紙だけで制作したい!という思いが強い。
なんという変わりようだ(笑)。

色合い、手触り、その存在感。
ただ紙を置くだけで作品になりそうなかれらを、切ったり、ちぎったりして組み合わせる。
その偶然の出会いが作り上げる優美な世界。
自分の知らなかった自分の内面を見るように、紙の新たな世界を垣間みる。


玄関の脇に大量に咲くドクダミとススキ。

それ、なくてもいいんじゃね?

これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
そーやって、石けんもやめ、シャンプーリンスもやめ、歯磨き粉もやめ(ほんのチビット使ってるけど)、
農薬もやめ、肥料もやめていった。
ついでに心の中の
これ、なくてもいいんじゃないか?
あれ、なくてもいいんじゃないか?
もやっている。
そのチャレンジの途中、私たちはいろんな「やらなければいけない」ものや、事柄でがんじがらめになっているのを見る。
そのがんじがらめは、意識的に自分ではずすことができる。
必要に迫られているものは、
だんだん減って行き、
だんだん軽くなる。
必要に迫られている、と思っているだけだ。

え?麦汁?
アレは必要に迫られてるさー(笑)。
🤣

2017年6月19日月曜日

怒りという言葉に囚われる

夜、怒りが込み上げた。
ソファに座って、自分の怒りを見る。
怒りと同時に、哀しみもおそってくる。
言葉にとらわれずに、ただ身体の感覚だけにフォーカスする。
すると、胸のあたりに、ぎゅーっと、何かを絞るような感覚がある。
私はそれを見た。
すると、そこには、怒りも哀しみもなかった。
ただ、胸のあたりに、タオルを絞るようなぎゅーっと内側に回転するエネルギーだけがあった。
それを感じているとき、怒りも哀しみもなかった。ただ、エネルギーだけがあった。
感情と言葉は連結している。
言葉があるから感情が呼び起こされる。感情が呼び起こされるから、言葉がもっと大きくなる。
感情はさらにリアルになって行く。
しかしいったん、カラダにかんじる感覚だけにフォーカスすると、そこに怒りも哀しみもないことを知る。
感情など、そこにはない。
ネガティブも、ポジティブも、ない。
ただ、うねりがあるだけだった。

2017年6月17日土曜日

絶対神「母」


母に最近の私の作品を見せる。

「これはもっと重くしないと」
「ここがまだ足らん。もっと色を足して、存在感を出さんと」
「うん。これはえい」
手厳しい母の言葉を聞きながら、

『あー。これかー。私がずっと心でしゃべっていたものは。。。』
と気づく。

延々と続く辛らつな母の感想に、私は何だか可笑しくなって来た。
「ほんなら、これは?」
「うん。これは、ここがあーでこーで。。。」
思った通りに反応が返ってくる。

彼女の感想は、彼女の感性の幅の狭さをみせた。
考えてみれば、私は絵を職業にして30年たっている。彼女よりももっと広い世界を見てきた。彼女の感性を越えたもの、もっと自由な感覚をすでに身に付けていたのに。
わたしは自分の絵の基準を、必死で彼女の基準にあわせようとしていたのだ。

その時、私は彼女の絵の感性の塀を越えた。
高い高い塀だと思っていた。天にも届くほどの高い塀を私は越えねばならないとおもっていた。
56年経って、やっとそれがとても低いものだったと気がつく。ひょいって一足でまたげるほどの。わたしは這いつくばって、それを越えようとしていた。


この世に生まれて来て、一番最初に自分という存在を意識させられるのが、はじめての他者、母親という存在だ。

いわば、母は子供にとって「神」だ。絶対神だ。この世で生きるルールをその神から教わる。
人は最初に聞いたものを鵜呑みにする。「そーなんだー。あーそーなんだー」と。それを基準にこの世を生きはじめる。
この世に批判的な母のもとに育つと、同じようにこの世に批判的になる。被害者的な母の元に育つと、たいてい被害者的な気分になる。

私はいろんなことに批判的な母の元に育った。それは他者を批判するのと同時に、自分をも批判をする。美意識が高いと、美意識が高いがゆえに、自分を「まだ足らない」と批判し、お尻を叩くのだ。
母の声は、いつのまにか、私の声になり、自分を非難し、お尻を叩き続けていたのだ。
もっと!だめ!そんなんじゃ!と。

彼女もまた、自分の中にある美意識がゆえにわきあがる、自分自身への非難の声に、今もさらされている。


自分の中にわき上がる声を聴く。
たいてい同じ言葉だ。
同じカセットテープが、ただ再生され続けている。
それはいかにも自分にとってためになること、効果があることのように歌う。
だけどそれはテレビの宣伝広告の文句とたいして変わらない。何一つ本質をつかない。それに乗ると、ただ右往左往させられるだけのことだ。

わたしはずーっと、それに乗っかって来たのだなあ。

母親を越えるって、たいへんなことやな。
いわば自分があがめている絶対神を踏み越えることになる。

踏み越えたろ(笑)。


絵:「夏」/樹シリーズ/和紙、水彩、オイルパステル



2017年6月12日月曜日

母への思いと美しい風景


高知に帰って、母を仁淀川のそばにある宿泊施設に、なれない車の運転をして連れて行った。

ここは父方の墓がある所のすぐ近く。小さい頃、両親につれられて山の中腹にある墓参りによく来ていた。今でこそ「仁淀ブルー」と仁淀川の蒼い川が有名になったが、そのころはただの広い川。それでもその川の美しさは幼い私の心を引きつけていた。

フルコースのおいしいフレンチを食べ、母の車いすを押しながら、外に出る。街灯も何もない漆黒の闇にくっきりとうかびあがる稜線。
「うわあ~。きれいねえ、かーちゃん!」
いつも家で見ている、ちょろい高尾山の稜線とは比べものにならない雄大な景色にみとれていた。
「こわい。。。はよう中へ入ろう。。」


高知に帰ると、私は母を少し外に連れ出す。
その時は車いすを使う。帰るたびに歩けなくなって行く母を見る。
彼女は放っておくと、一切外に出ない人なのだ。内臓も骨も筋肉もどこも悪くない。彼女の外に出たくない、歩きたくない思いが、彼女の身体を萎縮させて行く。それが形になって現れていた。

自分が自分の思考や感情を見ることによって、いろんな気づきをえて楽になって来たこともあり、彼女にありとあらゆる方向から話しをする。
しかし、こう言う考えもあるよといえば、
「ほいたら、そうせんといかんがよね」という。
「いや、そうせんといかんがやのうて、そういう別の視点ももってみるってこと」というと、
「ほんなら、そうせんといかんがよね」という。

すべてが「ねばならない」「そうすべき」という、強制的にやらなければいけないのだという発想になってしまう。
きっと彼女は小さい時からそうやって、べきべきの中で、自分を無理矢理押し込めて、べきべきの中で生きて来たのだ。その、どこか「イヤイヤ」な気分でやって来たことの結果が、「なにもしたくない」という今の彼女につながっているのだろう。

いや。私だってそうだ。つい最近まで、その中にいたが、意識化することによって、そのべきべきは消えていきつつあるだけのはなしだ。


彼女の葛藤、私の子供としての彼女への思いの葛藤、ありとあらゆる思いが洪水のように押し寄せて来た。ふとんに入っても、一睡もできない。意識は隣で寝ている母に注がれる。寝息を立てる母。寝返りを打つ母。「暑い。。。」といって顔をしかめる母。トイレに立つ母。。。
介護をする人は、こういう風につねに意識が人に注がれているのだろうな。どれだけ心身を使うことか。

明日もなれない運転をする。早く寝ないと。。。という思いとは裏腹に、どんどん眼が冴える。
私は観念した。
全身で今の感情を味わいつくそうと思った。
そして一晩中起きていた。


早朝、ひとり仁淀川におりる。
丸くゴロゴロした石の上を歩く。川幅は広いが、河川敷も広い。やっとのことで水際に来た。湖面のように静かな水面が、山の風景を逆さまに写している。にじんだような緑の色が私の制作欲に火をつける。

