2014年9月30日火曜日

前もって考えたってものにならん



やまんばはきほん、チョー忙しい時以外は夜は仕事をしない。
のんべして~、めしくって~、だらだらしてねる。

とゆーことは、夜は頭を使う必要がないってことだ。せいぜい晩飯の献立を考える程度の脳みそ活動でよい。

なのになぜか頭はフル回転だ。
自分の思考の内容をチェックしてみると、自分の未来の不安、仕事の不安、家族の不安、社会の問題点に文句を言う、畑になに植えようか、そんなところだ。

未来の不安は、漠然としている。仕事の不安だって、漠然としている。ましてや社会の問題点を、このやまんばがここでフンフン文句言ったところで、なーーーんにもうごかん。

ゆいいつ、考えてものになりそーなものは、畑になに植えようかぐらいだ。が、それだって、頭でいくら壮大な計画をたてようが、いざ畑に立つと、
「うん。やっぱ、これにしよう」
とかいって、たいていは夜通し立てた計画をいきなり却下する。

仕事だってそうだ。前もって考えたって、だめ。その場になって膨らむアイディアにまかせる。タマーに夜ふといいアイディアが浮かぶことがある。しかしそれは「考えた」のではなく、いきなり「浮かんだ」だけだ。

と、ゆーことは、前もって考えたよーにならないのが人生ってことだ。少なくともやまんばの人生において、太陽を53回転してきた時間において、計画通りに事が運んだ試しもなければ、計画通りにやった試しもない!!!

であるならば、なんで前もって考え抜こうとするのか。
不安なのだ。
なんかしてないと不安なのだ。手を動かすとか、することがあると、それで気がまぎれるが、ナーンにもすることがないと、手持ち無沙汰になって、いたたまれなくなって、やたらめったら考えはじめるのだ(笑)。
ほらほら、やまんばをわらっているそこのあなた。あなたも似たよーなことしてないか。

だいたいわしらは、ぼーっとしていることをきらう。
建設的でないとか、そんなことしてたらろくな人生にならんとか思っちゃって、少しでもマシなニンゲンになるために、考えをめぐらす。


どうも思考には二つの方向性があるように見える。

1つは、たとえば人と待ち合わせするのに必要なもののような、実質的な思考。
もう1つは、ふとあふれて来た問題定義のようなものに「あ~っ、この問題があった!」なんて言っちゃって自動的にのっかって、だらだらととめどもなく使う思考。

後者はきりがない。
わしらは考えたことによって答えが導き出されるという信念を持っている。だから出てきたものを「出て来たからにはこれを考え抜いて建設的にいこう」と集中するが、そんなもんにはたいしていい答えはでない。
思いかえしてみると、いい答えというものは、ほとんどがふと浮かぶ直感だ。
だから後者は労力のわりには実りがないと言うのがやまんばの経験。

そしてその後者の部類に思考は、たいてい怖れをきっかけとして、保守を選択する内容に行き着く。最終的には「おお、人生って恐ろしい。いっしゅん先は闇だ。」とかいって身震いするのがおちだ。
不安を感じるために思案に暮れるが、その結果は転ばぬ先の杖を導き出して、人生を狭い世界にもっていく。
少なくともやまんばの思考はこのようであった。

このパターンに気がつくと、それをやっている意味はあるのか?という疑問が出て来る。
ついでに不安から来る保守的対応のエネルギーは、それを考えている間、増えていくというよりもかなり消耗されるのがわかってくる。
心配してぞくぞくしてエネルギーを使い、何か手だてはないかとアレコレ考えることでもっと消耗する。そういう考えは短時間で終わるわけがなく、きりがないほど延々と続く。その消耗たるやどんだけなのだろう。

やまんばはそういう消耗がなんだかばかばかしくなった。そんなところにエネルギーを注ぎ続けているのがもったいなくなった。建設的に考えているつもりだったことが、まるで建設的じゃなかった。
恐怖から導き出される考えは、結局混乱しか生まないのではないか。

自分を狭くさせていく思考パターンに気がつきはじめた。
ふとやってくる問題定義に「ああ、また来たな」ぐらいの対応になった。

すると植木等じゃないけれど、
「およびでない?およびでないね。
こりゃまた失礼いたしました!」
と、問題定義思考が消えていくのを見た。



2014年9月29日月曜日

怒る自分を愛す



味わうってことなんだ。
味わうんだよ。なんでも。
楽しいことは味わえるけど、悲しいことは味わいたくない。
笑えることは味わえるけど、ハラが立つことは味わえない。
ワクワクすることは味わえるけど、怖いのはやだ。

