2014年1月28日火曜日

春仕様のカラダ


 
この寒空の中、庭の梅がつぼみを膨らませはじめている。

きのうあたりから、やまんばのカラダの様子が変わってきた。
左側の歯、全体が痛い。
この際、テイコーせずに、痛さを感じてみる。

ぐ~っ、ぽそぽそ。じ~ん、きりきり。。。
うん、来た来た。上の方から下に移動する。するとまた上の奥の方に痛みが移る。そーやって痛みが移動するのがわかる。おお~、おもしろいぜえ。ワクワクしながら感じていると、いつのまにかうとうとする。はっと気がつくと消えている。

鼻水が出始めた。おとついまで全然出てなかったのに。

今朝は異様に寒い。外気温を見ると、マイナス4度。もっと温度が低い朝もあったのに、今日はなぜか体全体が寒い。皮膚のまわりに冷気を感じる。鼻をかむと鼻水がいっぱい出た。

はは~ん。春が来てる。
やまんばのカラダが春仕様に変わろうとしている。

それまで冬仕様のカラダだった。カラダから熱を逃がさないようにカチッと固めていたのだ。それが春を向かえるにあたり、カラダに次の季節へのスイッチが入ったようだ。春は緩む。やまんばのカラダも緩みはじめている。毛穴の一つ一つがひらきはじめているのだ。そこに冷気が入り、寒さも普段以上に感じるんじゃないだろうか。
きっと鼻水もそれにあわせて出して、わしらのしらんところで調整をしているに違いない。

やまんばの長かった花粉症及びアレルギー生活の中でわかってきたことは、テイコーがすべてを不幸にするってことだな。


『あるがまま』ってすごい言葉だ。
あるがままってさあ、あっちはあるがままでいくけど、こっちはあるがままにしないって、区別することじゃないようだ。
ほんとに、あ、る、が、ま、ま、でいることのよーだ。

やまんばはそれまで、春になると、ひえ~、眼がかゆい!喉がかゆい!鼻水が出る~!鼻水が出ない!息ができない!死ぬううううう~っ!って、大騒ぎしてた。石けんなし生活のおかげで、喉がかゆくなることはなくなった。しかし眼がかゆいのと、鼻水や濃厚な鼻汁が出ることのくるしさはかなり改善されたが、すべてではなかった。

こっから先は、もう物質で「ナントカ」しようとする次元ではない。
あ、今眼がかゆくなった。今ここにないにもかかわらず、いやだったことを思い出している!これは梅干しと聞くと、ツバが出るのと同じ原理だ。



意識の次元である。
起こったことにテイコーする。これが症状を大きくする。

じつは「症状」という言葉によって、症状=悪だというニュアンスを含んでいる。
じじつは、その「悪」にテイコーすることによって、それを実際以上に大きく感じているということだ。
それによって、量子力学でいけば、カラダもそれにあわせて大きく現象化する。

1;変化がおこり、
2:その変化を「悪」と受け止める。
3:そしてそれにテイコーし、
4:取り除こうとする。
5:意識がそれを大きく見せ、
6:現象化する。

こーゆーことが、やまんばのカラダに起こっていたのだ。

では、あ、る、が、ま、ま、でいくと、

1:変化がおこり、
2:その変化を「春仕様ねえ~」と受け止める。
3:そのまま「春仕様」のカラダに移行する。
以上!

どおよ。

2014年1月26日日曜日

河童のクウがいーな〜



きのうアニメの「河童のクウと夏休み」を見た。
カンドーしちゃったなあ。河童のクウがめっちゃかわいかった。キャラクターのかわいさと動きのかわいさがあいまって、ホントにいるみたいだ。
以前図書館で借りた本が、「こりゃ、めちゃくちゃおもろいわ~」って感動してたものが原作だった。知らなかった。

やまんばは、河童や天狗やぬらりひょんや座敷童やあかなめや、わけの分らん生き物が大好き。どーやって生きてるんか、何してるんか、何考えてるんか、さっぱりわからんものが大好きや。
そんなこと言ったら、植物も昆虫も動物も、何考えてるんかさっぱりわからん。そこが大好きや。

