2013年7月31日水曜日

石けんなし生活まっ盛り〜



夏まっ盛り。石けんなし生活まっ盛り~。

やまんばはついに洗濯石けんもやめた。
畑でおもいっくそ汗かいたTシャツも、お水だけで洗濯機でカラカラ洗う。前は白いTシャツはお乳のあたる部分が黒ずんでいたが、今はちっともならない。
これはどーいたことぞね。

やまんばは、歯も、カラダも、髪も、ついでに服も、石けんと言う名の文明の力をまったく使わなくなっちまった。なのにまったくにおわない。

きっとこれは気のせいだ。やまんばの鼻がイカレちまっているのだ。
やまんばにはお近づきになりませぬよう。
髪もさらさらだ。
これもきっと気のせいだ。
コマーシャルは、水さえも問題だというではないか。その恐ろしー水とかお湯だけを使って髪を洗っているのだ。これほど恐ろしー事はない。

よいこの皆さんは、決してマネしないように。テレビや新聞さんのいうことをちゃんときいて、ちゃんとシャンプーして、UVカットして、石けん使いましょうね。
多数決の原理でいくと、大勢の人が言うことが「正しい」のだから、大勢の人のいうことを聞きましょうね。



きのう畑で蜂に刺された。
これで二回目だ。左中指。
あれてて手袋を外してイタイあたりを闇雲に吸う。口の中に何かが噴射された。つばをはく。すると中指に赤いぽっちが出てきた。血もでてきた。やまんばは何度も吸ってはつばを吐いた。口の中がかすかにしびれる。乾いた口の中につばを作って吐いた。

先週は左腕だった。そのときは大量の血が出た。だけど腫れなかった。
今回は少し腫れた。痛みもあった。
だけど蜂は死にものぐるいで刺したんだ。その痛みを味わおうとおもった。
痛みは、抵抗するとますます痛くなる。だけどその痛みをただ味わっていると、そのうち消えていった。


石けんなし生活を始めてから、何かがシンプルになった。
ニンゲンのカラダはそうやわではない。あらゆる状況に臨機応変に対処しているスーパーコンピューターなのだ。ニンゲンがわざわざ開発してくれた(?)シャンプーちゃんにもちゃんと対応できるように、カラダは調節してくれているのだ。
そうすると、たいていのことは自分の中で解決できるのではないだろうか。瞬時に起こる自分の中の感覚に身を任せてもいいんじゃないかとおもうようになった。


畑でじっとたたずむ。
いきものの時間が流れていく。
畑は生命がわんさか住む場所。そこでやまんばは殺生をしている。草を刈り、好きな植物だけを保護する。
畑はニンゲンのエゴのかたまりだ。自然界はそれをかるがると受け入れる。

少し急ぎ過ぎた。
よくよく観察すると、目の前にハチ達がかすかに飛び交っていたのだ。それがやまんばには見えなかった。畑に次の種をまくことしか頭になかった。

ゆっくりいこう。
よく観察しよう。
そこにはかすかなメッセージがある。
きのうはそれを教えられた。


2013年7月30日火曜日

否定は自己実感





食い過ぎた。。。
最近太りすぎだ。。。
あれ、やらないと。。。

心の中は否定でいっぱいだ。
別に食い過ぎてもいいじゃないか。太っててもいいじゃないか。ほんとにそれをやらないといけないのか?
すると心は言うのだ。
そうしないと病気になる。そうしないと路頭に迷う。

自己は、自我は、エゴは、否定をエサに生きる。

否定してると、自分ってモノを実感できる。だめだだめだっていっている瞬間は、自分という存在がここにいる!と、実感する。
他人を意識した瞬間、自分を意識する。「あいつは敵だ」とおもった瞬間、強く自分を意識する。

自我はそうやって生きる。

ああ、お天気がいいなあ~。
風が気持ちいいなあ~。
いい人だなあ~。

こんな時、自我が消えている。
ふわ~っと自分が膨張して、まわりの空気に溶け込んでいく。

否定によって自我が自分を実感する時、固形化している。
自分と他人、というふうに別々に存在する。

だが肯定する時、自分がまわりに溶けていく。
自分と他人という区別があいまいになる。
そのとき、なんともいえないやすらぎがある。


が、自我があせる。
「じっ、、じぶんが存在できないっ!」
すると自我はじぶんをまた出現(?)させるために、否定する行為を呼び起こさせるのだ。

いったいだれに?
自我は誰に向かってやっているのだ?
「。。。。」に。

私たちは自我が自分だとおもっている。思考する心が自分だとおもっている。

だけどその大騒ぎする心の中のことばを、「誰か」が聞いていないか?
いつもどこかで必ず、何か、がいないか?

