2015年6月30日火曜日

ラインスタンプ販売開始!ura kappa ちゃん!




おしらせ~。
ついにやまんばのラインスタンプが、販売開始になりましたあ!!
いやあ、道のり長かったっす。

このキャラの設定は、ちょっとひねくれた現代っ子のカッパです。
だからタイトルは「裏カッパ」。

カッパってさあ、どっか得体が知れないよね。
しりこだまぬかれるよーにおそろしかったりするかとおもえば、妙にお人好しだったり。アホだったり。そーゆーところに惹かれるんだな。

作りながら気がついたのは、「あ、これ、わしや」って(笑)。喜怒哀楽が激しくって。
そんなことに共感してもらえればうれしいな。

もし良かったら、ご購入ください!
そして作った本人も意図しなかったよーな、使い方を教えてください~。



2015年6月28日日曜日

自分の知らない過去に会う



「つくし先輩は忘れもしない、寮の台所でゴキブリを素手でつかんで、この光沢がうつくしいって言ってました」
ラインで聞くしょーげきてきな過去の私。。。

知らんがな、知らんがな。そんなことしてたん??素手で?げげげー。
今はゴキちゃん見つけるとキャーキャー言ってるのに。

前にも言われたことがある。
修学旅行で生まれてはじめて富士山を見た時、富士山に向かって、「ほれたー!」と叫んでいたらしい。それを横で聴いていた友だちが30年ぶりに教えてくれた。
本人まったく覚えていない。どーも人は過去をテキトーに覚えていたり、抹殺したりしているよーだ。

もしゴキブリを素手でつかんでほれぼれしたり、富士山に向かって愛を告白したりするヤツがいたら、やまんばにはほれてまうくらい魅力的に見える。

しかしその当の本人は、そんなステキな感覚をちっとも覚えていず、むしろ、「あんなことヤッちまった。こんなことヤッちまった」ってことばかりを覚えているのだ。



記憶がその人を作っている。
自分で記憶したもので固めて、自分というものはこーゆーニンゲンなのだと決めているもんだ。だがその記憶の選択が、大らかでステキなことではなく、失敗したことや後悔したことや怒られたことや自己憐憫や自己嫌悪したことばかりをピックアップしているとしたら、なんてことだろう。

いや、むしろ人はそれの方が多い。一度だけ怒られたことを後生大事に持って生きる。

母の例がそうだ。
母は、一度だけ「歩くのが遅い」と言われただけで、その後の人生をそれに捧げた。
「あたしは歩くのが遅い。だから速く歩かなければいけないんだ」
と、それを乗り越えようと必死になり続けた結果、歩けなくなった。

だがその彼女の歩き方は、「優雅ね」「素敵」と言われたことの方がはるかに多い。
一度だけ指摘されたことを70年近く持ち続け、100回以上言われた褒め言葉をあっさりと捨てていく。

どれを選択するかで、その人の人生が大きく変わっていく。

もうそろそろやまんばは、自分にある「ねがちぶなモノ」を選択するのをやめよう。素手でゴキブリをつかんでほれぼれしてた私をチョイスしよう。


2015年6月27日土曜日

ラインを始めた




最近、ラインっちゅーもんをはじめた。
やまんばはどっちかっちゅーと、硬派なので(自分で思ってるだけやろ)、そんなちゃらいもんなどにうつつをぬかしているばやいではない!と、ラインやっている友だちをシラケてみていたのに、どーゆーこっちゃ!しっかりはまっとるやないかい。

実は友だちにそそのかされて、ノリでラインスタンプのキャラクターを作り出しちゃったんだ。キャラが色んなことしてうごきまわっているやつ。40個もあるし、そりゃーもーたいへーん。でも作ってるうちに、ひとつの人格ができあがってきて、勝手に「あいつがあんなときはどーなる?」なんて物語を設定してキャラを動かしてみるんだ。ここんところブログにアップしている変なカッパがそれ。

やっと40個作ったはいいが、どーやって審査までこぎ着けるかで、悪戦苦闘。作ったあとで知る。ラインに登録しないと、キャラ応募に参加できない!え~~っ、スマホもってないのに。んで、うんうんいいながらガラケーで登録、パソコンで晴れてラインを始められた!
やまんばが作ったラインスタンプキャラは審査待ち。はてさて、どーなることやら。

