2014年7月30日水曜日

自分で作ってるうううう〜〜〜!



私たちは、自分の目の前に起こった出来事に対して、同じ反応をくりかえしているマシーンだ。

ヘビを見つける→「げっ!こええ~~~。」
政治家の声を聞く→「フン。口ばっかじゃねえか。」
目覚ましで目が覚める→「あ~、もう朝あ?起きたくねえ。」
テレビでスイーツを見る→「きゃ~、たべたあ~い!」
道で人とすれ違う→「気がつかないフリをしよう」
ズボンがきつい→「ヤバい。やせなきゃ!」
道でうんこを踏んづける→「ぎゃーーーっ!」

人によってその反応は様々だが、その人それぞれの反応を、そのまんま、気づかないまま、あたり前のように、延々と、同じ反応をくりかえしてね?

やまんばはそーゆー自分に気がついたとき、あぜんとした。
こりゃ、パブロフの犬そっくりじゃねーか!

畑の野菜を見ると、「すくなっ!じぇんじぇんだめじゃーん!」
NYのレップからメールが来ると、「げっ、英語!やだあ~」
夜中にトイレに起きると、「ああ、あたしの人生どーなるんだろ。。」
判で押したよーに、おんなじ反応をくりかえしているのだ。。。。

じゃあよ。このまんま同じ反応同じ考え同じ感情を出しっぱなしにしていたら、今まで生きてきたパターンを、そのまんま、あいもかわらず続行することになるってことじゃねえか!
があーーん!
いやだ、いやだ、いやだ。
こんなんじゃやだーっ!

わかる?これは量子力学なのだ。
あなたの観念があなたの世界を創造しています。
人は創造エネルギーそのものです。
あなたは毎瞬毎瞬あなたの空間を創造し続けています。

およ~~~っ。
自分で作ってるううう~~~っ。



ネットを見ていると、インボー論で盛り上がっているブログもある。やまんばは最初はおもしろくって、「へえ~~、やっぱこの世はいかがわしーなー」と、一人盛り上がっていた。だけどだんだんおもしろくなくなってきた。
彼らはずーっと、「外の誰かが悪い!」って言い続けているんだもの。

問題だ、問題だ、事件が起こると問題だ、それをなくそう、これをなくそう。あるから問題なのだ。なくせば問題が消えるのだと思っている。
これ、バイキンがあるといけないから消毒して消そうというのと、どう違いがあるだろうか。

ブログの人がどれだけ力をもっているのかは知らないけど、その問題を出かけていって消せるのだろうか。いや、実際消せる程の素晴らしいお方であるかもしれない。

だけど「問題」は、その人が問題は消さないと解決しないと信じていることだ。

ひょっとしたら、もっと身近なところで問題を抱えていて、その問題をナントカ解決したいという無意識の心の動きが、世界の問題を解決せねばいけないのだ!という問題定義にすり替わっているのかもしれない。(それさえ解決すれば、女房が帰ってくる、みたいな?)



これも冒頭で言った起こった出来事に同じ反応をくりかえしているマシーンとおなじことじゃないだろうか。
そうかんがえると、その人の未来にもいつまでも近くに問題があり続け、それを消さないといけないといけないのだ!と躍起になりつづけることになる。


つづく。


2014年7月27日日曜日

努力するとできない



「~しなければいけない」っておもったり、誰かにいわれたりしたら、抵抗を感じない?

それはたとえどんなにやりたいっておもったことでも、それをしなければいけない、それをすべきだといわれると、いつのまにか義務になってしまい、心に抵抗を感じるのだ。

やりたいことは何?って聞かれると、絵を描きたい!とか歌を歌いたい!とかダンスをしたい!とか、やりたいことベスト3に入るよーな仕事をやまんばはしている。
ところが、それが「絵を描かなければいけない」と思った瞬間、
「げげ~、いやだな。あー、逃げたいー」となってしまう。

畑だってそーだ。
「あー、なんか種まきた~い」
って思うとワクワクするが、
「今日は畑に行って、あれとこれの種を蒔かないといけないのだ」
とおもったとたん、それは目標になり、スケジュールになり、義務になり、達成すべきノルマに変わってしまう。

するとカラダもなんだかぎこちなくなってかちんかちんになり、
「あれはこの畝に植えるべきだ。いや、やっぱりあっちの畝に植えるべき。。」
とかなんとかなって、そのあとは、
「これが失敗したらどうしよう。まちがった畝に入れてしまってたらどーしよう」
と、アレコレ迷いはじめる。

ところが、「あ~、なんか種蒔きた~い」とおもうと、
「あっ、ここに入れちゃえ!」
と、迷うことなくテキトーに蒔き、あっとゆーまにおわる。しかも入れたあとで、結果を目を皿のよーにして追いかけることもない。

人は気楽にやったものには頓着しないところがある。
しかし必死こいて考えて、壮大なる計画を練ってしたものには執着するケイコーがある気がするのだ。

ンで、その執着したものには、あんまり、とゆーか、はっきりと、ちっともうまくいかない!
なんでやねん!なんでやねん!


絵もそうだが、「~すべきだ」というと、かちんかちんになり、思うよーにアイディアも浮かばないし、デッサンもぎこちなくなる。するとますますそれに執着するよーになって、ますますがちんがちんになる。必死こいて力こぶ作っても全然できなくて、
「も、もうだめだ。。。」となったところで、
「あれ?これ。。。?」
と、何かがそこにいるのだ。「なあんだ。ずっとそこにいたんだ」というくらいあたり前にそばにあったアイディアがみつかる。
それからはスケートを滑るがごとくスーイスイ。


人はそれは必死になって努力したからその成果が出たんだというだろう。
でも、どーも、どーも、どーも違うのだ。じつはその反対なのだ。
必死になって努力したからで来たのではなく、必死になったあと、もうムリ。。って、力が抜けたあとにできたことなんだ!