自我は大騒ぎする子供のようなものだ。
「やだーっ!それ、やだーっ!、これもやだーっ!ぜーんぶ、やだあーっ!」

私たちは、自我をじぶんだとおもっている。自我がいうことはまちがいないとおもっている。だから言うまま、そのまま聞く。自我の言うことを疑うことがない。


だだをこねる子供の言うことを親は全部聞くか?
ああ、これやなのね。ああ、それもやなのね。
ああ、、もう、、いったいどーしたらいいのっ!
子の言うことを全部聞く親は、ふりまわされて混乱する。

自我の言うことを全部聞くと、ふりまわされて混乱する。

否定すると自我が立ち上がる。それは自分にむけているときも、他人にむけているときも。
否定は自己実感である。
「危機感をもとう」
「あなた、それまちがっていますよ」
そんなキャッチコピーを聞いた瞬間、「カチッ」と個が固まる。自我が出現する。

すると自分と他人、敵と味方、善と悪、正しいまちがっている、という二極思考にはいる。
自我は二極思考をほしがる。この世に個として生きているという実感が湧いてくる。

反対する人たちは生き生きとしている。
人の悪口はワクワクする。
ゴシップネタはたのしい。

「これがだめだ、あれがただしい」
と言ってる時間は自分が立ち上がる。
そのとき個が別々になる。区別が生まれる。あっちとこっちにわかれる。
否定するとたのしい、けどくるしい。だけどそれが実感をえる。生きてるんだって。自我が喜ぶんだ。


さて、その自我は本当の自分なのだろうか。


絵:「漫画FBI式しぐさの心理学」MF新書表紙イラスト
ニンゲンはしぐさによって心の中をあらわにしている!あなたの心はバレバレ?



2013年7月28日日曜日

畑の草をほっぽっとく



畑は今、草ボーボーである。
イヌコロ草とか、メヒシバとかの葉っぱで、畝、畝間、全面青々とした葉っぱで埋め尽くされている。
しかしやまんばはそれをほっぽっといている。

野菜の根元を草で覆い尽くされていようがいるまいが、野菜は育つときはぐんぐん育つし、育たないときはじぇんじぇん育たない。だから草刈ったからといって、野菜が大きくなる、とは限らないかんじがしている。

ジャガイモは、そのまわりが草ぼーぼーであろうがなかろうが、まったくカンケーない。大きないもを育てようという気が本人に(つまり、ジャガイモ様に)あればあれば育つし、その気がなければ育たない。やまんばがどんなにあがいても、まったくムシされる(笑)。
ならばどーしてニンゲンがわざわざこのクソ暑い中、死にものぐるいで草を刈らねばならんのか。

この日本は湿気だらけだ。それにあわせて植物だらけだ。
ある山を管理するおじさんが言ってた。
「日本は植林なんかする必要はねえ。ほっぽっときゃ、勝手に森に帰る。」
彼はある山に関する団体に所属している。その団体はしょっちゅうイベントをもよおして、親子に植林をさせている。そのイベントのために、前もって膨大な手間がかかる。山の下草を刈り、山道を作り、がけを整備し、保険をかけ、苗を大量にどこからか買ってくる(笑)。大人数のためのトイレの準備、食事の準備、人員確保。。。イベントのためにあらゆる気も金も使う。植林は自分たちでやればそんな準備はいらない。いったいなんのためにやっているのだ。山のためじゃなかったっけ?
山に詳しい彼が、この行為がどういう事なのかわかっている。だが、
「おらあ、こんな馬鹿げたことが、いったいどこへいくのか見極めてやる」
とのこと。

そのくらいこの国には湿度がある。だから草が生えてトーゼンなのである。草から森になるのだから。
それを目の敵にして引き抜きまくる必要があるんだろうか。
野人さんが言ってた。
自然と生えてくるような環境をわざわざ否定することもなかろうと。

今年の畑はキュウリがよくとれる。下草はぼーぼーのところもあれば、あまり生えないところもある。適度に混ざり合った草が生えているところがいい感じでキュウリもよくそだっている。
ナスも草ぼーぼーの中でいる方が元気に実をつけている。ルッコラの双葉も、草の根元に生えてくる。たぶん草が吸っている水をわけてもらっているのだろう。

今年は夏の初めに水が少なかったから、草によって水分を保ってもらっているかんじだ。
さて秋まきはどーするかな?

2013年7月27日土曜日

まさにバイオハザード




「あのね、まさにバイオハザード」
「へ?」
「ほら、暗がりの中からゾンビがわらわらやってくるでしょ?あれ」
「ほー」
やまんばは聞き入る。
「あんころは、街全部の明かりが消えて、真っ暗な夜なんです。その真っ暗な中に、かろうじて自動販売機の明かりがともっている。そこを目指して歩くんです」
「すると暗がりの中を、こっちに向かってわらわらと人が集まってくる」
「ふんふん」
「そのシーンがまさにバイオハザード!」
「わはは~~~~っ」
思わずウケるやまんば。

震災直後、街はすっかり真っ暗闇になった。街灯もない人気のない死んだような街に、自販機だけがこうこうとついている。(なんでや?)配給の来なかった場所にいた彼は、母と二人で延々と飲み物と食料を求めて歩き続けていたそうだ。それと同じような境遇の人々が、やはり飲み水を求めて自販機の明かり目指してやってきていたのだ。暗がりの中に浮かび上がる人影は、まさにゾンビに見えるだろうなあ。。。

「僕んところは家族がいっぱいいるから、何本か買わないといけないんだ。だけど、ぼくらのあとに、親子3人が買いにきている。もし僕が家族分買っちゃったら、この親子が買えなくなるかもしれない。だからできるだけ買わないようにしたよ。」

