2013年12月28日土曜日

元旦計呪縛



クリスマスも終わっていっきにお正月ムード。 
この時期になるとやまんばはユウウツになる。暮れの大掃除やお正月準備。べつにやらなくていい。やれという法律はない。なのにやらずにはいられない。で、イヤイヤやる。
なんでやらずにはいられないのか。

「一年の計は元旦にあり」

この言葉はいい言葉であるが、呪縛もする。

「一年の計が元旦にあるならば、その日一日の行為がその年のすべてを物語る」といってるようなもんである。とゆーことは、その日一日がサイテーだったら、その年一年間はサイテーである。といってるようなもんだ。
これはおどしでなくてなんなんだ。

その言葉の後ろにある「おどし」にやまんばはヤラレているのだ。

いいたかねえが、女衆はいそがしーのだよ。
掃除や料理の準備やなんやかやで、くれはちょーいそがしい。おまけに年越しそばなんつーもんを年越すあたりでくわなあならん。
ひーひーいいながら作って、正月元旦はこれまたいつもとちがう椀やらお屠蘇の準備やらで、「美しく」もりたてなけりゃならん。

で、それがうまくいかなかった日にゃ「一年の計が元旦にあ」ったりするもんだから、もーたいへん。その日一日が全てを決めてしまうのだ!

だから女衆は死活問題。ダンナの昇格、子供のお受験が、あろうことか奥さんの元旦の力量にかかっているのだ!

んなわけないだろ。
だけどやまんばも含めて国民の何%かは、その言葉に呪縛されてしまうのだ。

しかし。去年の今頃、風呂掃除しているとき、久しぶりのぎっくり腰になってうんともすんとも動けず、まさに「寝正月」だった。
で?どーだった?身内は何かとあったけど、やまんば自身はいたってヘーオン無事。1年の計は元旦にはなかった。


イヤイヤやっていることって、ほんとうにイヤだからやっているんだろうか。
やまんばは正月の料理は作るのイヤだ!っておもってる。だけどそれはその「元旦計呪縛」が苦しめてくるからイヤなだけじゃないだろうか。

もしその呪縛が、ほんとは呪縛でなく、「豆を食べるのは一年をマメマメしく」「数の子を食べると子だくさん」「昆布はよろこぶ」などのように、お正月の言葉遊びなのだと考えたなら、もっと自由になれるんじゃないだろうか。

わしらは恐怖によってあらゆることで自分を不自由にしている。
ああしないと、こうなる。
こうしないと、ああなる。
その方程式は事実なのか?
数々の恐怖による呪縛(方程式、観念、常識、思い込み)によって、本当の自分の気持ちがわからなくなっているんではないだろうか。

その外からもらった呪縛で感情的になり、不快になってるから見えなくなっているんじゃないだろうか、自分の本当の気持ち。

元旦計呪縛をどけてみる。そして自分にきいてみる。
「つくしはお正月がほんとうにキライ?」
あの華やかさを思い出す。日本の凝縮された美が、あの瞬間に輝いている。
「ううん。大好き!」

呪縛をどけてみると、ほんとうは純粋に楽しんでいる自分がいるんじゃないだろうか。


そこにフォーカスするだけでいいのかもしれない。
ただ楽しいからやっている。
ただうれしいからやっている。
ただやりたいからやっている。

そこには何の呪縛も、動機の理由もない。

どうしてそれをやるの?

え~。わかんない。
ただやりたいから。    

そのとききっと今そこにいる。


2013年12月26日木曜日

お気に入りのゆずダイコン


畑のダイコンが、でかくならんわ、そのうちスが入るわで、人様にもあげられんし、どーしよーかと持てあましていると、いいレシピが見つかった。ありがとう〜。

やまんばは最近これがお気に入り。
ゆずダイコン。




すっごく簡単でバッテラみたいな甘くておいしい漬け物。
材料は以下のかんじで。やまんばんちのダイコンは、3、4本あわせても3キロなんかにゃならんから、こっから計算して使っている。
ダイコン3キロもあったら、かなりの量が食べられる。

砂糖がおもいっきり多いが、浸透圧でダイコンの水分を抜いていくのに必要なようだ。だがそこまで甘くない。ちょうどいい感じの甘さになる。


まずダイコンを真ん中から、ぶったぎる。

その二つをタテに四等分して、全部で八つに。小さくするともう少し早く漬かる。

皮を剥ぐ。丸のまんまからでもいいが、でっか過ぎて腕がつかれるから。


ゆず一個分の皮を薄くはいで、細かく千切りにする。


容器にダイコンを無造作に入れる。


あとはそこへ、刻んだゆず、砂糖、塩、お酢、さいごに搾ったゆずのお汁をぶっこむ。
そんだけ!