だから「あ~なんか種蒔きた~い」っていうのは、力の抜けた状態なのだ。その軽さが柔軟性とダイナミックさを生む。頭だけで考えつかない、もっと未知な大きなものを掴むんじゃないだろうか。


私たちはあまりにも「~すべき」「~しなければいけない」というコトバに使われている。そのコトバに「抵抗」を感じながらもムリヤリ押し進めているのが日々の現状じゃないだろうか。

同じ考え。同じ反応。同じ動作。
その結果は当然同じもの。

「すべきもの」として行為するならば、その時点ですでに今までと同じ結果しか生まないようなのだ。




2014年7月25日金曜日

ほんとはいたってシンプル



庭にグラジオラスが咲いたので、今かびんに飾ってある。
ちょっとまえに友だちからもらった球根を庭にぶっさしたやつだ。

いっぱいもらったので、鉢にも入れたし、畑にもつっこんだ(どんだけあらっぽいねん)。じょじょに花をつけはじめた。庭にも畑にも肥料なし。畑の方は、ニラの畝で赤、白、黄色のグラジオラス。
なんだ。肥料なしでも花咲くじゃ~ン。

春頃寄せ植えに凝ったやまんばであったが、その後飽きた(はやっ)。そのまんま鉢に入れたままだが、花さんは元気に咲いてくれている。

ふしぎだな~とおもうのは、せまこい鉢の中で、違う種類の植物たちがぎゅうぎゅうになってもどんどんでかくなっていることだ。ケチなやまんばはもちろん肥料なんか入れない。土だって買いもしない。ただ庭の土を取って鉢に入れただけだ。なのに大きくなって花を咲かせる。いったい鉢の中で何が起っているんだろ。

植物の根っこは、自分で栄養素を作って、それを自分で吸収しているというのをどっかで読んだことがある。とゆーことはほんとは何にもしないでも勝手にやってくれてんのかもしんない。


いやいや石けんなし生活で発見したこともそーだったが、本来生き物って完全に自己完結してるんじゃなかろーか。
人間がいらん知恵で、あーするにはこーすればよいとか、あれにはこれが必要とか言っちゃっていっぱい方法論を作りあげ、わけわからんほどに複雑にしちゃっただけで、ほんとはいたってシンプルだったりしてねー。

日焼け止め塗ったり、黒いウデヌキしなくても、石けん使わないで生活すると、こげないし、シミもできない。皮膚がもたらしてくれる天然の化粧水で勝手に保護してくれている。人間のカラダもたぶんそのまんまで循環しているんだ。

あれはこわい、それもこわい、と教えられたことで恐怖心をそそられて、色々保護しなくてはいけなくなる気にさせられるだけだったりしてね。
ンでじつはその日焼け止めでシミができてたりしてー。

親切心で作ってくれてると思っている商品が、じつは売らんがための戦略だったりしてねー。

「奥さん、こーなっては後の祭りですよー。いまのうちに、こーして、こーして、こーやっておきましょーねー。。。。」
と、なんのこたあない、恐怖による洗脳のパターンだったりしてねー(笑)。


絵:「サントリーニ島」『健康と生活』表紙イラスト

やまんばがまだ初々しい頃行ったサントリーニ島。白と青のコントラストがくらくらするほど美しかったなあ。ネコもいっぱいいた。ここがひょっとしたらアトランティス?とぞくぞくしたものだった。

2014年7月23日水曜日

差し出されたものは受け取るのがしあわせっ



自分がどこに、何に反応しているか見つけていくと、さらにその奥にあるものに気づく。
「え?こんなこと気にしてたんだ。。」と。

「びじょお~~~~。。。。」
っていう、トイレから聞こえるおしっこの音が気になる。聞いているだけでイライラする。
なんでだろって、はじめておもった。

おしっこがトイレの床にばらまかれて汚くなるからと怒ってるんだって気がつく。
なんでそれに怒ってるんだ?って探ると、小さい時母が「バイキンがつくから汚い」って色んなものを消毒していたのを思い出した。

家の中はいつも病院のようなにおいがしていた。玄関の入り口近くにうす金色の洗面器があり、母はそれに消毒液を水で薄めておいてあった。外から帰ってくると、それに手を浸して家に入るのがならわしだった。
父と二人で、母のことを「神経」ってあだなをつけてひそかに笑ってたのに、自分の中にそれがあった。

気がつけばいつも「汚い」ことに意識がいっている。台所が汚い。玄関が汚い。廊下が汚い。窓が汚い。トイレが汚い。庭が汚い。汚い汚い。
気になるくせにぜんぜんきれいにしない。
なんでや?
めんどうくさいから。

ネが怠慢だからちっともやらない。するとますます汚れが目立って来て、ますますやりたくなくなってくる。するともっと汚くなっていき、何もしない自分に自己嫌悪する。自己嫌悪するぐらいならさっさとやればいーのに、その時に使う力を考えるとうんざりしてもっとカラダが動かなくなってくる。するともっと自己嫌悪して。。。。。
最後は「地獄に堕ちてやる!」ってぐらいの勢いで掃除する。。。のパターン。

これってさあ、ものすごーく労力使ってると思わない?それに注ぐエネルギーたるや、すさまじーもんがある。

1:おしっこの音を聞いてイライラする。=エネルギー消費
2:床にばらまかれたおしっこからバイキンがうようよのイメージ。=エネルギー消費
3;自分が掃除するのかと思うとハラが立つ。=エネルギーの消費
4:バイキンから自動的に他の「汚い」ものへと連想ゲームが始まる。=エネルギー消費
5;あれもこれも掃除しないといけない。。。と悩み出す。=エネルギー消費
6:だけどちっとも掃除ができない自分へ自己嫌悪=エネルギー消費
7:自然と視界にはいってくる部屋の中のヨゴレを凝視=エネルギー消費
8:あれをキレイにするにはあれをこーやって、それをどーやって。。。とシュミレーションするうちにうんざりしてくる=エネルギー消費
9:うんざりするとますます動けなくなる自分にいらつく=エネルギー消費
10:仕事ができない自分にどんどんハラが立つ=エネルギー消費
11:「地獄に堕ちてやる!」ほどのボルテージを上げて掃除にいどむ=エネルギー消費

こんなにエネルギーを消耗するヒツヨーがあるだろーか。

さて、
このイライラは最初の観念から来ている。観念があんねん。

質問者:それはなんでしょーか。

やまんば:おしっこは汚い。

質問者:ピンポーン!ほかには?

やまんば:汚いものはいけないもの。いけないものは取り除かねばならない!

質問者:ピンピンピンポーン!


もし最初におしっこは汚い。と教わらなかったらどーなるか。
「じょおお~~~。。。。」って音は、雨の音と変わらず聞こえる。
てか、そもそも気にならない。耳に入って来ない。聞こえない。
はい、おわり。
エネルギー消費ゼロ!

わしらはこのよーに、はいって来た観念を使って、自動的に怒ったり、怖がったり、悲しんだり、よろこんだりしている反応マシーンだ。

その反応しているものを見て
「はっ、この心がわさわさするのが自分なんだ!」
と、「自我」を実感することをずーーーーーーーーっとやっている。

エネルギー消耗することは、悪いことじゃない。それによって「生きてる!」って実感をえることができるのだもの。だけどいかんせん、なんだかな~ってな感じで楽しめてないジャン。それはその実感の中にしかこの世はないと思ってるからなんだな。
ほんとかな?