自販機の中には、のこり何本飲み物が入っているかわからない。後から後からやってくる人たちのためにもできるだけ買わない方がいい。。
そして足りないぶんを買うために、また次の自販機へと向かったのだそう。人々はそうやってはまた別の場所へと食料を探し歩いたのだろう。
「今考えると、よくあれだけ歩けたわねえっておもうわよ」
彼のとなりにいたお母さんはしみじみと語った。


展覧会初日、石巻出身の彼からもらった名刺の肩書きは「自由な絵描き」。お母さんと二人でよくこのギャラリーに来られると言う。
彼は震災時の体験談をおもしろおかしく話す。話の内容はかなり悲惨なのに、なぜか自然と笑みがこぼれる。

「僕は甘いものが好きなんです。だけど子供達の方が甘いもの欲しいでしょ?だからガマンしたんです。でもさ、『ほら、お前くえよ』って小学生にわたすと、『僕もいいです』って遠慮するんだよなあ~」
と、嬉しそうに話す。


じつは仙台に来る前、ユーチューブをみた。
テキサス出身のアメリカオヤジが、日本の震災の時の日本人の態度をほめちぎっていたのを思い出した。
「フロリダでカトリーナが来たとき、おまえらなにやった!あらゆる店で略奪しまくっただろ!どうだ!ジャパニーズは、略奪なんかしなかったんだ!恥を知れ、この、アメリカ人!」
と、ツバ飛ばして叫んでたなあ。

あのとき、誰も自販機をこじ開けなかった。あの緊急事態だ。なにやっても真っ暗闇でバレなかったはずだ。
それなのに、みーんなちゃんと自分で持ってきたお金をちゃりんちゃりんと入れながら、ジュースを買っていたんだ。
いーんや、それだけじゃあない。次の人のためにとっておいたのだ。。。!!!

「あんときは全部の公衆電話がタダだったんだ。そこにものすごーーーい長蛇の列ができた。僕のおじさんはそこから電話をかけてくれたんだけど、それがおかしくってねえ。
『あんな、今電話かけてるけど、おれの後ろに人がいっぱい待ってるから手短に話すな。おれんちの前の家が火事になって、近所のおじさんが流されて、。。。』ってさあ、起きた出来事を業務連絡みたいに箇条書きで話すんだ。それがみんな悲惨な内容なのに、おかしくてわらっちゃってねえ」
「わはは~」
と、みんなで笑う。


なーんにもなくなってしまった。
自分のものも、他人のものも、なーんにもなくなってしまった。
その現実を目の当たりにしたとき、その物質世界の奥に隠れていた、何かもっとすごく大事なものに、かれらはがっちりと触れあっていたんじゃないだろうか。ニンゲンそのものが持つ、すごく大きなもの。。それが確かにあることを確信していたんじゃないだろうか。それは生きていくおおきな糧になる。あの明るさはそれを「知っている」からなんじゃないだろうか。

今回初めて被災した人々にふれた。
やまんばはもっと震災の影が、かれらの心の中に落としているんじゃないかとおもっていた。だけどそれを上回る存在の強さを彼らの中に感じたんだ。

やまんばは経験していないから、そんな無責任なことが言えるのかもしれない。だけど全て経験がものを言うのなら、やまんばが彼らに出会ったってことも経験だ。そしてたしかにそう感じたのだ。
ニンゲンのいろんな可能性や、偉大さや、おおらかさや、やさしさや。。
ああ、ことばにならないや。。。

いい旅をさせていただきました。
ありがとう。


2013年7月25日木曜日

仙台の旅



仙台にある「The White Gallery SENDAI」に作品を搬入してきた。

高尾の田舎から車に作品をつんで約6時間。大都会仙台駅からすこし離れたところにあるみどり生い茂る東照宮のすぐとなり、白で統一されたおしゃれなギャラリーがあった。

雨ふる中、搬入が始まった。
ギャラリーは通りに面していて、正面はすべてガラス張り。全てが白で統一されていて、通りすがりの人の目を引きつける。向かい側には東照宮のみどりがまぶしい。ギャラリーはカフェもかねているので、すぐ近くにあるバス停でのバスの時間待ちに立ち寄ることもできる。
う~ん、なかなかいいところにあるなあ。

去年10月にオープンしたばかりの初々しいギャラリーは、ステキなオーナーによって生まれてきた。
彼女は2011年のあの震災のとき車を運転していて、目の前に電柱が倒れてきたのだと言う。本当に寸でのところで命が救われたそうだ。あの時、ほんの数秒早かったら、彼女は今こうしていなかっただろう。

「そのとき、ニンゲンいつ死ぬかわからない!とはっきりおもったんです。それまで老後のこと考えてあれやこれやとお金をためていたんですが、そんなことをしてなんになるんだろう。いつ死ぬかわからない人生なんだもの、好きなことしようって!」

ずっと営業の仕事をしてきた彼女だったが、それをすんなりやめてしまい、このギャラリーをオープンさせたそうだ。そのときの彼女の目はとてもキラキラしてて、やまんばは感動してしまった。

営業を10年もやっていたキャリアのおかげか、人当たりがよく明るくて、よく人の言葉を聞くいいお人柄だ。それでいて芯の強い一本気なお顔をしている。東北の人は粘り強いと聞くが、こういう感じなのだろうか。台風に何でも飛ばされることの強さと明るさ(?)の高知県人とはちがう強さと明るさを持っている。
なんにせよ、ギャラリーのオーナーにぴったしだ。

その彼女があの瞬間に味わったものを、こんなすばらしい形に展開させている。この世はなんてすごいんだろう。人はなんて強いんだろう。そしてその世界におじゃまさせてもらっていることがうれしかった。

白で統一された空間の中にちょこちょこと彼女のセンスが光る。気がつかないようなところにそこはかとなく主張しない工夫がある。その空間の中で、わたしの絵が嬉しそうに踊っている。
面白い展覧会になりそうだ。

まだまだ会期中です。
ぜひぜひお近くの人はお立ち寄りください~!