所々に、水の輪がある。なんだろう?とみてみると、ふいに何かが飛び跳ねた。つづけさまに、あちこちから、何かが飛び跳ねる。よく見ると小魚が飛んでいた。あゆだ。緑色の湖面の舞台で、小さなあゆたちがダンスを披露してくれた。

夕べの思いがグッと持ち上がってくる。
深くて静かな哀しみをバックに、目の前にひろがる美しい世界。
私はドラマの一シーンの中にいた。

かなしさも美しさも、すべてひっくるめて、この世は美しいな。。。

そう、ひとごとのようにおもえた。


 絵:「田舎の家のたたみ方」/MF新書表紙イラスト

2017年6月7日水曜日

できる人じゃなくてもいいや。


できる人にならなきゃ。っておもってた。ずーっと。

なぜできる人になろうとしたか。
それはできることが正しく、できないことがまちがっているっていう世の中のルールがあるから。
それは物心ついた時から、気がついたら、「そうあるべき」の中にいた。
なぜかというと、

1:それができると、ほめられるから。
2:ほめられると、そこにいていいよ、という許可が出るから。

居場所を求める気持ちは、そこにいていいと、自分が決める場所じゃなくて、他人にそこにいていいよ、と言われることによって得られる、
「ああ~、ここにいていいんだ~」
と、安堵する場所のことだ。

人に自分が存在していいのだと許可をもらう。
するってえと、ちょっとややこしいことになる。

できる人はそこにいていい人で、
できない人はそこにいちゃいけない人ってことだ。
こりゃあ、たいへんだ!
そこで人は、必死になって「できる人」になろうとする。

できちゃった人はいいよ。
でもできない人は、ポイされる。(と、思い込む。)

ところが、できちゃった人も、じつはそのとき「いていいよ」といわれるが、(ほんとはそんなふうに言ってないのだが、そーゆーニュアンスにとる)
またたくまに、次のお題をいただき、また挑戦させられるはめになる。

とゆーことは、いつまでたっても、できる人もできない人も、つねに意識的にも無意識的にも、どっぷりと人の評価を気にして生きることになった。

できる人はできる人なりに、人の評価を気にし、
できない人はできないがゆえに(笑)、人の評価を気にする。

どっちもどっちだあ~(苦笑)。




聞いた話し。
ある知恵おくれの学級で、みんなのリーダーを決めることになった。

「誰がリーダーがいいか、みんなで推薦して下さい」というと、
「A君がいい~~~」と、みんな口をそろえていう。
A君は、いつもおしっことうんこを漏らして走る問題児。先生は困ってしまった。そこで先生はリーダーとはこれこれこういう風に、みんなを率先して引っ張って行く人なんだよと説明した。
そしてあらためて聞いた。
「リーダーが誰がいい?」
みんな「だったら、やっぱりAく~~ん!!」

私はこの話しが大好き。
確かにリーダーたるもの、人を導くお手本のような人物じゃないといけないように思える。しかし実際、我が町内会でも似たようなことがあった。
リーダー然としている前会長のとき、みんなの関係がいつもぎくしゃくしていた。その会長も退任され、今度は頼りない新会長に変わったとき、みんなはどうなるかと心配した。しかしそのみんなの心配とは裏腹に、町内会はまあるくなった。頼りない会長を中心に、互いにフォローしあうようになっていたんだ。

A君は、確かにおしっことうんこを漏らすが、いつもまわりに笑いがあった。たよりないA君は、逆にみんなを明るくしていた。みんなはそのことを知っていた。

かれらは、私たち大人が知らないあいだに作りあげて来た狭いルールとは関係なく、何か人間の本質だけををみているのかもしれない。


私ができないことを、できないままでいようと思えた時、心のどこかがふぁっと軽くなったんだ。それは自分のいいもわるいもそっくりそのまんま受けとめることでもある。
すると人の評価なんかどこかにいってしまう。

きっと人の評価なんて、お化けみたいなもんだ。

あるような気がして怖がっているけど、勇気を持ってふりかえってみると、ただの柳の木なのかもね。

絵:「女性の部下の活かし方」MF新書表紙イラスト

2017年6月1日木曜日

ハイ。バデイに入りました。



非二元に関する本を読み、
「なにこれ?意味不明」
と、思いつつもなぜか意味不明に惹かれて読み続ける。

そして非二元のうたい文句、
「わたしはいない」
が、幼かったころの私を、そろーーーっと、じょじょに、思いださせはじめる。

あれはちっちゃいころ、この世がもわもわして見え、自分ももわもわしてて、何だか取りつく島がないように感じていらいらしていた。

なんかちがう。。。
なんかちがう。。。
こうじゃないんだなー。。。
何かに悪戦苦闘していたある日。

そう、あれは突然にきた。

「ハイ。入りました。この身体に」
という感覚になったんだ。

すっぽりと身体に入った感があって、
「あーやっとこれに入れたー」と、安堵した。
ためしに腕を振ってみた。
すっと腕が振れる。
「うふ。腕、振れてるじゃん♥」
足、動かしてみた。
「オーーっ!足、動いてるじゃん♥」

それまでは、腕を動かしている感も、足を動かしている感もなく、ただ、もんわ~~とした、たとえてゆーなら残尿感(?)のようなものをただよわせていた。

おまけに、「つくしちゃん!ちゃんとしなさい!ちゃんと歩きなさい!」
と、親や幼稚園のせんせーにきびしく言われていたものだから、どうもちゃんと歩いてもいなかった様子で。
なもんだから、なんとかこの体に入ろう、入ろうとしていたのだな。

その努力(?)のかいあって、ある日突然にこの体に入った。



あれから50年。(きみまろ風)
おとーさん、おとーさん。
まさか、あたしは、あのもわもわした状態に戻ろう戻ろうとしていただなんて。
ああ、おとーさん。。。。よよよ。


非二元の本、クソ難しくって、何言ってんのか、サーッパリわからないけど、なんか惹かれる。
なんでやねん!「わたしはいない」って、なにいっとんねん!
とかおもいながら、眼を皿のよーにして読みふけること2年間。

ひょ、、、ひょっとして、あのこと?
身体に入る前のこと?
ぎゅっと凝縮して局在化した「バディなわたし」になる前のこと?
拡大した意識がただあるだけだったあのときのこと?

あれから50年。
縮小した「わたし」は、楽しいこともあったが苦悩もあった。
その苦悩から脱出しようと、今度はこのバディから出よう出ようとしている。

しかしいったん入っちゃったものは、そう簡単にはぬけられそーもない。。。
だって、50年も定着しちゃったんだもーん。
だもんだからマインドは、
「う、、う、、でられない、、、」
と、もがいているのであった。

ちゃんちゃん。

(こんなことなら、入らなきゃよかった。)



絵:「縮む世界でどう生き延びるか?」MF新書表紙イラスト


「働かないアリに意義がある」の著者さんです。




2017年5月27日土曜日

キジバトの死


最初はモグラだった。

キュウリの種を蒔いた畝に、ちょこんとモグラの死骸。
あおむけになってて、かわいかった。ちょんちょんと小さなつめのようなお手手を触った。
畑の外にそっと捨てた。

次は、畑に行く途中のけものみちにリスの死骸。
そーっとそばの木の枝で持ち上げて、けものみち脇に置く。その上に土と葉っぱをかぶせた。まだやわらかかったので、死んで間もなかったんだろう。

そして今日。
畑の一角に鳥の羽根が散乱していた。色からしてキジバトだ。ぐるっとまわりを見渡してもその本体は見当たらなかった。

しかしスナップエンドウを収穫している時にそれはあった。
胸のあたりを大きく開いて、中身はほとんど食べられていた。下の方に黄色い腸があった。私はゴム手袋をして、彼(彼女?)をそっともちあげ、用意した紙袋に体を入れた。

