2017年12月14日木曜日

Yes to life!


この動画を見て、はっとした。

すべてのことに「Yes」と言おうという。

自分の中に現れてくるもの。言葉、感情、感覚、そして自身の人生に対しての、
そのすべてに「いいよ」と言おうと、うながしてくる。



わたしは自分が自分に対して、どれだけ「ダメだ」と言い続けたか。

自身の作品への評価、生活態度への評価、身体への評価、考えへの評価、自分のクセへの評価、起こって来る感情への評価、過去への評価、未来への評価、、評価、優劣、判断。。
これもダメだ、それもダメだ、あれもダメだ、すべてダメだ。


ある日自分が『ダメ出しの王』だということを知った。

知ったからといって、「じゃあ、今日から出さなくなります」とはならない。
むしろ、ありとあらゆるシーンで、ダメ出しが行列をなしていることに、吐き気がしたぐらいだ。

「こりゃあ。。。。ある種、変態だな。。。」

どこでどう覚えたのか、「ダメだし」をすることによって、ダメな自分がよくなるという観念を持った。新種の宗教みたいなもんだ。『ダメだし教』

この宗教、最初に「あなたはダメ人間です」という、ありがたいお札をもらう。
そのお札を額に貼付けて、ダメだしチェックの念仏を唱える。
「これはだめだ。あれもだめだ。それもだめだ。ああ~ぜんぶだめだ~~」
と、唱える。
そーやって、かれこれ50数年念仏を唱えてきた。
実にありがたいお経だった。そのおかげでここまで生きてこれた。

が、それもここんところ効力をなくしはじめてきた。
ここにきて、それが自分に多大なる限界を作っていたことに気がつきはじめた。
浮かんでくる言葉、感情、感覚、すべてに対してダメを宣告し、自らの行動を小さくして来たのだ。

そして、冒頭の動画。

なんてことだ。
まったくま逆のことをやっていたではないか。。。

そしてそっと言ってみる。
「い、、、いえす。。。」
「い、、、いい、よ。。」

それからわたしは自分の中から出て来るありとあらゆる言葉、感情、感覚に、
「いいよ。」といってみた。

たとえ、それがえげつない言葉であっても、
「うん。それでいいよ」と。
仕事で失敗しても、
「いいよ」
ハラが立っても
「いいよ」

そっと心の中で言ってみた。

なぜだか、何かに大きく受容されているような感覚になりはじめた。
ホッとするような感じがやって来る。
それはまるで、どんなにイタズラしても、
「いいよ」と、微笑んでくれる何かがすぐそばにあるような、そんな安心感だ。




SNSの「いいね!」は、人からもらうもの。
じつはいくら外から「いいね!」をもらっても、
自分自身が、自分を受け入れてない限り、「いいね!」は、すーっと消えていく。
だからいつも「いいね!」が欲しくなる。



でも「いいよ」は自分で自分に言う。
「そう思っているんだね、それでいいよ」
「そう感じているんだね。それもいいよ」

きっとハラが立つにはハラが立つの理由がある。それを自分で認める。
きっとかなしいのは、かなしい理由がある。それを自分で受けとめる。

自分の中に、あったかいものがあふれてくるのを感じていた。




2017年12月13日水曜日

傷ついたその時、、、


だれかに何かを言われて傷つく。

心は、とたんに動き出す。

あらゆる言葉が、あたまの中をめぐり出す。
言い訳が始まる。
こっちは悪くないと言いはじめる。
そっちの方が悪いと言いはじめる。

心臓がドキドキする。
カラダが硬直しはじめる。
手が震える。
足も地面についている感じがしない。

あたまの中は爆走する。

言葉に出して言おうか、それともこのまま黙っていようか。
心とカラダは、攻撃と防衛を行ったり来たりする。

過去に似たことを思いだし、未来にまた起こるであろうことを想定する。

またこんなことを起こしてはならない。
どうにかして阻止しなければいけない。

今度は策を練りはじめる。
攻撃と防衛と、傾向と対策が、ものすごいいきおいでかけめぐる。

感情が頂点にたっするほど、不快が押し寄せてくる。

駄目だ。。。もうこれ以上、耐えられない。。。



そう思うその時、

ただその中にいよう。

爆走しているあたまの中の声を、ただ聴いていよう。
心臓がバクバクするのに、ただ気がついていよう。
カラダが硬直しているのを、ただ気がついていよう。
手が震えるのを、ただ観ていよう。
感情が不快を訴えているのを、
ただ「そう感じているんだね。。。」と、聴いていよう。

