2014年2月28日金曜日

今、大音響の中で。。。



今、ウチの家の前で、川沿いにある大きなケヤキの木を業者の方々がばっさばっさと切り倒している。ごくろーさんです。

ぐうい~~~ん、
バキバキバキ、
どっしゃ~~~ん(川に落ちる木の音)。

三カ所で同時にやっているので、ものすごい音の中で絵を描いているわけだ。(さっきから絵が失敗しまくり)

今もこーして文章を書いているコンピューターの画面に、後ろで重機が川から引き上げる巨木の枝が映り込む。

ひえ~~~、おっかねえ~。
きっ、気になって仕事にならない。。。

しかし。懐かしいなあ、この音。NYで散々聞きまくった大音響。
ここ高尾では久しく聞かない破壊音だなあ。

どれ、この破壊音の中にしばし身を浸して、冬から春に移行しようとするやまんばのカラダに刺激を与えることにしますか。

(もー、仕事放棄)

2014年2月26日水曜日

自分で自分に罰を与える?



「自分は罪深いから、罰を与えなければならない」
って考え、けっこうあるよーな気がするんだな。

だって、ちっちゃい時から、お仕置きされたし、教室で騒いだらバケツもって廊下に立たされているクラスメート見てたし。
こーゆーことは、完全にインプットされるんだな。

だから大人になっても、いけないことをすると、罰を受けるとおもっている。
それは法律上のことだけじゃない、自分が誰かに「やってしまった」ことでも、自分が自分に「やってしまった」ことでも、逆に何もしなかったことでも、なんでもいいのだ。

ああ、おれはいけないことをした(もしくはなにもしなかった)。だからなんとかして自分に罰を与えないと、いい人間にはなれないんだ。。と。
だけど、またやっちゃうんだな。なんでだろうね。まるで罰を与えるためにやっているよーな。。ヘンタイ的なのよね、人間って。


道に落ちている石コロをみつけて、
「あ~~~っ、あんなところに石があるぞ!あれに足が引っかかったら大変だ。気をつけろ、気をつけろ。もし足が引っかかったら、つんのめって、顔からドッカンとこけるぞ。そんときゃ鼻ぢがどっばあ〜んと出ちゃって、そりゃーもー、最悪なわけさあ~」
って、言ってるうちに、わざわざ石に当たってぶっころぶよーなもんだ。

ほんでもって、鼻血出した自分に、
「ああ、なんておれは注意の足りない、いけない人間なのだ」
といって、次、何の罰を与えるのか探していたりする。

笑える?
でも人のこと言えないんだぞ。
み~んなやってんだから。

だいたい、いけないいけないとおもえばおもうほど、そっちに引っ張られちまうんだな。
「ああっ、石が。石が。石が。。。」
っていってるうちに、石が巨大になってきて、もう道には巨大な石しか見えなくなって、石にぶつかるしかなくなるんだな。

いいことって、なんか引っ張られないよね。

「ああっ、あそこにケーキがある!」
と、道に落ちているケーキを見つける。

「わあ、ケーキだケーキだ!」
って、よろこんでいるのもつかのま、

「ちょとまてよ、なんで道にケーキがあるんだ?なんでそんなに都合よくケーキが落ちてるんだ?そもそも地面にケーキがあったら汚いではないか。あっ!ひょっとしたら、これは毒入りケーキかもしれないぞ。おれみたいなアホが食っちゃうことを目論んで、アホをこの世から撲滅するために仕組まれたワナかもしれないぞ。これは新種のオレオレ詐欺ならぬ、ケーキケーキ詐欺かもしれないぞ!」
とまあ、ホントにアホなことを考えてしまうかもしれないわけさ(そんなことを考えるのはお前ぐらいだ)。

いいことってみつけても、一瞬うきっとするが、
すぐに、
「はあ~?世の中、そんなにうまくいかないよ」
と、物知り顔になって、シラケたり、ジョーシキで測ったり、いや~な考え方に気持ちが引っ張られるのがオチじゃねえか。

え?なんのはなしだったっけ?

そーだ、そーだ。
人は自分に罰を与えたがる話だった。
悪いことに引っ張られ、悪いことをして、自ら罰を与える。

そんな話、そこらにゴロゴロしている気がするなあ。

あなたは自分にしらないあいだに罰を与えてないかい?
その罰は、ほんとうに価値のある罰の与え方かい?
それをずっと続けることに意義はあるのかい?
それは自分を苦しめているだけじゃないかい?




2014年2月25日火曜日

人生うまいこといかなかったら、自分の観念をさぐれ



きのう、畑にいく途中で、近所で畑をやっているオヤジさんたちがいー感じで酔っぱらってるのに出会った。やまんばはその席に呼ばれて、いつのまにかいっしょになって、いー感じに出来上がっていた。高尾山を眺めて、うまい酒をいただいて、唄って、ジョーダン言い合って、そりゃーもー、たのしいひとときだった。

その夜。
寝ていると2回、腰に激痛が走った。
わしは考えた。「ああ、やっぱり来たか」
草っぱらの上で座ってたから冷えたのがいけなかったのかな。。。長いこといたからいけなかったのかな。。。お酒で冷えたのかな。。。
布団の中でまた腰にきちゃった色んな原因を探り始める。
そのうち、調子こいちゃったのがいけなかったんだ。。。楽しんじゃったのがいけなかったんだ。。。いいことがあると悪い事が起こる。やっぱりその法則が来たんだ。。。。

おっと、まてよ。
これって観念じゃないか?