わしがここ高尾が気に入ってるのは、その、わけの分らん世界が生で広がってて、まるで日本昔話の舞台そのものだからだ。道ばたのお地蔵さんの後ろからひょっこり河童が顔のぞかせそうだし、うっそうとした樹々の枝に天狗が乗っかって、こっちを見ているみたいだし、その絵本の世界の中にそのまますっぽりと入って、やまんばまでがそこの主人公のように思えてくるからだ。

そーいえば、わしがずーーーっと心の中でだいじにしている舞台は、幼稚園から小学3年までいた高知の小さな村だった。そこを起点として、いろんな妄想が広がっている。時々出かけていって、その空気をひそかに味わって帰る。そこはやっぱり物語の舞台のよう。

人間ってさあ、もうだいたいのことは「知って」しまったかに思っている。だけど、なんだかちがうよーに思えるんだな。ホントはちっとも知らなくて、むしろ人間より劣っていると信じられている木や動物や昆虫や妖怪のほうが、人間が知らない、まったく見てない、ヘチの方ばっかり見てしまって気がつかない部分を、がっちり、しっかり、知ってんじゃないだろうかって。

河童のクウは、時々へんなことを言う。
「これはとーちゃんの腕だ!」
「なんでわかるんだい?」と人間。
「だって、わかるんだからしょうがねえよう!」

「この手紙を書いたのは人間じゃねえ」
「え~、なんでわかるのよ。ただのイタズラかもしれないじゃない」と人間。
「みればわかるんだ。そうしたほうがいいってこともな」

人間は理屈で考える。これはこうだから、こう。それにはこーいう前例があって、「科学」でこーゆーふうに「証明」されてて、、、というふうに。
だがその「お科学さま」だって「あんれれれ?なんかちがってるう?」ってことが日々更新されてんじゃねえか。そのお科学さまを信仰しすぎて、世の中こーなっちゃった。

クウは心の中がしずかだ。人間は心の中がさわがしい。

科学ではこうなる、理屈ではこうなる、ああじゃない、こうじゃない。そうやって心の中で考えて考えて考えて。
たぶんクウは、考えてわかったんじゃない。
ただ「わかった」んだ。
そこには理屈も科学もない。
人間の直感は、どんなコンピューターよりも速いと聞く。そんな時左の脳を使っている暇はない。どっか知らないところから、ふいにおりて来るのだ。ふいに「わかる」のだ。
それは心を静かにしていないと聞けない「声」なのだ。

今の時代、徹底的に「頭で考えろ」と畳み掛けてくる。そっちに向かえば、ほとんど自滅に向かう。それは直感で「わかる」。

河童のクウは、なぜか迷いがない。じっと考えて、臨機応変に対応する。
彼は何か大きなものをつねにつかんでいて、それとともにあるように見える。

自我というか、思考というか、左の脳で考えることと共にいるかぎり、答えは出せない気がする。それは生まれてから教えられたことだけだからだ。考えないと不安になるから考えてなんとかしようとする。けれども、そこから導き出されるものは、混乱しかないようにおもえる。

とーちゃんの腕をおおさわぎして科学でDNA検査したところで、
「ああ、それはクウのとーちゃんの腕だ」とわかるだけだ。
だけどクウの心の中は、もっとたくさんのとーちゃんとの豊かさであふれている。それがとーちゃんの腕だったというちっぽけな現実を証明することだけじゃないのだ。

やまんばもクウのように心静かに、なにか大きなものをつかんで、いつもそれとともにいよう。


絵:「孫カッパ」やまんばが描くカッパだぜえ〜。スマホケースになってるよ。


2014年1月24日金曜日

モーニングノートは、なんだかが、なんだかなのだ。




キホン、いーかげんな、三日ボーズのやまんばが、フカクにもなんだかまじめに書いちゃってんのが、モーニングノート
今日もこいつのおかげで助けられちゃったもんね。

スンゲーことに気がついちゃった。
個人的なこと書いていーのかな?チョー個人的なことだぞ(いつも書いてるじゃねえか)。いいのかな。。。
まっ、人様にすりゃ、なんてえことないわな。「へ?それだけ?」てなことだな。
じゃあ書く意味ないか。
 
。。。

とまあ、そんなわけで、モーニングノートはすごいわけよ。
(なんじゃそりゃー!)


