2015年12月26日土曜日

受け取られない荷物



感情はエネルギーだ。
人は感情に、これはいい感情、これは悪い感情、と言うふうにわけた。

「きゃ~楽しい~~」や「ああ、すてき。。」などの感情は、ええなあ~って受け取るけど、
「はらたつ~~」とか「こわい~~」とかの感情は、「こんな感情を出してはいけない」といって、受け取らない。
自分で出しておいて、受け取るエネルギーと受け取らないエネルギーとにわけてしまったのだ。

これは荷物を自分で自分あてに送っておいて、「楽しい荷物」は受け取るけど、「腹立つ荷物」は受け取らないよーなもんだ。

かくして宅急便屋さんは、受け取ってもらえないもんだから、言ったん集荷場に荷物を持っていっては、またあらたに「お届けもので~~す」とやって来る。

いろんなシチュエーションを作って、その荷物が受け取られるまで、えんえんとやって来るのだ。

2015年12月22日火曜日

かなづちくんのお仕事



自分の中に秘密がある。
古代ギリシャのデルフォイの神殿に刻まれていることば「汝自身を知れ」は、そのことを伝えているように思う。

この世の苦しさは、じつは自分の中から生み出されている。
わしらは外の出来事に眼を奪われ、その外の現象を変えようと必死だ。だけどそんなものは何一つ変わらない。変わったとしても、すぐまた同じような現象がやって来る。いったいこれはなんだ?

その元になるのが、自分の心の中にあるものだからだ。
現象は、自分が信じているものがあらわれている。ただそれだけなのだ。

わしは自分の中を見続けるうち、
1:ひょっとしたら、、、と、うすうす感じていたものが、
2:えーー?やっぱり、そう、なのかな。。。
3:ゲ!マジでえ?

とゆーところにいる(どんなところや!)。

内面を見つめるといっても、とても漠然としているし、だいいち、一番やっかいなのが、自我。こいつはたくみに考えをあやつってくる。

「そんな考え、聞いたことないぞ」
「ほらほら、そんなことやってたら、みんなにきらわれるぞ」
「あかんあかん。それ、自分で自分の首しめるだけや」
「非常識にもほどがある」

自我がなんでここまで抵抗するかというと、それが仕事だから。正確に言うとそれが自分の仕事だと思っているから。

自我は、最初この肉体を守る道具としてつけられたオプションのようだ。肉体が崖から飛び出さないように、極端に酷使して、破壊しないように、そんなことのためにつけられたもののようだった。しかしいつのまにか、自我が主導権をにぎってしまった。道具が主導権をにぎったのだ。

わしらはその道具に向かって、「私の人生はどうしたらいい?」「この場合はどうするの?」と聞いているのだ。
それは、かなづちに向かって、自分の人生の答えを教えてもらおうとしているようなもんだ。

かなづちくんは、よろこんで教えてくれるだろう。
「ふんふん。それはね。こーしなさい。あーしなさい。」と。
しかしその内容はいつだって、どこかで聞いたことのある、ひじょーに常識的な言葉だ。

「あー、それね。それをすると、きっと痛い目にあうから、まず、自分を守って小さくして、ガードを固くして、それにのぞみなさい。ああ、それでもその途中で危ない目にあうから、石橋をたたいてたたいてたたいて、渡りなさい。でも、やっぱりそれも危ないから、やめときなさい。」
と、ゆーだろう。

そのかなづちくんの言葉は、説得力がある。そりゃそーだ。世間で言われていることそのものなのだもの。まちがってもオリジナルな考えではない。
ついでにゆーと、かなづちくんには、何も出来ない。ただ聞きかじったことをしゃべるだけである。しゃべる言葉をうのみにするわしらがいる。そしてその言葉に右往左往させられているだけなのだ。

ところが、わしらは、自分の中から出てきた言葉は、自分のものだと思って疑わない。ましてや、自分の中から出てきたものだもの、自分の味方であるはずだと。自分を助けるために、沸いて来る言葉は絶対的なのだ。

ほんとにそお?