混ぜなくてもいい。そのまんま。


フタしておわり。
なんとゆーかんたんな料理だ。



ほっとくと、浸透圧でダイコンのお汁がばんばん出てくる。ときどきゆする。お汁と調味料が混ざる。
2、3日で食べられる。


漬かると、お汁と一緒にジッパーに入れて冷蔵庫に保存するといいそうだけど、この時期だと寒い玄関にほっぽらかしといてもだいじょーぶ。
ぽりぽりと歯ごたえのいいゆずダイコンの出来上がり〜。


やまんばは、残ったお汁もうまいので、それにお酢を足してなますを作ったり、ドレッシングの隠し味にしたりしている。

だけどこれは肥料なしのウチの畑だからできる事かもしれんなあ。だってそのお汁は、ダイコンがそのまんま畑の水を吸収しているんだもん。化学肥料や農薬や有機肥料で育ったダイコンではできないかもしれん。
だからもったいないけど、捨てちゃいましょう。


2013年12月23日月曜日

不快なものを受け止める



不快なものってあるじゃない?
あれってさ、なにかあるのよね。
何かとっても大事なモノが隠れてる。

不快なものは取り除かないといけないって思う。
不快なヒト、不快な現象、不快な思い。。。

でもそれを取り除こうとせずに、その来たものをどーんとこいっ!ってうけとめると、何かが変わるのよね。

きっとあなたにとって必要だから来るもの。
心地よい事をはねのけようと思わない。
不快なものは、あなたが何かを乗り越えるチャンスをくれる。

そんな時は素晴らしい歌を歌ってしまおう。

ピンチピンチ、チャンスチャンス、らんらんらん。
(ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、ランランランのフレーズで)

あなたが越えられない問題はやって来ない。

2013年12月22日日曜日

感情はエネルギーだあーっ!



感情がカギを握っている。
感情は単なるエネルギーだ。

私たちは自分の感情にたいしてあまり注意して来なかった。どっちかというと、避けてきたものだ。
「うれぴー」とか「たのぴー」とかの感情に対しては、ブンブン受け入れてきたが、「くやぴー」とか「かなぴー」とかは受け入れるよりも、
かかわらない、
しらんぷり、
なかったこと、
感じないフリをする、など、
あふれて来るものを抑圧する方向にもってきていた。

私たちはこういう感情に対して、二つに分ける。
「いい感情」と「悪い感情」というふうに。

なぜか、いい感情と言われるものよりも、悪い感情とされている感情の方に種類がいっぱいある。
イラつく、ムカつく、キレル、かなぴー、くやぴー、うらやまぴー、ガックシ、げろげろ、キモ~イ、うらめしい、めっちゃはずかしー、つれえ、せつねえ、ちょーこえ~、泣きそー、げ、やっちまった!、どないしょー、不安だあああー!ってなかんじに。

この感情は出してはいけない、表現してはいけないとゆーふーに教えられてきた。なんでか。ヒト迷惑だから。自分自身もふりまわされるから。

だから人々は、このネガティブな感情を「克服」するために、瞑想したり、ワークショップやったり、セラピーする。

だけどヒョットしたらこれは、克服するものでもなく、見なかったフリする事でもなく、そのまま味わうだけでいいのじゃないか?

私たちは勝手に分離して考えてるだけだ。これはいい感情、これは悪い感情って。
でも小説や映画を見て、恐怖も哀しみも味わって楽しんでいるじゃないかー。

この本は、やまんばがそんなこと考えてる時に出会った。まさにそんな事が書いてあった。そしておもしろい事が書いてあった。

恐怖は、興奮とほとんど変わらない周波数のエネルギーだ。
憂うつは平穏とほとんど変わらない周波数のエネルギーだ、と。

それを言葉で分離させているだけだと。その言葉の分離で、いい感情、悪い感情とわけて、受け入れたり、拒絶したりしているだけだと。

ドッカーンだ。

そーいや、怖いことってワクワクしない?怖いことがいやなら、なんでジェットコースターがウケるんじゃ?なんでお化け屋敷なんてアミューメント小屋があるんじゃ?なんでホラー映画が次々作られるのだ?

不謹慎なやまんばは、ショージキ言うと、ちょっと地面が揺れると、「ひえっ!」とおもいながら、どっかワクワクする。台風で風の音きくと、「ひえ~っ!」とおもいながら、どっかでワクワクする。高知県人は「台風が最近高知に来ない」といって不満がる。ウチのかあちゃんは「地震であたしをゆらしてちょーだい!」とかほざいたりする。
これはどーゆーことだ?