ンで、ライン。
大学時代の8人ほどの同級生のグループに混ぜてもらった。
最初ノリがつかめない。言葉書いてるうちに、ドンドン他から言葉が入ってくる。追いつけない。そーかと思うと、ぴたっと会話が止まる。

なんか、ラインって、みんなが共通の丸いテーブルを囲んでしゃべってるみたい。いつもそこには丸いテーブルがあって、だーれもいないときもあれば、2、3人でそこでお話しするときもあるし、そこへぽつぽつ人が集まって来て、いつの間にやら全員が集まってわいわいしゃべっている。そして一人減ったり、また帰って来たりするふしぎな空間だ。でもあとから加わってきても、いないあいだに交わされてた会話は、ちゃんと読める。

やまんばがいるグループは、全国に散らばってる色んな人々。
中には丸いテーブルを囲みながら「今ベニスに向かう電車の中」とかいう。仕事でイタリアに行ってる友だちだ。まもなくしてサンマルコ広場の写真が送られてくる。
そのうちその丸いテーブルには「今、月に向かう電車の中」とか行って来るヤツも出て来るかも。

時代に乗ってみるのもおもろいもんだな。


絵:元気!/小仏川かっぱ


2015年6月21日日曜日

搾取のばあさん



やまん~ばは、草を刈る~、
へいへいほー、へいへいほー。

さくしゅのばあ~さんだよ~、
へいへいほー。へいへいほー。


「あっ、ごめん!刈っちゃった!」
と、やまんばは草を刈るつもりで、手元が狂って刈ってしまったルッコラにあやまる。ルッコラにはあやまるくせに、オオイヌノフグリにはあやまらない。

3本芽がでたキュウリの苗には、
「ごめん!」
と、1本のこして他を刈るくせに、メヒシバには、「ごめん」の一言もなく、容赦なくメッタ切りだ。
これって、どーよ。不平等きわまりないではないか。

結局自分の好きな物だけをチョイスして、それだけ育って欲しいということだな。その草たちのお陰で、野菜も育ってくれているというのに。


近くに草がひとつもないきれいな畑と、そのすぐ隣に草が生えた畑がある。ここんところの雨で、草のない畑の方には水たまりがたくさんできていた。一方草だらけの畑は、まったく水たまりがない。あきらかに水は大地にしみ込んでいた。
これは草がその根っこを地面に複雑に降ろすことによって、土の中に空気の穴がたくさんできたためだ。そしてその根っこのお陰で土が耕される。
やまんばの畑も耕さないでもホクホクしているのはそのため。

そんな草さんの働きによって豊かになっているにもかかわらず、メッタ切りの嵐!搾取の嵐!
そんな搾取主義の自分をじっとみる。
草さんに何のお返しもできない自分をじっとみる。
ただ「ありがとう」と言うことしかできない自分をじっとみる。



2015年6月20日土曜日

「つかれた〜」が疲れを強調する




「あ~、つかれたあ~」

駅から家までとぼとぼ歩く。
25分の道のりは長い。身体がだんだん重くなってくる。

まてよ。身体ってどう疲れてる?と、自分の身体のどこがどう疲れているかを歩きながら調べてみる。自分の身体を感じてみる。

肩かな?とさぐってみると、そーでもない。腰?とさぐってみると、まあ、左のほーが何となく。でもさっきは、体全体が重苦しいよーな感じだったのに、いざしらべてみると、具体的なものが見当たらない。しいて言えば、左側のウエストの筋肉が痛いかな~ってぐらいだ。でもそれがさっきの「疲れた」きもちとはつながっていない。

じゃあ、どう疲れているんだろ?なんだかばくぜんとしている。
ためしに「疲れた」と心で言ってみる。がくっと身体が重くなる。
ふとニューヨークでよく使ってた言葉「エグゾーステッド/exhausted」と言ってみる。ちっとも身体が重くならない。なんか自分で演技している感じがする。
なんだこりゃ?

