2013年6月30日日曜日

グレーもいいもんだぞ



ある人の話。

「私の父は警官でした。
私がよく何かに対して『あれはよくない!』っていうと、
彼はきまって私に向かってこう言ったものです。

『おまえは、何もかも白黒はっきりさせようとする。
だけど、グレーもいいもんだぞ』」


やまんばはその話を聞いてびっくりした。
だって警察官だよ、その人。
白黒つけるのが仕事の人だよ。
その人が、自分の子供に対して「グレーもいいもんだ」といって聞かせる。。。



あれはよくない。こうでないといけない。って人は言う。
そういうときって、あるべき姿や理想の姿を前提としている。そして、そうでない現実にジレンマをもっている。そのジレンマって、摩擦を起こす。あるべき姿でない現実に憤慨して、それを直そうと躍起になる。だけど現実はなかなか、そうあるべき姿になってくれない。だからその人はストレスをためる。

グレーもいいもんだってのは、その『あるべき姿』、つまり白か黒かを、『どっちでもいーじゃん』って色にする。
限りなく白に近いグレーかもしんないし、限りなく黒に近いグレーかもしんない。そして限りなくどっちでもない、スミ50%かもしんね。
けっきょくグレーは、日本人の「ねずみ千色」くらいある色の世界観なのか。白と黒は2色しかない。選択の枠が2個しかない。だけどグレーは選択の枠が、千個もある。。。(!)

グレーを意識し始めると、あれはよくない、これでないとだめだ、というものが、すこしづつ薄まってきて、
「う~ん。。。究極、どっちでもいいのかもしれないなあ。。。」
というきもちになってくる。
すると、こうじゃないといけない!とかたくなにこわばっていたカラダも、何となく力が抜けてきて、少しずつ軽くなってくる。
これじゃなきゃだめだ!っていうのとはちがう、ニュートラルなカラダになってくる。


そのオヤジさんは、頭の柔らかい人だったのかもしれない。
白黒はっきりさせる現場をずっと見てきたのだ。

彼はそれの限界のようなものを垣間みていたのかもしれない。



2013年6月27日木曜日

ダメだしをだし続けている人



やまんばは仕事中、しょっちゅう席を立つ。
コーヒー入れたり、パンを焼いたり、ネットを見たり、山をみてぼーっとしたり。

なんでこんなことするんだろ。
どうしてじっと机に向かってられないのか?

くるしいのだ。
くるしくて、机に向かっていられないのだ。
なぜ?

ふと、ダメだしをする自分に気がついた。
エンピツでスケッチしながら、心が後から後からダメだしをしている。

一つ線を描くごとに、
「それじゃだめだ」
「ああ、その線もだめだ」
「なんてへたくそなんだ」
「その程度のアイディアしかでないのか」
「それじゃきっと決まらない」
「そのアイディアもだめだ」
「いったい何年やっているのだ?」
「いいかげんにしろ!」
「そんなことしていると、仕事干されるぞ!」

やまんばは自分が仕事している最中に、こんな言葉をえんえんと吐き続けていることに気がついた。。。

こっ、、、、これは、くるしいに決まっている!!!
自分がする行為を全て帳消しにしているのだ。落ち着いて座ってられる訳がない。

なんでこんなことしているのだ?なぜダメだしをだすのだ?


いたらない部分を指摘することで、より良くなる。
そう教わって来た。
悪い部分を改善することが、正しい道だと教わって来た。
そうやって50数年生きてきた。
だからちょっとはマシなニンゲンにはなっただろう。

だけど、こんなにくるしくていいのだろうか。人生はくるしいもんである。それがいい人である態度だ。
ほんとにそうなの?
もしもダメだしをやめたら、とんでもないニンゲンに戻ってしまうの?


78歳の母を見る。
彼女の心の中は、自分へのダメだしで一杯だ。
「この足がだめなのよ。この足が。。」
「ああ、歩けない。。」

そうやってダメだしをだし続けていることが、自分を切磋琢磨してより上に上がらせられると信じている。
たぶん、すくなくとも日本人はそう信じているはずだ。

しかしじっさいは、それを言い続けることによって、彼女はより歩けなくなったようにみえる。一番近くでその姿を見てきて、そのダメだしは本当に効果100%なんだろうかと、疑問におもっている。