眼はやさしく閉じられていた。
当り前なのかもしれないけれど、苦痛な表情はしていなかった。野生動物はいつも、死に顔が美しい。なぜだろう。それは私たち人間のように、自我がないからだろうか。

散らばった羽根もいっしょにかき集めて、畑の外の川っぷちに穴を掘る。死骸をそっと入れて、土をかけた。


最初はモグラの死骸。次はリス。そしてキジバト。だんだん大きくなる。
このペースでいけば、次は父親か母親の死骸を見る?
心はそんなことを考える。

二元の世界は、これがあったら、こうなる。こう言う現象が起こるってことは、きっとこうなる前兆なのだ。。。。などと、いろんな解釈をする自我がいた。

きっとそうではない。
そいうことではなく、これはわたしがスナップエンドウを収穫していることと、まるで同じことなのだと気づく。

私はスナップエンドウを殺して食べている。野生動物が、モグラやリスやハトを食べるのと、なにが違う?全く同じことをしているのだ。

ハトやリスを殺すことは残酷で、スナップエンドウを殺すことは残酷じゃないって誰が決められるのだろう。
しかしどちらも「残酷」ではない。
それは人間が勝手に「解釈」したことだ。


この自然は、私も、野生動物も、生きているものを殺して、生かされる。
そのことを自覚しながら生きる。
その尊さに心を震わせる。

その自覚こそ、だいじなのかもしれない。




絵:オリジナル絵本「あめがくる」より/水彩画


2017年5月21日日曜日

やりたいこと?



もしお金もあって、時間もあって、家もあって、状況も何も問題なかったら、、、、
なんかしたいことある?

って、アホなこと考えた。

。。。。

じーっとね、じーーーーーっと。

。。。。

「な、なんもないーーっ!」

あせるわたし。
マジ?マジ?なんかやりたいことはないのか?わたし!

と、かんがえると、、、

「うんこ出したい」と心がいった。
(トイレの中で考えてたのよ)

うんこ、出た。
「流したい」
流した。
「トイレットペーパーをとりたい」
トイレットペーパーをもった。
「おしりふきたい」
おしりふいた。
「それを流したい」
流した。

おお!
やりたいこと、やっとるではないか!!


言葉にならない素早さで、「やりたいこと」やっとる自分がいた。
手を洗う。
トイレのドアを閉める。
コーヒーを入れる。
パソコンを打つ。
なんだ、なんだ。やりたいこと、あるじゃーん。それもしっかりやっとるじゃーん。



。。。って、ちょとちがう。
なにがちがう?

時間だ。そうだ。時間という距離だ。
やりたいことやれているのは、ものすごーく今目の前にあることだ。今やりたいことだ。それはばっちりやれている。

だけど私たちが一般的に言う「やりたいこと」とは、もちょっと先のこと。
1年後だったり、5年後だったり、10年後だったりのどっちかっちゅーと、計画に近い。
うんこ出したいことを「計画」する人は、便秘で悩む人ぐらいだ。(やまんばものその昔、随分悩んだ)

私たちは、今ここでやれていることには、眼もくれず、もちょっと先のここにないものを求めている。
うんこふくのは当り前。そんなこと目標になんかしない。もっと「目標」たるなにか。お題目として、かっこいいなにか。そんなものを求めているんだなあ~。


やまんばは、絵を描く時おっくうになる。
それは絵を描こうと思った時、その完成品を妄想するからだ。
ああ、あんな風に描けたらなあ。。
あんな風に描けないといけないぞ。
描くからには、完璧に仕上げなければいけない。。。。
と、自分にどんどんプレッシャーをかけてしまうのだ。

もちょっと先のことを考えれば考えるほど、心がぎゅーっときつくなってくる。
だけど、
「えーっと。まず、パネルを机の上に置く。よし。置いたぞ。次。紙を置く。よし。置いたぞ。水張り用の水を用意する。よし。用意したぞ。」
と、ゆーふーに、そのときその時の、ほんのちょっとした行為だけに心を寄せる。

やまんばのおバカな脳みそは、10分先のことを考えるだけで、萎縮してしまう。だからほんの5秒先のことだけを考える。

畑でもそうだ。
「今日の予定は〜。。」
と、考えると、とたんにやる気をなくす。
だから「畑に行ってから考えよーっと」となる。
だからいっぱい忘れ物をする(笑)。


やりたいこと?

今、やってることー。
(注:こんな大人に育ってはいけません)


絵:「春」/樹シリーズ。和紙、水彩、オイルパステル


2017年5月20日土曜日

黒足袋で野良仕事


炎天下、今日もやまんばは野良仕事。

さすがにブヨなどの虫が増えて来たので、裸足で野良仕事はむずかしい。しかし地下足袋はすべて裏がゴムで出来ているので、アーシングは出来ない。なので裏が木綿の正真正銘の黒足袋を買う。
その名も『八咫烏』。名前が気に入った。で、黒足袋で野良仕事。

今日は雑草に埋もれていたいちごを救出。
いたいた。草葉の陰で赤く色づいているかわいい奴ら。しかし裏返すと、しっかりアリンコに食われている。
草刈りした草を色づきはじめたいちごの下に敷く。いちご農園じゃワラを敷くらしい。やまんばはそこらの草で代用。

アリンコが先か、やまんばが先か。
どっちが先に食う?

キュウリの種を蒔いたのが、約一ヶ月前。うんともすんともでてこない。暑い日があったり、寒い日があったり。その間、水もあげず、からっからに乾いた大地のまんま。
そろそろ新たに蒔き直すか?
ん?でもまてよ。もうちょっと。。。
と言ってるあいだに、ふと見ると、出てきたではないか!
でかした!キュウリ!
あの激しい環境の中、よくぞ芽を出してくれた!



さすがこのスパルタの環境の中、耐えに耐えて、この場所で何年も実をつけてくれたキュウリさん「上高地」!
あんたはえらいっ!



2017年5月19日金曜日

草を刈る


最近、のこぎりグワを新調。よく切れる。
ぼーぼーに生えた草を刈る。ごめんよー。ごめんねーっていいながら。

けっこう広い畑に、今年も元気に草が生える。
あまりの多さに、
「そろそろ草刈り機買うかなあ。。。」
と思ってた矢先だった。

ある日、草刈り機で草を刈られた所に遭遇。
そのときの草たちの無惨な切られ方にショックを受ける。
切り口が、ギザギザで、見るからに無惨。。。

それを見たとき、草刈り機を買うのを断念した。(きついんだけど。。。)

なんかね。
きっと草刈り機で草を刈った人は、その刈った草に対して、何もおもわないんだろうなーっておもった。

だけどやまんばは、這いつくばって草を刈る。
左手で草をにぎって、右手の鎌でざくっと切る。そのときの、なんとも言えない草への想い。ごめんね。あなたを殺しちゃって。。。という痛々しい気持ち。
この想いを大事にしようとおもった。


そうしてやまんばは、今日も草を刈る。
あなたたちのおかげで、美味しい野菜をもらってます。
ありがとう。

2017年5月12日金曜日

あたまの中の店員さんがうるさい


朝早く目が覚め過ぎて、仕事に出かける40分も前に準備が終ってしまった。(これを老人化現象とゆうのか?w)

しかたがないので時間つぶしに瞑想などとゆーものをしてみる。寝てしまうといけないので、タイマーを横に置く。

瞑想といっても、何も考えないとか呼吸法をするとか言うものではなく、ただ直接聞こえてくる音、鳥の声、車の音、犬の鳴き声、電車の音、冷蔵庫の音などを聴く。
ソファに接している太もも、あぐらを組んだ足の上にかかっている毛布。そのくすぐったい感触、そのすべてを感じる。
頭に浮かぶ思考の音にもただ気がつく。
それにともなっておこる感情もそのままに感じる。
今この時に、自分の中で、外で、起こっているすべてのものに、意識を注ぐ。