身体の具体的ななにかで疲れていると思ってたのに、いざそれを調べてみると、どこにも具体的じゃない。そして調べているあいだ、なぜか身体は疲れていない。
だけど心で「疲れている」といえば、がくっとくるのだ。
言葉が影響しているとしか思えなくなってくる。

直接の体験だけにとどまっていると、そこに不快感がないのだ。だけどひとたびそれを言葉に置き換えると、とつぜんその不快感が形になって現れてくる。
同じ言葉でも私にとっての英語は、単なる記号だけでしかないのかもしれない。でも「疲れる」という日本語は、長年使い続けたことによる私の心と身体にしみ込んだ、なにかなんだろう。

今を生きるとか今こことかいうのは、きっと今、この瞬間にある私自身が体験しているものだけを味わうことを指しているんじゃないだろうか。それを言葉に置き換えた瞬間、その言葉に付随するありとあらゆる記憶がごちゃまぜになったものを引き寄せてしまう。だからもっと疲れさせてしまうんじゃないだろうか。

だからほら、この「疲れ」についてこの文章を書いている今も、なんだか身体がだる~いもの(笑)。


絵:「小仏川カッパ/つかれたー」

2015年6月19日金曜日

あたまおかしくなったんかな?



やまんばは、自分の欠点とか問題点ばっかり見てきたなあ~とおもう。

その欠点を克服できたら、もっとお金が入るし、もっと仕事が増えるし、もっと立派になれると信じて、ずっとがんばっちゃってきたんだ。

じっとしてても、自分の問題点を探すことをやり続けていたし、仕事をしている最中でもあそこが問題だ、ここが欠点だと、ものすごい量の言葉と思いでいっぱいになっていたんだ。

そんな自分に気がついた時、すごく愕然としたんだ。
「こっ、、これはなんなんだ!」

あたまとゆーか、からだとゆーか、どこからあふれて来るのかわからないけれど、全身から問題点探しと、罵倒の嵐で押しつぶされそーになってたんだ。

よくその言葉を聞いていると、何人かが言い争っている。まるで井戸端でおばちゃんたちが、
「この問題児をなんとかせんといかん。そのためにはまずこいつの欠点を洗いざらい引き出してきてだなあ。。」
「いやいや、そんなもんじゃ手ぬるい。こいつにゃ、どばっときつい一発をお見舞いしてやらんと、気がつきゃしないのさ」
と、ひたすら人のことつかまえて、いいたいほーだいだったのさ。

最初はね、ほとんど気がつかなかったんだ。
あ~あたし、罪悪感と自己嫌悪、つよいほーかもしれん。。ぐらいだった。
ところが、その罪悪感に気がつきはじめると、だんだんと順序立てて、芋づる式に、ドンドン出てきたんだ。

あの、ほら、例えて言えば、「千と千尋の神隠し」の千が、お風呂でヘドロみたいな神様に突き刺さってた金属みたいなヤツを引っこ抜いたら、どどどどどどおおお~~~~って、とんでもない量の、とんでもないもんがでてきちゃったでしょ?あんなかんじ。

あ、ぜ、ん。
どんだけ罪の意識もってたんだあああーーっ!って。

んでね、こりゃ、いかん。手に負えん。どーすりゃいいのさーっ!って、バタバタしたわけ。
何気ない行為ひとつにも、罪悪感や自己嫌悪が怒濤の嵐。
朝、目が覚めた瞬間から、
「私何かまちがったことしてなかった?」とか
「ああ、あんなことしてしまった。。。」とか
「かあちゃんに悪い事している。」
とかの言葉で始まるの。

止めようとするでしょ?止まんないんだな、これが。
逆にでかくなる。
もう七転八倒なわけ。
探したわよ、あらゆる方法、あらゆる本、あらゆる教え。

んでね、いわゆる賢者さんたちの言うこと、み〜んなバラバラなんだけど、なんか共通のことがあったのさ。
たとえば、あるがまま。
たとえば、手放し。
たとえば、赦し。
たとえば、あきらめ。
なんかが共通してない?なんつーか、無抵抗感つーか。


言葉ってさあ、あたりまえだけど言うことできるから、かんちがいしちゃうのよね。その言葉をしゃべったら、さもそれができているかのよーに(笑)。
「あたし、あるがままだから」とか、
「あたし、もうあきらめたわ」なんて。
これ、実際は言葉でしゃべってるだけだったりする。言うだけは簡単。案外そうやっちゃってるだけなのよねん。