腰に激痛が走った理由を考える。あれやこれや。
理由を考えてどーするのかというと、これからそーならないために、前もって心づもりをしておくのだ。だがちょっとまてよ。いつもそーやってきたじゃないか。前もって、ああならないよーにこーして、こーならないよーにああして。。。
ンで結局またやっちゃってるじゃないかー!

これって、考えた、からそーなっているだけじゃね?

わしらは、観念をつくる。
冷えた(A)からぎっくり腰(B)になる。
とゆー観念をもっている。
AとBは、ほんとうはつながってなかったりする。
冷えたと思っているから、冷えたようにみえる。
と、
ぎっくり腰になると思っているから、ぎっくり腰になる。
というだけなんじゃないか?
よくわからん?

じゃ、これはどーだ?
あたしはブス(A)だからケッコンできない(B)。とゆー考えを持っている人がいるとする。
AとBは、イコールでつながっていない。
だけどそのケッコンできない理由を、あたしはブスだから、というものに当てはめて考えている。

よし。観念をこれ以上分解できないくらい分解して考えてみる。

するとAとBは、分解できる。
A:あたしはブスだと思っているからブスのようにみえる。
B:あたしはケッコンできないと思っているから、ケッコンしていない。

それだけである。

AとBをつなげて考えてるから、ややこしくなるのだ。
自分の中で「信じている」ことが現象化しているだけなのだ。
だから、観念をこれ以上分解できないくらい分解してみるのだ。すると、Aとおもっているから、Aのようにみえているだけなのだ。
けっして、Aとおもっているから、Bになるのではない!(だって、やまんばは自分をブスだと思っているけどケッコンしているもの)


やまんばの中にものすごい量の観念がある。
冷えることはいけない。
ぎっくり腰になることはいけない。
わしは腰が弱い。
調子こいてはいけない。
たのしいことがあると、イヤなことが起こる。
わしは罪深いので、たのしいことが起こると、そのあとに罰を受けなくてはいけない。

これはぜーんぶ、
冷えることはいけないとおもっているから、冷えることはいけないと信じている。
ぎっくり腰はいけないと思っているから、ぎっくり腰はいけないと信じている。
わしは腰が弱いと思っているから、腰が弱いと信じている。
調子こいてはいけないと思っているから、調子こいてはいけないと信じている。
たのしいことがあると、イヤなことが起こると思っているから、たのしいことがあると、イヤなことが起こる。
罪深い人は罰を受けないといけないと思っているから、自分にそれに見合う罰を与えている。。。。。。

ただそれだけなのである。
「信じている」からそうなっているだけである。

ネガティブな観念もポジティブな観念もどっちもかんけーなく、「信じている」モノが現れて来るのだ。

これが観念が感情を作り、想像力をかき立てる瞬間なのだ。
けして先に感情があって、観念が作られるわけではない。

人生うまいこといかないときは、自分の観念をさぐれ。




2014年2月22日土曜日

わしらは自分に正直じゃない



佐村河内さんの一件は、わしらに何かを教えてくれる。
ゴーストライターの方は、ほんとうに勇気のあることをしたなあ。

彼は自分に正直でありたいと思ったんだろうなあ。どんな誹謗中傷を受けてもかまわない、自分にもうウソはつかないと。

これは今のわしらに大きな衝撃を与えてくれる。

わしらは自分に正直じゃない。
やまんばも正直じゃない。でも正直でありたいと心底思う。
正直ってどういうことなんだろうか。

わしらは人に対して本音と建て前を持っている。だけど自分の中にも本音と建て前をもっている。そしてその「本音」さえもじつは正直じゃない。
ありとあらゆる包装紙でくるみまくっているのだ。

これを無意識と言う言い方をして、隠してしまおうとする。
だけどこれは無意識じゃないんだ。意識的にやっていることだったんだ。それを無意識という言葉に置き換えて、「手に負えないからほっておく」ということをやっているだけなんだ。

心の中の、ホントの心は、掘り下げていくと見つかる。必ず見つかる。

頭ではわかっているのに、行動できないことがある。
人は理想を追い求めるあまり、ムリヤリそれをやろうとする。だけど長くは続かない。
そこにヒントがある。「うまくいかないこと」にヒントがある。
な、ぜ、か、うまくいかないのだ。そこで「およ?」っと、気がつく。

宇宙の秩序は、そんな自分の、ほんの小さなことまで、配慮して、行き詰まらせて、本人に気づかせてくれようとしている。

そこには必ず「観念」がある。
人生とはうんぬんという、大きな観念から、冷えると風邪を引くという、「あたりまえ」な観念まで、ありとあらゆる観念にくるまれている。一つの観念からまた別の観念へとどんどん広がっている。
それがわしらをがんじがらめにしている。

観念は感情を呼び起こし、想像をふくらませる。
それを何度かくりかえすと、目の前に物質として現れ始める。それを見て、「ああ、やっぱりその観念は正しいのだ」と確信する。
確信されたものは固定化して、居座りつづける。何年も何十年も。
その観念に気がつかない限り。

だからうまくいかないで、もんもんとしている自分に正直になる。
もんもんとしている自分を真正面から見る。
これはなぜなのだ?なんの観念から来ているのだ?と。

すると一番最初の観念にたどりつく。
ああ、これのせいで動けなかったんだ。。。。。と。

そのとき、山のようにくるまれていた包装紙はどこかに消えている。




2014年2月21日金曜日

真央ちゃん、すごい!