わしら、その自分から出て来る言葉にこそ、ふるまわされてるんじゃない?
その言葉をまにうけて、不幸を感じたりしてるんじゃないの?
その言葉があるからこそ、苦しんでいるんじゃないの?

あったかい部屋で、コーヒーを飲んでくつろいでいても、未来の不安や、やっかいなあいつのことで頭がいっぱいになってイヤな気分になってない?
目の前にあるあったかで心地よいものを感じないで、頭の中だけで不幸を感じる。
かなづちくんは、そんなお仕事をやってくれているのだ。

実にありがたい存在だ。
いやみではない。
だって、それって、リアルドラマじゃん。
ジェットコースターに乗って、キャーとか、わーとかいっている、まさにそれを味わわさせてくれる、お楽しみな道具に変身してくれたのだ。

わしは先日びっくりしたんや。
え~~~~っ、これってほんとはおもしろがってんじゃん!って。

なんか話がドンドンヘチの方へずれていったなあ~。まあえいか。

結局、自作自演やっとるんやなて、実感したんよ。あほかいなーーーーーっ!って。
恐怖ってどんなん?
不安ってどんなかんじ?
嫉妬ってどんなの?
怒りってどんなふうに感じるもんなの?へえ~、からだにくるんや!
とかね。
リアルに感じる。
そしてネガティブなものほど、めっちゃ、リアルに感じるんや!

その時、自分が、ぎゅっと凝縮するのを感じる。カチカチに固まるのを感じる。そこにはっきりと、自分と他人と言う分裂が起こるのを感じる!
超物質の世界に入るのを感じる!
めっちゃリアルや~~~。

反対にポジティブは、ゆるくなる。
しあわせ~。は~、とけていく~。
ついでに他人も自分もいっしょくた~~~~。
ってならん?
どっちかとゆーと、漠然とする。リアル感がないw。

そうやねん。
ポジティブもネガティブもどっちもいいわるいじゃない。
その両方を味わいにここにいる。自作自演を楽しみにここにいる。

自分で自分に不安や恐怖を味わわさせてくれるかなづちくんに、感謝状をだす。

今まで楽しませてくれてありがとう!愛してるよ。


絵:「小石の遊び」素材/和紙、洋紙、その他


2015年12月13日日曜日

気がつけば、コゲラ側に立っていた



「ギーッ、ギーッ」
聞き慣れた声が庭にやって来た。あの声を聞くと、反射的にある出来事を思いだす。

5、6年前、ウチの庭の梅の木に、小さな丸い穴をあけてコゲラが巣を作った。それほど大きくもない梅の木に、穴をあけられて、私はそのせいで木が倒れるんじゃないかとはらはらしたものだ。
だが毎日巣穴に出たり入ったりしているコゲラの行動に見入ってしまい、いつかあの穴から出てくるであろうヒナたちの姿を想像しては楽しんだ。

巣作りもいつのまにか終わって、子育ての時期に入ったらしい。コゲラがじっと巣にこもったり、穴から顔だけ出してお日様に当たる姿がほほえましかった。やがて、きいきいとかすかな声が聞こえはじめた。コゲラのヒナの声だ。親コゲラは、いつにもよりひんぱんに巣出入りする。ヒナたちのエサの調達に忙しいようだった。

ある日の事、いつもの梅の木に違う風景が目に入った。それは梅の木にまとわりついたもう一本の白っぽい枝だった。よく見れば、その枝は巣穴からあらわれている。
いや。巣穴からあらわれているのではなく、巣穴に頭をつっこんだヘビの姿だった。

私は全身が凍りついた。あわててダンナを呼ぶ。
早く!早くあのヘビを巣穴から引っ張り出して!