2013年7月21日日曜日

仙台で展覧会!




仙台で展覧会を開きま〜す!

日時:7月23日(火)〜8月4日(日)休/月曜日
時間:11時〜19時 最終日のみ18時終了

久しぶりの展覧会です。なんだかわくわくします。
しかも仙台!じつは、東京から東に行ったのは、阿寒湖だけで、東北をまったく知らないのです。東北の香りはどんなかな?

今回は、ニューヨーク在住中に制作した、アメリカの本の表紙の原画を展示します。
色のついた紙を切って貼って、制作しています。コンピューターで作ったのとはまたちがう、アナログで存在感のある迫力の絵です。ぜひ、お近くの方は覗きにきてやってください。

あ、それと作家は初日、在廊しています〜。
みなさまにお会いできるのをたのしみに!





2013年7月19日金曜日

正義感の強い人は苦悩する



苦しんでいる人を見ると、正義感の強い人が多い。

あれはこうでなければならないし、それはもちろんこうであらねばならない。

正しいことと、まちがっていることの区別がはっきりあって、それを基準にしてものごとを見ている。

やまんばの母を見ていると、彼女は美意識が高い。
あれはこうでなければならないし、それはもちろん、そうであらねばならない。
すると、こうであらねばならないのに、そうなってない現実にいらだちを感じている。

正義感の強い人や、美意識の高い人には、苦悩が多い。


こうであらねばならない理由はどこからきたのか。
お上だったり、自分の母親だったり、ばあちゃんだったり、近所のオヤジだったり、テレビだったり、ラジオだったり、どこかで読んだ本だったり、雑誌の特集だったりする。

と、いうことは、自分から勝手にうまれでた「こうであらねばならない」ではない。
ということは、誰かのアイディアなのだ。

それをそのまま受け入れて(なぜか初めて聞く項目には何の疑問も抱かず、そのままインプットするようだ)、それを基準にものごとを「判断」する。
そうすると、それは一つの物差しをもつことになる。

私たちは、ニンゲンとしてこうであらねばならないという物差しを、だいたい中学生ごろまでに学ぶ。
この物差し、一度もつと、とことん使う。

「それ、ちがう物差しだよ」と友だちに言われても、
「やだ!絶対この物差しが正しい」
といって聞かない。
「なんで?」と聞くと、
「だって、お母さんにそういわれたんだもん!」
という。

私たちにとって、この「お母さん」がくれる物差しはとことん大事なのだ。
お母さんが法律なのだ。
お母さんが、宇宙のルールなのだ!
人によって、それはお父さんだったり、となりのオヤジだったりするが。

まあそれはともかく。
その物差し、不思議なことに、気がつかなければ、棺おけの中にまで持っていく。
人によってびみょ~に物差しのサイズがちがうので、夫婦の間では熾烈な戦いとなる。お互いがお互いの物差しを持って、
「あたしの物差しの方が正しい!」
「いーんや。おれの物差しの方が正しい!」
といって、きかないのだ。
こーやって、じじばばになるまで争うから、熟年離婚になったりする。

これって、子供のときとほとんど変わらない。

ではどっちの物差しが正しいのか。

正しい、まちがっているという答えを求めても日が暮れる。そうやって人類は戦いまくってきたのだ。

人はだれかからもらった物差しをいっぱい持っている。それは確かにたのしい。

物差しがあれば、お前のちんちんは短いだの、オレのは長いだのと比べて優越感にもひたることができる。
逆に、お前の方が長いじゃないか。。。と劣等感にひたることもできる。

もし基準がなかったら、
「おれのおちんちん。で、おまえのおちんちん」
で終わってしまう。つまらないじゃないか。

測る、という概念を持ったところから、
「わーい、ちっこーい!」
「なっ、なんだとおーっ!」
って、追いかけっこもできるのだ。

物差しを持つとたのしい。だけどくるしい。
その物差しが、絶対的に正しいと大勢から「証明された」物差しであればあるほど、それで測りまくると、この世はちがうサイズだらけだ。
くるしいにきまっている。

いつのまにか、その物差しと自分が自己同一化している。まるでその物差しは、自分であることの証明にでもなったかのよう。その物差しがなければ自分がいなくなるかのように、使いまくる。

カラダがぜんぶ物差しお化けになると、目に見えるものをはかり、比べ、判断し、断言する。

心は、だめだだめだでいっぱいになる。



2013年7月17日水曜日

自分の声にふりまわされる



一所懸命働く。
一所懸命働くと、「すごいわねえ」とほめてもらえる。
一所懸命働くと、お金が入る。
一所懸命働くと、ケッコンできる。
○○すると、いいことがある。
という方程式になっている。

すると、
だらだら働くと、「あいつ、なにやってんだよ」とほめられない。
だらだら働くと、お金が入らない。
だらだら働くと、ケッコンできない。
○○しないと、わるいことがある。
というふうに、反対の方程式も自動的に作っている。