やまんばは、「びじょおお~~。。。。」って気になる音を頭の中で再現してみた。
くっ、腹立つっ。めっちゃはらたつうううう~~~~!
そこで自分であおってみる。
どんくらい腹立つ?
もんのすごー、腹立つ!うおーーーっ!
おお、すごいやん!もっと怒ってみ!
う。。。
ほら、どしたん。もっと怒ってええって!
え。。。あ。。。?
ほよ?
う。。。。。。消えてしもた。。。。。

出たエネルギーは受け取ってもらうと消えていく。
この二元論の世界は、出る、受け取る、ということをやって統合されていく。
それは別な言い方をすれば、「味わう」ことでもある。

「これはいい、これは悪い」という観念をもらい、その観念によって、ハラが立つという感情が起こる。それはいいことでも悪いことでもない。むしろその感情の動きこそが、この二元論の世界の醍醐味なのだから。

そのハラが立ったものは、自分で受け取っていく、それで万事休す。
おもろい世界にやってきたなあ。


絵:「ありがとかっぱ / 絵はがき」

只今、Thank you card 展 The 14th. MOONにて、つくしの絵はがき売ってるよ〜ン。
ほしい方はぜひお立ち寄りください!
たくさんのイラストレーターさんたちが描いた、かわいい絵はがきいっぱいありま〜す!



2014年7月20日日曜日

いったい何種類の種が?



あんまり雨が多いもんで、苦手なにんじんを種蒔いた(にんじんはいつも失敗する)。同じセリ科なので、今年種が取れたコリアンダーも同じ畝に蒔いた。

数日後、ひょろ~んとした双葉がぽつぽつ出てきた。
お?にんじんか?と思ったが、なんとな~く様子が違う。スジ蒔きにしてたのに、違う所からもぽっぽぽっぽとでているから。

はは~ン、草だな。
草たちは「あたし、ニンジンよ」
とか言っちゃって、似たよーな姿で知らん顔して出て来るのだ。

もう数日様子を見ていると、かれらに本葉が出てきたのでその正体が分かった。
1つは、草。
1つは、ニンジン。
1つは、コリアンダー。
そしてもうひとつは、ほうれん草だった!

この畝、冬のあいだはホウレンソウがまかれていた。だがそのうち草に埋もれて消えてしまっていたはずだったが、勝手に育って種がついていたようだ。(どんだけほっぽらかしてんだ?)

そして、その畝はそれだけじゃなかった。
今そこに信州高菜、のらぼう、チンゲンサイ、大豆、ほんでもって三浦ダイコンの芽まで出ている。

恐るべし、やまんばの畑。

あなたならどう反応する?



家でぞうきんがけしているとケータイがなった。

「あのー、クラブの前で今待ってるんですけど。。」
げげ!町内会の人からだ。今日の打ち合わせは確かキャンセルしたはず。。。

今年はやまんばが町内会の年当番。行事の準備をする係。その前準備で打ち合わせをする予定だったが、変更に変更が重なって、うまく連絡がいかなかったようだ。

「すっ、すいませ~ン、今からすぐ行きます!クラブの鍵はお手数ですが、そちらでAさん宅から借りてきていただけますか?」

慌ただしくぞうきんを放り投げてクラブに向かう。新しくなったクラブはやまんばんちから遠い。早足で歩きながら、
「うほ~、なんだなんだあ?なにがおこってるんだあ?」
と、おもってみる。

そう、やまんばは反応を変えてみてるんだ。


以前のやまんばだったら、
「どっ、どないしょー!あのときちゃんと直接本人に電話しとけば良かった!」
とか、
「ああ、これでわたしが仕事できないことがバレてしまった!」
とかなげいて、おろおろうろうろどきどき、胸がばっこんばっこんなってしまってた。

だが今は胸がばっこんばっこんなっているのは、ワクワクしているのだと思ってみる。

すると結果オーライ。
予定してなかったクラブ用の新しい冷蔵庫も安くていいのが手に入り、本番に向けてのシュミレーションができたのだった。



人それぞれに、それぞれ独自の反応をしている。
その反応がその人を作る。

親を見れば、「うざっ」というかもしれないし、さいふの中身を見れば「げげっ、やばい!」っていっちゃうかもしれない。社長を見れば、緊張するかもしれないし、日曜日の夜に明日のことを考えれば、ゆううつになるかもしれない。

そういう風に反応するとき、そこには一種のムードとゆーか、トーンとゆーか、空気感とゆーか、何かがパフっと放たれている。そのパフッと飛んだ空気をまた本人が吸うのだ。出すものは受け取られる。
同じことを何度もくりかえして反応を続けていると、そのものになる。それは自分が出した反応をそのまんま受け取っているからだ。
法則というものがあるとすれば、それが法則だ。
自分が思ったもの、反応したものを受け取る。


「高いものを買うと、何いわれるかわかりませんからねえ。ちょっとでも高いものを買っちゃうと、『冷蔵庫は冷えりゃあいいんだろ。なんでそんなに高いものを買うんだ?』なんてねえ。。。よかったよかった」

一緒に冷蔵庫を買いにいった町会の人はこういって、ホッとしたようすだった。彼はいつもそういう風にまわりとのバランスを気にしている人のようだ。一般的にはとてもいい人だろう。だけど彼の中でいつも何かに怯えているようすがうかがえる。そのことは彼自身にとってはどうなのだろうか。


さて、あなたはどう反応する?
反応はいくらでも変えられるよ。


2014年7月18日金曜日

自分の反応を変えてみる



さいきんやまんばが意図的にやっていることがある。

それは「今までと同じ反応をしない」ことをやってみるのだ。

人は起きた出来事に対して、自動的に「同じ反応」をしているようなのだ。マシーンのよーに「A」という出来事が起こると、「赤!」という反応をするだけ。

パブロフの犬が、ベルを鳴らすたびによだれをたらすよーなもんだ。
ベルとよだれはまったく結びつかない。だけどパブロフさんちの犬は、ベル=よだれ、なのだ。

人もけっこうアホウな所があって、「A」といやあ、「赤」だろ!と信じて疑わなかったりする。しかし人によっては「A」といえば「青」だろ!と信じて疑わなかったりする。

とゆーことは、「A」と「赤」は、ホントはちっとも結びつけるヒツヨーも法則もなかったりする。
あるときその人は、Aと赤を結びつけてしまって以来、そのまんまマシーンのよーにただ同じ反応を繰り返しているだけなのだ。

