2014年10月24日金曜日

自分かわいいが自然なのだ。



やまんばはへんなことに気がついた。

人に攻撃されたと思うと、攻撃仕返すよね。
人に認められたいと思うから、仕事頑張っちゃったり、いいことしたりするよね。
人に尊敬されたい、憧れられたい、人を喜ばせたい、人からの攻撃から身を守りたいって思う理由ってなんだろう。

自分のこと考えてるんじゃないか?

ぜんぶ、自分のためにやっているんじゃないか?

するとね、こういうんだ。
「いやいや、それは自己チューだ」
「いやいや、それは自分勝手だ」
「いやいや、それは自分かわいさだ」
あってはいけないことのように打ち消す。

それは不自然なことなんだろうか。
私たちはその言葉がじゃまをして、自分を見ることを見失う。自分のためにやることなんていけないことだ。自分かわいさにやる人はもってのほかだと。
たしかにそれはある。しかし一部だ。そんな人を見たからそういうだけだ。


やまんばもそうだったけど、「私自分のことがきらいです」と言う人は、本当に自分がきらいなんだろうか。
きらいなら、人に攻撃されても反発しないんじゃないか?きらいなら、物質的にも精神的にも傷つけられることに抵抗しなくてもいいじゃないか。そのままやられっぱなしで、この世からいなくなればすむことじゃないか。

でもちがうよね。傷つけられたとおもうと、おもいっきり抵抗するよね。それって、自分を守っているんじゃないのか。
守る自分って何?
ほんとはすごく大事に思っているんじゃないか?自分のことを。
本当は自分が大大大好きなんじゃないか?


でも頭は「自己チュー」や「自分かわいさ」という卑下する言葉のために、愛してるなんて口が裂けてもいえないから、自分の悪いとこばっかり探して、自分のお尻叩いてるんじゃないか?もっと頑張れ、もっと働けってひたすらムチ打つ。
でもそれによってみんな心が病みはじめた。。。


やまんばはもうその世界の中にいるのはやめる。
そこにいても自分が小さくなっていくだけで、ほんとうの自分に出会えない。ほんとうの自分に出会うためには、まず自分を愛することからなのだ。だってそれが自然な姿だもん。

やまんばはきのう、自分で書くブログが、「私はひとかどの人間である!」と、主張したいために書いていることに気がついた。ひえ~、かっこわる~、はずかし~っ!と。

だがしかーし!それも受け入れるのである。
みっともない自分、カッコしいの自分、人にえらそーに言う自分、人に向かって言えずに、エアー演説する自分。それも自分だ。かわいーじゃないか。愛するのであーる。

とゆーことで、ブログは続くのであった。



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