やまんばは死ぬほどカメムシの匂いが嫌いなのに、死ぬほどコリアンダーの匂いが好き。両者の匂いはほとんど同じや!なんでやーっ!

『きらいきらいも好きのうち』ってことばは、じつはものすごーく真理を突いてたりして。。。

。。。とゆーことは、いい感情も悪い感情もないじゃないか。。。。
ほとんど同じ種類のエネルギーに名前を付けて、
「こっちはいるけど、そっちはいらない」
と言ってるだけじゃね?
メイソーして「克服する」もなにも、、、ねえし。

子供ンときってさあ、なんかよくわからんかったじゃん。なんかドドーンと大きなエネルギーをいつも感じてて、うおおって、おおさわぎしてた。
いまでもそのエネルギーを、そのまんま味わう、感じる、ワクワクすることってできるんじゃない?

言葉で分離して不幸な気分になるのは、それこそモッタイナーイかも。


2013年12月17日火曜日

過去も未来も今つくられる



今ここ!ってことがいわれるけど、今ここってどこやねん!とおもってた。
でもこんなことじゃないかな~って思うことを書いてみる。

それは過去のなかで生きるのをやめることなんだな。


今の自分は過去からできてるって思ってるよね。それが自我であり、アイデンティティ。それはそれで「自分!」ってモノをうんと自覚できるひとつの方法ではあるんだけど、じつは弊害もあるんだ。

それは過去にしばられもするってこと。

過去を持ってくるから自分が自覚できるけど、でもその肝心の過去のいろんな考えに自分自身が縛られてもいるってことなのだ。

私らはそもそも過去があるから自分がいるっておもってる。けど、ほんとにそーなんだろうか?過去が消えると自分が消えるって思ってるならば、記憶喪失の人は消えていなくなるんだろうか。でも記憶喪失の人でもちゃんとそこに存在しているじゃない。

ということは、私らは記憶で自分をとらえているということなんだ。記憶があってこその自分。だけどほんとは記憶がなくても生きている。今この瞬間に過去が消えてなくなっても、名前さえもわからなくても、わたしが生きているのはまちがいない。




過去を持ったまま、今にいるということは、それを未来へも持っていくという可能性が大きい。とゆーことは、必然的に未来は予測できるということである。

私たちの自分で作った法則、観念、条件づけ、常識だと思っていること、すべてをそのまま未来へまで持っていって使う。だからほとんどの自分自身の未来が想定できちゃうわけだ。

自分の未来が想定できちゃうほどつまらんことはない



今の状況が気に入らないのなら、過去の法則を持って使っていく限り、これ以上気に入るようにはならないってことだ。

気に入らないのは、過去の膨大な記憶の中で、気に入らないようにしむけている、秘密の法則が隠れひそんでいるはずだ。ものすごーい過去の記憶の押し入れの中の底の底の、そのまた奥地に、どろ~~~んと流れているヘドロみたいなもんかもしれん。それを見つけ出すにはちょと時間がかかりそー。。。

過去を持って来ている限り、おもしろくない未来が待っているのなら、過去を使うのをやめればいーのだ。
どーやって?

過去の雰囲気を持って来ないこと。
過去のトーンをもたないこと。
過去のアレコレにとらわれないこと。
過去ネガティブに反応していた反応のパターンをくりかえさないこと。

やっぱこれしかないな。
今に生きること!(けっきょくそれかい!)



今のトーンを生きる。
未来は、今、この瞬間に作られている。
だからこそ、今、まったくあたらしいトーンを自分でつくるのだ。意識的に。

未来は自分で作り替えるのだ。
どこかの誰かのお力にすがって乞い願って生きるのもいいけど、それだといつまでたっても外のものに依存しなければならない。苦労したらいいことが待っていると考えたら、苦労しつづけなければ、いいことがこないことになってしまう。
それでいいの?

ほんとは自分の思うがままに生きられるんじゃないかい?
きっとこれまでにそんな人たちはひそかにいたはずだ。
じゃその秘密は何なんだ?



今まで自分がもっていた法則は、小さい時に知らないあいだに植え付けられて来た法則だった。その法則はいつでも捨てられて、いつでも作り替えることが出来る。そうじゃない?だって、作り替えられないって思っているのは、まさにあなたの心なんだから!今この瞬間につくりかえることが出来るのは、その心。努力も何もいらない。
選択。この世はすべて選択なのだ!