それはそのまんま、そのひとに同じ出来事を繰り返し引き寄せることになっていく。

あろうことか、本人が「あれ?これ同じ反応をしている」と気がつくまでやり続ける。



うちの母がいい例だ。
彼女の人生は、あるときまで非の打ち所がないくらい完璧だった。美人で、お金持ちで、頭もよく、茶道、華道、料理、絵と、センスはばつぐんだった。
「あんたが道を歩くだけで、あたしらあ、うれしゅうなる」
と、ありえねえぐらい近所のおばさんたちによろこばれる。
そんな彼女が職場で、
「あなた歩くの遅いわねえ」
と言われてしまったのだ。

ふつー、そんなことにそれほど反応はしないだろう。だけど彼女はその日からそれが人生の呪縛になってしまった。
「あたしは歩くのが遅い。。。」
このコトバがずっと彼女の心に住みついた。
完璧だったはずの彼女が、歩くのが遅いという汚点を作ってしまったのだ。これを克服しなくてあたしの人生はありえない!となってしまった。

彼女は歩くたびに、身体を動かすたびに自分のことをチェックする。
「あー、歩くのが遅い。あー、いかん、こんなんじゃ」
そのうち自分のカラダをムチ打つようになる。
「いかんいかん!もっとはよう!もっとはよう歩かんといかん!」
意識すればするほど歩みは遅くなる。ますます自分のカラダが気に入らなくなっていく。そしてますますムチ打つようになる。そして歩くのが遅いどころか、歩けないほどになっていく。

そんな彼女の様子をずっと見てきた。
もし、彼女の中で「歩くのが遅い」というコトバがなかったら、どうなっていただろうか。自分の歩きが遅いことに、まったく違う反応をしていたらどうなっていただろうか。
気にもとめていなかったらどうなっていただろうか。

そして「いかんいかん」と言い続けているコトバによって、逆にそれが引き寄せられているのだと気がついたらどうなるのだろうか。

人間がどれだけ観念にふりまわされているか身近で見ることができる。
パブロフの犬でいうなら、母は、
「歩くのが遅い=いかん!」なのだ。

人はそれぞれ、項目別に反応している。
Aには赤の反応。Bには黒の反応。Cには緑の反応、Dには、、、、と。
自分がつねに心でぼやいている言葉があったら、それがその人のもんもんとしたものからの脱出のポイントになる。やまんばは「ちゃんとしなきゃ」だった。

そのマシーンのような反応が、その人の人生の色合いを作っている。その色合いがもし気に入らないのであれば、自分がもつそれぞれの反応を変えてみるてのはドオ?

やまんばは自分の反応に気がつくことによって、自分が何をどう考えているか、無意識にどんな行動をしているかが気づくようになってきた。そして知らなかった面白い自分を見つけはじめている。すると自分がどんどん好きになってくるではないか。(きゃー、どないしょー)


人は本人が思うほど、つまらない生き物ではない。
その奥の奥にすごい可能性を秘めている。
 
多分それを見つけ出すために、私たちはこの地球に物質として降りて来てるんだと、さいきん本気で思う。



2014年7月17日木曜日

あなたの答えはよその人がもっている



「わたし治ったがよね?」
母が電話のむこうで聞く。
「うん。治ったよ」

しばらくたって、また聞く。
「わたし治ったがよね?」
「うん。そうやちや」
それはさっき聞いただろ。

「わたし、こうなってこうなったってことは、ホントに治ったがやろうか?」
「んーもう!治ったってさっきから言ゆうやろお!」

人は自分がこれでイイんだってことを、自分自身で認められない。だからその道のエライセンセにお伺いを立てる。しかしそれでお墨付きをもらったとしても、やっぱり不安がつきまとう。だから一人より大勢の方がイイだろうってことで、センセ以外の誰かにも聞いて確認する。

人のこと笑えない。
「わたしの人生、これでいーんだろうか。。。ね?これでいーの?」
「しらねえよ」
冷たく言い放つダンナ。


学校で先生に答えをもらう。
「1たす1は、2です。」
「正解の人~、手をあげて~!」
「はあ~いいい~~~!」
「ン。ほとんどの人が手をあげましたね。正解です」
こんな単純なことが、私らのその後の人生にパターンを作る。


答えは自分ではない、よその誰かがもっている。
しかもその答えは大勢の人が言ってくれる方が、もっと正解である。

自分の人生を誰かに預ける。親に預け、子に預け、センセに預け、神様に預ける。


はて。
ホントにそーなの?
じゃあ、ず~~~~~~っと、年がいってもどこまで行っても、誰かが教えてくれる答えを待ちつづけるわけだ。ンで聞いて確認とっても、不安がやって来ると、また誰かに確認する。

「ねえ。あたしこれでいーの?」

「。。。。それはあなたが決めることです



2014年7月15日火曜日

のーなしはこの世にいてはいけないの?



こないだ仕事でミスやった。それもちょーーー初歩的なことで。

やべえ。まずい。心がおろおろする。いてもたってもいられないから、なんか行動を起こそうとする。いいわけの電話をしようとする。
いや、でもまてよ。今更いいわけしたって先方さんの考えが変わるわけでもない。
なんの?
つまり、やまんばがのーなしだってこと!

ひええ~~~っ、そっそれだけはかんべん!

だが、いくら「オレ、のーなしじゃないっスよ~」といってみた所で、
「ああそーですか。それはそーでしょーね。。。」
と、冷ややかな目で見られるだけだ。

ここはぐっとこらえて、不快感を味わってみる。これ最近のやまんばのマイブーム。
ハラが立ったとき、怖くなったとき、いや~な気分になった時、人はなんだかばたばたしちゃうじゃない。これ、何かやってこの不快感をとりのぞこうとするのさ。だけどなかなか不快なものって取れないわけ。だからあえてそれを味わうことにしたんだ。


ぐっとこらえて味わっていた。すると、自分がのーなしだって思われることが怖いんだってことに気づく。それで、
「どうしてのーなしだって思われるのが怖いのか」
って自分に聞いてみたんだ。

すると自分はのーなしだと思っていたからだったんだ。
「のーなしでは、いけないのか?」
って聞いてみたんだ。

すると、ちっちゃい時にいじめられたり親に怒られたりした時に、自分の惨めさを感じて、
「自分はのーなしなんだ。そんなのーなしはこの世にいてはいけないんだ。。。」
って思ったことが始まりだったって気がついた。

のーなしは、この世にいてはいけない。

『無能の人』という映画を見て、共鳴した自分がいる。あれは私だ。ああいう存在なのだ。何の国益にもならない、何の人の役にも立たない、でくのぼうだ。だからこそ、人のためになることをしなけりゃ、この世にいる意味がないのだ。。。。そうとことん信じた。

やまんばの若かりし頃は、『コスモポリタン』という女性雑誌が世に出て、女性は社会に出てがんがん頑張っちゃうってのが理想の女性像だった。だからがんがんやる、世のため人のために生きる。これが人として、女としての価値ある行為だああああっ!と信じてやまなかった。

しかし!しかしだよ。このボンミスはなんだ!のーなし逆戻りじゃねえか!