こうしたら、こうなるから、こうする。

じゃあ、こうしないと、こうなってしまうから、こうしない。

わけありの行動には、いちいちに条件がくっついてくる。

一所懸命はたらくと、いいことがある。
だらだらやると、わるいことがある。

だ、か、ら、一所懸命やる。
この場合、一所懸命やるのは、悪いことが起こってほしくないため。
つまり恐怖による自分への強制だな。
これって、ただたのしいから働くのとはえらいちがいだよな。


だけど人って、そういつも一所懸命できない。たまにはだらけてしまうし、よそ見もする。
すると、頭の中でだれかがこういうんだ。

「あー。なまけている。なまけていると、わるいことがおこるぞ」
そのことばにあせって、
「いけないいけない」と一所懸命やる。
だけど必死にやらなければならないとおもえばおもうほど、カラダがどんどん疲れてくる。
「おまえ、そんなことでどーする!」
頭の中で誰かがお尻をひっぱたく。
「わかってるよ、そんなことわかってるよ。だけど、だけど、もうカラダがついていかないんだ。。。!」
「わかっているだろうな。そんなふうだと、お前の未来は。。。」
「もう、やめてくれ!わかっちゃいるさ!だけど、もう限界なんだ!!」
頭の中の誰かに対して罪悪感を抱えながら、日々くるしさの中で生きる。


頭の中のことばに耳を貸さないヤツもいる。
「あー、なまけている。なまけていると、わるいことがおこるぞ」
「それはどういう理由で?」
「なまけていると、ろくな人生にならないってことさ」
「ろくな人生にならないって?」
「ケッコンできなくなったり、お金がなくなって、路頭に迷ったりすることさ」
「ほー。なまけていると、路頭に迷うのかい?じゃ、なまける=路頭に迷うってことなのかい?」
「そうさ、きまってるじゃないか」
「だれがきめたの?」
「だれがって、どこかのお偉いさんだ」
「ふーん。お偉いさんの言うことは、その通りになるんだ」
「そうさ。その通り」
「だれがきめたの?」
「だれがって、。。。どこかのお偉いさんの、。。。そのまたお偉いさんにだ」
「そうか。言った通りになるんだ」
「そうさ。言った通りになるんだ」
「じゃ、言った通り、なんだな」
「そうさ。言った通りさ」
「じゃ、なまけてたら、いいことがおこる」
「そう。なまけてたら、いいことが。。。なっ、なにいーッ!」
「だって、言った通りになるんだったら、好きに言えばいいんだよ」
「お、おまえなあ。。。だいたいお前はどこかのお偉いさんなのか」
「どこの誰かわからないお偉いさんから、ぼくの人生を決められる筋合いはないとおもうよ」
「お偉いさんだから決められるのだ!」
「え~~、そのお偉いさんだって、そのまたお偉いさんから決められたんだろ?言った通りになるんだったら、自分で言っちゃってきめちゃった方が早いじゃん」
「。。なんだ。。そのへりくつ。。。」
「だからぼくはこれでいい。なまけていると悪いことがおこるっておもってるからおこるんだったら、おもっていることを修正するよ。
なまけていたら、いいことがおこる!」
「えーかげんにしなっさーい!」
「どーもーっ」

頭の中の声ってなんなんだろね。
そいつが言ってることばって、判で押したみたいに常識的だし、おもしろくないし、だいたい自分を否定することばばっかししか言わない。そんでもってそれをまともに聞いていたら、ただただくるしくなる一方。
こいつって本当に自分の味方?
言われなくってもわかってることばっかり言ってくるよね。

とどのつまり、自分の思考で自分にたがをはめているだけなんじゃないかあ?


2013年7月16日火曜日

わけありの行動



ニンゲンの行動の動機は、
「なんだかしらんが、ただやりたい!」
という、わけもなく起こる衝動と、
「やらなければいけないから、やる」
という、わけありの行動がある。

フォレストガンプはひたすら走った。走りながらレポーターに聞かれる。
「どうして走っているのですか?」
「走りたいから」

このわけもなくやりたい衝動は、子供の頃あった。
だけど、大きくなるにつれて、わけもなくやる行動が、わけありの行動に変わっていく。

わけありの行動がはじまるのは、自分以外の存在がきっかけを作る。

ただ何か描きたくて、ぐるぐると木の棒で地面に線を描く。
するとおかあさんにほめられる。
「あら、上手にかけたわねえ」
えっ?
心がなんだかわくっとする。お母さんがほめてくれた。
このよろこびは、また次のよろこびをほしがる。
ほめてもらおうと、意図的にお日様を描いてみたりする。
「アーラ。それお日様ね。じょうずねえ」
おおおっ!
すげーじゃないか。もっと描こう。

この時点で、すでにただ描きたいという衝動は消えて、わけありの行動に変わっている。
「ほめてもらうため」に描くというわけだ。

すると絵を描く目的が、「ただ描きたいから」ではなく、母親にほめてもらうために描く、というものに変わっている。だから描けば母にほめてもらわなくては困るのである。

ところがそういう時に限って、知らん顔されたり、
「ここ、おかしい。もっとこういう風に描き直しなさい」
とか言われちゃったりする。

すると描くことによって得られたよろこびは、苦痛へと変わる。
だからあせってもっと描く。
ほめられてうれしいというおもいは、ほめられなければかなしいというおもいも同時に生み出している。