だけど、ほんとにあるがままとか手放しができたら、これすごいことなのさ。
そう、自分でそれを実行する。
どうやって?
抵抗するのをやめる。

罪悪感の言葉に乗っからない。自己嫌悪の言葉に乗っからない。
無抵抗になる。
井戸端会議のおばさんたちの声が聞こえたら、
「あーほれほれ」と、ほっておくんだ。
すると、風が吹いてどっかに行くよーに、フェードアウトするんだな。

たとえば、「私なにやってんだろう。。」
という言葉が聞こえたら、
「ああ、まただ、、また言ってる。。」
とつぶやいたとすると、その声に抵抗している。

その抵抗ではなく、
「おお?自我がしゃべってるぞお。なになに?」
と、興味を持って見つめてみる。

たとえば、怖いと思ったら、その怖さに抵抗する自分に気がつく。
私たちは無意識に、いい悪いと判断をする。怖がることはいけないことだと判断をする。その判断によって、怖がる自分に抵抗しているのだ。

どうも、それじゃちっともらちがあかないんだな。
怖がったら、怖がっている自分をみつめる。直視する。味わう。

すべては抵抗せず、味わうことのようなのだ。
やまんばは自分自身に抵抗していたのさ。問題だ欠点だらけだって。
そしてその問題だという言葉にさえも、抵抗していたんだ。(ややこしいやろ?)

だから無抵抗。
どんなふうにあたまの中で言葉が出てきても、そのままにしておくことをはじめたわけさ。ほお。そーか。それで?って。
心の中に浮かぶ言葉は自分の声だと思っていた。自分のアイディアだと思っていた。
ひょっとしたら、それはなんでもないそこらの風かもしれない。

そしてその風に、わしらはとんでもなくふりまわされてきたんだ。
それに乗っかって、抵抗して、暴れて、苦しんで、悲しんで。。。。

なんとなく、無抵抗に日々を味わっていると、なんか穏やかにすべてが過ぎていくんだ。
平らになるっちゅーか、自分という感覚が消えていくとゆーか。。。
すると道を歩くときのまわりの風景が変わって見えるんだ。草がうつくしいコラボをしていたり、道に落ちているゴミがうつくしく見えたり、風の中に甘い香りがしたり、お尻にくっついてるソファがくすぐったくておもしろかったり。
生きてるなあ~って、おもしろいなあ~って。
問題ってあったっけ?なあんて。
そんなかんじです。
あたま、おかしくなったんかな?


2015年6月15日月曜日

苦しさを味わっちゃいけないのかい?





苦しいことが起こると、それを変えようとする。
いやなことがあると、それを変えようとする。
イヤな人がいると、さけようとする。

人はなにかを変えたりすれば、しあわせになるとおもっている。
だがたとえ変更に成功してしあわせになっても、つかのまでしかない。やがてまた気に入らないことが現れはじめる。

この習慣は、小さいときから「いけないことは正すべきこと」とおそわってきたからだ。
このいけないことは正すというアイディアが、人の心をどれだけ苦しくさせているのかを考えてみる必要があるとやまんばはおもう。

わしらはほとんど無意識に、なにが正しくて、なにがまちがっているかを考え続けている。
まちがっているなら、どう正すかをひたすら考えている。
自分で自分を正したり、他人を裁いて正そうとしたり。

だが自分は変えられても、人は変えられないという葛藤が現れ、それに苦しむ。
ああ、これは他人を変えようとするのがいけないのだとおもい、そういう自分をまた正そうとする。しかしつい習慣で人を裁いている自分を発見し、ああ、まだまだだ。。。などとまた自分を裁く。
そういうことをあたまの中で、えんえんとやっている。

どーも人は、「これがいけない」とおもえばおもうほど、そっちにひっぱられて、その「いけない」事は巨大化していくよーだ。
飲んじゃいけない、と思えば思うほど、飲みたくなるし、仕事さぼっちゃいけないと思えば思うほど、さぼりたくなる。これ、やらなきゃ、と思えば思うほど、やりたくなくなる。

その思考のクセとゆーか、システムとゆーか、からくりのよーなもんを、わしらは誰にも教わって来んかった。
やるなといわれれば、やりたくなり。
やれといわれれば、やりたくなくなる。

なのに、それをムリヤリ変えようとする。正そうとする。

そもそも苦しい事は変えなきゃいけないのか?
変えようとするから苦しいんじゃないのか?