畑で草を刈りながらかんがえていた。

やまんばが無肥料栽培やって、まともに育てられないことをなげいているのは、こののーなしではないけないのだ、能力がなければ生きていてはいけないのだ!と言う強迫観念から起こっていた衝動だったんだと気がついた。

ところが!ところがだよ!
一緒にやっているぱぱさんやおおママさんさんは、そののーなしやまんばをちっとも責めないのだ。肥料やって育てりゃあっという間におっきくなる野菜も、無肥料で結果が出せないにもかかわらず、やまんばののーなしをそのまんま受け入れてくれていたのだ!

がくぜんとした。
のーなしはのーなしで、そのまんまうけいれてもらえているのだ。
やまんばは仕事ができるヤツしかこの世に受け入れてもらえないと思っていたので、仕事ができるヤツのフリをしていたはずだった。しかしじつはしっかり見破られてて、できないまんまで受け入れてもらえていたのだ。。。ああ、なんてことだ。。。。


先日、ある会社の人たちが、ある一人ののーなしスタッフについて語り合っていた。
「仕事ができないなんてもんじゃない。人としてどーよってくらい!」
だけどそこの上司は彼をやめさせない。会社の不利益甚だしいのに絶対やめさせない。
だけどまわりのスタッフは彼の行動を通して「自分」の一面を知る。ふつうであることのすごさを知る。理解をするとは何かを知っていく。彼がいることで色んなことを学んでいたようだ。


やまんばののーなし加減が人にどーのこーのと言う筋合いはない。
だけどこの世は堅苦しく、せせこましー世の中だっておもってるけど、ほんとはものすごい寛大に受け入れてくれているんじゃないだろうか。

この世はどんな人でも「あんたはそのまんまでそこにいていいよ」
って、最初っから受け入れてくれていたんじゃないだろうか。
ただ自分が受け入れてもらえてないって勝手に思ってるだけで。

そしてもとは、自分が自分を受け入れてないだけだったんじゃなかったか。


畑の中でひとりあったかいきもちになるやまんばであった。。。

2014年7月13日日曜日

バチはあたるもんなんか?



ばちがあたるということばがある。
このことばはわしらの心に深く根付いている。

いい行いをすればいいことがやって来る。
悪い行いをすれば悪いことがやって来る。

この一見当たり前のよーな『法則』に、わしらはヤラレちまっている。

ほんとにそーなんか?見たんか?じぇったーい、そーなるんか???

かみさまが上から見てて、
「お、A子はいまいいことをしたな。ほんならほうびをつかわそう」
「お、B子はいまわるいことをしたな。ほんならおしおきをしてやろう」
って、神様が罰を与えるんか?

かみさまはそんなふーに、目には目を、歯には歯を、見たいな、こころのセマコいことするんか?かみさまがくれる愛は、はかりにかけて比べて、あなたの行為しだいで、愛をあげたり、罰をあげたりするんか?
そんなちっこい存在なんか?



それって、かみさまにしつれーなんじゃないかと、わしはおもうた。

そーおもってるのは、わしらのほうなんじゃないか?
わしらが勝手に、それはそーなるのだと信じて(そういう法則を作って)からのち、その『法則』をちっとも疑わないで使い続けているだけじゃないの?

ほんでもって、勝手に作った法則に、びくびく、おろおろ、悪いことしたら悪い事が起こる。。。いいことしよっと、いいこと、いいこと。。。。って、なんかいいことせんといかんって。。。
これって強迫観念ちゃう?

人にやさしく、自分に厳しく。。。。
いかん、思わずケーキ食って自分にやさしくしてしもうた。こりゃどっかでバチが当たる。ンじゃあ、自分に厳しく、だ。ダイエットダイエットと。。ね?イイでしょ?今ので帳消しになった?

。。。おろおろびくびく、、、ひやひやどきどき。。。

そんな自分に気がつかないで、
「おれ、びくついてナイッスよお~」
って、おろおろしている心を押し入れの中に封じ込める。

「ちゃんとしなきゃ」ってのも、もともとは、ちゃんとせんとバチが当たるって、とこからきてんじゃないか。

ひょっとしたら、ばちがあたるっておもってるから、イヤなことが起こると、
「やっぱりバチが当たったんや!」
と、勝手にそれとこれをむすびつけているだけなんじゃないか?
じつはそれとこれはまったく関係なく、ただそれがおこっただけなんじゃないか?引き寄せているようにみえるのは、それとこれを結びつけて勝手に解釈するってことだったんじゃないか?


やまんばの「ちゃんとしなきゃ病」はこんなところがもとにあったんやなあ。

んでかみさまは、そんなやまんばを、
「よきにはからえ」
と、ほほえましくおもってくれてんのやろうなあ。
(いつから神様は殿様になったんじゃ?)

宇宙はどこまで行っても寛大やな。


2014年7月11日金曜日

恐怖とワクワクは紙一重?



「さっきまでものすごう雨ふってたから、窓あけてながめてたんやけど、もうやんでしもうた。おもしろうない」
きのう朝10時頃高知の母に電話する。こっちは心配して電話してんのに、雨やんでおもろうない、などとほざきおる。

「おう、今こっちは思いっきり晴れちゅうぞ。台風どこいったんやあ?」
と、昼過ぎに今度は父からの電話。確かその時間は台風さんは室戸沖にいたはず。。。
「目の中にいるんじゃないの?」と私。
「目の中なもんか。どこっちゃあにおらんが」
と不満げ。(見えるんかい)

ドーーーモ、高知県人は台風がお好きらしい。
来る来るゆうて大騒ぎしては、たいした事なかった~といって、不満がる。
来てほしいんか。ホンマはドドーンと来てほしいんやろ!ええ?

今度の台風は鳴り物入りでやってきた。父だけじゃあないはずだ。高知県人はきっと嬉々として台風の準備をしたに違いない。
わくわく、どきどき。くるくるくる。。。、
きっ、、、、、来たああ~~~~~っ!と。

母は言う。
「天が大騒ぎするとあたしはうれしい。あたしをゆさぶってちょーだい」
こらこらあんた、何を不謹慎な。。。よそ様に聞かれたらなんていわれるか。。。


ひょっとして、、、恐怖とワクワクは紙一重なんじゃないか?