いや~、やまんばは泣けちゃったね。真央ちゃんすごかったね。(まだ演技は見てないんだけど)

きのうのSPでの真央ちゃんの様子が気の毒で、こっちまで辛くなってたよ。
まだ23歳やそこらで、国民の期待を一心に受けて、そのプレッシャーの中で頑張って、結果が出せなくて落ち込んでいた彼女。50過ぎのやまんばでさえ、真央ちゃんの立場に立ったら、死んでしまうぐらい落ち込むのに。

だけどどーだ!一転して今日は!すごい!真央ちゃん自己最高得点取った!
なんてえ心の強い子なんだ。
成績なんか関係ない。すごいぜ、真央ちゃん!おめでとー!



しかしなあ、そろそろ考えなきゃいかんじゃないのかな。メディアでの報道の仕方とか。なんかクレイジーになっちゃってる気がするのはやまんばだけか?
純粋に自分のスポーツをやる、ではすまされないプレッシャーの山。知らない職種の世界に首つっこまされて、大きなお金が動き、色んな人に気を使い、
「負けたらおまえ、どーなるかわかってんだろーなー」、
みたいなものを背負わされる。
ほっといてやれよー!そっとしといてやれよー!

きのうの彼女の落ち込んだ姿は、純粋に自分の演技への落ち込みだけじゃない、もっと複雑に入り組んだ色んな大きなものを抱え込んだような感じだった。

みんなはそこまで非難しないんだろうけど、罪の意識が大きく彼女にのしかかる。自身が打ちのめされる。



世の中、罪の意識がものすごく広がっている。
ネットでもテレビでも新聞でも、なんでもかんでも誰かが悪くって、その悪いヤツを叩きつぶそうとする。
これは映画やゲームの影響が大きいんじゃないだろうか。やまんばの大好きな宮崎駿さんのアニメでさえも戦いがあるほどだ。
だけど超能力や力ではできないから、言葉で攻撃しようとする。

「許せない」って言葉も普通に使われるようになっている。
被害者は加害者を、どれだけ恨んでもよく、どんな罵倒でも許されるような風潮。
見ていてあまり気持ちのいいもんではない。加害者だって人間なのだ。

そういう流れの中で絶対とらなきゃいけないメダル、みたいなノリ。
他人はそうは口では言わないだろう。でも本人がそう思い込んでしまう。

みんな自分に対して罪の意識を持っている。自分自身に持っているが故に、人の罪にも手厳しいのだ。

勝手な世話焼きばばあが、そんなもろもろのことを考えると、彼女の乗り越え方はものすごいとおもう。人間の意識の底知れない強さを教えてくれる。

ありがとう、真央ちゃん。


2014年2月19日水曜日

決死の白菜収穫



れいぞーこに野菜がなくなった。
聞くところによると、スーパーでも野菜の品薄で、入荷すると奪い合いだとゆーではないか。

やまんばの草ぼーぼー畑の、バラみたいに広がったチンケな白菜でも、りっぱに野菜に違いない。大雪のためしばらく行くのをはばかられた畑に、スコップを持っていざ出発。

踏みしだかれた山道から、一つ脇に入ったところがやまんばの畑。誰も踏んでいない処女地の開拓だ。



畑の入り口のドアまで細々とした北斜面が続いている。案の定、そこは雪の吹きだまりになっていて、深さは胸まである。持ってきたスコップでさくさくと雪を落としていく。ここんところの家まわりの雪かきで手慣れたものさ。我ながら南国育ちとは思えぬ。小一時間格闘して、やっと入り口のドアまでたどり着いた。




さて、よろこびもつかの間、真っ白な畑を眺めて考える。
どーやって白菜にたどり着くのだ?

一歩足を踏み入れて気がつく。ふっ深い。。。
スコップでアルペンルートを作りながら前進する体力はさっき使い果たした。しゃーないから、ムリヤリ歩く。ずぼずぼ入って、まるで底なし沼のよーだ。一歩一歩がたいへん。

それでもなんとか畑の真ん中あたりにきた。息が切れる。
確かここらあたりにダイコンが。。。。と、掘ってえ掘ってえ、まーた掘ってえ~(って、炭坑節かい!)と、やってみるがみあたらない。40センチばかり掘って地面にたどり着いたが、土しかない。あれ?ここダイコンの畝じゃなかったっけ?

立ち上がって見渡す。
遠くの方にかすかにふくれている雪が。あ、あれは白菜のこんもりに違いない!ダイコンはあきらめて、白菜に向かって前進する。
掘ってえ掘ってえ、まあーた掘ってえ、と掘り進むと、緑の葉っぱが見えた!ビンゴ!厚さ40センチの雪にぺちゃんこにつぶされた白菜は美しく見えた。なんと花芽まである。雪の中でも成長しているのだ。

よく見ると、雪と地面のあいだにすこーし空間がある。きっと土の暖かさで雪が溶けているのだ。草も元気だ。大地の力はすごいなあ。ひょっとしてこの隙間が雪崩を起こすのかな。

白菜を根元から切るために小屋に道具を取りにいく。やっとこさ小屋までたどり着いたが、ドアがびくともしない。屋根の方を見ると、雪の重みで全体的に壁がたわんでいる。ヤバい。今ここでドアをムリヤリあけたら、屋根が崩れてくるかもしれない。ご近所の車庫がことごとく崩れているのを思い出した。

しゃーないので、白菜を引っこ抜いて、土を落とした。
雪をふんでつけた足跡をまたたどって、畑の入り口にたどり着く。白菜一個収穫するのにこんなに手間がかかるとは。

帰り道、ご近所さんがやまんばがにぎっているものを聞いてきた。

「なあに?それ」
「白菜!」
「え~~~~~っ!」
バラのように広がった白菜でも、かわいい私の白菜なのさっ。


2014年2月17日月曜日

みんなで元気に鬼退治



地域の広報誌の表紙に、なにげなくあった、キャッチコピー
「みんなで元気に『鬼退治』」

子供たちが無邪気に鬼退治をする。着ぐるみを着たかわいい鬼に、豆を投げる。
うんうん、なかなかかわいいねえ。
そーやって、悪いものは、退治されなきゃいけないんだよね。