思考ってすごい。
あることがふと思い浮かび、それに乗らずに見ていると、別の思考が浮かぶ。それも流し見していると、全く別の思考が浮かんでくる。そうやって次から次へ浮かんでくる。

まるで、お店の店員さんが、
「これ。どお?ダメ?じゃ、こっちは?これも気に入らない?じゃじゃ、これなんかどお!?あなたの興味にピッタリよ!」
などと、わたしの目の前に、興味をそそるであろう思考の数々を提供してくるのだ。
とはいっても、いつも自分の頭に浮かんでくるお話だけどね。

これはまるで馴染みの店の店員さんが、私の好みを熟知しているように、
つくし玩具店の店員さんは、私がいつも乗っかってくる話(おもちゃ)をいっぱい知っているのだ。

だが今朝はあえて、乗っかってあげなかった。

ピピピピ。ピピピピ。

タイマーの音で目が覚めた。
気がつけば、おもいっくそ前のめりになって寝てた(笑)。




絵:「心が折れない部下」の育て方/MF新書表紙イラスト


2017年5月10日水曜日

その観念を放置プレー



私たちは、自分が思うもので出来ている。

思うもの。つまり思考。つまり観念。

それがどう言う意味なのかは、頭ではわかっていたが、じょじょに、
「え?マジで?いや。まさか。。。いやいや。やっぱりそーなのか。。。。!」
と、ゆーふーに、自分の中でリアルに気がつきはじめた。

そーすると、自分の中で当り前のよーに考えている常識が、
「いや。ひょっとしたら、これって、ひとつの観念?」
と、ゆーふーに、一個一個を意識するはめに(笑)。



人はほとんど無意識に、自動的にあたまの中で考え事をしている。

「いーや、わたしはなーんにも考えてないよ」という人は置いといて、
「ウン。。。確かに頭の中でつねに考えごとをしているなあ。。。」
と思う人は、その考えている内容に気がついてみるといいと思うよ。

たいてい、ある問題について考えている。
ある特定の人物のことだったり、身体のことだったり、将来のことだったり、お金のことだったり、これからの打ち合わせのことだったり、、、。
いろんな「問題」について、ぶつぶつぶつぶつ考えている。

わたしは、自分の中で考えているものに、いくつかのパターンがあるのに気がついた。ある人物のこと、将来のこと、お金のことだ。この3つがいろんな形に変化しながら、ぶつぶつぶつぶつと、垂れ流し状態で考えていたのだ。それは「つくしのあたまの中のBGM」という名のカセットテープだった。

いや、正確にうと、考えていたんではないな。たんに垂れ流されていただけだ(笑)。
その自動的に流されているテープに気がつくと、からだが、ぞぞぞぞぞお~~~っとして、急に縮こまる。そのBGMには、「罪悪感」とゆーおまけがついてくるからだ。
あの人物、将来、お金にまつわる、ありとあらゆる観念に対する罪の意識だ。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それを聞いて、罪の意識がもちあがり、
3:からだがぞぞぞお~~っとする。

4:すると今度は、小学校で教わった時のよーに、
「問題」を見つけてしまったので、
「答え」を探さなくてはいけなくなる。

5:かくして、心はあーでもない、こーでもない、と、
ひたすら「答え」を求めて右往左往する。

1~5までの、一連の自動反応が起こっていたのだ。

とゆーことを、ずーーーーーーーーーーーっと、あたまの中でやっていたのだな、と知る。


で、わたしはどうしたか。

1:ふいにカセットテープの再生ボタンが押される。
2:それが鳴っていることに気がつく。
3:罪の意識が持ち上がるの気にがつく。
4:身体が硬直しようとしているのに気がつく。
5:答えを探そうとしている心に気がつく。

感情がかき乱されると、心はなんとかそこから離れようとする。
そのために、言い訳を考える、あいつが悪いといってみる、あれはしかたなかったんだよ、とか正当化してみる、やっぱりわたしがいけないんだ、とかの自己憐憫に陥る。。。そういう膨大な考えで、あたまの中が埋め尽くされることに気がつくことだ。

これは不快だ。いや、実に不快だ(笑)。
しかし、ここで言い訳をしたり、ゲームやったり、テレビ見たり、酒飲んだりして、なかったことにしたところで、このカセットテープは消えない。
それに直面しない限り、そのカセットテープは鳴り続ける。

だから勇気があれば、それに向かい合う。
不快の中にただいる。不快とともにいる。
心配ない。それは必ず消えていく。


不快とともにいると、なぜか別の視点が見えてくる。
今まで気がつかなかった視点だ。
そこで知ることは、外の情報による知識ではない。自らの中にあった叡智だ。

気づきには二つの種類がある。
ひとつは何かに気づいていること。
もうひとつは、「わかる」ことの気づきだ。「ああ。。。これか。。。」という、深い所の理解。言葉以上の何か。


不快は、まさにナウシカの腐海の森の入り口。
入り口は臭気に満ちていて、入るものを拒む。だけどあえてその中に入ると、ナウシカのようにちがう視点を持ちはじめる。
その奥には、人の無限の可能性が隠れている。



不快とともにいると、じょじょに自分の観念に気がつきはじめる。この観念が自分を不幸な気持ちにさせているのかと。そうすると、心の中に浮かぶ観念のひとつひとつが、持っていても意味がないこともわかってくる。

観念がある。
ほう。そういう観念か。
その観念に乗っからない。
ただ、その観念を放置プレー。
とりのぞきもしない。
ただ、みてるだけー。
ウインドウショッピングみたいなもんだな。

「オネエさん、これ、いいですよ。買いませんか?」
「ううん。ただ、みてるだけー。」



絵:「日本人の平均」/MF新書表紙イラスト

2017年5月6日土曜日

答えはあるのか!?


私たちは、答えを求める。

どこかに答えがあるはずだ。
きっとどこかに。

そうやって、ずーっと探しつづけて来たわたし。
だんだん、うすうす、気がつきはじめる。
ひょっとしたら、答えなどないのかも。。。。

いやいや、そんなことはない。
小学校の頃から教わって来たのだ。
答えは必ずある。

しかし大人になって、そう簡単には答えがでないものを知る。
もっと大人になって、もっと答えが出ないものを知る。
しかし、事はもっと重大になって行く。
生死を分ける所まで行く質問に、切羽詰まった答えが要求される!
しかし答えが出ない!!!ああっ!!!


ありとあらゆる本を読む。
ありとあらゆることをやる。
そして、自分の内面にまで探し求めるはめになる。

そして、、、
あれ?
ひょっとしたら、答えなどでるもんでもなかったのかも。。。。

答えとは、「正しい」ものが答えだ。
間違っていては、答えとは言わない。(あたりまえだろ)
しかし「正しい」とはなにか。(あ、うっとおしいところに入りよった)

それは時代によって、時間によって、人によって、民族によって、家族によって、学校によって、システムによって、会社によって、ちがうのだ。とゆーことは、絶対的な「正しい」はどこにもないではないか。



そもそも「自我」に答えなど出せるわけがなかった。
自我は過去にもとづいた既知しか思いだせない。すでに知られている使い古されたもの。
それはその時の答えになったかも知れない。しかしそれはそのとき有効だっただけだ。



けれども私たちは生きている。瞬間瞬間新しい中にいる。それを古いもので解決することの意味のなさったら!