ジェットコースターは安全装置が働いてるから、だからワクワクするんだっていう。だけどほんとにそうか?ほんとはいつだってぜったい安全じゃないだろ。バンジージャンプだって、いつ切れるかわからないじゃないか。
絶対安心だから恐怖をワクワクしているわけじゃない気がする。ほんとは、恐怖自体がワクワクなんじゃないか?お化け屋敷行くのと、心霊スポットに行くのは、結局の所、おなじじゃないか?


「あんた、台風が好きなんだとばっかり思ってたよ」
と、ウチのダンナは言う。
わしゃ、台風が来ると怖くて怖くておろおろしていたつもりだったのに、はたから見たら「おもしろがっている」よーにみえたらしい。

とゆーことは、ほんとはわしは台風が好きなんか??本人が自覚してないだけなんか?


ひょっとしたら、母は自分に正直なだけかもしれん。
わしらは恐ろしことがあってはいけない、惨めな事になってはいけない、という善悪の基準がある。だからそんな不謹慎なこと考えてはいけないと思って、ほんとはワクワクしている自分ををセーブしているとしたら、こんなもったいないことはない。


最近は特に善悪の基準がはっきりと現れている。台風が来て多大な被害を被る人のことを考えると、「台風うれしい」なんて、口が裂けても言えない(口が裂けたら言えなくなるが)。そんなトーンがこの世にあふれている気がする。だから素直に自分の意見を言えない空気がある。

だけど心のどこかで恐怖はワクワクとつながっているって知ってたら、もし悲惨なことが自分の身に起こっても、それはチャレンジがやってきたのだ!と受け止めると、それもまたよろこびなのではないだろうか。

運命はひとりひとりにていねいに出来事をくれる。
それは偶然に、だれでもよかったんだけど、たまたまあなたにおこってしまったような悲劇ではなく、何かもっと、ひとりひとりにとっての大きな意味のあるものだ。
去年、仙台で出会った被災された人々にも、そのような何か大事なものがあたえられたような、そんな感じを受けた。それは今思い出しても、心が熱くなるようななにか大きなもの。。。


仕事が干されるかもしれない。のたれ死にするかもしれない。悲惨な人生になるかもしれない。人はそんなふうに考えている間、恐怖を感じている。だけど実際それがおこるとは限らない。いやむしろその確率はものすごく低かったりする。
だけどその間、カラダは震え、ぞくぞくし、場合によっちゃあ、かあ〜っと熱くなり、「生きている!」という実感がある。
まさに台風は風が横なぶりに吹き、大雨が降る。その瞬間、おれは生きているぞお~~っ!という確かな実感がある。


高知県人はそれを味わっているのかもしれない。酒飲んで、おいしいものを食べて、ふっといことゆうて大騒ぎして、大雨大風にうたれて、命を思いっきり謳歌する。

それってニンゲンとしてすごいおもろい人生じゃないだろうか?

今まさに怖がっている自分をふと振り返って、
「ひょっとして今、私ワクワクしてない?」
って、心にそっと聞いてみるのもいいかもしんない。


2014年7月8日火曜日

どこまで行っても主観



フォーカスすれば、いいも悪いも関係なく、そこに存在するかのように見える。
これが多分量子力学の言わんとしていることなんではないか。それにすべてが言い尽くされている。物理学はもっとその奥に互いを引き寄せる「力」の物質が存在していると信じているからもっと「物質」をさぐる。でもそれは「物質」ではなくて、「意識」なのではないか。
いや、ひょっとすると、「意識」も「物質」と言えるのかもしれないが。
いや、そもそも物質は意識なのではないか?

STAF細胞が小保方さんしか作れないのは、彼女の信念が作り出しているからだ。
誰かがそれをやってもうまく行かないのは、そこに疑いがあるからなのではないか。
もし頭のよさそーな、いかにも学者っぽい人が「発見」してたら、みんなはあっというまに「証明」できたかもしれない。
しかしムーミンがそこらに飛んでる割烹着おネエちゃんの発表となると、どっかで「ホンマかいな?」って、つっこみたくなるではないか。事が重大なものだけに、頭の固い学者は疑ってかかる。その「信念」が再現を阻んでいるのかもしれない。

客観性って、本当に存在するんだろうか。だれかが「それは赤色です」といっても、「そうです、それは赤色です」といっても、「間違いなくそれは赤色です」といっても、各々がもっている二つの目から言ってるだけのことで、どこまでいっても主観ではないか。
「あるよね?」って聞いて、「はいあります」っていったり、「いいえありません」って言っても、主観ではないか。わしらは色んなこと疑うくせに、自分の目を疑ったことがない(笑)。
第三者が見たって言ったって、
「それ、自分の目で見てるし主観やん」と、つっこみたくなる。

そもそも「証明できる」ものなどないんではないか?

この世の現象はすべて「証明」されなくてはいけないらしいけど、最近の気象も「前例がない」とか「常識では考えられない」とか言っちゃってるし、じゃあ常識ってなんよ。それかて勝手にパターンを見つけて(パターンがあるはずだと信じているから)それを当てはめただけじゃーん。
だけどおエライさんが言うから「そうにきまっている」ってことになって、こーなったら、こーなるわけで、それが世に言うジョーシキになる。

んで、そーじゃないと、「これはありえない新発見だ!」とか「奇跡だ!」とか「オーパーツだ!」とかいってごまかす。だけど最近じゃそこらじゅうオーパーツだらけ(笑)。

だから、「これが問題だ!」と言って深刻になる必要もひょっとしたらないんかもしれん。こーなったら、じぇ~~ったいこうなる!ってわけでもない。

でも「そうなるに決まっている、そうなるに決まっている、、」
って呪文のように心でず~~~~っと思ってたら、宇宙の力学さんが
「あー、はいはい。ではそのよーに」
って、取りはからってくれるわけさあ。


絵:「お月見」/裏高尾の不思議な仲間たちより
やまんばの住みかは古木のウロの中。月を愛でながらワインを飲む。

2014年7月7日月曜日

あるある大実験



問題定義、問題意識、危機感。
問題を見つけて、その問題を取り除くという行為は、その問題に心をフォーカスしつづけることになる。
そこに問題があるあるあるとおもいつづけ、消さなきゃいけない消さなきゃいけないとおもいつづけると、あーらふしぎ。その問題はいつまでたっても消えないし、むしろのその逆で、どんどん大きくなっていく。

量子力学は最初からそのことを伝えていた。
見るから物質として存在し、見てないとただの波である。

あると思っているから存在し、気がつかないものは、存在すらしない。

わしらは、みんなが共有している三次元の空間の中に解き放たれた物質的なイキモノで、それがあっち行ったりこっち行ったりしていると思っている。しかしほんとは信じているからそれが存在するのようにみえるのではないか。つまり本人が信じているもの次第ということなんではないか?