今、この瞬間に未来は作られる。未来は果てしなく蓋然性に満ちあふれたいるのだ。今が原因で未来が出来るんだから、今どんなトーンでいたい?
暗いトーン?明るいトーン?

重たい過去を担いで生きてもいいよ。けど担がなくてもいい。
まったく今、生まれて来たばかりだと思ったら、過去なんかきのうのあいだに死んで、今日生まれ変わって来たと思ったら、あなたの未来はまったく未知で溢れている。
どう?どうする?
過去を担いで生きる?
それとも過去を担がないで生きてみる?

私たちは今、生きてるんだ。今、生まれたばかりなんだ。
今、生まれたばかりのまっさらなトーンで生きてみたら、その瞬間、未来はおびただしい蓋然性になり、そしてそのあなたの過去もまったく別の過去になる。

今の中にすべてがある。過去も未来も。


2013年12月16日月曜日

謎のシカ



ある晩、夢をみた。
西側の窓から、隣の庭に大きなシカが死んでいるのを発見。

そんなこともあるんか。。。。とおもいながら、ウチの庭先を見ると、



ウチにも発見!


どないしたもんかと悩んでいると、庭の向こう側にある山から子鹿がひょこひょこおりてきた。ほんでもって、シカの顔をペロペロなめ回す。



すると、死んだはずのシカがむっくり起き上がったではないか!でかした子鹿!



やまんばはその子のあまたをなでてやった。おおかた親子であったのだろう。二匹は仲良く山に帰っていった。



こっちはどーかと、さっきのシカをみやれば、これまたむっくりと起き上がって、山に帰っていった。




すると、、、
庭にへんなヤツがひょっこりと現れた。


なんともキミョーな生き物ではないか。
身体はシカなのに、頭が人間。顔がウチのダンナにそっくり。しかもモジモジくんのよーに、黒いマスクを頭からすっぽりかぶっている。(どーかんがえてもおかしーだろ)



やまんばは、
「こりゃあ、ウチのダンナとシカがウワキしてできた子供だ!」とおもった。(どーやってできるんや?)
んで、おもいっきりどなりちらして、山に追い返してやった。


あとでヨー考えたら、子供に罪はない。あんなに怒って追い払う必要はなかったではないか。自分のシット深さを自覚させられるやまんばであった。orz


それにしてもミョーな夢だったなあ。。。
あの生き物は、ほんとのところ、なんだったのかなあ。あんときゃ勝手におもいこんじゃったんだけど、もっと深〜い意味があったりして。。。


ほんとはダンナはモジモジくん?
(そこ?)





2013年12月11日水曜日

サンチュの小部屋



寒空の下、今日も用もないのに畑にいく。冬はやることがない。通常の畑だったら色々作業があるらしいが、やまんばの畑はやることがない。だからただ眺めにいくだけ。

先日植え替えたサンチュを覗く。
友だちがホームセンターで買った育苗用の土に種を蒔いたらアホほど芽がでて、いそがしーのでほっておいたら虫に食われまくってた瀕死のサンチェだ。

やまんばは「そんな虫が食ったのいらねーよー」とぶつぶついいながら、育苗用の土を全部落として寒空の畑にイヤイヤ植え替えた。

しかもその畝の上には大きなケヤキの木があって、落ち葉がふりそそいだ。全体的に落ち葉色した畝の所々に、緑色の葉っぱがちょろっとみえている。
「あれ?育ってんのかなあ。。。」

ほとんど気にもとめていなかった(よーするに捨ててた)、サンチュの畝。ケヤキの葉っぱでフタがされている。どれ、おひさんにでもあててやるか、と手を差し出したとき、何かを感じた。





めくると落ち葉の下にはサンチュが育っていた。
他のをめくるとやっぱり葉っぱの下に元気なサンチュがいる。

あ、落ち葉が暖かいんだ。
落ち葉をめくるとき指先はそれを感じていたようだ。頭ではわからなかったことを身体は感じている。

ここは夏に何も植えず、引っこ抜いた草を置く場所にしてほったらかしておいた場所だ。サンチュを植えた時は草を引っこ抜いて、その上に枯れ草を厚く敷き、植えるところだけ草をよけてあなぽこをあけ、突っ込んだだけだった。その上にケヤキの葉っぱが落ちて、それがフタとなり、ケヤキの葉っぱのぬくもりが、暖房の役割をして小さなあったか空間を作っていたのかもしれない。






このあいだのジャガイモといい、そんなの教えてもらってないよってなことがおこる。ケヤキの落ち葉が暖かいなんてしらなかった。指先にフワンと暖かい空気がまとわりついて来る感じだ。

やまんばも含めて、人は誰かに教わろうとする。だけどその「答え」は誰かの畑の答えであって、自分の畑の答えとは限らないのだ。それはお偉い学者さんの統計学上の答えさえも、人それぞれの畑の答えにはならないのかもしれない。
これは畑だけのことに限らないんじゃないか。石けんなし生活だって同じことがいえる。

どこかの誰かの答えを探しにいくのは、ひょっとしたら「気分的な楽」をもらっているだけで、その人のためのほんとの答えは自分の足下や、指先や、感覚や、直感にあるんじゃないか?