「ほめられて育つタイプ」は、なかなか言い得て妙なことばだった。
しかしこれは、もう一つ別の面ができる。
「ほめられて育つタイプ」は、つねにほめられようとする。
だが他人はそうしょっちゅうほめてはくれない。ほめられないとおもしろくない。
だからそのうちすねる。


わけありの行動は、人にほめられたいというモチベーションによって動いている。
だからどこかで誰かが見てくれていないといけないのである。



2013年7月13日土曜日

私たちはいつも答えを求めている



私たちはいつも答えを求めている。

小学生だった頃、算数が好きだった。
1+1=2。
明快だった。
答えは一つしかなかった。
方程式も好きだった。
答えはいつも一つしかなかった。

だが。。
大人になって、1+1=2、ではなくなった。
数学は、もっと奥に進むと、2でもあれば、3でもあるし、5でもあるし、100でもある、というふうになった。
。。。。不安になった。

そういえば、私は国語がきらいだった。なぜかというと、答えが曖昧だからである。(ウソつけー。漢字が読めないからだろー)感想文なんか、もっときらいであった。
こういう考えもあれば、はたまたこういう捉え方もできる、というふうに、答えが一つじゃなかったからだ。


こうなれば、こうなる。
というふうに、わたしたちはとらえがちである。
それは算数で明確だったものが、奥に進めば進むほど、複雑で曖昧で、答えなどない、的なところにいっちゃうのが、心もとなくなるからではないだろうか。

子供の頃、おかあさんに、
「これはこうするのよ」といわれれば、
「はいっ、おかあたん!」
ってそのようにやれば、
「まあ、よくできたわねえ」
と、ほめてもらえた。
そのころ、答えは一つしかなかった。
お母さんからもらう方程式である。

だが。。。
ちょっとオトナになり始めると、
「これは、こうもできるぞ」
と、近所のオヤジにへんなことをすり込まれる。
えっ?おかあさんはちがうこといってたのに。。。

すると不安になる。
これはこうもするものだし、そして、これは、べつなこともすることができる。。。
答えが一つじゃなくなった。。。


もっと大人になって、石けんはいらない、と知った。
それまで、おかあさんに、
「毎日きれいきれいに石けんでカラダを洗うのよ。歯磨きは歯磨き粉できちんと。そしてシャンプーは絶対必要よ」
「はいっ、おかあたん!」
「まあ、いい子ねえ」
と、方程式をもらったはずだった。
だけど、石けん。。。。い、いらなかった。。。。

そして、野菜に肥料もいらない、と知った。

では、答えは一つなのか。
石けんいらないという答えと、肥料はいらないという答え。

はたしてそれは「答え」なのか。
そもそも「答え」などこの世にあるのか。
ある、っておもってるからくるしいのではないか。

あの頃、おかあたんと私、というシンプルな世界に、答えは一つしかなかった。言われた通りにやれば、全てオッケーだったあの頃。。。

人はどこかでつねに答えをもとめている。
もとめてもとめて、ほいでもって、やっと手に入れたその新たな答えに
「え~~~~。。。」って戸惑って、
ほいでもってまた次なる答えを探し求める。

私の生き方がおかしい。。。とおもえば、人は答えを求めて外へ探し求める。
ここのセミナー、あそこのセミナー、
ここの宗派、あそこの宗派、
ここの会社、あそこの会社、
ここの先生、あそこの先生。。。。
あげくにここの病院、あそこの病院。。。

答え、あった?
それは「とりあえず」の答えじゃなかった?
でももとめているものは、「ぜったい」の答えじゃなかった?


答えがあったのは、幼い頃だけだった。。。
それは、その答えを通してこの世のルールを知る、という一つの段階であったのだ。
だからこれは一生ついて回る「正しい答え」ではないわけだ。
だけどあのクリアだった、シンプルだったあの感覚が忘れられないから、人は答えを探し続ける。

だけど母に言われたことばや先生に言われたことばは、成長すればいつでもひっくり返せるし、もはやそれにとらわれることもないのだ。

答えは一つではなく、そして、答えそのものもない。。。


やまんばは今日も畑で土をほじくる。
夜露に濡れた草は、土の中の水分を外に出しているのか、それとも、夜のあいだに空気中に存在している水をとらえて根に運んでいるのか。
答えはあるのか。
わからない。
ニンゲンのおよびもつかないところで、植物達はひたひたと生きている。
その姿を見るたびに、ただ畏怖の念にかられる。

ニンゲンはそこに「答え」をみいだす。
だけど植物は、そこに「答え」という概念はない。ただそこに気高く存在するのだ。



2013年7月12日金曜日

ウチの扇風機は誰のもの?