感情はエネルギーがあふれでるもの。
その感情は、味わって食べる。
これはどうやら、わしらがこの世界に生まれてきたことの『義務』であるようだ。

わしらはその感情を2種類に分ける。
いい感情、悪い感情。
ポジティブ、ネガティブ。

んで、ポジティブやいい感情は、よろこんで受け取って味わう。

ところが、ネガティブや悪い感情の方は邪険に扱う。
なきものにしたり、見なかったことにしたり、押し入れの中にしまい込んだりして、そのうち消えてなくなってくれるのを待っている。

けどいったん出た感情は、味わうまでそこにいつづけるんだ。
「味わってよお~、ねえ、味わって。おねがい」って。
だからことあるごとに、ハラが立つことがあらわれてきて、いつも似たようなパターンの場面で怒るんだ。

だから「ん、もう。また怒ってるあたし。」
って気がついたら、
「もうこのパターンで怒るの飽きたなあ」
って思うとすると、
「では、ひとつ、味わってみるとしますか」
と、このさい、腹を据えて味わってみるのだ。

これは、ハラが立つこのあたしを受け入れている。
フツーは、無意識に、
「怒ってはいけない。この社会でのルールは、怒ってはいけないのだ。だからこの怒りは納めねばならない」と信じているので、怒る自分に抵抗している。怒る自分をきらっている。
これが自己を嫌悪する一場面である。

この呪縛をとく。

怒ることは自然な行為だ。きっとあなたが生まれてきてから教えられた倫理観や生き方によって培ってきた美学によってもたらされる怒りだ。その生き方の中では、トーゼン怒ることなのだ。だからその感情は自然なのだ。それをまず理解する。自分が怒ることを自分で理解する。

そして頭の中が怒っている相手のことを云々言う言葉はムシする。
なぜかと言うと、またその言葉に乗っかって、いつもの怒りを抑える方向にむかってしまうからだ。

言葉ではなく、その怒りを全身で味わう。感じる。観察を始める。
感情はエネルギーだ。エネルギーは物質に近いから、カラダで感じているはずだ。
そこではじめて言葉を使う。実況中継する。

どこが熱い?どこがびりびりする?おお、ハラが煮えくり返りそうになるか。すごいぞ。いけいけ。その煮えくり感はどんな感じ?もつ煮込み風?火傷しそう?
そのうちそのエネルギーは移動をする。一カ所に留まっていないものだ。それを追いかける。手に行ったり、足に行ったり。それを味わう。

きっとそのうち怒りはどこかに消えている。
「あれっ?」ってぐらいあっさりと。

「いやいや、あたしはさっきまで煮えくり返りそーなくらい怒ってたはずだ」というだろう。でもちっとも同じ感情にはならない。盛り上がれない。
となれば、その怒りはもう味わい尽くされたのだ。これにて一件落着。

するとそれ以降、同じことでハラが立たなくなる。もし同じことでハラが立っても、きっと今までとはちがう箇所に怒っているはずだ。
とすれば、またお楽しみターイム!また同じように味わい尽くしてみよう。

こうやって、自分の中にある、色んな感情をそのつど味わい尽くすのだ。
これは悲しみも恐怖も同じ。
もともと色んな怖れから怒りが来ている。その恐怖も味わう。全身で味わう。

怒りは人に向けるから色々迷惑をかけるのだ。
表に出せないから、しらっとした顔で心の中で色んな人を罵倒してなかった?