何も、何一つ、起こってくる現象を否定せず、
ただ、そこにいよう。
ただ、それとともにいよう。

そのとき、あなたは
その中にはいない。

くるしさのなかに、ただあるとき、
私たちの想像を超える何かに触れている。

そのとき何かが起こっている。


2017年12月10日日曜日

「わたしの」をとってみる


見えてみるもの、聞こえてくるもの、感触、匂い、味わい、
みんな、外にあるもの。
だから自分じゃない。

でもあたまの中で聞こえてくるもの、
こころの中で感じるいろんな感情、
かなしさ、うれしさ、いかり、いらいら、しっと、
そして考え。

それは自分の中から出て来るから、自分が感じた、
自分が考えたっておもってる。
じつはそれも自分じゃない。
だって、それも「観ている」からね。
観ているってことは、自分じゃないのさ。見えてるからね。


外側のものも、内側のものも、
みんなわたしのことじゃない。
じゃあ「わたし」はどこにいる?

どこ、なんて場所はない。
どこにもいないんかも(笑)。

ただ存在する感じだけがある。


わき上がってくる感情を、自分のものだと思うのをやめてみる。
「わたしのかなしみ」というところの、
「わたしの」をとってみよう。

痛みのあるカラダを、自分のものだと思わずに、
「わたしの痛み」といわず、
「わたしの」をとってみよう。

そこには、ただ「かなしみ」があり、「痛み」があるだけだ。

それを否定もせず、ただそれとともにいよう。


すべてのものは、現れてはやがて消えていく。





2017年12月7日木曜日

自我ちゃん自販機



寒い朝、布団の中で目をさます。

「おきよっかな?まだイヤだなあ。。。
起きる?いや。まだ、もーちょっと。。。
起きる?んーーーーと。。
あ、起きよっと!」

と、ガバッ!と起き上がる。
そのとき、ふと思った。

あれ?これ、「起きよっと!」って、思ったから起きたんかな?
ひょっとしたら、カラダが起きようとしたのを自我が気づいて、
「あ、起きよっと!」って、あとづけで言ったんちゃうか?
ってね。

自我は後だしジャンケンっていわれるけど、こゆこと?

最初にカラダの動きがあって、その後で、さも自分がやったかのよーに、
「わしが起きよーと思ったから、カラダが起きたんじゃ~」
と、いけしゃーしゃーというやつ。
どっかにそんなやついたよなあ。

えーーーー。
マジ?

そーいえば、なんで目をさましたんや?
どーやって目をさますんや?
自我が「自分」だとしたら、どーやって、自我が自分で起きるんや?
それまで自我は意識もなかったはず。。。

きっと自我に言わせれば、「わしが目をさましたんや!」と言うだろう。
けど逆だったら?
カラダが目をさまし、自我が動き出すとしたら、自我が自ら動いて目をさましたわけじゃないやんけ。

カラダが目をさまして、自我が自動的に動き出したんじゃね?受動的に。
まるで自販機が100円入れたとたんに動き出すよーに。

今日も自我ちゃんは、自動的におしゃべりしている。



2017年12月2日土曜日

心の中が暴れている


絶望と葛藤の中にいた。

なんでわたしがこんなことをしなけりゃいけないんだ!?

三十数年間の自分のキャリアがもたらすプライドが、現実と戦い合っている。

ふざけんなよ!

と、その場で投げ捨てることもできるかもしれない。

それをしないのは、勇気がないから?空気読まないといけないから?

