2016年7月3日日曜日

じっとする。


八王子のホームで、突然怖くなる。

ーーさっき画材屋さんで選んだ額は、あれでよかったのだろうか。
もっといい額があったんじゃないだろうか。
もうひとつの額の方でやった方が、よかったんじゃないだろうか。。。。

心はどんどん動揺しはじめる。心臓がばくばくして、思考が爆走する。

ーーいやいや、あれでよかったんだ。
どうしてかって?
なぜならあの額を選んだのは、これこれこーゆーワケがあって。。。。

ーーえ?ほんとにそう?
選ばなかった額の方がもっといいものができたんじゃないの?

ーーえ~~~~っ。今ごろ言わないでよ!
じゃあ、今からまた戻って、あっちにする!?


あ。。。。
やってる。。。

あたまの中で行ったり来たりを繰り返しているわたしに気がつく。
自分が選んだ額に、一人がジャッジし、もう片一方が、言い訳をし、それに反論を繰り返している。


自分の中を見始めると、心は、今ここにないものに奪われ続けているのに気がつく。

わたしは今、八王子駅のホームに立って、中央線を待っている。ただそれだけなのに。

心は何か問題をみつけだして来る。
今ここに何も問題がないと、どこかからわざわざ探し出して来る。
高尾行きの電車はもう間もなく来る。そこに何も問題はない。心は、額を選んだことに問題点を見つけてきたのだ。

わたしは、この心の中で、えんえんと会話する二人に、何の解決策もないことを見出す。


思考観察をしていると、思考が何の解決法も見出せないことを知りはじめた。思考が思いつく解決法は、たいてい消極的で、自分を小さくまとめる、つまらない解決策だ。ああなったら困るから、こうしておこう的な、どこかで聞いたことのある解決策。


電車がホームに入ってきた。
おじさん二人にはさまれて座る。

わたしの中で聞こえる会話に乗っからず、ただじっと感情の中に座る。
まちがった額を選んでしまったかも知れないと、怖がっている感情の中に。

恐怖をかき消そうとせず、
恐怖に抵抗せず、
その恐怖の中に、
ただじっとしている。

高尾のホームを歩きながら、さっきまでの恐怖が消えているのに気がついた。



私たちは、感情的ななにかを見つけたり、肉体的ななにかの変化を見つけると、
直ぐさま反応をし、「なにかをしよう」とする。
いわば混乱した状態で、なにかをしようとしているのだ。それは混乱をより大きくするだけなのだ。

何もしないというのは、逆に怖いことなのだろう。
それはなにかをすることによって、何かしらの解決が待っているから大丈夫だ、という安心があるように見えるから。


でも。

じっとしていることは、自分を強くする。
ぐちゃぐちゃになる自分の心をシンプルにする。
フクザツに絡まり合った心の紐をほどいていく。



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