あつい。なんだかすごーくあつい。
冷房をつけない主義のやまんばは、39℃の部屋の中でしごとをする。

するってえと、マックちゃんが、触れないぐらいに熱くなっている。
ひえ~~~、やばい。

最近のコンピーターの熱処理はどうなってんだろう。昔、クワドラの中で回っていたファンの音が、今の機械はしない。熱くなるのは、熱くなるに任せているんだろうか。だけど昔コンピューターが自分であつくなった熱にやられて、変な動きをし始めたのを思い出し、あわてて扇風機をまわす。
じぶんに、ではなく、こんぴーたーくんにかけるのだ。

しかしなんだよな。変な話だよな。
自分で熱だして、自分のその熱にヤラレるってえのは、いかがなもんか。

ダンナにその事を言うと、
「そりゃ、スカンクが自分のへにやられるようなもんだ」
おお、うまいこというじゃねえか。
やまんばは昔、カメムシが密封された容器の中で、自分の発した匂いにヤラレて気絶してたのを思い出した。

カメムシもスカンクも気絶するだけでまた生き返る。

午後、いったんマックを閉じて畑に向かう。
部屋の中でひとり扇風機がマックを冷やし続ける。



2013年7月5日金曜日

ちゃんとしなきゃ



やまんばは、きのうしつけとお仕置きの意味をごっちゃにしていた。
この二つは根本的な意味が違った。

お仕置きは肉体的に、精神的に、苦痛を味わわせることが目的だ。

しかししつけとは、ルールに従うための理解をさせることだ。
それには苦痛が絶対的に必要、とはかぎらない。


私は子供の頃、くすりを飲むのがイヤだった。
拒絶する子供にお仕置きをしてくすりを飲ませるという方法もあるだろう。だけどじっさい、その手は使われなかった。

「ほら、今あなたのからだの中に、悪い菌がいるの。このおくすりの中には、それをやっつけてくれる人がいるのよ。」
子供心にそのイメージがすぐわいて、イヤだけど飲んだ私がいた。それから後は、やっぱりイヤだけど、悪い菌をやっつけてくれるイメージとともに、くすりは飲めた。

肉体的や精神的な苦痛は、その後の心に影響を及ぼす。
苦痛はほとんどの人がそれに恐怖をかんじる。その恐怖を二度と味わいたくないために、しない。
それは「恐怖によるコントロール」ではないか?

私たちはこの世のルールに従うために、外からの恐怖によるコントロールと、そして自らも、自分を恐怖に陥れながら、自分自身をコントロールして生きている。

「ちゃんとしなきゃ病」もそれが基盤になっている。
わたしもさんざんこの病におかされた。
なんでもかんでも「ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ」って、ほとんど無意識にこのことばを呪文のように唱えて生きていた。

そのことばの後ろには、
ちゃんとしなきゃ、ろくな人生にならない。
ちゃんとしなきゃ、ひどいことになる。
ちゃんとしなきゃ、人にきらわれる。
ちゃんとしなきゃ、村八分になる。
ちゃんとしなきゃ、認めてもらえない。
という恐怖が宿っている。

それは幼い頃「ちゃんとせんかあ~っ!」
という言葉をもらっていたからのようだ。
その度に、からだがびくっとこわばる。
あわてて何かしようとする。だけど心が恐怖で一杯だから、なにをしているのかわからなくなる。するとまた「なにやってんだあ~っ!」とおこられるのだ。

だから大人になっても、ぼーっとしていると、急に、
「いかん。なんかせんといかん!」
とあせりだすのは、パブロフのイヌのようなその条件づけのおかげなのだ。

つまり、あのときの恐怖を味わいたくないために人は動くのだ。

行動の動機が、何かを「やりたい」ために動くのではなく、「おこられない」ために動く。
この二つのちがいはけたはずれに大きい。


私はくすりに関してはトラウマがない。
それは母のしつけのおかげだったとおもう。もし恐怖によるしつけだったら、
「くすり飲まなきゃ、くすり飲まないと大変な事になる」
と、おもっていたかもしれない。くすり飲まないと怒られる。。。と、心の奥が恐怖に駆り立てられただろう。
だけど、くすりを飲むことに冷静だったのは、その項目について何のトラウマもなかったからなのではないだろうか。


ちゃんとしなきゃ、というトラウマは、自分で解消できる。

「ちゃんとしなきゃ」と思いながら行動しようとしている瞬間に気がつく。
パブロフのイヌのように、自動的に反応しようとする自分を見つける。
自分が行動しようとするその瞬間、何が動機になっているのか、理解する。それが本当にやりたくてやっているのか、怒られないためにやっているのか、そして恐怖から逃げるためにやっているのか。

恐怖から逃げるためにやってもいい。
怒られないためにやってもいい。


だけど、その自分に気がついていること。

ちゃんとしなきゃ、とおもいながらやっている自分に、気がついていること。
それを何度も繰り返すうちに、それがしだいに溶解し始める。

恐怖によって動かされる行動が、それを意識することによって、恐怖でなくなっていくようだ。

トラウマは、自然と溶解し始める。


絵:「不屈の人 黒田官兵衛」MF新書表紙イラスト

来年の大河ドラマの主人公だ。
この人ほど、自分自身を深く見つめた人はいないのかもしれない。すごい人だ。

2013年7月4日木曜日

お仕置きは世界を幸せにするか



このごろに限ってではないのだろうけど、変な犯罪が多いね。

ふしぎだなあ~とおもうのは、犯罪を犯すと、捕まって終わり。なところだ。
どんな犯罪も、捕まれば一件落着。

なんで一件落着かというと、つかまると刑務所に入れられて、イタイおもいをするからなんだね。
イタイおもいをすると、もう悪いことはしない(はずだ)ということらしいんだ。