私たちは、小さい頃何度も聞かされた昔話に自然に価値観を植え付けられる。

鬼は悪いもの。鬼は退治されなければいけないもの。

大人になって心はその価値観に動揺する。

悪玉菌と善玉菌。
悪玉菌は悪いヤツだから退治されなきゃいけない。
悪玉コレステロールと善玉コレステロール。
悪玉腫瘍と善玉腫瘍。
悪玉細胞と善玉細胞。
ブラック企業とホワイト学割。(ちがうだろ)

からだの中には、いいものと、悪いものが、勝手に生まれるらしい。
それは、なぜ?
それは悪い食生活から生まれるのよ。
そう、いい食生活をしていると、悪玉○○は生まれて来ないのだそうだ。

で?いい食生活って何?
それはきまってるわよ。悪いものを取り除いた食事!


人は、お手本のよーな、いい考えや、いい生活、いい身体や、いい形、ほんでもっていい人でないと、
いつのまにか鬼退治されてしまうのだ。

ところで鬼ってほんとにいるの?
悪玉○○って、ほんとにあるの?


自分のカラダに悪いものを見つける意味はなに?

私たちは、なぜそこまでして自分自身をあらゆる方向から否定しなければいけないの?

ほんとは善も悪も鬼も人間の観念が作り出したものだったりして。


2014年2月14日金曜日

インスピレーションは未来の自分が与えている



ふっと心に浮かんだことを「あとから書こう」と思っても、いざあとから書こうとすると、じぇんじぇん書けないもんだ。
ふんとに、「今」しかないんだねえ。
いつ書くの?今でしょ!

とゆーわけで(どーゆーわけだ?)、また雪が降ってます。
南国育ちのやまんばにはひえ~なのだけど、雪国の人にはちょろいもんなんだろうなあ、こんな雪。



ある本に、インスピレーションは未来の自分が与えている、というのを見つけた。
それで「あ?」と思ったのは、コメットハンターの木内鶴彦さんが、小さい時、危機一髪だった瞬間に聞いた「危ないっ!」とさけぶ誰かの声が、未来の自分が幼い自分に送った声だったって書いてあったのを思い出した。

それはスペシャルな人だけに起こる現象ではなくて、フツーの人もじつはひんぱんに起こっている現象なんじゃないかとおもうのは、やまんばも思い当たるフシがあるからだ。

阿佐ヶ谷の仕事場で、忙しさと日本に対するいらだちでもんもんとしていた時に突然頭に聞こえた言葉、「ニューヨークへ行け」。
あれは未来の自分が言った言葉じゃないか?

ニューヨークでくるしい営業の中、ふと目の前を自分が歩いているのを見つけた。
歩いていくうちにどんどんその存在に近づいていって、それとひとつになったとき、
「ああ。私はここにもうひとりの私を置いてきていたんだ。。」
と、はっきりと感じたんだ。
それははじめてニューヨークに一人旅をした私だった。その私の一部を置いてきていたのだった。

理由は何かって?そんなの理屈なんかしらない。カッパのクウじゃないけど、
「わかるからわかるんだ!」なんだな。。。

日本に対するいらだちは、NY生活のおかげで完全に消えてしまった。むしろ日本の素晴らしさを心底教えられた。

他にもある。
小さい時感じたこと。「この世はほんとうに物質として存在するのか」
これは母親からもらった考えでも、父親からもらったものでも、絵本に書いてあったことでもない。突然3歳児の頭の中にやってきた。
それからというもの、ずーーーーーーーーーーーーーーーーっと、そのことが頭から離れない。私の人生はそれをずっと追いかけているようなもんだ。
これもひょっとしたら、未来の私が幼い私にインプットしたことなのかもしれない。


その本は、この今の瞬間に多次元の自分がいる、そしてあらゆる蓋然性の中にあるという。
ひょっとしたら、この世はとんでもなく複雑で、想像を絶する世界の中にわたしたちはいるのかもしれない。

この世に生まれてきた時、ただこの物質世界だけを見てなさいよ~と教えられて、
「は~い、ママ。じゃあ、その世界だけをとりあえず見てま~す」
と、ほんのちっこい、物質があるとされるところだけをみているのかもしれない。

そう考えると、なんだかこの今見えている世界が、おもしろおかしくみえてくる。


2014年2月12日水曜日

どの未来を選ぶ?




ところが、Aさんは、だらしないだけではなく、明るく快活で、まわりの人を喜ばせたり、笑わせたりする人だったりする。だらしないと言いながらも、毎日出勤する人だったりする。料理はインスタントラーメンを作るのがうまかったりする。数あるコンビニ弁当で、どれが一番うまいか知っていたりする。すんげー強いゲーマーだったりする。
他にいっぱい魅力がある人なのだ。

Aさん=「100%だらしないことで出来上がっている人」ではないのだ。

そっちにはなぜかフォーカスされない。
そう、世の中は『問題発見』に忙しいからだ。

おじいちゃんも、おばあちゃんも、おかーさんも、おとーさんも、しゃっちょさんも、せんむさんも、まあくんも、たあくんも、みい~んな、問題発見に忙しーからだ。
問題を発見して、「あっ、これが悪いのだ!」
と、それを取り除くことに忙しーからだ。

さて、その消去方法がホントにうまいこと利用できてるんなら、世の中、こんなにうつの人がいっぱいいるだろうか。
会社で問題発見をしているあいだに、問題が膨らんで、もっとうつの人が生産されてるんじゃないだろうか。

問題はいつも厄介扱いされる。
がんの治療と似ている。
「こいつさえいなくなったら、問題は解決される」と。
だけどまた現れちゃうじゃないか。なんでや?