しかし自分も同じことをやっていることに気がつき、愕然とする。
これは「年いったき。。。」とまったく同じことなのではないか。

自分にだめだだめだと言い続けることは、より良くなるということよりも、その言った通りになるのではないのか。
つまり、ダメな人間に。。。。


そのことばに耳を傾けるのをやめてみた。

ダメだしをする自分のことばを無視してみた。

「デッサンがへたくそ?あっそう」
「そのアイディアがだめ?べつにいーんでないの?」

仕事が進んだ。。。。
机に向かえるようになっている。
くるしくなって席を立つ自分がいなくなっていた。

なんという開放感なのだ。
なんで今まで気がつかなかったんだろう。
ダメだしは、自分に手かせ足かせをはめていただけだったのかもしれない。

ダメだしをしない自分の方が、はるかに自分の現実が引けて見えている。
淡々と仕事をみることができる。
それは感情を伴わないからのようだ。

でもダメだしすると、自分でだした瞬間から感情的になる。
その感情的な視点が、自分への洞察をさまたげる。
心は、わあわあ、きゃあきゃあ、騒ぎだす。

ダメだしは、自分を奮起させてくれる道具でもあるが、いっぽうで、自分をつぶしてしまう道具でもある。

道具はうまく使いこなしたいもんだ。


絵:『カリスマ社長の大失敗』MF新書表紙イラスト
「失敗しない人は挑戦しない人である」
なるほど!
自分のダメだしにつぶされてしまわない人が、この世を渡っていけるのだ!


2013年6月26日水曜日

あんまりみつめすぎるなよ。。。



「あんまりみつめすぎるなよ。。。」

いつだったのだろうか。ずいぶん小さい時に誰かに言われたことば。

「あんまりみつめすぎると、それが本当に現れてくるぞ。。。」

どんな状況で聞いたのかはまったく覚えていないが、小さな時、私は何かにおびえていたようだ。その怖がっているものにばかり意識がいっている時、聞いた言葉だった。


アメリカのコロラドの大地で、現地のインディアンから聞いたことば。
私がほほに雨の一しずくを感じて、
「あ、雨。。。」というと、
「考えるな。考えると雨が来るぞ」

これから遺跡の案内をしてもらおうというとき、雨にふられては困る。私は心に「雨」のことばを消した。それから雨はふらなかった。


わたしたちは、ことばで、現実を引き寄せている。

先日書いた「年いったき。。」も、同じ構図だ。
「年いったき」ということばの後ろに、ありとあらゆる想いや感情が詰め込まれている。「年いったきうれしい」というアイディアはほとんどない。ほとんどがネガティブな想いで満たされている。そして「年がいくことはいやだ」と拒絶をしている。

イヤなことは頭に思い出さなきゃいいのに、人はなぜかそればっかりに固執する。これさえなければ私は幸せになるのに!とおもいはじめる。
しみさえなければ、きれいになれるのに!
やせさえすれば、服がきれるのに!
紫外線さえなければ、しみができないのに!
お金持ちにさえなれば、あたしはしあわせなのに!
あいつさえいなくなれば、おれはしあわせなのに!

全て幸せになるために心が叫んでいることばだ。

皮肉にも、その排除したいものは、排除したいしたいとおもえばおもうほど、どんどん迫ってくる。きらいなあいつは、きらいいきらいとおもえばおもうほど、どんどん存在感を増してこないか。
しあわせになりたいがゆえに排除しようとするのに、まったく逆のことが起こってくる。

これが量子の世界。
観察されるものが観察するものの影響を受ける。
「みる」ことよって、それが物質化する。

そのきらいなモノや人は、つねに心の中で考えられていないだろうか。この世はその人のマイブームである感心ごとが、目の前に現れているだけなのだ。

金持ちになりたいという想いは、自分が現実にお金がない!という想いから生まれたアイディアだ。
そうだ。あなたはお金がない!とおもっている。それその通りに現実化しましょう、と宇宙の秩序は現してくれている。
やせさえすれば!というおもいは、じぶんが「太っている」とおもっているから、その通りに太らせましょうと現してくれている。
しみがなければ!というおもいは、自分に「シミがある!」とおもっているから、シミを作ってくれている。


「あんまりみつめすぎるなよ」は、その事を言っていたのだ。



2013年6月22日土曜日

梅ちゃん、ありがとう〜。



梅酒、梅シロップ、ほんでもって梅干し!
梅って偉大やなあ~。なんでもできるんやなあ~。

今、やまんばの家ん中は、うめ、うめ、うめ、一色である。
高知に帰った時、友だちが持っている梅山から、梅をごっそりちょーだいしてしまったのじゃ。
欲深~いやまんばは、アホほどもらってしまって、手に余ってしまった。結局かあちゃんや高尾の友だちに押し付けた。(だったら、とるなっちゅーんじゃ)

シロップは、砂糖漬けと蜂蜜漬けにわけた。蜂蜜漬けは、室内に置いたままなので、ぶくぶく泡が出てきた。においをかぐと、あきらかに発酵している。なんじゃこりゃ。ひょっとしたら、パンの発酵に使えるのかなあ。。。?