ある催眠術師が、A氏に催眠術をかけた。術師はA氏の娘さんを連れてきて、娘がいないと信じ込ませるように催眠術をかけた。すると目の前に彼の娘がいるにもかかわらず、
「娘さんはいますか?」と聞くと、
「いない」と答える。
娘さんはそれを聞き、大笑いするにもかかわらず、まだ気がついていない。そこで術師は、彼女の後ろに回って、誰にも見えないようにあるものをポケットから取り出して、娘の背中に押し付けた。
「これは何でしょう?」と術師。A氏は身を乗り出し、娘の身体を見通すかのようにじっとみつめると、
「それは時計です」と答えた。
術師はうなずくと、今度は時計に刻んである文字が読めるかと聞くと、彼は目を細めそこに刻んである小さな文字を正確に読みあげたのだ。
似たような話はいくらでもある。

これは何を意味するのか。それは単に催眠術にかかったからでしょ。といえるのか?物質が確実に物体としてそこに存在しているという前提ならば、
なぜ彼は催眠術にかかったぐらいで娘さんが見えなかったのだ?
なぜその向こうにある物体が時計だと「見えた」のだ?
ついでに、なぜうちの母は自分で背骨を再生したのだ?

じつは物質は私たちが思うほど固くないかもしれない。じつは問題は私たちが思うほど、確実に存在してはいないのかもしれない。

あるあるあるとおもえば、あ、な、た、がそれを存在させ、それを維持させ続け、ことを大きくするだけなのではないか。

いやだいやだとおもうってことは、それがあるあるあると認めつづけることになり、
「あ?そーですか。はいはい。ではそれを存在させ続けておきましょう」
と、宇宙はあなたに計らってくれているだけなのかもしれない。


2014年7月5日土曜日

先客がいるとエンリョする草たち



アメリカと日本の仕事をきのうまでに終わらせて、さあて野良仕事!、、、って、雨びじょびじょ。う~~、畑に行きたい。行けない。ひまだあ~。

さて、最近の畑のようす。
イネ科の雑草が畑全体をおおいつくしているが、以前のように「あなたの姿が見えないわよ」と近所のおばさんに言われるくらいなほどではなくなった。いや、これから夏本番だし今からすごいんだろうけど。
だけどこの畑と付き合いはじめて5年経てば(だったっけ?)、草さんのパターンもだんだんわかってきたので、「お、今が刈り時」って時に軽く作業をすれば、「ぐわ~ん、すげー!」って泣きが入らなくなってきた。

それに草にクズのツルが絡まって一見グッチャグチャにみえる状態も、ぐっとかがんで根元を見れば、あ~ら、意外と足下スッキリなのよねん。やまんばはすかさず根元をバシッと刈り上げる。するとあっという間にそこらはすっきりする。

このあいだも雨の合間に出かけていって、畑の西奥の、山と合体しようとしている場所を刈った。
そこは「いつでも野生に返ってやるぜ」と、やまんばに挑戦を仕掛けるてごわい場所。そこに去年の秋、意図的にそこらに三浦ダイコンの種を蒔いた。ダイコンを収穫しようと蒔いたわけではなく、荒くれ野郎の草たちはいつでも進出してやろうと身構えているくせに、そこに先客がいると「遠慮する」らしい、意外と謙虚な一面をかいま見たからだ。

案の定、冬のあいだわさわさ三浦ダイコンは育った。だが手抜きおばばは間引きもせずにほっぽらかした。するとぐわんぐわんに密集したまま葉っぱだけが大きく成長し、そこら一体を凌駕した。春になってもやまんばはしらん顔。そのまま花が咲き、6月には実がつきはじめた。でもあいかわらずやまんばはほっぽらかしておいたのだった。

いつもなら手強い雑草が生い茂って、その上にクズのツルが這い回り、にっちもさっちもいかなくなるのに、ふっふっふ。私の作戦勝ち。自分の実の重みで倒れた三浦ダイコンのの上に乗っかったクズのツルは、たった一本だけだった。

根元をのぞいてみてもスッキリ。やまんばはがあ~っと三浦ダイコンを刈り込んだ。さすがに間引きしてないだけあって、細っこいダイコンばかり。だからそのまま地面の中にいれたまんまで、上だけ刈って、その種が入ったさやがついたままの枝をハミキリで20センチの長さにバサバサと切って、その場所にまき散らした。

そしてその場を踏んづけた。
最近のウチの畑は、耕すのではなくふんづける。フンズケないと、モグラのトンネルだらけだから、せっかく種蒔いても途中で死んでしまう。それにここまでふかふかだと、やまんばが踏んづけた所で、体勢に影響はないのに気がついたから。

そして去年やっととれた大豆をよだれを垂らしながらつっこんだ。(えこひいきすごすぎ)
エダマメさ~ん、そだっておくれよ~。

さて、そのうちそこら一体は、まき散らした大根のさやから芽がでて、カイワレ大根畑になるだろう。そのうちのどれかが、晴れてダイコンにまで変身してくれるかどうかは、ダイコンさん次第。

2014年7月4日金曜日

観念があんねん



自分で怒っている最中に自分の怒りに気がついている。そしてそれを観察することができるようになったら、きっと何かに気がつくはずだ。
「おれって、いつもこのことで怒ってるよなあ。。」って。
そのとき自分のパターンに気がついている。

人はつい「こんなこと、だれだって怒るに決まってるだろ!」って思って、それについてどうして怒るのか観察することをしない。
たいていはおれを怒らせた誰かのせいにするか、悲劇的なおのれの人生をなげく、とゆーことをやってその場を終わりにする。

それをずっとやりつづけて、苦しみもがくのもそれもまた人生の醍醐味。
だけど別バージョンもある。やってみてソンはない。しかもそれはメチャクチャ面白い。へえ~、自分ってこんなこと考えてたんだ~って、次から次へと自分を発見することになる。すると人のことはどーでもよくなって、もっぱら自分の反応を見つけることに忙しくなる。
「おれ、今自分がマイブーム。」
なんちゃって、外から聞いたら引くよーな状態になる(笑)。

このときその人は、自分の感情に対して、いい悪いという判断をしていないことになる。
ここ大事。
それってわき起こる感情に対して、いちいちジャッジしていないから、その感情を、何も感情をはさまずに(ややこしいな)見ることができるのだ。


怒りは必ずその人がもつ概念からわきおこる。
そのひとがいつのころからか「これはこうあるべき」とインプットした概念があって、それを基準に心が揺さぶられている。怖がることも、悲しみも、嫉妬も、およそネガティブな感情はそこから発生する。
感情は無意識に出て来るえたいの知れない恐ろしーもんではなく、自分を掘り下げていくと、必ずや
「あ、これこれ。この観念が基準になってんねん」
って気がつく言葉があるのだ。