だったら、自分の中の怒りを自分で表現して味わうことぐらい、じぇんじぇんだいじょうぶです。

いろんな不幸は抵抗から来ている。
抵抗は自分をきらうことでもある。
味わうこととは、自分から出るものに抵抗せず、自分を愛すことなのだ。

2014年9月23日火曜日

さくさくの中のもんもん



スコットランドは独立できなかったねー。
でもさあ、選挙ってなんだかね。
賛成が49%で反対が51%だから、反対の勝ちーってなるシステムってどおよ。
多い方が勝ちっていうのってどおよ。

ってことは、そこにいる人たちの約半分が、それに同意をしてないんだよ。それでも決まりは決まりだからって、従わされる。
人のこころって「はいそーですか。ではそれで」ってドライにいけるもんかね。
そもそもそんなシステム(ゴオリ主義ってゆーの?)じたい、すばらしーもんかね。

むかーしの日本はちがったらしい。宮本常一さんの本だったかなあ。書いてあった。
村であることを決めようとする。そこには多数決というものは存在しない。たとえば、村人のほとんどがそれに賛成でも、たった一人が反対なら、村の長はその反対者を呼んで、どこがどのように反対なのか、徹底的に聞き、話し合いをしたという。それでその彼が納得できてはじめてことが決まっていた。

今はむかしのようにのんびりと時間が流れていく時代ではない。決めごとはドライにさくさくと進めていかなければいけないのかもしれない。しかしそのさくさくの中でもんもんする人たちは置き去りにされる。そのもんもんがあるとき爆発するとどーなるんだろうね。

たとえば家族の中でも多数決をとると、どーなるんだろうね。
さくさくの中でだれかがもんもんとする。それこそ家庭内○○に発展しかねない。表に見えないけど、内側で戦々恐々としてたりするんだろうね。だから色々こころの問題も出てくるんだろうね。
でも社会の基礎は家族の中にあったりする。



2014年9月22日月曜日

畑と庭の野菜実験



やまんばは、春頃育苗して余ったキュウリの苗を庭にぶっこんだ。
庭の土は宅地の際に入れられたさらさらした砂で、何の肥料も入ってないところ。
今、その苗はぐんぐん育って、1階の屋根を越えそうだ。ゆっくりながらキュウリも育っている。

3本の苗のうち、1本は途中で断念して縮こまっている。残り2つのうち1つは、去年種を選り分けたさいに庭に捨てられた種からかってに出てきたので実生だ。それが大きなキュウリをつけたので、実生からのものは強いと見込んで、種取り用に育てていて、今まさに黄ウリになっている。
肥料も何もないところなので、その1個に全栄養がいくかとおもいきや、新たにいくつも実をつけてくれて、先日も大きなキュウリを2個収穫した。残りの苗にも2個のキュウリが育ちつつある。
一方、畑の方のキュウリは、ふにゃふにゃと心もとない。なんでやねん。

そこで庭と畑でどんな違いがあるか観察する。
あることを発見した。
 
今、庭にキュウリとズッキーニ(これも勝手に出てきた)がいるが、どれもウリハムシに食われていない。ウリハちゃんは、ちょっとでもウリ科の野菜が元気がなくなるとすかさずやってきて、もりもり食い散らかして葉っぱをレースにしてしまうのがウチの畑の常識だ。

ところが庭のそれにはちっともこない。ちょっとでも元気がなくなっても、枯れても、どーなっても、なぜかウリハは来ないのだ。ウリハはめざとい。どんなところであっても、「おー、元気のねえウリだ。ものども、食っちまおう!」「おー!」とやってくるというのに。

もひとつ。
庭で白菜を育苗している。
畑で種を蒔くと、コオロギやバッタがやってきて、葉っぱを食っちまう。しかし。庭にはこない。
実験で買ってきたキャベツの苗も入れてみた。畑ほうの苗はバッタちゃんに食われるが、庭のそれは誰も食わない。ちなみにアオムシはどちらにもいない。

庭のウリ科をウリハムシは食わず、庭の白菜やキャベツもバッタやコオロギは食わない。
なんでやねん。これって、なにを意味する?

ひょっとしてやっぱ肥料?
畑はむかしっからずっと牛糞を入れ続けていたところ。それをヤメて10年たったはずだ。それなのにその影響はまだあるのだろうか。確かに化学肥料は抜けるのは早いが、有機肥料は抜けるのにずいぶんかかるといわれている。やっぱそこ?そんなにかかるのか。