不快なことって、突破口なのさ。そこにすごい秘密がある。

人が人生を幸不幸で判断するのは、そこに感情がともなうからだ。人は感情をとおして人生を体験する。人生は感情体験だ。しかしいや〜な感情をウハウハ喜んで受け入れるやつは、悟ったヤツか、ヘンタイぐらいなもんだ。凡人は不快がいやだ。だけどその不快は、チョー個人的なとてつもない秘密を隠し持っている。ここはパンドラの箱。その向こうに何かの突破口がある。

不快は自分を制限させるような、閉じ込めるような、がっちりと閉じられたドアとか、重たいフタみたいなもんだ。人はその中でもがき苦しんでいる。

モーニングノートは、その不快を不快として自分で受け止める作業をうながす。書くことによって、それを外に誘い出してくれる。
モーニングノートは、その重たいドアを、銭湯ののれんみたいに、やすやすとくぐれるものに変えていくのだ。

するとなんだか、どーゆーふーに作用するのかさっぱりわからんが、ぱたぱたと次の言葉が生まれでたり、頭に「あん?」と何かがふって沸いたり、なんだかが、なんだかなんである。

こりゃ、人に相談するよりも数倍、いや数百倍てっとりばやい。
しかも個人的な心の問題なんて、人にそう簡単に説明できるもんじゃない。あれがこーなって、それがあーなって、っていってるあいだに、
「あーもうわかんなくなっちゃった。あたしが言ってる意味わかった?」
「へ?さっぱり。」
と返って来るのがオチじゃねえか。

答えは自分の中にある、なんて名言があるけど、そのまんまやないか!
内側のもんは、内側がよーく知ってるわけだ。それをわざわざ人に伝えるために日本語とゆー翻訳機にかける必要もない。感情的に走り書きしている中で、なんだかがなんだかに変換されていくんだな。
なんだかちっともわからん説明だな。

どーも心の中はなんだかがなんだかなのだ。


絵:「エルザ」表紙イラスト/「ギリシャの部屋」




2014年1月22日水曜日

でろでろが追っかけてくる





感情的になることはいけないっていうよね。
この「いけない」っておもってることが、よけいにその「いけない」とゆー感情を膨らませているんだな。

感情には、「いい感情」と「悪い感情」があるとわしらはおもっている。
感情的になることはいけないとゆーその感情は、
うきうきや、ひゃっはー!なことよりも、
でろでろどろどろむかむかいらいらきーきーおろおろ、の、ほーに向けられている。

しかもそのでろでろのほーが、なんだか種類が多い。
だから感情的になってもいいことよりも、いけないことのほーが多くなってくる。

感情はエネルギーだ。
自分の心の中に爆発するエネルギーが出てきた時、ひゃっはー!は受け取るが、でろでろは受け取らないということをやっている。
いいこととわるいこととゆー二元論が、受け取ることと受け取らないことを作っている。
だけど出てきたエネルギーは受け取ってほしがっているのだ。

「あたし、出ちゃった。ねえ、受け取ってよ。」
といっている。

ひゃっはー!は受け取るからオッケー。そのまま消化されて終わり。
しかしでろでろがでちゃうと、
「え~、もらってもなあ。。。」
と、躊躇する。
「えーっ、でちゃったんだから、受け取ってよ!」
「い、いやだ、、、、」
「だめえーっ!出ちゃったんだから、受け取ってくんないと、あたしどこいったらいーのよー!」
と、でろでろがキレる。
するとますます手に負えない感じになってきて、
「げげげー」
と、逃げ出す。
逃げると追っかけてくる。ますます逃げる。ますますでろでろがおっきく感じる。
「やめてくれーーーーーーーっ!」となる。


それ、逃げるからおっきくなるんだよ。
なんで逃げるかとゆーと、い、け、な、い、と思ってるからでしょ。なんでいけないとおもっているの?
エネルギーにいいの悪いのってある?だってエネルギーなんだもん。エ、ネ、ル、ギ、ー。