体長70センチ以上はある大きなヘビをダンナはぐっとつかんで持ち上げた。その瞬間、ずるずるっとヘビは彼の手からはなれ、あっというまに、その全身を穴の中につっこんだ。
「え?」
ダンナと私は、あっけにとられた。あの小さな巣穴に、ヘビは全身をねじ込んだのだ。

「ギーーッ、ギーーーーーーッ、ギーーーーーーーッ!」

親コゲラは、それからずっと梅の木のまわりで旋回しながらはげしく鳴き続けた。



今聞こえるコゲラの声は、そのときのものではない。けれどもその時の私の感情が自動的に呼び起こされる。ヘビがヒナをすべて食べつくしているそのあいだ、自分は何も出来ず、ただ鳴き続けるしかない親コゲラのかなしみ。いつのまにか自分の姿を重ねていたのかも知れない。

自然界は人間の視点から見ると、時に残酷に映る。
だがそれはコゲラ側の視点だ。ヘビにとってはエサを食べていたら、いきなり自分の体をだれかにつかまれたのだ。反射的に身を守って当然だ。ヘビにしたら食事中にいい迷惑だったのだ。私の視点はいつのまにか、コゲラ側の視点に立っていたのだ。

人間はいつもどこかの位置に立って、物事を判断する。それに一喜一憂するものだ。それがあるからこそ、物語が出来、共感し、心を震わせる。

だがもうひとつ別の視点に立つ。それはどちらにも立たないと言う視点。
そこからは全く別の世界が見えて来る。

あれからコゲラの巣穴はだんだん小さくなっていった。まるで過去の出来事がなかったかのように。自然界はいつまでもそこにとどまろうとする人間の心を置き去りに、ひたひたと変化を続けていく。


写真は梅の木の根元。真ん中あたりに小さな穴が見える。




2015年12月1日火曜日

嵯峨美ビジュアルデザイン9期展


写真提供/前野節氏

先日、嵯峨美ビジュアルデザインのクラスメートたちと、大阪で卒業後初めてグループ展を開いた。

わしは東京なので作品のデータを、指先ひとつでポンと送り、向こうで出力してもらい、展示までしてもらうという、おんぶにだっこな参加だった。
勝手な参加者であるにもかかわらず、文句もいわず(ホントは言ってたかも知れんが)忙しく動いてくれたみんなに、感謝申し上げる。

LINE仲間が現地で写真や動画で実況中継をしてくれ、そこで何が起っているのかが手に取るよーにわかり、なんだか自分もそこに参加しているよーな、とーーっても楽しい展覧会であった。
おもしろい時代じゃのう~。

わしは今回、一点この展覧会のための制作させてもらった。
タイトルは「木神」と書いて、「きしん」と読ませた。

5月の展覧会以降、植物と人間が合体したようなものを制作している。10年間紙を使った制作をやめていたが、ふたたび紙を使うことによって、臨場感を立体性を感じる作品にした。

今回のグループ展では、データ作品を選んだ。どうせなら、ドドーンとでかくしたいとおもい、けっこう力を入れてつくった。

だがしかし、実際足を運んでいないので、どういう状況、どういう反応があるのかサッパリわからない。そんな中、友人が一枚の写真を送ってくれた。

同期のなつかしい友だちが、わしの作品の前でたたずんでいる写真。
この写真に、胸がぐっとあつくなったのだ。
彼女はじっと見てくれたのか、それとも一瞬見て通り過ぎたのか、それはわからない。でもわしの絵に対峙している瞬間をとらえている気がした。

その瞬間を見るために、作家は作品を外に向かって作っているのかも知れない。
それは、その作品をつくった作家との対話ではなく、一人の作家から出てきた、一個の独立した存在との対話を見る瞬間。。。




依頼仕事からはなれた、自分の内面から出て来る作品は、何一ついいわけが出来ない。恐ろしい反面、挑戦でもある。


絵:「木神/きしん」