だけど、じょじょに変わってきている。秋野菜は毎年のように蒔いてはむしゃむしゃ食われつづける、ということがめっきりなくなっている。
何かが変わりつつある。



2014年9月20日土曜日

頭にふと浮かぶこと



わたしたちはふと頭に浮かんだ考えは、自分が考え出したものだと思っている。

自分で考え出したものだから、自分のものだと思っている。

自分のものだからこそ、ふと浮かんだから、これはきっと重要なことにちがいない。

この重要なことは、ぜひ解決しなければいけないことなのだ、と思っている。

こーして私たちは、頭の中であーでもない、こーでもないと、一人討論をくりかえす。

この現象は、わたしたちがふと頭に浮かんだことの中に飲まれていく様子を教えてくれている。


こんな話をしていると、ダンナがおもしろいたとえをした。

たとえば道の途中に、
「あ~~っ、穴だ!」
と穴をみつけ、
「大変だ!穴をふさがなきゃ!」
と、何か穴をふさぐ方法を考える。
あーでもない、こーでもないと考え続けるうちに、穴はどんどん大きくなっていくかんじがする。

量子力学でいくと、それをとらえればとらえるほど、ますます存在しはじめる。
これは問題だ、いけないいけないと思えば思うほど、穴はどんどん大きくなっていくのだ。

小さい時から、
「問題は解き明かさねばならない。答えを導き出さねばならない」
とインプットされてきたまじめな私たちは、
「いけない!この穴をなんとかしなければ!」
とあせる。
それにガチで取り組んですったもんだするうちに、いっそこの穴に入ってみようか、などと思いはじめる(笑)。

これが私たちの頭の中にふと浮かんだことにとらわれる現象のようだ。

もしこれが、
「あん?穴だ。ま、そーゆーこともあるだろう」
と、それに囚われることなく通り過ぎれば、その穴の存在は消えていく。
量子力学的にいえば、気にしないものはそこにエネルギーが注がれないため、存在し続けられないからだ。



やまんばは、今朝の起きがけ、ふと何かが浮かんだ。たいていネガティブなことだ。
いつもなら、
「これは問題だ。そうならないためには、あーしてこーしてこーやって。。。」
と考えてしばらく布団の中でもぞもぞしている。
しかし今朝は、
「あ、また来たな」
と、そのふと浮かんだものを相手にしなかった。
ものの数秒でネガティブな考えは消えていた。

どーも、思考ってそんなよーなもんね。
ふと浮かんだものが、いつものパターンバージョンなら、「あーほれほれ」って、そっとしておいてあげよう。そのうち存在できなくなって消えていきます。

そっとせずに乗っかると、自我がよろこびます。
生きてるぜー!って実感がもてます。
ドラマが始まります。
しかし自我さんに問題の解決はできないようだ。過去の前例をアテにするしか知らないからだ。

すべては流転している。いっしゅんとして同じものは生まれて来ない。であるならば、過去の前例を使うことはもうできない。

頭の中でぐるぐるして穴を埋めようと力こぶ作れば作るほど、エネルギー消耗するだけだったのねん。


2014年9月19日金曜日

『種を置く女』



困ったら、そのままにしておけ。
自然農の川口さんのこの言葉は真理を語っている。

ニンゲンは自分の力ではなんにもできないんだなあ。。。そうおもう。

たとえばパンを作るとき、人がやることと言ったら、小麦粉や水などをまぜてねるだけ。あとは酵母菌が勝手に働いて、パンを作ってくれる。ニンゲンだけが作っていると考えるなら、ただ小麦のカタマリがいつまでもそこにあるだけだ。だけど酵母がしゅわしゅわとうごいて、ふくらんでくれる。

畑だってそうだ。
やまんばがこの高尾の地に沖縄のゴーヤや、亜熱帯出身のサトイモや、インカ出身のジャガイモや、トマトや、インドのナスやら、およそ高尾には似つかわしくない野菜の種をぶっこむのだ。よう考えたら、むちゃくちゃな話や。

それなのに、種たちはむくむくと育ってくれる。多少文句はあろうが(いや、おもいっきりいってるかもしれんが)、しゅくしゅくと、たんたんと「しょーがねえなあ、もう。。」とかなんとかいいながら、ぷるんと実をくっつけてくれるのだ。

ある本に書いてあった。
ニンゲンはいつでも矛盾するものをくっつける。だけどそれを解決するのはニンゲンじゃない、と。

わしらはやった気になっている。
たがやして~、肥料入れて~、草とって~、ほーらできた!これ、わしの作品!って。
ほんとだろーか。


やまんばは高尾の地には矛盾する種を置く。
だけどそれを実らせてくれるのは、やまんばじゃない。
だれ?