答えを外に求めるのは、トンネルビジョンなんじゃないだろうか。ワイドアングルビジョンの中にこそ、ホントの姿が現れているんじゃないか?
だからドンファンは、
「モノそのものを見るんじゃない。モノの影を見ろ」
といったんじゃないか?

わしは思いっきり何かを見落としているんじゃないか。。。


2013年12月9日月曜日

種芋は勝手に土の中ででかくなる?


今年の4月、サトイモを植えた。
土寄せをしたり、小麦のわらをのっけたりして、なんとか芽吹いてくれた。

6月頃、その間に小さなジャガイモの芽が、あっちこっちから出ているのをみつける。
そこはかつてジャガイモを連作していた場所だったので、たぶん小さな芋でも残っていたのだろうとフンでいた。




夏まっ盛り。サトイモが順調に育つ。ほんでもってなぜかおよびでないジャガイモまでもがぐんぐん大きくなって来た。茎もりっぱ。
元はジャガイモたちの慣れ親しんだ場所。
「ここ、おれの陣地!」と言わんばかりに幅をきかせ始める。






いつのまにか背丈もサトイモの葉っぱを越えた。
そして12月に入った。
サトイモの葉は枯れ切ったとゆーに、こやつらは枯れる様子もない。




 




根元をよく見ると、赤いジャガイモがおケツを(いやアタマか)だしているではないか。上の葉っぱは青いが、とりあえず引っこ抜いてみよう。






すると、
まー、わらわらとでてきたではないか。これはアンデスレッドだ。
しかも中には種芋がゆうに15センチあるものまで!!!
彼らはみんなでかくて、まだまだ子供を育てる気は満々。ブットイ茎にちっこい子芋をつけている。


しかし、、、、。
ちょとまてよ。この種芋は何だ?
この強欲の塊のやまんばが、こーんなでっかいジャガイモを取り残すわけがないだろう。どんだけ地下深くへそくって、どんだけちっこい芋も見逃さないんだぞ。そのやまんばが、どーして、こーんなにでっかい芋をあっちこっちに残したままでいるんだ?
んなわけないだろー。


、、とゆーことは、これはかつて、1、2センチほどの芋だったのではないか。。。?
え〜〜〜〜、種芋って、土の中に入れときゃ、自分で勝手に10倍ぐらいにでっかくなって、自分で子を増やすのかい????
じゃあじゃあ、ほっときゃあ、勝手にでかくなって、勝手に子孫繁栄するんかい?

え〜〜、ジャガイモってそんなにベンリな芋だったんなら、最初っから教えてよお〜〜〜。




2013年12月8日日曜日

まちがい探し



まちがい探しってあるじゃない?
あれ、自分にやってんだな。

わしらは今、自分に不都合なことがあると、
「私の何がまちがってたんだろう?」
って自分の過去をふりかえる、まちがい探しが始まるんだ。

するとでてくるでてくる、自分が犯した「まちがい」のオンパレード。
あれもやってしまった、これもやってしまった、、、、ああ、だからわたしはこういう不都合な状態におかれているんだ、と納得するわけ。

わしらの基本概念は、過去があるから今の自分がある、過去の上に今の自分が成り立ってるという構図を作っている。いいかえれば「過去の内容」で自分を作りあげているんだ。

何がまちがってるかとゆーことにフォーカスをしていると、自分の過去とは、「まちがったことがいっぱい」ってなことになってくる。

そのまちがいを犯した時は、一瞬の出来事で、ものの1分ぐらいのもんだ。ところがまちがいを犯したことを思い出し思い出し思い出しして、そのシーンを何度も頭の中で蘇らせるんだな。するとほんの1分間の行為だったものが、何度も思い起こされて、全部足せば、何十時間、下手すりゃ何百時間と延々と上映されているわけだ。その出来事は自分の中で強化され、不動のものになっていく。私はこんな罪を犯した人間なのだ!というところまでいってしまう。

なぜこんなことになるのか。なぜ人々はネガティブなものにばかりフォーカスしてしまうのだろうか。
ちっちゃいとき、お箸を落っことして、そんなことをしてはいけないと言われ、宿題をやって来なかったことを指摘され、「二度とそんな過ちは犯すな!」みたいなことからの発端だったりするんじゃないだろうか?