だがそこでちゃぶ台をひっくり返すのは、その場でやって気持ちがいいだけのことをやろうとする幼い意識だ。

力づくは、その状況を覆す力がない。
物理的なものをこちらから変えようとしても、その場しのぎなだけで、また同じような状況がやってくる。

この私の中の何かが変わらないと、外の現象は変わらない。



心の中の自我は訴えまくっていた。
それをもう一人の私が聴いている。

もうやめてくれ。
たくさんだ。
イヤだ!こんな状況は耐えられない!
死んだ方がましだ!


「君は今、あばれているのだね。
いいよ。あばれても。」

そう、もう一人の私は言った。

心の中は荒れ狂った。
言いたい放題言いまくった。
ここで書けないようなことも言いまくった。

心はすさまじい嵐の中にいるのに、私の動きはいつもと変わらない動きをしていた。



不思議なことに、カラダは疲れなかった。
それは心の中の思いを、そのまま受けとめていたからだろうか。

人は心の中であふれてくる残酷な思いを、思ってはいけないと封じ込める。
悪いことを考えたら、悪い事が起こるというような、信念があるからだろう。

どっちにしろ、自分のことしか考えてない(笑)。
他人のために封じ込めているわけではないのだ。

そういうもろもろの信念がある故に、人は自分の中からわき上がってくる感情を無意識におさえこむ。
出ようとするものをおさえこむのだから、それなりに力を使う。
いや。かなり力を使っている。

もぐらたたきで、もぐら(感情)がひょっこり顔を出してくるのを、ぽんぽん叩いて封じ込めるが、そのうちいちいち叩くのが面倒になって、その全部を手でずっと押え続けているようなもんか?


私は私の中にある感情を正直にみはじめてから、いろんなことが起こっている。

生まれてからいろんな観念とともに生きて来た。それに気づきはじめると、玉ねぎの皮を剥くように、その観念がはがれはじめる。
と同時に、あらゆる感情に気づきはじめる。それは苦痛でもある。

こんなおもいまでもっていたのか!という、見たくない自分も見る事になる。
そして、自分とはこういう存在と思っていたものまでが、はがれ落ちはじめるからだ。

なじんだ性格、なじんだクセ、なじんだ感情、なじんだ考え。そんなものが崩れはじめると、元に戻ろうとする作用が働くらしい。それをホメオスタシスというらしい。

そういう苦痛の経過を受け取ってもらえる存在がいるのがありがたい。


どこに向かっているのか。
どこにも向かってないのか。
ただ思いだすだけなのか。

なにもわからない。
ただ、このまま進むのをうながされているのはわかる。










2017年11月30日木曜日

夜、裸足で庭に出る


寝る前に、窓を開けて裸足で縁側に座る。

冷たい大地と足の裏がかかわり合って、次第に暖かくなってくる。
夜空を見上げる。雲の切れ間からお椀型の月がのぞく。
目がしだいに慣れて来て、目の前の漆黒の闇がかすかな樹々の姿を映し出す。

私は深呼吸する。そっと目を閉じる。感覚の中に入る。
今どんな感じ?

ほおに当たるかすかな風が冷たい。
足の裏で感じる大地との感覚が、ちりちりする。
と、同時に、手の中もちりちりとしはじめる。
石の上に座ったお尻から背中にかけて、ジーンと冷たい。
でも膝かけの中の足はあったかい。

感情は?
わからない。
不安? いんや。
怒りは? ない。
さびしさは? ないなあ。
かなしみは? ちっとも。

では、しあわせ? う。。。わからん。
じゃあ、不幸せなの? それはない。
じゃあ、今の感情は?
わかんない。。。

何も感じないの?
なにも。。。
ただ、、、しずかなだあ。。。

その後ふとんに入っても、その感覚のままでいる。
この感情はなんだろう。
何も感情がないってことは、幸せなのだろうか。それとも不幸せなのだろうか。
そのどちらでもないのだろうか。

この感情は、何も名付けられない感情は、いったいなんだろうか。

しばらくは布団の中でその感覚のままいた。
そしてゆっくりと無意識に落ちて行った。




絵:「虎の尾」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年11月29日水曜日

手応えない感じw


ここんところ、あまり更新できない。

なんかね。
微妙な変化がおこっているんだけど、それを言葉にすると、ウソくさくなっちゃって。
でもあえて言葉にしてみると、

そうか。なんでも、これでいいんだな。
ってかんじかな?