はれ?
答えって、ないのかも。。。

そうおもったとき、心が56キロほど軽くなった(エライ具体的な数字やな)。



絵:「セックス嫌いな若者たち」MF新書表紙イラスト

2017年5月4日木曜日

Tsukushi in the Tree



野良作業ばっかりやってるみたいですが、いちおー絵描きです。

和紙と洋紙で絵を描いてます。
「紙絵」と呼んでます。

GW中、ダンナが動画を作ってくれました。

「樹」のシリーズです。

The Garden in Tsukushi



何年もほったらかしにしてたニラの畝。
根っこがお互いに絡まって、えらいこっちゃになっていた。

スコップで掘り起こして悪戦苦闘する様を、ダンナが動画で撮りよった。

そこに、赤じその種を蒔く。。。と言っても、丁寧に種取りしたものでなく、去年枝だけ切り落として、小屋のすみっこに引っ掛けておいただけのもの。。。w

でっかいビニール袋に枝を入れて、ばんばんはたいてビニール袋の中に種を落とす。
枝も種もいっしょくただ。

それをニラがあった畝にばらまく。なんともおおざっぱな種おろしだ。
ま、やまんばのやることといったら、こんなよーなもんだ。

はてさて。無事赤じそ、芽がでますかね。

2017年5月2日火曜日

気まぐれに、ゴボウを掘る。



毎年同じ所からゴボウのこぼれ種が育つ。
カラスノエンドウのいきおいをもろともせず、でかい葉っぱを茂らせる一角。

ちょうど食べごろなんだけど、ゴボウを掘った人ならわかるだろうけど、地面を垂直に掘り起こすたいへんさ。
スーパーでなにげに売っている70センチくらいのゴボウ、実際掘るとなると、軽く1時間はかかる。

だからやまんばは、ゴボウは掘らないに限る。勝手に育たせておくことにしている(笑)。

ところが、ご近所さんがご親切にも、ゴボウを簡単に収穫できる方法として、10キロの米袋をくれた。これでゴボウを育ててみよと。出来上がった暁には、その米袋をタテに裂き、見事軽々とゴボウをゲットするのだ!

それがこれ。↓


米袋に土をつめ、種を蒔いてみたが、いつの種かわからず、こんな状態w


なわけで、なんとなく勝手に育ったゴボウを掘ってみる気になった。
土は柔らかかったが、途中で飽きた。(ごめん、ゴボウさん)
掘ったのがこれ。↓

二股に分かれていた。実際は、もっと長かったはず(笑)。


その穴がこれ。↓

下に行くほど、柔らかい土であった。


家にもって帰って、きんぴらゴボウに。
奥深い味がしたよ。


器は、江戸中期の骨董。


2017年4月29日土曜日

聞き耳ずきんをもっても。。。


この世にはときどき「聞き耳ずきん」を持った人々がおられる。

「神との対話」のニール・ドナルド・ウオルシュさんの「神さま」とか、雲黒斉さんところ(って、だれやねん)の「雲さん」とか、はたまた天使や、宇宙人や、天狗や、ときどきカッパ(?)などの、この世ならぬ存在からメッセージをうけとる人々だ。

そーゆーこの世ならぬ存在に、
「ねえねえ、これについてはどーなの?」
「それはねー。うんぬんかんぬん」
「じゃあ、これはどーなの?」
「それはねえ。あんぬんかんぬん」
などと、この世やあの世のさーっぱりわからんことを、根掘り葉掘り教えてもらえるのだ。
もしそんなずきんを持っていたら、この欲深いやまんばにだって悟りを開けるだろーなー、、、、などとおもっていた。

あと一瞥体験をする人もいる。(この場合「覗き見メガネ」か?)
ある日突然、意味不明な驚愕する世界を垣間みるのだ!
そうして、この世は、この世に見えているものだけが、世界ではないのだ!と知る。そういう人たちの中には、その一瞥体験を語ることを生業としているひともいる。

やまんばには、うんぬんかんうんと、あの世を教えてくれる存在もいなければ、あの世体験を一瞥した体験もない。

そーゆーかれらをうらやまけしからんとながめていたが、ふと気がつく。

みんな、教えてもらったのちに、悟ったわけじゃないのだ。
質問に答えてもらっただけ。
だからこれは単なる「知識」!(笑)

「この花はなんという花ですか?」
「それは、オオイヌノフグリです」
ほほー。これはオオイヌノフグリという花なのですか。という知識をもらっただけ。

「この世はいったいなんなんですか?」
「この世は空です」
ほほー。この世は空ですか。とゆー知識をもらっただけ。

「わたしはいったい誰ですか?」
「あなたはいない」
ほほー。わたしはいないのですか。とゆー知識をもらっただけ。

ただの一知識なのに、それをただオオイヌノフグリ、オオイヌノフグリ、、、と、暗唱しているだけなのだ。

それを唱えたからといって、それが「わかる」わけではないのに。
これ、学校時代のテスト前の丸暗記の癖がついているんかも知れん。

だからこの世ならぬ存在にいくら答えを聞いても、じっさいにそれを「わかる」まで、自分自身が経験をして、その言葉ではなく言っている内容を心底理解するまでが大変なのだ!

だからこれって、べつにそんな存在がいてもいなくても、一瞥体験があろうがなかろうが、かんけーないんかもしれん。

いやむしろ、一瞥体験なんてあった日にゃ、その体験が忘れられなくて、
「ああ、あの体験をもう一度。。。。」
と、その体験のみを追いかけるワナにはまってしまうものだ。

だからたとえば、やまんばがそんな聞き耳ずきんなんかもってたとして、畑に行って、
「ねえ枯れたシシトウさん、あなたはどーしてほしいの?」とか聞いて
「はい。それはですねえ。。。あーしてこーして。。。」
なーんて、シシトウさんに答えられた日にゃ、それが教義になってしまい、逆にその言葉に囚われて身動きとれなくなるんだろうなーと、推測する。

覗き見メガネなんかもっていたら、この世の美しさをほったらかしにして、あっちの美しさだけを追い求めてしまい、日々がもっとつまらなくなるのは火を見るよりもあきらかだ。


今日も畑で草を刈る。
草を刈りながら、ぶつぶつ考える。
ふと浮かぶ叡智。
ほんの少しだけ、今までとはちがう視点に気づく。
「ああ、そうか。。。。」

そんなことが一番大事なのかもしれん。
大事なものは、ほんの小さなささやき。ほんの小さなまばたき。


うぐいすが、すぐ近くで鳴いた。
「ホー、ホケキョ!」



絵:「エクソシスト急募」/表紙イラスト

2017年4月26日水曜日

数字が増えるゲーム、減るゲーム。


銀行に行って残高を見た。
相変わらず少ない。

まだニューヨークに行く前、銀行の預金通帳の数字は、増えて行く一方だった。見る度におもしろいほど、どんどん増えて行くのを見ていた。

日本に戻って、今度は減って行く体験をした。
どんどんどんどん減って行く。おもしろいほど(うそだな。怖かったな)消えていった。いつもゼロに近い所でウロウロ。よくもまあ、生きていってるもんだ。


漠然とキャッシングコーナーで残高を見ていたとき、
「わたしはお金と言う数字をふやす遊びをしていたんだ。。」
と、気がついた。

そして今度は、減って行く遊び。
そんなゲームを楽しんでいた自分がいたのだ。

「お?と、ゆーことは?じゃあ、また増やす遊びをしようか♥」
と思った時、
「遊びは二度と繰り返えせない」
という直感が。

人はなぜお金を増やそうとするのか?
それは「お金は何にでも使える。あればあるほど、それにこしたことはない。あればあるだけ、しあわせになる」というような、当然のようにこびりついている概念があるからだった。


しかし今、お金が少なくても困っていない。
畑など、ほとんどお金を使わず、好きなように遊ばせてもらっている。気に入った本を買うお金も、近所でコーヒーを飲むお金も、食べたいおかずを買うお金もほどほどにある。今のわたしにちょうどいい具合に必要な分だけがそこにある。

じゃあなぜもっと欲しいのか。
未来を想定するのだ。
もしこんなことがあったら、もしものときのために、今起こっていないことのために、わたしはもっと必要だと、おもっていたのだ。
ただの無意識的に、誰もがそうするから、もっとあったほうがいい、と考えていたのだ。


ある人が言っていた言葉を思いだす。
「残高気にするから、減って行くんだよ。残高のことなんか忘れろ。
増やすことばっかり考えるから苦しいんだよ。
そして使う分を減らせ。そしたらことは勝手に動く」


数字が増えるゲーム。
数字が減るゲーム。
どっちも外から見ている自分がいた。




絵:「40代から仕事で巻き返す技術」/表紙イラスト


2017年4月24日月曜日

庭で本を読む。


またまた図書館から本を借りて来て、庭で読む。

この本のタイトルは『魂との対話』とあるが、原作の題名は、「Talking With Nature」つまり、「自然とお話しする」。

この著者さんは、樹々や鳥や昆虫はもとより、石と川とでさえもお話をする、危なーい人(笑)。

やまんばは、この手のはなしがきらい。
なぜなら野菜さんに、あそこには肥料がいるだの、あの場所にはわたしを蒔いてくれるなだの、いちいち文句を言われたら、野良作業が出来なくなるじゃないか!