会社ではじかれる。
こいつさえいなくなったら、会社は建て直すんじゃないかと。
はじかれた人は思う。
わたしのだらしないところさえなくなれば。。。。と。

みい~んな、『問題点』を「取り除こう」としている。
 
事実は、問題意識が、問題を作り続け、大きくしているのだ。

それはまさに、「観察されるものは観察するものの影響を受ける」法則と同じなのだ。
それを見詰めつづければ、それはずっと製造され続け、もっと強化される。
だから問題はいつまでたっても消えないし、消そうとすればするほど大きくなる。

問題だ問題だといいつづけて、取り除こうとうんうんと努力して、結果変わったのは、ちびっと前に進むぐらいじゃなかったか?少なくともやまんばはそーだった。

これが宇宙の法則ならば、それを使って別のことをしてみたらどうだろうか。


Aさんは、快活だ。ここを利用する。

ばかばかしい?

もしAさんが「私は快活な人間だ」とおもいつづけているとどーなる?
仮説は物質化し、立証される。
「ああ、あたしって、あっかる~い!」
と呪文を言い続けていると、明るいことが起こる。明るい人が目の前に現れる。ますます明るくなる。

これ、「わたしはだらしない人間だ」と言い続けて、そうなるのとまったく同じではないか。
そうなのだ。これが宇宙の法則。引き寄せの法則。

一般的な引き寄せの法則は「私はお金持ちだ!」と言いつづけると、そうなるといわれている。だけどそうは簡単にならない。

なぜなら、どっかでウソをついている自分を知っているからだ。だって、お金持ちになりたい人はその前提に「わたしはビンボーだ」って信じているから。信じているものは強化される。「お金持ちになりたい」「お金持ち!」と、単に言葉で言いつづければ、言い続けるほど、ビンボーなことを意識させつづけるのだから。
自分の心は正直だ。心の中にウソはつけない。

だけど、快活なのはウソではない。現に快活なんだもん。

厳密に言えば、Aさんがだらしないのは、彼女の人生の数%にもならない部分なのだ。残りの90%はいい人だったり、思いやりのある人だったりする。

私たちはいけないことばかりにフォーカスしてきた。だけどそれをとりのぞこうとすればするほど大きくなるのだ。(ホントは心の中だけの事実なんだが。)

そのフォーカスの上に未来は作られる。
私はだらしない人間だという土台の上に作られる未来は、だらしない未来だ。
しかし、私は快活な人間だという土台に作られる未来は、快活な未来なのだ。



やまんばは、ずっと、悪いところばかりを見つけてきた。そこを直したら、いい人になれるし、いい人生が送れると信じて。
だが現実は、いつまでたっても問題探しばかりしていた。そしていつもビクビクして生きて来た。

だけどそれをやっている意味がなかったことに気がついた。
もう問題は見つけない。
見つけても決して幸せにはならない。
これをやりつづけても、自分への不平や不満は膨らむばかりだという事実を知った。


まったく気がつかなかったけど、やまんばにはいっぱい達成感があった。
それは押し入れに入っている山のような作品群だ。そのひとつひとつに、明らかに出来上がった瞬間の達成感があったのだ。

それを木っ端みじんに忘れていたのだ。何一つ思い出せなかった。
そのことにある種、ショックを受けた。なんで気がつかなかったんだろうって。

そしてその作品を受け取った、クライアントさんたちのよろこびもまた受け取っていたのだ。作品群の一つ一つに、私だけけじゃなく、受け取った側のよろこびもダブルでもらっていたのだという事実。。。


何を見ていたんだろう。何にばっかりフォーカスしていたんだろうって。。。

すぐ隣に宝物の山が、エネルギーの山がそびえ立っていたのに、私はいけないこと、まちがったことばかりにフォーカスしていたのだ。

それのどっちを使う?
宝の山でしょ!

その宝の山の土台に乗っかって、未来を見たら、どんだけ遠くまで見渡せる???



これを読んでくれているみんなも、みんなそれぞれすごい宝の山をもっている。
人の意見なんか関係なく、個人的な「おれってえらい!」っていうようなすっごい達成感や、ワクワクしたこと、他人が味わえないほどの歓びを感じたことなど、やまんばが想像もできないような宝の山をもっているでしょ!

その上に乗っかって、未来を見ようよ。
その達成感のエネルギーを泉のように次々に沸き起こしながら今を生きてみようよ。

今ここに、ものすごいパワーポイントがある。
それはその自分の成し遂げてきた物の上に乗っかってその感覚を味わって未来に向かうことじゃないかな。

それは絶対傲慢なんかじゃない!
それこそが、この世に生まれてきたことの醍醐味と、宇宙の大いなるものへの、感謝のしるしじゃないかな、と、やまんばはおもう。


長くなりました。


2014年2月11日火曜日

自分へ向けて発する呪文



わしらは何か問題が起こった時、何がまちがっていたんだろう?と考える。
その問題を深く掘り進め、その問題が起こった原因を探る。そしてその問題が起こらないような状態にする。その問題を回避する。そしてそれは解決される。

物理的なものにはたいていそれで対処できるだろう。
だけど心になるとそうはいかなくなる。


部屋の中がぐちゃぐちゃでだらしなーい人Aさんががいるとしよう。
問題は部屋がぐちゃぐちゃだとゆーことだ。だから、
「だらしないから部屋がぐちゃぐちゃなのだ。だからかたづけよう」という。
するとAさんは、
「ハイッ、了解!」
と、部屋をかたづけるだろうか。