めっちゃ、手応えないってゆうか。。。(笑)



自分の中に次々とわき起こってくる、感情や言葉。

それが自分の中から出てきたものだから、自分が考えたと思いこんで、それに乗っかって来た人生。

そののち、それに振り回されている自分に「ん?」って気がついて、それを今度は観察すると言うことをし始めた。

そうすると、あるパターンがあることに気がつく。
いつも同じ感情や言葉がわき起こっていて、それに心が動揺し、それをなんとかしとうと焦って行動するというパターンに。

それに気がつきはじめると、それを感じる自分と向かい合うことになった。

心はいつもの感じで突っ走ろうとする。
しかし観察する意識が、その突っ走りを100%にしない。どこかでブレーキをかけはじめる。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるかんじ。

キーキーと音をたてて、その場でバクソウする。
いや、時には、そのまま突っ走る。

そういう行ったり来たりが起こりはじめ、混乱する。動揺する。
そしてまた動揺する自分に気がついている自分、それら全部をひっくるめて、駄目だしする自分。

不快の中でもうろうとなる。
そういう時期をしばらく過ごす。

だが、じょじょになにかが変わりはじめた。
じょじょに。かすかに。ゆっくりと。

そして今は、そういう自分に、これでいいんかもしれない。。。とおもいはじめている。

生まれて来て、いっぱいいっぱい身につけて来た観念。
その観念をひとつひとつはがして行く作業は地味だ。
いや、はがしていくのではないなあ。
はがれていく、というほうがあってる。

ラフがうまいこと描けない。どうしよう。時間がない。
焦る自分。いつものように駄目だしする自分。

だが。
前の自分とはちょっと違う。
自我は、ただウソの言葉を発するだけなのだ。
事象は、勝手に起きている。
ことは勝手に進んで行く。

ことが進む過程で、あーでもない、こーでもないと言い続けるのが自我の言葉。
その言葉に乗っかって、「そうだ!時間がないのだ!」と、
そのまま鵜呑みにしておおさわぎをするのもいいし、
「あ、いつもの言葉ね」と、
気にしないで、ほっておくのもいい。
どちらでもいい。
そう思えてくる。
だって、ことは勝手に起こるだけなんだもの。

「自分」が何かしているわけじゃないんだもの。

ね?
なーんも手応えないでしょ?(笑)



2017年11月25日土曜日

ある朝



朝起きた瞬間、感覚の中に、わずかにひゅっと冷たい風が吹いた。

「あ。。。。」

ほんのわずかな瞬間だったが、自分がずっと持ち続けていた緊張、それが起こる瞬間をとらえたのだ。

この感じ。。。ちいさいときからあった。。。

それはこの社会に生まれて来て、一人で生きていかねばならない、一人で頑張らねばならない、という孤独感と、身震いするような緊張感。

どういうわけか、気がついた。

気がついたとき、もうそこにはいないことに気づく。
緊張感を外から見たからだろう。
その中にいると、気づくことはないのだから。



あの緊張感は、ぎゅっと固められるような、突き放されるような、寒い所に放り出されるような感覚。孤独な幼いつくしちゃんは、その吹きすさぶ嵐の中を、ひとり立ち上がって歩いて来たのだ。

非二元的に言うと、これこそが分離の意識なのだろうか。
それまで一体だった母親の胎内からでて、一個の独立した存在としてこの世で動き始めたその孤独感と緊張感。

それから間もなくして、この社会の形を知り、その残酷さと暖かさの両極を観る。
分離した意識は、残酷さの方に重点が置かれた。
この残酷さをどう乗り越えるのか。
この嵐の中でどう生きていこうか。
そう、必死で考えてきたのだ。