しかしこの本は、そんな人間やまんばの、せこい考えを軽くふっとばかした。自然はそんなちょろい考えで動いているのではなかった。。。

夢中になって飛んでいると、ふと目の前の植物たちに呼びかけられた。
目の前には、今まさにキ印マークの生命があふれかえっていた。


本なんか、読んでるばやいやないで!


 庭の紅葉と、裏の山の緑のコントラストがすごい。



 エビネラン

2017年4月15日土曜日

「わかっちゃってない人」それはわたしw


なにもしないでいると、なんかしなきゃ、、!と、心が動く。
何もしていない時間に耐えられなくて、本を読む。ネットを見る。
探しているものが見つかるかも知れない。何かヒントがあるかも知れないと。

だが。
もうみつかりそうもない。
外には。

それでもいつもの習慣で、ふとパソコンの前にいる。
本を読もうとする自分がいる。
でもさがしてもさがしても、なにひとつみつけられない。
イライラしている自分に気づく。



「わかっちゃった人たち」という本を読む。
やっぱりそうか。そうだよ。そうだよ。まさにそう。ああ、わかるー!
それをわかるわたしってちょっとすごくね?

その日の夜。
ある出来事が起こって、心が動揺する。

原因と結果なんて、勝手に思考が繋げちゃってるだけだって、わかってるじゃないか。
なのに、心は動揺して「どうしてこうなった!?」と原因を探そうとする。
「じゃあ、どうする?どうすればいい?」
と、未来を予測して、恐怖のあまり対策を練ろうとする。

わかってるはずじゃないのか?
ただ起こることをそのまま受けとめればいいだけじゃないか。
動揺する自分は、まだわかってないじゃないか。。。!

orz……

すったもんだの翌朝。
「あたしってばかよねー。なーんにもわかってねえじゃん!」
と、一夜の葛藤をダンナに報告する。

「へー。でもさ、なんにもわかってねえこと、わかったじゃん」
と、へらへらしながらいうダンナ。
あいかわらず、するどいやつ。

そうなんす。
「無知の知を知る」
自分の愚かさを知る。

「はあーー。道は遠いのー。」
と、思考がいう。(おめえがいうんじゃねえ!)



絵:「カリスマ社長の大失敗」表紙イラスト

2017年4月13日木曜日

そうだ。貯犬箱で、京都へ行こう。



「ピンポーン」
「はあ~い」
「宅急便でえ~す。お荷物届いてます」
「へ?」

アマゾンから、謎の荷物。。。
はて。なんかたのんだっけ?
開けてみると、意味不明なものが。。。。

ちょっと前に怪しい不在通知にご注意!という記事を読む。
はては、これも新種の詐欺か!?
と、とまどうやまんば。(これでもかなり、気が小さいw)
あとから、不当な請求書でも届くか???と、身も凍る思い。

犬のおもちゃみたいなものが、箱の上に乗っている。
そこに「CHOKEN-BAKO」というあやしげーな文字が。。。

「ちょ、ちょけん・ばこ???」
貯金箱なら、知ってるが、ちょけんばこ?
ひょっとしたら、金は、犬?
貯金箱ならぬ、貯犬箱か?
(犬を貯めてどーする!)

宛先をながめながら、そこにあったケータイ番号におぼえがあった。
そーいや、最近「あの方」が、
「えーもんおくったでえーーー」
と、言ってたなーと、気がついた。

人生の大先輩が、来年京都で個展を大々的に開かれる。
そのために、
「金貯めて、俺の個展に来い!」
と、ビンボーな後輩に向けての、愛ある「強制的なw」贈り物であった。

毎日、犬のミーちゃん(勝手につけた名前)に、100円コインのエサをあげる。するとミーちゃんは、むさぼるよーに、コインをかっ食らうのだ。その食いっぷりは、昔ユタにエサをあげた時とそっくり(笑)!

コインを入れると、前後左右に激しくコインに食らいつく。


1年後には、ミーちゃんを引き連れて、大先輩の個展を見に行こう~!


2017年4月9日日曜日

心の旅へダイブ


心の旅を続けている。

わたしは、何気ない自分の行為が、人に迷惑をかけているのではないかという思いに囚われている。

今、こうしてブログを書く、それを文章にすることさえも、間違っているのではないか?人に迷惑をかけるのではないか?と、心はつねに戦々恐々としているのだ。
そうは見えないかも知れないが(笑)。

きのうも近所の八百屋さんで野菜を買い、それを家に配達してもらった。
「老人ホームに配達があるから、いいよ。もっていくよ」
と、いってくれる。
配達代はただ。こういうサービスが、八百屋さんの信頼を買っている。

手ぶらでぶらぶら近所を散歩しながら、心の中がざわざわしているの気にづく。
八百屋さんに配達を頼んだことを気にしている自分に気がついた。

持って行こうと思えば持てる量なのに、配達を頼んでしまった自分。。。
いやいや、ダイコンとキャベツがまるまる入っているのだ。重いに決まっている。。。
言葉にならない言葉が、ざわざわとわたしを襲う。
「これ、罪悪感だ。。。。」

人は自分の感情を見ないようにするため、言葉を使う。

なぜ感情を見たくないのか。
それは持ってはいけない感情があるのだという信念がゆえ。

怒り、哀しみ、嫉妬、不安、そして罪の意識。
そういうものは、あえて気がつかないようにするのが私たちの習性になっている。

怒ってはいけない。嫉妬してはいけない。罪悪感はもってはいけない。。。
何かの出来事に無意識にぴくりと反応する自分にフタをする。
見ないフリ、聞かないフリ、気づかないフリ。
もし、それに気がついてしまえば、それをきっかけに、ありとあらゆるがらくたが、心の中にあふれてきて、おぼれてしまう!と、信じているがごとく。

だから誰かを非難する言葉や、自分の正当化などで、心の中を言葉で埋め尽くし、自分の感情を自分で見ないようにしている。

心の旅とは、自分で自分のその心の中を旅することだ。
感情、言葉、感覚。
今、まさに自分のからだの、頭の、この中で起こっている出来事に、直接触れていくこと。
正直に、今感じているもの、そのものに触れていくこと。
ここからすべてがはじまる。

わたしが感じているその罪悪感に、心をよせる。
ただそれだけの中にいる。
そこにある罪悪感を、とりのぞこうと躍起にならない。
その罪悪感を愛おしく観る。


罪悪感をとりのぞこうとすればするほど、それはもっと居座る。大きくなる。ぴったりくっついてはなれなくなる。
それは怒りと同じ。哀しみと同じ。嫉妬と同じ。そして思考と同じ。
考えちゃいけないと思えば思うほど、頭の中の声が巨大になる経験をしたことがあるだろうか。



わたしは八百屋さんに罪悪感を感じていた。迷惑をかけてしまったと。
それはほんとうだろうか。ほんとうかほんとうではないかは、わかりようがない。きっと八百屋さんに聞けば「だいじょうぶだよ」というだろう。でも本心は、わかりようがない。

人が罪悪感を感じる底には、別の考えがある。
罪の意識を感じることによって、
「わたしは罪の意識を感じるいい人間である」
と、自分を自分に納得させたいという隠れた意図がある。
じつはそれは「人のため」ではなく、「自分のため」に、行なっていることだった。