木を植えた男じゃないけど、やまんばは、『種を置く女』だな。
そしてただゆだねる。おまかせする。なにもしない。
この心持ちがいったいどんなことなのか、まだわからない。だけどきっとそんなこころであることなんだろうなあ~っておもう。

頭で考えることと言ったら、「虫がつくから虫除けしよう」とか、「枯れそうだから、水まこう」とか。
これは怖れから来る行動だ。やらずにはいられない行動。きっとここに解決の道はないんだろうなとおもう。ただ次の混乱を生むだけなんだろうなって。

どんなこころでいることなんだろう。。。。


2014年9月18日木曜日

制限をゆっくりはがしていってる最中



ブログでさんざん意識の話をかいているけれど、じつはこんな話をあまり人にしていない。するのはもっぱらダンナと母だけだ。

なぜかっちゅーと、こころや考え方の話になると、何となく話している相手の考え方がまちがっているのよ的なニュアンスに聞こえてしまいそうになるからだ。
誤解を与えてしまうんじゃないかと。

どうしても善悪、正しいまちがっている、という2元論に終始しがちになるので、「じゃあ、あたしがまちがっているっていうの!?」といわれかねない。
だからやまんばは恐くて言えない。

でもなんだかそういう内容のコミュニケーションもあっていいような時代になってきているんじゃないかと思うんだ。
これが正しい、それはまちがっている、というどっちかしかないような締め付けの世界とはちがう世界。

そもそもそれが正しいまちがっていると解釈するのは、そう教えられたからだけなのだ。それはいつでもいかようにでも変化できるものなのだ。
その締め付けられた価値観は、自分でほぐしていけるようになる。
人生が苦しいのは、自分が自分に制限を与えていただけなんだと。

やまんばもその自分が自分に与えた制限を、ゆっくりはがしていってる最中。これは決して苦しい作業ではなくて、むしろ新しい自分を発見する楽しい作業。自分の中にしか答えがない事をどんどん強く感じはじめている。

あれがだめならこれ、これがだめならそっち、のような入れ替え制のしくみじゃなくて、その入れ替え制のしくみじたいを理解する世界っていうのかな。
そんな話がみんなとできていったらすてきだなあ。。。

だからやまんばがとつぜんへんな話をし始めたら、「あ、きたな」と思ってください(笑)。



2014年9月13日土曜日

あなたは人を演出している



畑の中で、草を刈りながら考えた。

「あいつはなんでああなんだろう。。私の気に入らないことをいつもする。
まてよ。この世は自分の鏡と言うではないか。とゆーことは、あいつはわたしか?
あたしゃああんなに性格が悪いのか?」

大きくなり過ぎて、自分の重みで倒れたメヒシバ(雑草のこと)を刈りながら、ぶつぶつ言う。
「。。。あれ?ひょっとしたら、これは私が考えていることじゃないか?」
手が止まった。
「え?そうなの?え?え?え?そーいうことなの?」


あいつはひでえ性格だ。協調性がなく、自分の意見をたたみかけるよーにいい、いつもあたしはあいつにやりこめられるんだ。
そう思っている私。

量子力学でいくと、そのままあらわれる。
観察されるものは観察するものの影響を受ける。
あなたが信じたものを見る。

この世は鏡だ、というのは、「自分の性格があらわれている」のではなく、
「自分が考えていること」があらわれているのだ!

なんだ、なんだ、なんども自分で言ってるじゃないか。それなのにじぇんじぇん気がつかなかった。すべては「自分で考えている」ことがあらわれているだけだ。



たとえば、ダンナはケチだと断定するあなたがいるとする。
そーゆー目でダンナを見るので、ダンナさんはケチを演じてくれる。それを見たあなたは、
「ほーらね。やっぱりウチのダンナはケチだ。ったく、どこまでケチなんだろうね。ふんっ」
と勝ち誇ったよーな気分になる。
すると予想は確信に変わり強固なものになるので、ダンナさんはますますドケチを演じ切ってくれるのだ。

これ、あなたが演出してね?
あなたは目の前にいる役者に
「きみ、ケチを演じなさい」
と、演出指導をしている監督なのだ。



では、ダンナにケチを演じるのをやめさせるにはどーしたらよいか。
「きみ、ケチを演じるのを今すぐヤメなさい!」
といってみてもダメなのよん。

そのことを理解することだけだ。
理解だ。理解。
言葉でいくら「ダンナはケチじゃない。懐が広~いニンゲンだ」と言い続けても努力の割には報いが少ない。
こころの奥は正直だ。ホントーに信じているものしか、表に出してくれない。