なかなか片付けないから、
なだめすかせる。
しかし片付けない。
脅す。
ビビって、片付ける。
しかしそのうちまたぐちゃぐちゃになる。

さて、問題は解決されただろうか。

わしらは脅して問題を解決しようとする。
「そんなふうにだらしないと、社会人になった時、将来ひどいめにあうわよ」
「部屋がぐちゃぐちゃだと、心もぐちゃぐちゃで、人間関係もうまくいかないわよ」
「ケッコンできないわよ」
あらん限りの「脅し」でその人をしばる。

そしてAさんも
「ヤバい。このままだと、ケッコンできなくなる!」
と自分を脅す。
そして「私はだらしない人間だ。これを直さないと幸せになれない」とおもう。
キホンまじめなAさんは、言われた問題点をいつも心で言い続けることになる。
あたしはだらしない人間だから、なおさないと、上司におこられる。
あたしはだらしない人間だから、なおさないと、ケッコンできない。
あたしはだらしない人間だから、なおさないと、。。。。。できない。
。。と。

ほとんど呪文のよーに、言葉にならない言葉で自分に言いつづけるのだ。
これは、「あたしは年いったから。。。」や、「ああ、なんでおれってだめなんだ」や、「ああ、花粉症にさえならなけりゃ。。。」などもおなじことだ。年がいくというものを強化し、おれってだめなんだを強化し、花粉症を強化する。

自分に自分でレッテルをはりつづけるのだ。

言葉は、自分を作り上げる。
言い続けることで、それが保持されつづけ、より強調されていく。
言葉も同じようにエネルギーをもっているので、いった通りに物質化していくのだ。

この物質界の法則はこうだ。
考えたものがカタチになる。「カタチを作る」といったほうがいいか。
それは私たちが2元論でかんがえるような、「いい」も「悪い」もない。
ただ四六時中呪文のよーに考えていることが、目の前に現れて来るだけのことなのだ。

わしらは「問題」をみつけると、それを取り除くのが解決法だと信じている。
だけど、「問題」を心で言い続けていると、その「問題」は、ずっとそこに留まりつづけることになる。

Aさんは、心の中でずっと自分がだらしない人間だと言い続け、それを強化しつづける。
相変わらずのぐちゃぐちゃの部屋をみつめて、
「ああ、やっぱりあたしはだらしない女なのよ。このままじゃケッコンできない!」
となげく。

これは「私はだらしない人間」とゆー仮説を立てて、それを目の前に物質化し、それを見て、「やっぱりだらしないんだ!」と、立証しているだけなのだ。

つづく


2014年2月10日月曜日

自分の中の宇宙



テキがいっぱいいると思う。
いいことと、悪いことがいっぱいあると思う。
これはやってもいいけど、あれはやってはいけないことがいっぱいあると思う。

人々は不安にかられる。
どれが正しいの?どうすればいいの?

答えを誰かに聞こうとする。
きっとどこかのだれかさんが、その答えを教えてくれるはずだって。

テレビに聞く。
情報に聞く。
本に聞く。
その道の専門家に聞く。
私たちは一生懸命、外に聞いてきた。

だけどちっとも幸せにならない。

いっぱい価値観があふれている。
その価値観は日々変化する。
いっぱいテキがあふれている。
そのテキも日々変化する。

その中で、いったい誰と戦おうってんだろう。
その中で、いったいどれが正しいんだろう。


テキはほんとうにいるのか?
そう思い込まされているだけじゃないのか。
絶対的な正しいことってあるのか?
そう思い込まされているだけじゃないのか。

そう信じているだけじゃないのか。


すべてのものは変化しつづける
私たちも日々変化しつづける
一瞬たりとも止まっているものはない。

電子は回転する。
量子も回転する。
物質はいつまでも同じ形ではない。
細胞はつねに変化する。
私たちのカラダも同じ形を保っていない。

すべては変化する。
変化するのが常なのだ。

テキも、価値観もすべて変化する。
答えも変化する。専門家も変化する。

なら誰に聞けばいいのだ?

自分の中にある宇宙に聞くのだ。


2014年2月9日日曜日

高級居酒屋のパクリ



東京じゃ45年ぶりの大雪だったんだそうな。

我が高尾も降ったぞえ。
ベランダの積雪、53センチ。
きたあーっ!
ベランダに分厚い羽毛布団が乗っかってるかと思った。洗濯どないするんじゃ?

どんどん降り積もる雪にワクワクしちゃった。
だけど、なんとその前日にぎっくり腰やっちゃって、大好きな雪かきができな~い。(ウソつけ)

リハビリかねてまわりを歩いてみると、ウチのまわりは除雪車なんか来てないから、道路に軽く50センチの積雪が広がっている。車なんか出せやしない。
いつもは静かな通りにご近所さん全員が出動していた。雪かきで大変そうだけど、みんななんだかうれしそうだったな。子供みたいにはしゃぎたいねえっていってた。

「いやあ、すんごい雪降っちゃったねえ」
独身貴族のオヤジが言う。
「でね。あんまりキレイなもんだから、さっき雪食ってみたのさ。ジュースに入れてね。うまかったなあ」
「そりゃあ、優雅でいーですねえ」とやまんば。
「だけどこんな雪じゃ、買い出しにも行けない。冷蔵庫空っぽだよ」
「じゃあ、雪で煮物でもしたらどーですか?」
と、ボケをかましたら、ウケてくれた。

畑までムリヤリでかけた。途中、道に吹きだまりができてて、腰まで雪に埋もれた。リハビリどころの騒ぎじゃない。やっとのことでたどり着いたら、畑の入り口のドアが開かない。雪に埋もれていた。(あたりまえじゃ)しゃーないので、遠くから畑の野菜さんたちにご挨拶した。



話は変わって、先日友だちが高知から出張でこっちにきてて、誘われて品川の高級居酒屋に行った。
そこのメニューがうまくって作れそーだったんでメモってみる。

これはチャンジャのクラッカー。お店ではお麩をかりっと焼いたものだったけど、クラッカーでいけるはず。チャンジャの強烈さがクリームチーズのまろやかさでちょうどいいバランスになっていた。

わしならチャンジャの代わりに、高知の酒盗を乗っけるな。
いけると思わない?