苦しさを味わっちゃいけないのかい?
その苦しさの中にいてもいいんじゃないかい?
自分に正直に、「私は今苦しんでいるんだ」と感じてみたらどうだろうか。
全身脱力で、苦しさのお風呂につかるのだ。
だれかを責めることをやめて、ただ苦しさだけを全身で味わう。
苦しさは、その人が越えていくヒントが必ずひそんでいる。

人なんかどうでもいいんだ。
人を変えたらしあわせになるなんて、うそっぱちだ。
自分がなにかを抱えて離さないから、それを教えてくれるために他人がいる。
その他人を通して自分のなかにあるなにかを見せてくれているようなのだ。

一体そんなことを誰がやっているんだろう?だけどそれは宇宙の恩寵のように思えてくる。

そのなにかを知るためには、自分の感情に正直になる事だ。ネガティブな感情を持っている自分を見つける。そしてそれを味わう。
その先には、あなたがこれまで知らなかった自分を発見するだろう。
今までにない感覚や、気づきがあるだろう。
その連続をするうちに、何かが自然に変わっていく。ほどけていく。これまで苦しく思っていた事が、なんでもなくなってくる。

するときっとおもしろくなってくるはずだ。自分の中にはまったく知らない自分がいる。

いや、じつはちいさいとき、ずっと知っていた自分だ。
大人になるために、いったん忘れてきた自分だ。
ほんとは、息するよりも近いところにいる自分だ。

世間の常識とか、価値観とか、そんなものに捕らえられて小さくなっていない、オリジナルのパワフルな自分。自分と呼べないような存在。。。



絵:小仏川カッパ/もう、ムリ。




2015年6月10日水曜日

自由意志がないって、なんて気楽なんだ



起こることが起こっている。
最近やまんばはつくづくそーおもう。

わしらは「自分でなんかをやっている!」と思っているが、ほんとは勝手に起こることが起こっているだけなのを「わしが決めたんじゃ!」と言い張っているだけだ。

脳科学者のあいだでは、「人間には自由意志はない」というのがあたりまえなんだとさ。
これはなんでかっちゅーと、たとえば被験者が「右手を好きな時に上げてください」と言われたとする。
被験者は自分の好きな時に、ほいっと右手を上げる。本人は好きな時に上げたと思い込んでいるが、じじつは、本人が「よし、今右手を上げてやろう」とおもう0、5秒前に、脳が右手を上げる準備をし始めているのだ。
脳活動は自由意志に先行するんだとさ。これって自由意志じゃねーじゃん!(笑)


スピ系のあいだでも、自由意志がある。ほしいものは引き寄せられるのだという派と、自由意志などない。起こることが起こっているのだ派がある。

やまんばも自由意志はあって欲しいし、ほしいもんが引き寄せられたら、そりゃあいいに決まってる!っておもってたんだけど。
でもここにきて、やっぱ自由意志なんてないんじゃないか?っておもってきたんだ。


過去の出来事を振り返ってみると、あそこの仕事がほしい!ってどんなにがんばってもゲットできなかったのに、全然違うところから仕事がヒョイッと入ってくる。これ、引き寄せてない。

今のアメリカのレップと契約できたのも、今回はなかったことに、と電話を切られそーになった時に、ほいっとあるアートディレクターの名前を言ってから事が進んだのだ。
それを「私が引き寄せた」というのだろうか。じゃあなぜ、ほいっとその名前が浮かんだのか。これを自由意志というのだろうか。自由じゃないじゃん。浮かんでそれを言っただけだ。言う、言わないという選択があった?でも口は動いた。

いやそもそも他の選択はあったのか。他の可能性はあったのか。
他の選択をしたら、あーなってこーなって。。。これはたんなる妄想ではないか。

他の選択をした私がどこにいる?
見たんか?
二つ同時に体験したんか?