マジンガーZってすごかったじゃん。すごい力だったじゃん。スーパーマンってすごいエネルギーだったじゃん。エネルギーを受け取るってすごいことじゃん。

怒りはエネルギーなんだ。
恐怖もエネルギーなんだ。
嫉妬もエネルギーなんだ。
不安もエネルギーなんだ。
哀しみもエネルギーの溢れ出る瞬間なのだ。

これを受け取って、自分に注入しないでどーする。
車にガソリン入れるとばんばん走る。いわば感情はガソリンみたいなもんだ。しかも入れれば入れるほどパワフルになるのだ。いくら入れても満杯にならないほど巨大な身体をもっている私たち。
どんどん注入してしまおう。どんどんマジンガーZになろう。

ふりかえると、でろでろがそこにいる。
そのまま受け取ろう。
そのとき、「あっ。。。。」
と、エネルギーの息吹を感じるだけ。
でろでろは消えていなくなる。



絵:「エルザ」:ベニス/表紙イラスト



2014年1月21日火曜日

仕掛けのほころび



小説はほんとうにあるがごとくに書くのよ、とかなんとか誰かが言ってた。
そう、この世もほんとうにあるがごとくに仕組まれている。

まさかこれが幻想!?と、およそ信じがたいほどに、まさにハリウッド映画のSFX技術のすごさのように、見事な演出によって作られているのだ。

そのシナリオは生まれてくる前に自分自身が作って、今も次々に作り出し続けているんだけど、ほとんどの人がその自分に演出したことを気がつかないまま「こんなことのぞんだわけじゃない!」といいつつ死んでいく。ここまでだまされるほどの演出って、すごいSF作家だ!すごい小説家だ!

んで、その中のほんの少しの人が
「あれ?これ、なに?」
と、へんなところに、仕掛けのほころびを見つける。まさかこんなところになんでこんなものが。。。?
押し入れの奥の、そのまた奥に、着物のほころびのよーに、一本の細い糸がたれている。
その糸をブンとひっぱってみる。

するととたんに今まで存在していたものが、いきなりバタバタと音を立てて崩れて消える。目の前にはまったく違う世界が広がっている。
そこでその人は、
「なあんだ。今までのは夢だったのか」
と、言う。

それを経験した人が、ブッダだったり、名もない、歴史にものぼらない人々だったりするんだろうな。

2014年1月17日金曜日

ケンコーオタク



やまんばはケンコーオタクだった。
あっちに身体にいいもんがあると聞けば、走って買いにいき、こっちに身体にうれしーもんがあると聞けば、電車に乗って買いにいき、そっちに身体にやさしーもんがあると聞けば、ヒコーキに乗って買いに出かける。そーやって、ケンコーオタク歴、はやウン十年。

ンで、あっちゃこっちゃ走って買いにいった結果、
ケンコーのためになるとゆー意味で、身体に永遠にいいものは、『物質』としては存在しないと結論づけた。
これ、まったく個人的な結論。人によってちがうかもしれんのでよろしく。

物質に関しては、あれこれと足すことよりも、減らすことの方が、結果的に身体にやさしい。
そしてほんとに身体にいいもんとは、、、、、、
心のありようだ、

とゆー、結論に達する。

どひゃー。それって、「病いは木から」
ちがーう!
「病いは気から」
とゆーことじゃないの!

。。。。。

どーも、そのあたりにありそーな気がしますです。

『善悪』とゆー、判断が、何かカギを握っていそーな気がしますです。

それが人を激しく感情的にさせ、心のバランスを欠き、不安定にする。
心は身体に作用し、ありのままであれば、人間の身体は自動的に自然な働きに調節してくれるものを、不安定な心の状態が自動的に治す力を阻害し、身体はアンバランスになる。

病いは心のあり方を教えてくれるメッセンジャーだったのだ。


2014年1月14日火曜日

そーいや、喉の痛みを忘れてる



のど飴をもらった。
食べるとショウガの味がした。
久しぶりだなあ。ショウガ味のアメちゃんなんて。

昔ニューヨーク時代にチャイナタウンのスーパーで、必死になって買いあさって食ってたなあ。あっちはキョーレツに乾燥してたから、喉の痛みはハンバなかった。
石けんなし生活をあの頃知ってたら、あんなに必死になって買って来なくてもよかったんだよなあ。
歯磨き粉やめただけでこんなに変わるなんて。単になんにもつけない歯ブラシで同じように磨いてるだけで、こんなにいろんなことが楽になるなんて。