そのからくりを理解するしかない。
それは自分で確かめるのが一番。
自分の気に入らないと思っている人に、なんの演出(つまり断定)を与えているか知ることだ。
今までの方法論のように、何かに置き換えることはもはやできない。

知ると、消えていく。
本当にそのことに気がつくと、消えていく。
演出している自分に気がついていくと、その役者はそれを演じなくなる。



2014年9月10日水曜日

あなたは自分で知っている



カタチをマネる。いわれたとおりにやる。
そうすれば、人と同じように成功するとか、しあわせになれるとおもっている。
だからわたしたちは方法論を探す。さがしてあっちこっちする。
けどなかなかぴったりくるもんがない。

カモの親子のよーに、この世を生きるにはマネをすることから始まる。だけどオトナになってもひたすらまねることしかしない。
これは学校で先生の言うとおりにすると点数をもらえたり、誰かの言ったとおりにやればほめられたりしたからだ。

だからこの習慣は意識しないかぎり抜けない。

これさえやっておけば、だいじょうぶ、とか、
この薬さえ飲んでおけばだいじょうぶ、とか、
あれさえやらなきゃだいじょうぶ、とかの問題ではない。

オトナになった私たちがすることは、理解することだ。

どうして私はこれにイライラするのだろう。
どうして私はこのことを心配するのだろう。
どうしてこのことを思い出すたびに動揺するのだろう。
どうして落ち込むのだろう。
どうして悲しいのだろう。
どうしてくやしいのだろう。
どうしてきらいなのだろう。
どうして。。。

そういう自分を見ないようにして、何か外の方法論にたよるのは、みんなさんざんやってきた。あれをやめてみたり、これをつけたしてみたり。
だけどまた行き詰まってきたんじゃないだろうか。結局ちょっと変化したぐらいで、また何となくフリダシに戻ってないだろうか。

外にあるものや人を変えようとしたり、外にある方法論を見つけてきたり。。。そんなことはもう時間のムダのようだ。
どっちにしろ、私たちは自分の中にある、気に入らないものをどうしようもなく見つめ観察し、理解することでしか、自分を救えない。


自分のイヤな部分を見るのは怖いこと。ジャッジの気持ちが全面に出てくるから。だけどただ見る。不快な気分が襲ってくるのをそのままにして、その不快の中にいる。その時間をもつ。逃げない。何かで覆い隠そうとしない。気分を他に変えたりしない。ただいる。そこにいつづける。全身でその不快を味わう。

するとふと何かがやって来る。それは小さな気づき。
「あ。。。」と。
それはホントに小さなもの。
その小さな声に耳を傾けていよう。聞こうとしよう。
それはあなた自身の内側からやってくる声。
きっと固くなっていたこころが、ホニャ?っとゆるむ瞬間。

それは外の誰におそわるでもない、あなただけにむけられたことば。
あなたは自分で知っている。
誰に聞かなくても。


2014年9月4日木曜日

思考は問題定義が大好き



やまんばはやっとわかったよ。
問題視するから、それが育つんだ。
なあんだ。簡単なことだった。

量子力学がとっくに言ってたじゃん。
観察されるものは観察するものの影響を受ける。
観察する側が、
「これが問題だ!」
と意識すればするほど、つまりガン見すればするほど、この物質世界はガン見されたものがおおきくなるってことさあ~。

自己嫌悪が問題だ!と思えば思うほど、自己嫌悪がものすごーく存在しはじめ、野菜が育たないのが問題だ!と思えば思うほど育たなくなる。

やまんばが、「オイっ、育つのか、育たないのか。どっちなんだ?あん?」
と、まいた種に向かってガン見すればするほど、育たないってことだ。
これって育たないことが問題だって問題定義をし、「育たない」というおもいで注目するから、そーなっちゃうだけちゃうか?