ただひとつの出来事しか体験していない。
起こっていることをただ体験しているだけだ。


わしらはいつもこれじゃないどれかを探す。
これがいつも気に入らない。
そしたらなんかやったら、これじゃないどれかになれるとおもってフントーする。努力する。けどその結果が、またこれになっている。そのこれが気に入らない。
そしてまたこれじゃない何かをさがしてフントーするのだ。

ずっとこれしか体験してないのに。目の前にあるものしか見てないのに。


だからやまんばはこの目の前にあるこれにくつろぐことにしたんだ。
そりゃ、やなことは起こるだろう。
だけどそれもまた起こっていること。それを体験するために生まれてきたんだ。
自由意志がないってなんて気楽なんだ。

自分がいけなかったからこうなったんだって思い続けてもただ苦しいだけだった。
それは苦しがりたい自我のよろこびでしかなかったようだ。

この本、おもしろかったよ。すごくシンプルで、深い。
自我に苦しめられて、そこからぬけようと長年もがいてきた人にはお勧めかもしれん。



2015年6月9日火曜日

「およ?そこにくるん?」






畑のソラマメのさやが真っ黒になってきた。さやの中の種が熟そうとしているようだ。ふしぎなことに、そうなりはじめると、苗は自ら葉っぱを落としはじめる。最初それを見たやまんばは、
「あれ?虫に食われたんやろか」
といぶかしがった。しかしよくみると、自分でまだ青い葉っぱをぽろぽろ落としていた。養分を種の中にだけ集中させるためなのだろう。

まだ寒かった頃、レタスの苗を買って畑に降ろした。
一晩で霜にやられ、枯れてしまったが、暖かくなってから復活。青い葉っぱをつけはじめたが、一度霜にやられたからだろうか、もうとうがたち始め、花をつけようとしている。あとから買ったレタスの苗は、とうなどたっていない。
やはり最初の方は、霜で死を感じたのか、早々と子孫を残そうとしているようにみえる。

ウチの畑では、ウリ科の野菜がすぐウリハムシに食われる。コンパニオンプランツとしてネギといっしょに植えるのを聴いていたが、ちっとも効果がなかった。それで、買ってきたキュウリの苗をアサツキがわらわらはえている畝に強引につっこんだ。そしてこれでもかと言わんばかりにキュウリの苗のまわりに、刈ったアサツキをわんさか敷いた。
するとどうだ、ほぼ99%ウリハちゃんに攻撃されずに育っている。
わっはっは。
これからはカモネギならぬ、ウリネギコンビで行くか。



いろいろと忙しくて、あまり畑に行けない日々が続く。ある意味、今までよりも畑に対する力が抜けている。すると知らないあいだにすくすくと、しらっと育っている野菜たちがいた。

やはり「育つか、育たないか。どうなんだ?あん?」
と、ガン見しているよりも、
「およ?そこにいたん?」
ぐらいの気の抜きよう加減が、野菜たちの精神衛生上いいのかもしれん。

人生もそうなんだろうなあ。
「およ?そこにくるん?」
ぐらいの気楽さがいーのかもしれん。


絵:小仏川カッパ/今いそいでまス。



2015年6月8日月曜日

金縛りによる達成感(笑)



昨日の夜、金縛りにあった。ひさしぶりだ。

足首をだれかにつかまれて、持ち上げられていく。どんどんどんどん。あたまを下にして完全に宙ずりになった状態で、全身をものすごい力でしめつけられたまま、ぐるぐるまわされる。ほとんどエクソシストだ(笑)。

すごい恐怖心が襲ってくるが、さからわないようにしてなりゆきにまかせる。抵抗したってよけい苦しくなるだけなのを知っている。それが終わると、今度は口の中になにかが入ってくる。身体の中から引き裂かれるような恐怖におそわれるが、それにも抵抗しない。

叫び声やうめき声を上げる(実際声がでているのかどうかはわからないが)。しかし無抵抗のままそれが過ぎ去るのを待つ。拷問のような状態がひとつ終わってはまたひとつ。。。とえんえんと繰り返されていくあいだ、
「ちょっとまてよ?」
とおもった。
「これ、きりがないんじゃないの?」と。