そう。まじめに。深刻に。この世をとらえてきたのだ。


だが、その深刻さが、だんだんゆるんできた。
この世は、そんな深刻な場所じゃないんじゃないか。。。そうおもいはじめている。

そんな矢先の、朝のあの感覚だった。




2017年11月22日水曜日

あたまの中の音を聴く



川の音を聴く。
あたまの中の声を聴く。

川の音は聞き流す。
でも頭の中の声は、聞き流せなくて、その声に乗っかる。

なんで?
それは「言葉」だから。
でも言葉も「音」なのにね。

「か、わ」という二つの違う音なのに、
人はその音を聴いて、川をイメージする。
時には靴をイメージするかもしれないが。

どっちも聞こえる。
けどあたまの中の音は、意味をもつ。
川の音には意味がない。
だから意味がある方に気がとられる。

外から「ばかやろう!」と、音が聞こえたら、
そくざにそこに耳を傾ける。

外から「ザーザー!」って、聞こえても、
ん?ておもうけど、
「雨か」といって、それを聞き続けることはしない。

ひとは「ことば」に気を取られる。
頭で鳴っているだけの音に、意味をもたせる。
そこに世界を広げる。

目の前にはパソコンの画面が見ええているだけなのに、
明日のことを思い煩い、
今どこかにいるだれかさんのことをきらっている。

あたまの中で、ただ鳴っているだけなのに。
あたまの中で、浮かんで来ただけなのに。
それが真実のように思えて、その中に入り込む。

川の音は聴かない。
頭の声は聴く。

そうやって、頭の中の声と戯れ続けている私たちがいる。




2017年11月8日水曜日

自我のトリセツ


あったかいお風呂につかる。

カラダを感じる。心臓がばくばくしていてるのを感じる。皮膚がぴりぴりとしているのを感じる。体全体に圧迫を感じる。と同時にちょっぴりの浮遊感。

皮膚とお湯との接触部分をかんじてみる。何かわからないけど、何かが何かに触れている感じはする。。。と、おもっていたら、
「あれ?熱は?あったかいはずなんだけど。。。。」
そこに熱はなかった。
あったかい、さむい、は、観念かのかもしれないとおもった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とゆーではないか。

んで、感覚の中にいると、感覚って微妙なもんなんやなあ~とおもう。そのわずかななにかに、「熱い」という言葉を付けたとたん、そこに温度が生じる。「寒い」もそうだ。「寒い寒い」って、からだを震わせたら、もっと寒くなる。

私たちはこの微妙な感覚にアレコレ名前をつけた。その名前にいいとか悪いとか判断も付けた。そうやって、たくさんの言葉が私たちに生まれた。

あたまの中で動いているものは、言葉だ。
お風呂につかりながら、今日はああだったと思いだし、にっくきあいつの事を思いだし、明日どうしてやろうと策を練る。
はたまたこれから私はどうなるんだろう。。。と未来を心配する。

今、私はあったかいお風呂につかっているのに、心はここにいない。怒りや不安や嫉妬や焦りや悲しみなどの、不幸の中にいる。
今、そこに不幸があるのか?ない。なのに、心だけが不幸だ。

それが思考のしわざ。
私たちは考えの中に没頭する。
不幸を味わう。


その思考の仕組みを懇切丁寧に解き明かしてくれているブログがある。

自我、つまり思考の塊は、私たちにいろんな影響を与える。人生をドラマチックにするのは自我のおかげだ。

その自我は私たちの一部で、けして悪いものではないが、その取り扱い方をあまり自覚した事がないのではないだろうか。
そもそも学校でそんなものの扱い方を習った覚えはないし、ましてや親に教わった事もない。