それはホントにたわいもない言葉。
小さいより大きい方がいいとか、少ないより多い方がいいとか、ヘタよりうまい方がいいとか、低いより高い方がいいとか、遅いより速い方がいいとか、小学生でもわかる基準が元になっていることが多い。たいていは二元論である。

はあ?それ?みたいなしょーもないとゆーか、たわいもない観念が基準になって価値観が出来上がる。それがオトナになるにしたがって、どんどん複雑に絡み合って大きく膨らんで、大問題にまで発展してしまうのだ。


2014年7月2日水曜日

自分で出したエネルギーは、自分で受け取るのだ〜。



善悪の判断が今まさに作動しているということは、怒っていたり、心配していたりの、何かしらの感情をともなっている。

それに「気づいている」というのは、その感情に抵抗していないことなのだ。わいてくる自分の感情を、ただ観察しているという状況なのである。

人は感情的になると、ほとんど自動的に怒ってはいけないとか怖がってはいけないとおもう。それが抵抗。
この抵抗こそが、感情をもっと大きくさせている。

あまりにも瞬時に同時に起こっているので、気がつきにくい。

1:ある状況が起こる。

2:瞬時に善悪の判断(つまりその人がもつ概念)がなされる。

3:その判断にともなって(だいたいは『いけないこと』)怒る。こわがる。

4;身体に反応が起こる。(ふるえるとか、かあ~っとあつくなるとか)

5:その反応に抵抗する。(怒ってはいけないと思う)

6:ますます怒る。

以上のような心とカラダの反応が、コンマ1秒単位で起こっている。

その瞬時の心とカラダの反応に、
「あ、今自分怒ってる。。」
って気がついたらシメタものだ。
そ、こ、で、「あ、怒っちゃいけない!」
とおもったら、今までと同じ。

「怒ってるぞ。おお、今怒ってるぞ。おれ、怒っちゃってるぞお。おお、どこまで怒る?」
と、自分の怒り加減をカンサツしてみるのだ。これは抵抗ではない。自分の怒りを受け取っているのだ。

すべての感情は同じエネルギーのようだ。
感情が出たとき、カラダが反応するのはそのため。自分で出したエネルギーを感じている。
だが人はそのカラダの変化にびっくりして、止めようとする。それが抵抗。出たがっているエネルギーを自分で押し殺してしまうのだ。

だけどいったん出されたものは、受け取ってもらわないと消えていかないらしい。いつまでたってもその人の近くにいて、
「ねえ、受け取ってよ。ねえってば」
と受け取ってくれるのを待っているようだ。

だから似たような事件がその人に起こってくる。そこでまた同じような反応をして、
「ほらほら、あたし!おぼえてる?ほらほら、受け取ってよ!」
って出て来るのだ。

んで、同じことでいつも怒っているってことに気がついたら、その怒りに抵抗せず、それに気がつきながら自身で受け取る。
するともう同じことで怒らなくなって来る。これがふしぎ。
「ああ~、そうよ、そうこなくっちゃ!」
って消えて行くようだ。

そうやって人は一つ一つ自分でつけたタガ、つまり善悪の判断によって苦しむ自分自身への縛りをはずしていくようなのだ。

2014年7月1日火曜日

善悪の土俵



わたしたちは、これまでいけないことに目を向けることをしてきた。悪いもの、いけないものがこの世の中と自分の中にある。だからそのいけないものをとりのぞくと、幸せになる、と。そういうものだと教わってきたし、信じてきた。

では、いけないものはなくなったか。
消してきたものは山ほどある。そうだ。今までうんといけないものは消してきたし、悪も排除してきたのだ。
じゃあ、わしらはしあわせになったか。

べつに。
とゆーか、なんだかちっとも幸せにならない。はぶいて取り除いて切ったハッタをして必死でやってきたけど、ちっとも楽にならん。なんでやねん。
いけないものは取り除いてこそ、幸せになるっちゅー法則やったんちゃうんかい!

と、ここまであくせくバタバタやってきたやまんばだったわけだが、なんだかだんだん違う視点をもちはじめたんだ。
いいことといけないことの土俵に立っても、延々とあっちこっちするだけで、ココロの監獄ロックが鳴り響くだけだったんだ。いえ~い。


世の中には、善悪の考えがある。
それは時代によって、国によって、家族によって、コロッコロ、ほんと見事によ。コロッコロ変わるんだ。そんなコロッコロ変わる善悪の価値観の中で、人々はあっちにふられ、こっちにふられする。東に良いものがあると聞くと、行って出かけていってそれを買い求める。西に良い教えがあると聞くと出かけていって、教えをこう。北に良い国があるともてはやし、南に悪い国があるといっては非難する。

どっちにしたって、善悪の土俵の上でハッケヨイノコッタをしているだけなんだ。これってさあ、うおー!ってもりあがれるけど負けちゃったらくやしい。次の試合ではあいつをナントカ倒してやろうなんてぶつぶつ考えている。
つまりいつでも感情的な思いにふりまわされているど真ん中にいるわけさ。だからいけないものを必死でのぞこうとする。

だけど敵はその土俵の中にしかいないのだ。
悪はその土俵の中にしかいないのだ。
私たちはその土俵しかないと教えられてきたから、土俵しか目に入らないだけなのだ。問題を見つけてきては、その土俵にあげて、それと戦う。それが人生だと教えられてきたし、私らもそれが人生だと信じてきた。

だけどやまんばはもう疲れちゃったのだ。いくら悪を倒したって、また次の悪がやって来る。
なんでや?それはじつは自分で悪を「作っている」からだ。それは悪がこの世にある!と「信じて疑わない」からだ。悪をどこからか見つけてきては、「それが問題だ」といい、それを心の土俵上にあげる。そして腕組みをしてウンウン言って、それと戦いつづけているのだ。


違う視点があるのに気がついた。なあ〜ンだ。いままで土俵しかないと思ってたけど、天井も床もあるじゃん。んで国技館の天井に張り付いて相撲を観戦したわけさ。すると自分にはいっぱい善悪の価値観があふれていることに気がついた。そりゃあもー、地球上の細菌の数ほどあるにちがいないとおもえるほどの。
目の前がくらくらした。
「こっ、これを取り除くにはどんだけ時間がかかるンだあ?」と。
だけどね。ほら。「取り除く」と思ってる。思いっきり今までの方法論のまんま。

そう。取り除くんじゃないんだ。取り除くという考えは、土俵の中にいるからだ。
天井に張り付いてみていると、どこかで深刻ではなくなる。
ただそういう考えをもっている自分がいるんだということに、そのつど気がつきつづけるだけなのだ。。。