2014年7月4日金曜日

観念があんねん



自分で怒っている最中に自分の怒りに気がついている。そしてそれを観察することができるようになったら、きっと何かに気がつくはずだ。
「おれって、いつもこのことで怒ってるよなあ。。」って。
そのとき自分のパターンに気がついている。

人はつい「こんなこと、だれだって怒るに決まってるだろ!」って思って、それについてどうして怒るのか観察することをしない。
たいていはおれを怒らせた誰かのせいにするか、悲劇的なおのれの人生をなげく、とゆーことをやってその場を終わりにする。

それをずっとやりつづけて、苦しみもがくのもそれもまた人生の醍醐味。
だけど別バージョンもある。やってみてソンはない。しかもそれはメチャクチャ面白い。へえ~、自分ってこんなこと考えてたんだ~って、次から次へと自分を発見することになる。すると人のことはどーでもよくなって、もっぱら自分の反応を見つけることに忙しくなる。
「おれ、今自分がマイブーム。」
なんちゃって、外から聞いたら引くよーな状態になる(笑)。

このときその人は、自分の感情に対して、いい悪いという判断をしていないことになる。
ここ大事。
それってわき起こる感情に対して、いちいちジャッジしていないから、その感情を、何も感情をはさまずに(ややこしいな)見ることができるのだ。


怒りは必ずその人がもつ概念からわきおこる。
そのひとがいつのころからか「これはこうあるべき」とインプットした概念があって、それを基準に心が揺さぶられている。怖がることも、悲しみも、嫉妬も、およそネガティブな感情はそこから発生する。
感情は無意識に出て来るえたいの知れない恐ろしーもんではなく、自分を掘り下げていくと、必ずや
「あ、これこれ。この観念が基準になってんねん」
って気がつく言葉があるのだ。

それはホントにたわいもない言葉。
小さいより大きい方がいいとか、少ないより多い方がいいとか、ヘタよりうまい方がいいとか、低いより高い方がいいとか、遅いより速い方がいいとか、小学生でもわかる基準が元になっていることが多い。たいていは二元論である。

はあ?それ?みたいなしょーもないとゆーか、たわいもない観念が基準になって価値観が出来上がる。それがオトナになるにしたがって、どんどん複雑に絡み合って大きく膨らんで、大問題にまで発展してしまうのだ。


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