お次は、オイルサーディンの南高梅のせ。
そっかあ、なるほどね。
だって鰮と梅干しって、煮物に使うじゃん。相性いいはずだよな。
その下に水菜を敷いておけば、あっさりと濃厚がちょうどいいハーモニーになる。これもモーライッと。

やまんばは高尾の山の中でばっかりくすぶってるけど、たまにはお街でこーゆー刺激もいいね。

あ、それから、おきにいりのゆずダイコン。あの、おつゆの使い道を発見した。
畑にあるスが入って使い物にならないと思ってたダイコン。いちょう切りにして、このゆずダイコンで出たおつゆに、醤油をテキトーに混ぜて、つけ込むといい感じになった。ちょっと重しをしておくといいかも。
三日ほどでい〜感じの新たなお漬け物ができる。




2014年2月7日金曜日

アナスタシアの子育て



彼女はシベリアのタイガの森の奥で、ひとりで男の子を産み育てていた。

その子育てがすごい。
男の子は雌クマの脇の下ですやすや眠り、起きて草原におりるとうんちをする。そのうんちがついたおしりを、雌グマがなめてあげる。彼女の仕事はそこまで。今度はオオカミがやってきて、昼間の世話をする。はいはいをしながらオオカミのところへ行き、口の中に手を突っ込んで、牙を触ってもオオカミはされるがまま。
さっきクマの目玉が気になって触りにいったときも、雌グマはいやがらず、さっとまぶたを閉じるだけ。あくまでも彼の行為に任せている。

アナスタシアははいはいをしながら途中で彼が虫を触っても、花を触って花粉をなめてもやめさせない。彼がやりたいようにさせている。彼がその中でこれはまずいもの、これは安全なもの、と自然に学んでいくに任せている。そして彼がおっぱいを飲みたくなって来たい時に来させる。けしてはいはいの途中で抱き上げて、おっぱいを飲ませたりしない。
彼という一人の独立した人間として尊重して育てている。彼は草原ではいはいする中で自然を学び、花を眺めて宇宙を知る。そこに人間の親の介在する場所はないかのごとくに。


これは現代社会を生きるニンゲンにとってびっくりしないか。
だって、子育てはことごとく子供の行動を管理しようとする。
草の上をはいはいしたらばい菌がつくとするし、虫なんか触ろうもんなら、おおさわぎする。好きな時にだっこして、親の都合でおっぱいをのませる。ましてやクマの脇の下でおねんねさせようとする親なんかどこにもいない(笑)。

彼女は子供をまるで神のようにみつめる。あそこに神様がいるわ。と。
すべてを知っている神がいる、と。

やまんばがまだはいはいしていた頃、あるとき真っ黒く大きなヒモのようなものを触っているのに母親が気づいた。よくみると、大きなアオダイショウの頭をなでていたのだそうだ。母親はびっくりして私を持ち上げたそうな。

そのときやまんばは何を見ていたのだろう。そのアオダイショウと何を話していたんだろう。そこに宇宙が広がっていたに違いない。

アナスタシアの子育ては私に何かを確信させる。
私たちが自分の行為にいちいち否定的になるのは、ここじゃないか?

触ろうとすると、とめられる。行こうとすると、行く手を阻まれ、欲しくないおっぱいをもらい、寝たくもないのにムリヤリ寝させられる。

これはどういうことになるのか。
好きにやろうとすれば、ダメダメといわれるということは、好きにやってはいけないとおもいこむんじゃないだろうか。
つまり、何をやるにも誰かのオッケーをもらわないとできない。なにかやるにも、誰かの顔色を見て、その誰かが「いいわよ。そうしても」と言われないといけないとおもいこんでしまうのだ。

もちろん、今の子育てが悪いとか、じゃあ、クマの脇腹で育てろというのかってなはなしじゃないんだ。
もっと自分自身に引き寄せて考えることなんだ。

人の目を気にして、人の判断に委ねて生きている私たち。それは生まれてきた最初のころ、やろうとすることをとめられたところにあるかもしれないっておもうんだな。
しかももっと重要な影響がある。
私は親のゆう通りしないと生きていけない、小さな存在なのだともおもいこんでしまう。小さくって力のない、誰かの言うことを聞いて生きていかなきゃいけない存在なんだって、信じ込んでしまうのだ。
なんてえこったい。

じゃあ、親に文句を言え!ってな話になっちゃうと、親も困るんだな。
親だってそうやって教わってきたんだもん。

たぶんね、私らは、その最初の、『絶対的自分への否定』を受け入れて、それを乗り越えると決めて生まれてきた存在なんだ。
アナスタシアの息子よりも、もんのすごーーーーい高いハードルを自分に課して生まれてきた、いわばエリートなんだよ。だってそーでしょ、最初っから自分を否定せよと教えられてきたんだ。そこから自分を肯定することを学んでいくのって、すごい力を産み出せることじゃない?ゴムはすごくひっぱられると、おもいっくそ反対方向に飛んでいくじゃない。それそれ。

やまんばが今夢中になってることは、自分を肯定することなんだ。
ばかばかしい?
ところがどっこい、これがものすごく奥が深い。
「ああ、それって自己肯定感があればいいんじゃないの?」
とかそんな次元じゃない。

自分をありのまま受け入れるとは、宇宙を知ることにも繋がるんじゃないかとおもっている。


2014年2月4日火曜日

確率ってなんだ?