くりかえしません、あやまちは。
そんなフレーズがどこかで私達の中にどっかり腰を下ろしていて、二度と犯しちゃいけないからと、なんどもなんども心に刻み付け、同じことをくりかえさないようにしているんではないだろうか。

思ったことは作られる。やっちゃいけないいけないと思いながら、そればっかに心が奪われていると、
「あああ~~、またやっちまった。。。」となる。
するとこれだから私の人生はこうなんだとなって、またその思いを強化していく、

とゆー構図になっているんんではないかいな。



じゃ反対に、良かったこと、正しかったこと、うれしかったこと、達成感、みたいなものを思い出してみるとどーなるかやってみてもいーんじゃね?
すると、、、

なかなか思い出せないんだなあ、これが。
失敗こいたヤツはいくらでも思い出せるのに、成功したことはドドーンと押し入れの中に押しやられてて、「はて?どこにあるんや?」とみつけられない。

どーも心の習慣は、ほとんどがまちがい探しをすることに長けてしまってて、よかったことうれしかったこと探しが抜け落ちている。
やはり小さい時の「二度とそんな過ちは犯すな!」というのがバッチシ入っているもよう。


ネガティブなことばかりに意識があると、そういうものも呼び込んでくるし、またそういうトーンも放つ。テレパシーってのは、特別な能力の人だけが持つものではなくて、じつはだれでもやっている。
なんかあの人ビンボー臭いわよねえってなんとなくわかるし、ヤーな感じの人よねえってのもわかる。言葉や服でわからなくても、放たれる雰囲気で何かを感じる。
いろんなことに怒ってばっかりいる人や、嘆いてばかりいる人は、やっぱり嘆くものや、怒る材料がまわりにひっぱられるようにやってくる。


ほんとは失敗したことよりも、達成できたことや、能力がある部分なんかいっぱいあったはずだ。たぶん失敗なんて全体の1%にもみたないにちがいない。そのたった1%の失敗にだけフォーカスしてそれを強化する意味があるんだろうか。

それよか、あとの99%の中にいっぱい含まれている、手際の良さ、ほめられたこと、達成感、幸せに思ったこと、その人だけが持つ能力、やさしさ、人にウケたジョーク、、、山のようにあるホクホクすること。そっちの過去でいっぱい満たすことになんの罪がある?

それを強化すると、自分の価値が倍増しない?いいんだこれでっておもえない?
そのトーンはテレパシーのように自分のまわりに広がり、なんだかまわりをあったかくし、自分もそれを見てまた幸せが倍増する。

ホクホク探しで、100000000000倍返しだ!



2013年12月6日金曜日

勇気をもらう畑



Pちゃんが畑にいた。めずらしいことだ。畑の帰りに見かけたので、からかいにいく。彼女はやまんばの家の近くの一角を借りて畑をしている。忙しくてめったに来ないので、畑はいつも草ぼーぼー。

その日は『ほったらかし農法』(今、やまんばが命名した)で育ててた大豆をひっこぬいて、そこへ新たに種を蒔いていた。
がーっとクワで畝を作り、がーっと手で溝を掘り、がーっと種を蒔く。草も石ころもいっしょくだた。
「今、何蒔いたの?」と私。
「しらない」とPちゃん。
すごい。(笑)

彼女が育てた大豆はきれいだった。
やまんばの大豆は、ことしやっとこさエダマメらしきものが食べられたが、その種を取ろうと大豆を育てたところ虫に食われて無惨。。。乾かした豆をとってみると、3分の2がシンデいた。

それに比べて彼女の大豆はどーだ。ほぼピッカピカ。なんでやー!しかも栽培がむずかしい黒豆までできている。
彼女いわく、
「あ~、黒豆も一緒に混ざっとったー」ぐらいの感覚でしかない。ほったらかし農法でも出来るんかいなー。
おそるべし、Pちゃん!