今じゃ、どんだけ空気が乾燥しようとへっちゃら。
一晩中口をあんぐり開けて寝て喉がからっからになろうとも、ちいとも喉が腫れたり、いたくなったりしないもんね。
めったにないけど、ちょっとイガイガしたら、つばをうんと溜めて喉に流す。すると勝手に潤って、なんともなくなる。

いやいや、人間がもつキョーレツなバランス力と治癒力には脱帽致します。

石けんなしは、いろんなもんを教えてくれる。

ひとってさ、何か不都合な事が起こると、「なにかしなきゃ!」とおもうだろ。だけどひょっとしたら、「なにかする」ことによって、よけいにややこしくしてて、素直に治るもんもよけいに遅くしてたりしてね。
不都合な事が起こったとき、「なんにもしねえ」とやってみるのも手かもよ。

プラス思考じゃなくて、マイナス思考。
何か足す思考じゃなくて、何か減らす思考。
降参する。
もー、お、て、あ、げ。
するとシンプルでダイナミックな人生が見えてくる。

2014年1月11日土曜日

自分の心とはずーっとのおつきあい



ここんところ、ブログを更新してない。べつに更新しなけりゃいけない法律もないんだけど。

書きたいことは山ほどあるんだけど、書きたくない理由も山ほどある。
書きたいのに書きたくない。どっちやねん!

いやいや、ひとは相反することばをいつも心の中でもっているものなのよん。

よ~く自分の中を観察してみると、好きなのにキライとか、やりたいのにやりたくないとか、ない?

ンでやりたい理由は、ただやりたいだけなのに、やりたくない理由は山ほどあって、じゃあ理屈で考えりゃ、やらなきゃいいじゃん!
なのに、でもでもでも、どっかでやりたい。。。ってなかんじで、イングリモングリしてる。
ややこしい生き物なんである。



たとえばさあ、黙示録なんてあるじゃん。
あれ怖がりながら、どっかで来てほしがってたりしない?
来てほしくないのに来てほしい。

なんでかっちゅーと、この世は矛盾に満ちている!こんな世の中はなくなってしまったほうが地球のためだ!とかなんとか言っちゃってみたりする。

でもしょーじきゆーと、日々が退屈だったり、お金がないくるしさだったり、ダンナがうっとおしかったり、イングリモングリするがゆえに、えええ~~~~い!こんなあたしの世の中、なくなっちまえ!的な、とっても個人的なウサバラシだったりしない?

だけどさあ、実際大災害がおきたところで、生きていればやっぱり同じ問題を抱えるわけよ。

友だちが被災地に心のケアのボランティアに行ったのだけど、その相談事と言えば、被災の問題というよりは、ダンナや隣人のグチだったのだそう。

これって何をか言わんやじゃね?

どこに行ったって、何が起ったって、結局つきまとうのは、自分自身の心。この心とはずーっと付き合っていかなきゃなんないわけよ。物理的に成功してお金持ちになろうとも、ウチュー人が来て、すんばらしーテクノロジーをもらったとしても、それが幸せに繋がるわけじゃない。物質の中に幸せを見つける時代はもうおわりなのだ。

内側の、チョー個人的な心の中に真剣に入っていかないかぎり、その問題は解決しない。地球にやさしくしたって、人にやさしくしてみたって、表面をただ触っているだけ。

しかしどうやって『自分の中に入っていく』かは、方法論がないときている。
だけど、チョー個人的な心は、パターンをもっている。

自分の中にいつも考えていることってない?
いつも反応していることってない?
いつも同じ問題に悩まされてない?
そこにすべてのヒントがある。そこが『自分に入っていく』入り口になっている。

じつはそこからが、お、た、の、し、み、なのだ!


って、結局書いてんじゃん。


絵:「壊れない生き方」MF新書/表紙イラスト

オネエ精神科医が語る生き方!男はこうじゃなきゃいけない、女はこうじゃなきゃいけないという観念をときほぐしてくれるステキな本です。

2014年1月7日火曜日

過去の遺物を燃料にして生きるか。。?