だけどどうも出所したあとも、またやっちゃうことが多いらしいけど。。。


いけないことをすると、お仕置きを受ける。
だからいけないことはしなくなる。
ぎゃくにいうと、お仕置きがいやだから、いけないことはしない。

ということは条件付きなのだ。
痛いおもいをしたくないから、やらないだけなのだ。この世の秩序がかろうじて保たれているのは、お仕置きがあるからなのだ。
これは文明人の進んだあかしなのか。原始人とあまり変わらない気がするが。

ほんでもってイヌにしつけをするときと同じではないか。
人はイヌと同じなのか。
やまんばも子供の時、よくお仕置きを受けた。
やまんばもイヌと同じである。(わ~い)

大きくなっても同じ方法でお仕置きを受ける。
大人も子供と同じなのか。もうちょっとマシな気がするんだが。

いやまてよ。犯罪を犯す人自体が、子供のレベルなのだ。
だからお仕置きを受けるのは当然だ、という。

だけど、犯罪を犯さないまでも、会社に遅刻したら、それなりのお仕置きを受ける。
『定時に帰れ』というおふれが出ても、まわりの上司や同僚が残業していたら、仕事が終わっていても自分だけ先に帰れない。勇気を出して先に帰っちゃったりしたら、後からしかとやいやみやいじわるで、あからさまにはされない、ねちねちとしたお仕置きを受ける。

どっちにしたって、お仕置きを受ける。
犯罪レベルであろうと、なかろうと。

お仕置きを受けて世界がよくなったのだろうか。
お仕置きのおかげでみんなが幸せになったんだろうか。

きっとないよりマシってことなんだろうな。

だけど気がつくと、自分が自分にお仕置きをしていたりする。
自分をどんどん痛めつけていたりする。
自分にムチ打って頑張らないと、もっとひどいニンゲンになるのだ、と思い込んでいる。

それは幸せな生き方なんだろうか。



2013年7月3日水曜日

梅ジャムのはずが。。



畑の帰り、道ばたに熟した梅がごろごろ落ちていた。
持って匂いをかいでみると、い~におい!

友だちのSちゃんの梅山で、さんざん梅三昧した勢いで、
「よしっ、完熟うめのはちみつシロップでも作るか!」
と、落ちてた梅をひろって、蜂蜜に漬ける。

2、3日もしないあいだに、いい感じに汁が上がってきた。匂いをかぐといい香り。
毎日匂いをかいで出来上がりを待ちわびた。

Sちゃん梅と匂いをかいで比べてみる。
なんかじぇんじぇんちがう匂い。。。
やっぱ、完熟梅はえらいちがう匂いやなあ。。。

ほっといているあいだに、どんどん皮がむけ始める。まわりがとろとろに溶けはじめてきた。
やっぱ、完熟梅はちがうんやな。。。。
と、ちがいを「完熟」のせいにしつつ、どことなく一抹の不安を感じながら、日々が過ぎる。。。


今日、母から聞いた梅シロップ作りを参考に、そいつを鍋にかけてみた。
新たにお砂糖と蜂蜜を入れて、くつくつくつくつ煮る。

とろとろになったころ、シロップをこして梅シロップを作り、のこりで梅ジャムをつくる。
出来上がった梅ジャムは、別の味がした。
「。。。?」

も一度なめてみる。
一瞬、頭の中でバウンドケーキの上にかかったアプリコットジャムのイメージが浮かんだ。

「これ、、、まるであんずジャム。。。」

やまんばはあわててネットで調べた。

完熟梅だとおもってひろった黄色い果実は、あんずだった。
不思議なもんで、人は「これは梅!」って決めたら、とことん梅の口になってしまうらしい。どんなちがう味でも「梅ったら、梅なの!」とあくまでも梅にこだわるらしい(わしだけか?)。

しらべると、梅と杏は姉妹関係にあるそーな。梅の木が杏の木になったり、杏の木が梅になったりするそーな。ほんまいかいな。
畑のまわりは梅林なので、やまんばはてっきり梅だとおもっていた。
ひょっとして、まわりが梅だらけのなかで、
「あたし、梅でいるの、飽きた!」
って、一人ストライキを起こした樹であったのか。。。?(やまんばみたいやな)

なんともはや期せずして、アプリコットジャムを作ってしまったのであった。
ちゃんちゃん。

アプリコットジャムデニッシュでも作るかあ〜。



目覚めると、いつも5時半。



「あら、はやいわね」

「え、もう畑いって来たの?」

早朝に道を歩いていると、そう声を描けられる。
やまんばは最近朝めざめるのがはやいのだ。

まず4時に目が覚める。まだはえ~なあ~、とおもって、二度寝する。
つぎ目が覚めると、5時半。いつも5時半。なんでやねん、というほど、5時半。
しょーがないから起きる。することないから畑に行く。すると冒頭の声を描けられてしまうのだ。

今日も畑から帰って、玄関先の草むしりをしていると、
「あら、朝から頑張ってるわねえ」
と、おとなりさん。
頑張ってないから、草ぼうぼうの庭先なんですけど。

話をしていると、あたしも早く目が覚めちゃうのよ~と彼女。
「なんだかしらないけど、いつも5時半なのよ」
へ?

ここいらは5時半に目覚めさせる妖怪でも住んでいるんだろうか。