「次、何蒔こう~」
といいながら、いろんな種の入った袋を物色。そこでソラマメの袋を発見。中をあけると、宝石のラピスラズリのよーなメタルブルーなソラマメの種が出てきた。消毒などをコーティングした種だ。

「げげ~、なんじゃこりゃあ!こんなん蒔くのいやや~」
と、おもむろにバリバリとメタルブルーのソラマメの皮を剥ぎだした。中からなまっちろい裸のソラマメが出てきた。冬空の下「あら、いや~ん」と、寒そーだ。やまんばはソラマメが気の毒になって、そのまま植えたら?と提案。うなずいてガシガシ畝に突っ込んだ。全部使い切ってしまいたいらしく、余ったメタブル種をとなりに積んであった落ち葉の中につぎつぎと突っ込んだ。
おそるべし、Pちゃん!



やまんばの畑は、まわりの畑のおじさんやおばさんに勇気を与えている。草取りしなきゃと心配する人々に勇気を与え、育ちが悪いと嘆く人々に、
「あそこの畑よりゃあ、ウチはマシだ」
と思ってもらえるやまんば畑。

だけどわたしゃあ、Pちゃんに勇気をもらう。
「あそこよりゃあ、マシだ」と?
ちがうんだな。
彼女の行為を通して植物の神秘に驚かされる。「うしろむきな勇気」ではなくて、何か大きなヒントをもらっている気がするんだ。

彼女にはやまんばにあるような欲深さがない。何か私とはちがう植物への接し方をしている。その違いは一体なんなのか、はたまた植物はその二人の差異にどういうふうに反応を変えているのか。いわゆるグリーンサムと言われている人たちはどういった心持ちでいるんか。そんなことを気づかせてもらっている感じがする。そこに何かあったかいものを感じるんだ。それが勇気やよろこびを与えてくれてる。
そんなPちゃんにひそかに感謝しているやまんばなのである。


2013年12月5日木曜日

人生ゲームのアップデート




人生はモノポリーや双六ゲームのようだ。

あらかじめ出来上がっているゲーム盤があって、その上をサイコロの目だけコマを進めてお金をゲットしたり、ディズニーランドに行ったり、ケッコンしたり、家を持ったり、離婚したりする。
一見、同じゲーム盤を使っていると思っているが、みんな各々のオリジナルのゲーム盤をもっているんだ。

それは生まれてまもない頃から、じょじょにゲーム盤は作られる。それは親からもらうアイディアや、クラスメートの悪ガキのことばや、近所のモーロクじじいの説教や、せんせーからのありがたいご指導から、「ああ、人生とはこーゆーもんなんだな」と、自分なりのゲーム盤を作りあげていくのだ。

するとビンボーな家で育った子供のゲーム盤と、金持ちの家で育った子供のゲーム盤はすでにちがうわけだ。
ビンボーなうちの子をケンタくんと呼ぼう。お金持ちの子供をツヨシくんと呼ぼう。
ケンタのゲーム盤では最初のスタート地点がビンボー長屋。所持金も50円だったりする。だがツヨシくんは最初のスタート地点は豪邸だ。もってるお金も5000円だったりする。二人のゲーム盤はすでに内容がちがって来ている。するとその先の出来事も、ケンタくん学校に入る、が、ツヨシくん留学する、になる。ケンタくん町工場に雇ってもらう、が、ツヨシくん石油会社にコネで入る、になる。実につまんねえ。。。

ここまで極端ではないにしても、わしらは自分の環境の中で自分なりに『世界観』を作り、(言い換えれば未来像を自分で作り)その世界観にしたがって人生のコマを進めていくのだ。

その自身のゲーム盤を眺めながら、「おれの人生こんなもんだ」とおもっていれば、思った通りの「こんなもん」になっていく。


そのゲーム盤は過去、幼い頃に作られたのだ。いわば50年前に作られたナビゲーションのようなもんだ。この道の先には確かコンビニがあるはずなのに、おれのナビにはコンビニがない!ってな状況がおこってくる。でもそれが「使える」と信じて疑わないから、今でもムリヤリ使っているんじゃないだろうか。

このナビは意識的に変えなければアップデートはしないときている。であれば自分でアップデートする。

過去、親や、モーロクじじいや、せんせーからいただいた観念、定義づけ、条件づけ、洗脳の嵐。このゲーム盤にはそのすべてが収まっている。アップデートしようとすると、それは捨てないとデータが入らないときている。なんとゆーことだ。捨てる覚悟をしないといけないのだ!そしてオセロの黒が、ぱたぱたと白に変わるように、すべてを入れ替えるのだ。

自分で作ったゲーム盤の中の一角に「アップデートする」と書き込む。そこにたどり着くと、エレベーターのように上昇し、もう一つ上のべつのゲーム盤にたどり着く。
そこでは人によっていろんな未来像があるだろう。いやきっと何も描かれていないのだ。だから今、自分のなりたいもんをそこに描く。