思考は自分の中から出て来る事なので、自分が考えたと思うし、その思考は自分の味方だと思っているので、その扱い方などと言うことは考えた事もないのかもしれない。

だけどこれだけ精神的な問題が浮上して来ている今、私たちは自分の中でおこっていることが、いったいなんなのか、調べてみる必要があるように思う。

心の時代と言われてずいぶんたつが、今のところ、その共感だけにスポットが当てられているだけで、その自我がどんな動きをして、どんなふうに人に作用するのかをしらない。

そういうことをわかりやすい言葉で、やさしく教えてくれている。


絵:「バスタブとゴースト」ペーパーバック表紙イラスト




2017年11月6日月曜日

野菜涅槃図

伊藤若冲「野菜涅槃図」

大仏様と涅槃像。

日本では大仏様が座禅を組んで、手を庶民にかざした状態で凛として座っておられる。庶民はその手からでてるであろうパワーをありがたくちょうだいし拝む。

一方、南アジアの方では、あろうことか、大仏様は全身脱落系でのほほーんとしたお顔で寝っ転がっておられる。
そこでも庶民はその様子をありがたくちょうだいし拝む。

このちがいはなんなん?

なんでも、座禅系の仏様は修行中の身、ねっころがっているのは涅槃の境地、つまり悟ったあとのお姿なのだそう。

庶民を救うために修行する仏様を拝むか、涅槃の境地にいっちゃった仏様を拝むかの違いは、これ、民族的な性格があるんかもねー。

南国生まれの南国育ちのわたしとしては、お日さん西西的な、寝っころがった仏様の方が好き。。。
いや、今だからそう思えるのかもな。

それまでは探求、修行、苦悩、努力、達成。。。そういうふうに力込めてがんばってたので、仏様も修行中のお姿のほうが神々しく見えてたな。

けどこのごろ力が抜けて来ていた矢先、ある人からお聞きして、あるブログに出会った。
まさにその名の通り「涅槃の書」
とんでもないブログだった。
教えてくれた方に、感謝感謝です!
興味のある方は、600本あまりある無料の記事を読んでみて下さい。最近のはお金がかかるので、グーーッと下の方、最初のころのから読まれるといいかもしれません。

どこのどなた様が書かれたブログかわからないんだけど、小さいときから疑問に思っていた事が、読み進めるうちに、どんどんあきらかにされていく。
なんだあ。そういうことだったのかあ。

そういう目線でこの世を見ていくと、非二元の大御所が、口すっぱく言ってる言葉が、
「あ、これのこと?」みたいなかんじで理解しはじめる。

やっぱ、うまくいえんなあ。。

ことは勝手に起こってる。
それにアーダコーダいうから苦しい。
目の前に展開する出来事のまんま、受けとめる事にします。

無駄なテイコーはやめます。
鼻ほじって、寝っころがることにします。



絵は、大好きな伊藤若冲の「野菜涅槃図」(京都国立博物館所蔵)。

真ん中のダイコンが涅槃の境地になっている仏様。
一見ふざけた絵みたいだけど、深い。
若冲のお母様が亡くなられた直後に描かれた絵なんだとか。
しかも若冲は八百屋の店主だったとのこと。
きっとお母様はたくさんの人々に見守られて涅槃の境地に行かれたのだろう。
いや。きっと若冲は、その姿に涅槃を見たのだ。


2017年11月4日土曜日

たら幸せ♥


問題が起こる。
不幸な気持ちになる。最悪の気分になる。

心はその問題を解決せねば!とあせる。

心はその問題が解決さえすれば、今の不幸な気持ちは消えて、幸せになれるとおもっている。

そして奮闘する。

そして、、、やがて解決する。

いや、私の場合は、奮闘しなくて、解決した。
静かにしてたら、勝手に解決してた。

どっちでもいいや。

そう。問題が解決する。
すると、一瞬だけ不幸が消える。
ああ、よかった。。と安堵する。
だがそれだけだ。

その問題が解決したあとは、幸せでもなんでもない。ただの日常が続いていくだけだ。
そんな問題はなかったかのように。

そしてまた「問題」は発生する。
それを解決しようと躍起になる。
この問題さえ解決できれば、私は幸せになれるのだ!と。
そして問題はやがて解決する。
それで、幸せになったか。
べつに。