思考は問題視が大好き。自動的に頭で考えてることを外から観察してごらん。その内容は、ほとんどが否定的。あれがだめだ。これがだめだ。ほんとにこれでいいんだろうか、なんかイヤな予感がする、胃がいたい、ヤバい、これって病気?ああ、もう~いやだ、なんてね。

んで、思考は問題を見つけたら、今度は「どうしよう」といって、問題を解決する方法をさぐる。これもまた大好き。

こーやって、一個問題が解決すれば、また次の問題を探しはじめる。
外から見たら「あんた、何の問題があるってえのよ」と思われる人でさえ、問題を抱えている。思考は99%オッケーな人生でも残り1%の問題に「あ~~~~っ!(みっけた!)」ってとらわれる(笑)。


思考の習慣=否定的なものを探す→問題であると判断する→問題を解決する方法を探す。
これだけでヒマがつぶれる。
ぼけっとしてたらおこられるから、これを頭でくりかえす。

私は問題を解決する方法を今考え中なのだ。
けっしてぼけっとしているわけではないのだよ、ワトソンくん。


2014年9月1日月曜日

イヤイヤやるとカラダに出るやまんば



畑は今草さんのオンパレード。
このごろの雨で、じっとりべっとり。そろそろ秋野菜の種を蒔かないといけないのに、ちょっとやると全身べちょべちょ。おまけに蚊がぶんぶん。サイテー。
それでも今やらないととがんばっちゃう。腰がヤラレる。朝、起きがけに腰がチョーいたい。


その日も草刈りにはげんでいた。
「どーせまともにそだたないのに、よくやるよなあ、あたし」
ぶつぶついいながら、草を刈る。
「なんでいつまでもやってんだろ、あたし。。。」

自然農、炭素循環農法、無肥料栽培、果てはやまんば流を追い求めてきた。どんどん豊作になるかと思いきや、どんどんできなくなる。なのにひたすら種を蒔き続けている。
そのとき、
「あ。あたしこれが好きなんだ」
と、気づいた。
あたり前じゃん。好きでやってんでしょ。と、頭はいう。
だが、ホントに好きなんだってことに気づいたんだ。

それはいい結果がでようと、でなかろうと、土をいじっていることが好きで、種を蒔くその瞬間が好きなのだという、自分の中のすごく根本的なところに触れた気がした。
結果などほんとうはどうでも良かったのだ。
ただやっていることが好き。

よく人は、何時間もやり続ける人を、「頑張ってるねえ」とか「努力するねえ」とかいうけど、努力や頑張りだけで何時間もできるもんだろうか。
きっとその人はそれが好きなのだ。時間を忘れるほどやりたいことなのだ。


「あたしはこれが好きなんだなあ。。。」
と、へらへらしながら草を刈る。
さて、ここへは何の種を蒔こうか。なんか壬生菜を蒔きたいきがするけど、そしたら隣のタアサイと交配するからだめだ。ここへはダイコンのはずだ。
と、頭がいう。
でもなんでか壬生菜が蒔きたい。ええい。交配しても何でもいいから、壬生菜いっちまえ!
と、好きなように蒔いてみる。

明くる朝、腰が痛くないのに気がつく。へんだ。いつもなら野良仕事をやったら、明け方腰が痛くなってくるのに。



同じ草を刈るという動作であるにもかかわらず、心の置き方しだいでこんなにもカラダに変化がおこるものなのだろうか。

ひょっとしたら、ほんとうは「やりたい」ことであるにもかかわらず、「やらなければいけない」ことになっちゃって、いつのまにか義務になり、イヤイヤになり、それがカラダにアンバランスを起こし、腰にきているとしたら。。。


頭は結果を求める。結果がすべてだと言う。
そのおもいに取り込まれて、ほんとうの心の奥が感じていることを忘れている。好きなのに、好きを忘れて結果に重きを置く。するとホントの自分を置き去りにするから、カラダのどっかが訴えてくるのかもしれない。そうじゃないよ。こっちだよって。

わしらは物事を先へ先へと考える。目標、結果、達成するべきもの。
それはいかにもかしこい行為のように見える。
それは頭がとらえる価値観だ。

けどカラダがそれにアンバランスを感じて何かを訴えてきたとき、その原因を外じゃなくて、自分の心の中をさぐってみるといいかもしれない。
私たちはやらなければいけないことと、やりたいことをごちゃまぜにしてしまっているのかもしれない。

今、それをしたいからするの?
それとも、しなくてはいけないからするの?

でもほんとうはしたいからしていたんではないの?