自分の感情を知り、それを見る心の旅。
ひとつの感情は、たったひとつの出来事からストレートに現れてくるものではなく、その人が体験してきた出来事、思い、信念などが複雑にからみあい、つむがれたもので出来ている。

表れて来た感情に心を寄せることは、恐ろしい魔物を見ることではなかった。
むしろ、自分を愛おしく思いはじめる。
こんな感情を持つのは当然だったなあ。。。としみじみと味わうことさえできる。
その後ろに隠された、今まで気がつかなかった、自分がそうせざるをえなかった理由もみえはじめる。

心の旅は、自分の感情を観る旅であり、そして自分の身体を観る旅でもある。

思考を離れ、感覚の中に意識を研ぎすませる。
その時、わたしは今にある。
閉じられていた扉がじょじょに開きはじめる。
小さい頃、開いていた扉だ。
大人になるにつれて、閉じられてきた扉。

深い深い意識の海に、心を泳がせて行く旅は、まだはじまったばかりだ。
深くダイブすればするほど、心もからだも軽くなっていく。


絵:「人はなぜ砂漠で溺死するのか」メディアファクトリー新書表紙


2017年4月6日木曜日

やまんばの「花粉症治っちまった物語」



わたしの花粉症が治っていった経緯を書いてみるね。

これは誰にでも当てはまるもんではないだろうし、一般常識から言ったら、かけ離れている。だから単なる読み物として受け取ってほしい。そーゆーおばかな実験をやった、おばさんの一物語だ。

ひどい花粉症に悩まされて、夜もろくに寝られなかったわたしは、粘っこい強烈な粘膜質の鼻水が喉に詰まって、息ができなくなって、マジで死ぬかとおもったこともあった。無意識にかきむしられた喉は真っ赤にただれ、眼はかきむしり過ぎて、白目の部分が風船のように膨らんでしまい、まぶたが閉じられなくなるほど。

つねに首から上がとてつもない不快な存在感をもち、とにかく息をうまく吸うことだけを願い続けた約20年間だった。(幸いNY生活のあいだは、スギの木がなかったので、花粉症にはならなかった)
誕生日が3月で、春は好きな季節だったのに、社会人になってから花粉症と確定申告のせいで、春がくるのが恐ろしかった。

もちろんその間、ありとあらゆる方法を試みた。だがいっこうに良くなる気配もなく。。。


ある時、ひとつのブログに行き着いた。

それは「野人エッセイす」という変なオヤジが人生を謳歌しているブログだった。40年間、石けん、シャンプーリンス、歯磨き粉など、文明人が使うものなどいっさい見向きもせず、野人のごとく、野原と海を駆け回り、野原で野菜の種をはなさか爺のようにばらまき見事に育て、海にもぐってはうまい海の幸を、山に分け入ってはケモノの背中にまたがって(?)、うまい山の幸をゲットしてくる、すごいオヤジだった。

それに全く感化され、わたしは石けんなし生活を始める。
顔や全身に使っていた石けんをやめたことで、からだに感じていたかゆみはもちろん、お肌のかさかさはまったくなくなった。顔は水でばさばさっとあらうだけ。お湯が皮膚の油分を取り除いていたのだ。

一般的には、自然にでた油分をきたないものとして石けんで落とし、そしてその補いに化粧水やクリームをぬる。
油分をとって、油分を補うのだ(あほみたいじゃね?笑)。

だがその加工品のせいで、肌荒れをおこすしまつ。そして日夜「からだにあう」化粧水はないか、石けんはないか、と走り回るのである。なんのことはない。さっさとやめちまえば良かったのだ。

歯磨きも、歯磨き粉をやめて、ただブラッシングするだけによって、喉のかゆみや痛みが消えたのはもちろん、お通じが良くなった。風邪も引かなくなった。

シャンプーリンスを使わなくなると、フケもでなくなるし、抜け毛はなくなるし、毛も太くなった。
美容室では「相変わらず、多いわね。。。」と文句を言われながら、すいてもらっている。

そういう実験を通して、私たちのからだは、何かを足して補う必要がないことを知る。むしろ省いて行くことによって、私たちのからだの自然治癒力や叡智がいかされる。あれを補い、これを足すと言う「よけいなこと」をしなくなれば、かれらがすべて勝手にやってくれているのだということを身をもって知る。
その詳細はここに書いてあるので、興味のある方は読んでほしい。


そういう実験の最中に、それが花粉症の症状をぐっと軽くしていることに気がついた。
喉のかゆみはほとんど消え、鼻水もさらさらになった。
花粉症の症状は8割消えていた

だがまだ眼のかゆさや鼻水は残っていた。私は甜茶などを試して、からだの改善を試みていたが、それも決定的なものではなかった。そんなおり、ハッカ油の存在を知り、それに随分救われた。

ほんの少し、ハッカ油を小さくたたんだティッシュにつけ、それを直接肌に触れささないように裏返しにして、マスクの中に入れるのだ。スースーする心地よい空気が、息をするたびに鼻に入って来て、心と鼻の粘膜をやさしくしてくれる。随分このハッカ油には救われた。症状のきつさ緩和には、これがいい。

ただものすごいきついものだから、くれぐれも用心して使ってほしい。ちょっとハッカ油を触った手でまぶたにでも触れようもんなら、眼から火がでる(笑)。とんでもない苦痛を味わうので、そこんところ、よろしく。



さて、そういう何かの道具を使って、症状を緩和させるのは、わたしの哲学に反した。
何も足さないことが、わたしの主義。であるならば、その次は何か。

わたしは「現れる現象は、やがて消えていく」という思想を知る。仏教の「諸行無常」のことだ。
ん?現れるものはやがて消えていく?

ならば、この眼のかゆみはどうだ?
実験開始。

山をみていると、スギから、花粉が、ぱっふ~~んととんでいく。
その様子を見ているうちに、だんだん眼がかゆくなる。
う。。きた。。。
手が、首から上にいこうとする。
だめだ。。。かいてはいけない。。。。
かきむしろうとする衝動を抑えて、じっとその症状を観察する。

かゆみはじょじょに大きくなり、山場を向かえる。
くっくるしい。。。かっ、、かゆい。。。。
手が動こうとする。。。
それでもじっとたえる。
あるピーク点を向かえると、じょじょにかゆみがおさまって行く。
あれ?消えていく。。。消えていく。。。。あ、、、、完全に消えた。。。。

まさに、わたしの怒りについて実験した「いかり踊りじゃあ~~っ!」と同じことが起こったのだ!

現れる現象は、やがて消えていく。
現れるかゆみは、やがて消えていく。
現れる怒りは、やがて消えていく。

それからわたしはかゆみが起こるたびに、じっとその現象が消えていくことを見守った。
眼はかくから傷がつく。粘膜の表面はもっと敏感になる。敏感になればなるほど、かゆみはまして行く。そういう悪循環が起こっていることにも気がついた。

さて鼻水はどうだ。
ずるずる流れる鼻水を、わざとほおっておいた。マスクの中で鼻水が洪水になる。それでもほおっておいた。
鼻水がでると、それが気になるから鼻をかむ。すると鼻の中の粘膜にスギ花粉がつく。それに刺激され、また鼻水がでる、という悪循環が起こっていることに気がつく。
鼻水は、粘膜を潤わせて、外からやってくる異物から保護する役割をしてくれているんだと知る。

寝ている時に、鼻が詰まって口開けて寝ることで、かゆさが出てきて、かいてしまうことも、勝手にやってくれと、まかせた。
鼻水が喉に流れてたまってしまっても、口から出すことはせず、「ええい。ままよ!」と、ごっくんと飲み込んだ(笑)。するとどうだ。飲み込んだ方が、かえってかゆさが消えているではないか。鼻水は、喉の粘膜の刺激を和らげてくれるのだろうか。