小さい時に受け身で受け入れて来た人生観ではなく、大人になって世間のことがいやほどわかって来たがゆえに描ける未来像があるはずだ。だれ一人として、小さい時に描いたままのナビをそのまま使いたいなんておもわないだろう。

そのアップデートするコマにたどり着くには、今持っているあらゆる条件づけを疑ってかかってみるのだ。

この条件づけは私を生かすのか?と。


絵:「うんちく鉄道」MF新書/表紙イラスト

出た!うんちくシリーズ第三弾。今回はてっちゃンものけぞるありとあらゆる鉄道オタクを語ります!
鉄道はいわば、リアル双六ゲームのようだなあ〜。


2013年12月3日火曜日

モーニングノート



最近、モーニングノートをつけている。
このからいただいたアイディアなのだが、いただいたのはそこだけで、あとは自分流に活用している。

朝起きてすぐ、自分が思考の渦の中にいるのに気がつく。思いめぐらせる内容は、いつもネガティブなものばかり。身体の不安、仕事の不安、親の不安。。つらつらでてくるのは将来の不安ばかり。自分のそのネガティブな思考にあっとうされていた。

試行錯誤があって、その不安も出て来なくなり、しかしそれによって、「いったい朝方のこの膨大な量の自分の思考とは何ぞや!」と思っていた矢先、その本のアイディアに出会った。それからずっと毎日つけている。

なにをするかとゆーと、起きがけにあたまにうかぶことをつらつらつらつらとノート3ページ分書くだけ。それだけ。しかも読み返さなくていい、誰にも見せんでいい。(誰が見たいんじゃそんなもん)

だが3ページをあなどるなかれ、結構なスペースである。それをかならず埋め尽くさなければいけない。それが原則。が、とてもじゃないが埋まらない。
だけど作家はいう。
「あ~なにもうかばないよお~」も、書けと。

そこまで心の中をあぶりだすのだ。とくに朝は自分の心に正直なようだ。今何を考えているのか、どういう事に反応しているのか。起きがけは自分で自分の心に蓋を仕切れていないので、ダダモレしている。そこを鋭くガッとつかんで引っ張り出してくるのだ。

最初はえ~、、、わかんない。。何書いていーのー?と言う感じだったが、だんだん日を追うごとに、でるわでるわ、イヤなこと、つらいこと、不安なこと、およそネガティブで感情的なものがつらつらつらつら。。。たぶん人はこの部分で自分がイヤになってやめるのかもしれない。あたりまえだ。元々それをあぶり出すために書いているのだから。
私は自分の徹底的なネガティブさにあきれる反面、おもしろくなった。どこまでネガティブなものを持っているのだろう?

ところが意に反して、それを分析し始める自分がいた。朝はかなり頭がクリアになっているので、自分の感情を自分で理解しはじめたのだ。ああ、これはそういう理由でこう感じていたのかとか、あの人はそれがあってああいう反応をしたのだとか。
すると私は正しい、イヤやっぱり正しくない。あいつが悪い、イヤ悪くない!とあっちこっちと言い続けている心は、しだいに収まってくる。静かな洞察が始まるのだ。

そしてモーニングノートの醍醐味は夢!夢をつづろう。
起きがけは夢を覚えている。夢は私たちに多大なヒントをくれる。ダイナミックな夢や、恐ろしい夢、ファンタジーな夢。夢の世界は摩訶不思議であやしいけど、それはわたしたちの思考回路が、夢をうまく理解しきれないため、ムリヤリ物質的に置き換えているらしい。だからわけわからん世界が繰り広げられている。

だけどそこにいっぱいヒントがある。夢は私たちの味方なのだ。よーく見ていると、今の自分の心情が現れていたり、メッセージが入っていたりする。起きがけで覚えていることは、それを覚えていてソンはないよと言うメッセージでもあるのだ。その夢をヒントにそれまでフンズマっていた問題が、ノートを書きながら溶けていったりもするのだ。ま、いわば、ノートは自分の心のトイレでもあるんかもしれん。と同時に、食堂でもある。(ああ、ややこしい)

そんなこんなで3ページはあっという間に埋まる。自分の心はとめどもなくあふれていて、この世界に広がっている。はじめてみると、心の中はちっとも恐怖の対象ではなく、むしろすべての根源に通じている入り口なのだ。

自分に正直である。
とても簡単な言葉だけれど、とてつもなく難しく、奥深い言葉だ。
この世の不幸の謎や、宇宙の謎を解くカギはこれにかかっている。そういう意味でモーニングノートはそれにスイッチを入れてくれるすごいアイテムだ。