UFOにわくわくしたなあ。
ウチュー人がいたらおもろいだろうなあ。

やまんばはそのケのものが大好きだった。
最近、ディスクロジャーとかいって、カミングアウトモノがはやっている。どこそこのセーフが発表したの、してないのって。

仮にいたとして、すんばらしーテクノロジーをもらったとしよう。
そーすりゃー、電気も原発にたよらんですむかもしれんし、ひょっとしたら、空気で電気作れちゃうかもしれんし、ひょっとしたら、ただかもしれんし(うひょ)、ひょっとしたら、車は空飛んじゃうかもしれんし、ひょっとしたら、働かんでも飯食えるよーになるかもしれんし、ひょっとしたら、テレポーテーションできちゃうかもしれんし、ひょっとしたら、タイムマシーンに乗れちゃうかもしれんし。。。(どこまでいくんや)。

そんなもんあったらさあ、うれしくってきゃあきゃあ使いまくっちゃうと思うんだな。だけどよー。それも最初のうちだけだと思うんだな。

そのうちそれが当たり前になって、ふつーにテレポーテーションできたとするさ。するとな、好きな女の子の部屋ん中に、とつぜん「おばんでやす~」って、はいっていけちゃったりするわけだ。スケベなヤツなら、じぇったい風呂場に入ってみたいと思うだろ。

とーぜん、色々問題があるわな。するとすんばらしーテクノロジーは、いきなり凶器になっちゃったりするわけだ。やる事がなくなると、人はいらんこと考え出すもんなのだ。

だからウチュー人は、おいそれとチキュー人の前に現れないんじゃないか?
「こいつらにこんなもん渡したら、エライこっちゃに使われる」って。

だからコソコソってあらわれたり、夢の中に出てきてインスピレーションくれたり(記憶をなくさせて)、そこはかとな~~~~く、入れ知恵してんじゃないだろか。

だからすんばらしーテクノロジーは、すでに人間的にすんばらしくなってないと使えない仕組みなんじゃね?それをウチュー人さんたちは待ってるんじゃね?

石油をエネルギーに使ってるってことは、過去の遺物を燃料にしているわしらがいるわけだ。ものの考え方だって、過去を基準に考えてるだろ。なにごとも「前例どおりに。。。」ってやるじゃん。なんか事が起こったとき、過去の例を思い出してその場を対処するじゃん。これって、過去を使ってる。エネルギーも石油を使ってる。原発でさえ、それの発動力は石油だ。
だからまだわしらは、過去の考え方のままでいるかぎり、テクノロジーも過去の遺物にたよるしかないのかもしれない。

だとしたら、まず変えるのは、セーフじゃなくて自分自身なんだろうな。過去に縛られずに新しく生きる道を見つけるような。

そしたらきっと、こそっと教えてくれるのだ。テレポーテーションを。(そこかい!)


2014年1月1日水曜日

今年もよろしくお願いします




みなさま、あけましておめでとうございます。


きのうからフツーに時間が進み、今日になっただけですが(笑)。
しかも明治5年12月3日は、とつぜん明治6年1月1日になったと知り、
「はたして今日は正真正銘の1月1日なのか?」
と、フクザツなへそ曲がりやまんばです。

でも、ま、穏やかな日であります。まことにありがたいことであります。

世の中は知っちゃかめっちゃかな様相を呈しております。問題山積みでありますが、やまんばは「問題は自分の中にあるものが表に現れただけだ」とおもい、今年も自分の中だけに注目していきたいと思っております。

外はちっとも変えられないなあ~と、実感する日々です。

やって来る出来事は、何かを自分に伝えるために起こっているのだと、それは外の現象を変えるのではなく、自分の中を変えろよ~って伝えてきてるんだとおもいはじめました。

しかも自分を変えるとは、何かを行為する事ではなくて、自分の中の心のあり方を見なさいといわれている。それをいちいちイイとか悪いとか判断して、自分で自分をばっさりしなくていいよって。

またへんなブログになっちまう可能性大ですが、今年もよろしくおねがいします。

みなさまにとって、今年はますますステキな年になりますように!!!