銀行からお金がおろせかなった。あせる。
これからあそこからおろせなかったらどうしよう!
あのお金さえおろせれば、私は幸せだ!と、おもう。
しかし後日簡単におろせた。
で、心は幸せになったか?なってない。
別の通帳にお金を入れる。そこでお金が増えると想像する。心はうれしがる。
で、入れる。
心はうれしがったか?べつに。

このまま行くと、お金が10倍に増えても、増えるまえにうきうきするだけで、実際増えたら、ふつーになるんだろうな。きっと100倍になっても。


とゆーことは、わしは、こうなってくれたら幸せというものは、つかんだとたん、ふつーになっちゃって、いつまでも幸せ感をつかめないじゃないかー。


スーパーでおいしそうなケーキをながめる。
食ったらうまかろうなーとよだれがでる。
でも、たとえばそれを買って、食ってる最中も、
太るかな?とか、
これ、いっぱい保存料入ってるんやろな。
カラダに悪いかな。。?
とか、色々考えちゃってる。
100%、あー幸せ♥とはならない自分に気がつく。


問題が解決したら幸せ♥
お金が入ったら幸せ♥
ケーキ食べたら幸せ♥
すてきなところに行ったら幸せ♥
いい本が手に入ったら幸せ♥

なになにしたら幸せ、という条件付きの幸せが、意味を失っていく。
どれを手にしても幸せがない自分に気がついていく。

人は「幸せ」を感じたいために、問題を探しているんじゃないか?
それを乗り越える幸せ、達成感。ゲットできたぜーというその時の絶頂感。

でもそれもまた過ぎ去り、また新たな幸せ感を求める。

たら幸せ♥は、
本当の幸せじゃないのかもしれない。


絵:「アイドルと病」/MF新書表紙イラスト




2017年11月1日水曜日

へんてこな夢


夢を見た。

高いビルからとうとつにでっぱった半畳ぐらいの小さなスペースに、わしら夫婦は住んでいる。

そのでっぱった先には動物の巣のようなものがあって、そこには3、4匹のけもくじゃらのタヌキみたいな野生の子供が丸くなって寝ている。カラスも鳥もやって来る。ときどきヘビもやって来る。
アオダイショウとマムシがぐっちゃになって、布に絡み付いていて、それをだんなにとってくれるように頼む。
だんなは、ヘビが絡み合った布をぶんぶんふって、落とす。
ヘビたちは宙を舞って下に落ちていく。



目が覚めた。
「へんてこな夢だなあ。。」と、頭をボリボリかく。

布団を畳みながら思う。
あの夢、ぜんぜんつじつまが合わないじゃないか。

だいたい高いビルからあんな小さなスペースが飛び出しているわけがない。
んで、そこに住んでいるはずもない。
そこにタヌキみたいな野生動物の巣があるはずないじゃないか。

それなのに、夢の中に出て来るわしらは、それを「ふしぎ」ともなんともおもってない。つじつまがあわない、ともおもってなくて、トーゼンのように、住んでいて、トーゼンのように、布に絡み付いたヘビをふりはらう。。。



布団を上げながら思う。
わしらは、ここに住んでいる事を何の不思議とも思わずに、住んでいるよね。
つじつまあってるとおもってるよね。
ほんと?

それを夢が冷めた存在から見たら、
「あっはっはあー。おかしなところで住んでたよなあ。なーんであれがつじつまが合ってるって、信じ込んでいたんだろ。いやー。馬鹿げた夢だった」
って、おもってたとしたら。。。(笑)

いやいや。しっかりつじつまあってる。ものを落とせば、下に落ちる。
太陽は東から昇って、西に落ちる。。。うんうん。あってるあってる。
と、つじつまが合う証拠をいっぱい探してくる。

でも、その「つじつま」も、たんに夢の中での「つじつま」だとしたら。。。

うっひゃあーーっ!