とにかく起こってくる現象に「抵抗せず、受け入れる」ということを徹底した。
あらゆる症状は、からだを保護するために、その叡智によってことごとく起こっていることを、身をもって知った。
だから症状があるごとに、「イヤだ!」とか「ダメだ!」とかおもって、なきものにするんではなく、あえて、「おお、そうきたか」と、うけてたつぐらいの心構えでいるとおもしろいことが起こる。


今でもときどき、鼻水が垂れたり、くしゃみが止まらないこともある。けれどもその時は、汗をかいて冷えたりしたときのようだ。
その状態にいちいち「えっ?まだ治ってないの??」
と、過敏に反応するのをやめた。放っておけば、自然と消えている。

気がつけば、目の前を飛んでいる花粉を見ても、
「おお!大自然の営みだ!」
と、よろこんでいる自分がいた。

鼻をオッピロゲて、春の匂いをかぐ。
春がくるのが楽しみな自分にもどっていた。

長くなりました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
以上、やまんばの「花粉症治っちまった物語」でしたあ~~~。




2017年4月3日月曜日

心の中へ。。。


いつも何かわからない不安に振り回されていた。

その不安が、一体なんなのかわからなかった。
やがてその不安の原因は、いつも心の中でしゃべっている言葉であることに気がついた。
自分を否定してくる言葉。
否定、罪の意識、善悪の判断、優劣の比較。。。
その言葉は、まるで自分を押しつぶそうとしているかにみえた。

じっくり聞いていると、その言葉は自分にとって役に立たないものだと知りはじめる。むしろ自分に限界を与え、矮小化し、自分を陳腐で、何の役にも立たない愚か者におもわせているのだ。

いろんな精神世界の本から、これが「エゴの声」だと知る。
その声を自分の声だとおもいこみ、その言葉のいうことが正しいとおもいこみ、その言葉のいう通りに動く。
結果、自分を限りあるものだと信じ込み、自分を矮小化して行くというのだ。

なるほど、わたしの中に聞こえてくる言葉は、客観的にみると、まるでわたしを矮小化することを目的としているかのようだった。

それ以来、わたしはその言葉に乗っからないようにしはじめる。
いつも聞こえてくる言葉、自分を否定する言葉。
その言葉をただ聞くだけになった。
「ふ~ん。また言ってるな。。。」と。
それ以来、いつも動揺していたものが消えはじめる。


これで「エゴの声」は消えたかに思えた。
そのエゴの言葉は、粗大ではっきりとした言葉だった。
それで終らなかった。
今度は、もっと繊細な言葉になった。

一見、何を言っているのかわからない。だけど何か心を刺激する声だ。
その言葉にならないものを聞くと、またもや心が動揺して、なにかに突き動かされる反応に気がついた。
そしてその言葉にならないものが来たとき、それに乗らないようにした。

だがそれで終らなかった。
今度は、声でもなく、言葉にならないものでもなく、振動するような不快なバックグラウンドミュージックが、延々と自分のあたまの中で鳴っているのに気がつき、衝撃を受ける。

こんなものをわたしは聞き続けていたのか。。。
それはとてつもなく不快であった。
同時に、現代人はこういうバックグラウンドミュージックを聞き続けているのだと実感する。
延々と、言葉にも、声にも鳴らない、自分を否定するBGMが鳴り続けているのだ。
(どんなイージーリスニングやーっ!ってゆうか、ハードリスニングやな)
そりゃー、つかれるわ。

ここまで来た時、これは人にお勧めできる方法ではないなと思いはじめる。
こんなものに気がつくと、とてもじゃないが、まともに生きてられないと思った。

それもやがて山場を過ぎ。。。。

今度は探求する自分に気がつく。
「も、もうすぐ悟れる。。。。もうあとちょっとだ。。。だから、何か、ヒントを。。。。。」

必死で自分を解放してくれるネットを、言葉を、人を、ブログを、本を、探している自分に気がつく。

探求の衝動に気がつく。。。。。

その衝動に気がついたとき、あぜんとした。

これに突き動かされていたんだ。。。。。。


その衝動に気がついたとき、ただほおっておいた。
その衝動は消えていった。

探求の衝動さえも、エゴなのだろうか。。。。

ただ、この作業は確実に、からだも、心も、軽くさせていく。


絵:「けんぽ」表紙/アメリカ西部のワタリガラス




2017年4月2日日曜日

このごろ頭が変だw

毎週末に行く高尾の奥にあるコーヒー屋さん「ふじだな」。
先週は、開店1時間前に行ってしまった。

そぼ降る冷たい雨の中、たまたまお店のシャッターが開いていて、中からご主人がわたしを見つけてくれ、店に入れてもらった。

「どうしたの?こんなに早く来て!」
といわれるまで、自分が1時間も早く来た事に気がつかない始末。
ちゃっかり早めにコーヒーを入れてもらう。

今日は今日で、前もって臨時休業だと聞いていたのに、行ってしまう。
さすがにシャッターが下りていた。それでもなんで休みなのか、気がつかない。

たまたま山から降りて来た友人に
「このあいだ、言ってたじゃないですか!おぼえてないんですか?」
と言われても思いだせない。

しばらくして、頭の片隅に
「そーいわれれば、そんなこといってたよーな気がするなあ~。。」
というよーなありさま。

それでも行き帰りの山や道沿いの花たちに眼を奪われ、楽しい時間を過ごす。

なんか、このごろ頭がへんになってきた。
でも、なんだか、そーいう自分がたのしい(やばい???w)。

2017年3月25日土曜日

するべきこと


すること。
しなければいけないこと。

私たちはそういう行動にしばられている。

したいこと。
したくてたまらないこと。

そういうことは、むしろさける。

どこかで、義務や、役割、責任のある行動をすることを優先する。
それが大人のすること。それが大人のあり方。

そういう責任ある行動をすることは、
こうあるべきことを、ちゃんとやっている大人な私。
大人なわたしって、えらい。

それをすることは、人にほめてもらえる。
人に「ここにいていいよ」という許可を与えてくれる。

と、思って、信じている。


でも、ほんんとは誰もそれについて、許可をあたえてくれない。
その行動を見て、
「うん。おまえ、ここにいてよし」
とは言ってはくれない。

ただ自分が、
「うん。わたし、ここにいてよし」
と言ってるだけなのだ。

それは自分の中の「きびしい声」にあわせているのかもしれない。

どこかでいわれたこと。
そうあるべきこと。
この世はそういうルールにのっとって、生きていくべきだという考え。

その考えが、いつのまにか、「自分の考え」になってる。


ほんとはしたいことはあるのかもしれないけど、
優先順位の一番奥の方。
なぜかわからないけど、むしょうにしたいこと。
これなんて、最下位。

いや、したいことすら、見えなくなっているのかも知れない。
あまりに、やるべきことだらけで。



したいことも、することも、
行動を起こすこと。

何かをやっていなければ、認めてもらえないなんて、なんだかつらい。
じゃあ、そこにほげっとしてるってのはだめなの?


何もしないてのはどお?
何もしない自分を、認められる?

なにもしない自分をそっとみる。

だた、そこに「ある」こと。
するも、しないもなく、
ただそこにいる自分。


ただそこにいるその今いる自分をそのまんま感じる。
まるっと、まるごと、かんじる。

苦しいも、イライラも、もやもやも、はらはらも、
そのかんじ、そのまま、まるっと、かんじる。
全身でかんじる。


たった、それだけのことが、
何かをやるよりも、
はるかにパワフルなのだ。





2017年3月23日木曜日

菜の花の視線


今日の畑。


畑いっぱいにアブラナ科の雑草(笑)が、花芽をつけはじめた。
いわゆる菜の花。


ありとあらゆる葉っぱの形をしている。丸いもの、ギザギザしたもの、濃い緑、淡い緑。でもみーんな花は黄色。


一仕事終えて、菜の花畑に身を埋める。
やわらかくて、やさしい。





ふと、視線を感じた。
菜の花たちが、いっせいにこっちを見ているのに気づく。

ひえ。見られてる。。。

胸のあたりが、あつーくなった。