やまんばはどこかで、ひとつひとつのハードルをクリアしていけば、やがてどこかに到達する。そしたら悟れるかも♡とか、そしたら一皮むけて新しい自分になれるかも♡と、期待している自分に気がついた。

達成感ってあるじゃん。
努力すれば報われるとか、きつい山を登れば、その先に新たな風景が待っているとか、苦あれば楽あり的な発想。

そんな発想から、金縛りを受け止めている自分がいた。これをガマンすれば、楽になれる。だからもっともっと、もっとすごい状態になったら、なにかちがうものになれる。。。と。

だが苦しさは、同じようにえんえんと続いただけだった。
そこに到達点などなかったのだ。


「あかん。これきりないわ。やーめた!」
と、全身をぶるぶるとふるった。
(自分でやめられるんかいっ)

それからのち、なにもおこらなかった。



2015年6月6日土曜日

お金って行動の原動力



車の中から人の往来をみる。横断歩道を大勢の人たちが足早に歩いている。

やまんばはぼんやりおもう。
ああ、みんなの原動力はお金なんだなあ。

会社に出勤する人、買い物をしに出かける人、銀行にお金を下ろしにいく人、お昼ご飯を食べに行く人、。。。み~んなお金が絡んでいる。

もしこの世にお金がなかったら、人々はここまで動き回るだろうか。
あれがほしい、これが作りたい、消費の欲求、創造の欲求。もしお金というものがなかったなら、ここまでほしい欲求も、あそこまで作りたい欲求もなかったのではないか。ランボルギーニもフェラーリも作られなかったのではないか。

物々交換であったなら、ランボルギーニを手に入れるには、そうとうのブツが必要になる。それを手に入れようなどと一般庶民が思っただろうか。
また物々交換だけなら、「よし!めっちゃ派手な車を作ってやろう!」なんて発想があっただろうか。

お金という何にでも使える代用品ができたからこそ、
「お金を貯めてランボルギーニ買うぞ!」となれるし、
「よっしゃ、人々をあっと言わせちゃうような車作るぞ!」
となったのではないか。

デパ地下のおいしいモノたちも、グッズのかわいいモノたちも、スペシャルなサービスも、みんなお金をゲットするために作るし、そしてまたお金を使うためにある。

お金ってなんとなく、お金の話をするとえげつない感じがするけど、でもそのお金のお陰でここまでおもしろい世界が広がったんだなあって、はじめておもったやまんばであった。

なんとなくお金が存在することのいい部分がちょろっと見えた気がしたんだ。
神様は粋なものをお作りになるなあ。


2015年6月5日金曜日

ひとりごと




わしらは自分に起こった出来事に対して、
「コレ、ヤダ」とおもうと、
「これをナントカ変えたい」と策を練る。
その理由は、策を練ったら、そのコレヤダが変わるんじゃないかと。

ンで、策をねってその出来事が変化したら、
「やった!変わった、変わった!」
とよろこぶ。
するとあたまは、
「わしが変えたんじゃ。わしの手柄じゃ!」
と信じ込む。

でも、ほんとに「変えた」んだろーか。

わしらは自分の選択次第によって、人生はいかようにもなる。だから選択は大事。その選択のために考えて考えて考えつくすのじゃ、とやってる。

でもさー。
起こっている出来事は、それしか起こってないじゃん。
他の選択によって、他の人生が起こったかどーかなんて、ほんとに知ってるの?
やまんばが、あのとき、あーやっていたら、こーなって、あーなって。。。。
などとゆーのは、単なる妄想じゃね?

なんで「なんとかしたい」と、おもったかとゆーと、
「なんとかできる」と信じているからなんじゃないか?
でも、わしらは、「起こったこと」しか知らないんだよ。

学校や親から、こう変えなさい、ああ変えなさい、といわれて、
「あ、そーか。変えられるんだ」
と信じたんだけど、ほんとに変わったの?
ただ起こることが起こっただけじゃね?

変えたかったのはなんで?
変わると思っちゃったのはなんで?
ほんとにそのおかげで「変わった」の?

わしらはただ、起こったできごとに、いちいちいちゃもんつけてるだけなのかもしれん。
ここじゃないどこかにいこうとしているだけなんかもしれん。

ここじゃないどこかって、どこ?