数字が一人歩きしている気がする。

30年間に東京に地震が来る確率が60%とか、あなたが認知症にかかる確率は37%だとか。。。。
この数字をいったいどのよーにしてとらえればいーんだ?

びみょ~じゃね?

60%だからそなえればいーのか、37%だからるんるん気分でいていーのか、はたまたぜつぼーてきになったほーがいーのか。。。

なんか確率ってさあ、だまされてる感がね?

ことがおこったら、
「ホーラ、言った通りでしょう!」
と威張られそーだし、ことがおこらなかったら、
「ホーラ、言った通りでしょう!」
と威張られそーだし。
どっちに転んだっていかようにも解釈できるし。
けっきょく言ったモノ勝ちってかんじじゃね?

だけどうぶな庶民はそのお偉いさんが言った確率的数値を聞いて、右往左往させられてる。

やばい!60%もある!
やばい!37%もある!って。

たとえ、それが99%って言われたって、そうならなかったら、
「ホーラ、あなたラッキーでしたねえ、1%の確率に入ってました!」
と言われるのがオチじゃねえか。なんかバカバカしいなあ。

数値って人をふりまわす。
けど結局、なったらなったときのことだし、ならなかったらならなかっただけのことだ。

その前に右往左往するほーがよっぽど、エネルギー使うし、イヤな方に引っ張られるし、疲れ果てる感じがする。

情報ってあればあるほどいいみたいだけど、ときには必要以上に人を混乱させることにもなるね。


2014年2月2日日曜日

うんちくじじいとジャガイモ



ルッコラの花芽が出た。やまんばの畑にも春が来ている。
畑の近くで梅の花の匂いをかいだ。一本の梅の木だけ花が一割咲いていた。
鼻水が出ろ~ンと出る。
来てます。
やまんばのカラダにも春が来てます。

は~るがき~たあ、は~るがき~たあ、ど、こ、に、きたあ~。
う~めにき~たあ、畑にき~たあ~、鼻にも~、きたあ~。
ハックション!

あるがまま、あるがまま。変化を楽しむ。
(と、自分にいいきかせている)

きのうジャガイモを植えた。早過ぎ?でもいーんだ。なんかダイジョブそう。だって、土の上に転がっているジャガイモは寒さのせいで半分溶けそうになっているけど、土の中のはぷちぷちと元気なんだもん。

秋口に収穫しようと掘り起こしたジャガイモはみすぼらしーぐらいちっこかったんで、そのままほっといたんだ。こないだ掘り起こしてみるとおっきくなっているじゃないか!土の上にある茎はしおれてしわしわなのに、土の中のジャガイモは大きく育っていたのだ。
はやく教えてよ~、そんなラクチンなこと。
ンで、それは種芋にする。

今回はちょっとちがうことをやってみる。
いつも浅めに植えてたんだが、スコップでちっちゃい穴をほって、深めに入れる。そんでもってその上に畝のわきの土をとってかぶせて畝を高くし、その上に枯れ草を山盛りのっける。おわり。

土がむき出しになっている畝の中のジャガイモと、枯れ草に覆われている畝の中のジャガイモが、大きさがちがうことがわかった。枯れ草の下の土は空気が入ってホクホクしている。そこのヤツは大きい。反対に土がむき出しのところの畝の土は堅いし、ジャガイモもあまりおおきくなってない。

枯れ草が何かヒントをくれる。
土と草の間で菌が繁殖するのか、生き物が活躍するのか、それとも温度が変わるのか、何かの要素で土の中に空気がほんわか入っている。その中でジャガイモさんは大きくなっているみたいだ。
やっぱりキホンは空気と温度と少しの水、ってかんじかな?

深く入れると、寒さにやられない。だがそんなに深く埋めて芽が出るのかな?っておもう。だけどきのう近所のうんちくじじいに聞いた。
「浅めに植えるとよお、早くに芽が出ちまうだろ。すると遅霜にやられちまうんだよ。だけど、深く植えときゃ芽が出るのが遅いから、霜にゃあやられねえ。」
やまんばは去年の春、遅霜にやられたジャガイモを思い出した。そうだ、浅く植えたんだ。
しかもジャガイモは、種芋の上にできる。浅いとすぐ土の上に出ちゃうから芋ができない。だから土寄せをするんだ。するってえと、最初っから深めに植えときゃ、土寄せしなくていいじゃん。

やまんばみたいに草ハヤカし放題の畑は「土寄せ」がたいへんなのじゃ。かんじんの「土」がちっとも表に出てないから、草抜いて掘り起こしてとらにゃならんから、そりゃーもー、めんどくさい。だったら最初っから深く植えるダよ。

ほんで、もう一つ、うんちくじじいのコツをおしえてもらった。
「芽がある方を下に向けるんだよ。半分に切ったジャガイモを下に向けるんだよ。そーすりゃあ、そのぶんだけ茎が長くなるだろ。」
「あっ」
「そーよ、いっぱいできるわけさあ」
「なあ~るほど!」

捕らぬタヌキの皮算用に舌なめずりするやまんばであった。