植物って、切られても生きてるんだなあ。
生きてるっていったいどこまでが生きてて、どこまでが死んでるんだろう。ひょっとしたら、そんな境目ってニンゲンが考えだしただけで、命は変化し続けているもんなのかもしれん。腐ることも発酵することも、死ぬことじゃなくて、変化し続けているというだけなのかもしれん。

とすると、ニンゲンだけが変化しないわけじゃあない。変化するのがこの宇宙の摂理なのだ。だとすると、変化することをこばむ必要はないのかもしんない。

梅ちゃん、ありがとう~。
Sちゃん、ありがとう~。

2013年6月21日金曜日

「年いったき。。」2



「年いったき」は、年がいくということを、肯定している事になる。
事実そうだから、そうに決まっているだろう。
というのが、いままでの考え方。

だが量子力学的にゆーと、観察されるものが観察するものの影響を受ける。
ということは、その人が「信じたものがあらわれる」ということになる。
すると、年がいくということを信じているから、年がいく、ということである。
それに何も問題はない。
だけど、そのことをつねに意識し続けるとどうなるのだろうか。

自分が年がいく、ということばを、つねに心の中や、ことばにだして言い表していると、どうなるのだろうか。

「いや、どーしょー、カラダがうごかん。。やっぱし、年がいってきたがや。。。」
と心の中でいう。
「いや、いかん。あたし、それやるがを忘れちょったちや。ごめん。ごめん。やっぱし、年がいったがやきにかあらん(注:年がいったからにちがいない)」
と、自分の失敗を人にいい訳する。

心の中でおもう。それを口にだして、自分の耳で聞く。
このダブルなアクションが功を奏する。
こうして、年がいくことにますます加速をつけてくれる。じつにありがたいことである。

そう言う意味では、田舎に住んでいる方が、より加速が増す。なぜならまわりにそう言うことばを発する人々がいっぱいいるからである。

ひとりが発すると、そのとなりにいる人も「ああ、そう言えばいいんだ」と信じ込むので、マネをする。するとそのとなりにいる人も「ああ、そういうもんなんだ」と納得をするので、そのマネをする。
かくして『田舎総「年がいく」人口』で満たされるのである。

だが、中には残念なことに、年がいってない人がいる。
そーゆー人はどうしているかというと、あろうことか、年がいっていることを忘れてしまっているのである。

やまんばはNYに住んでいたことがあったけど、年がいってない人が多かった。
これは日々戦いの中で死にものぐるいで生きているから、「あ~、年がいった。。」などと悠長なこといってられないからであろうか。地下鉄で「あ~、あたし年がいった。。。」などとほざいておるスキに、財布を盗み取られてしまうかもしれないからである。(ほんとか?)

では年がいかない方法は、戦いの日々に没頭すればいいのか?
いやそうではない。

簡単だ。
口にしないことだ。

心の中で、そう呟こうとするとき、呟いた時、それに気がつくこと。その時、「いや、また言ってしまった。。」と後悔する必要もない。それに気がつくと、無意識という状態が消える。心でしゃべっているおもいグセに気がつきつづけていると、そのうち心は黙ってしまう。

それが結果的に、年がいかないということになってしまう。

だってそれは観察もされないので、現われようがないから。


2013年6月20日木曜日

「年いったき。。。」



「年いったき。。。」
母のことばには、必ずその枕詞がついた。

1年ぶりの里帰り。だんだん親の様子を見に行く回数が増えてくる。
それはやまんばが、年いったき。。?

年いったき、身体が動かん。
年いったき、お化粧のノリが悪い。
年いったき、よう覚えん。
年いったき、ようわからん。
年いったき、字が書けん。
年いったき、みにくうなった。
年いったき、
年いったき、
年いったき、
年いったき、。。。
友だちからもちらちらとそんなことばが見え隠れする。。。

だれか、年いったき、若うなった。というやつはおらんのかー!

この枕詞を言う意味はどこにあるのか。
年いったき、はなんにでも使える。
年いったき、コーヒーがまずうなった。
年いったき、仕事が減った。
年いったき、離婚した。

だいたいネガティブなことばにのっけられる。
するとそれがそのネガティブな事実のいい訳になる。
ほらー、ほらね。やっぱり。年いくって、しんどいことなのよお~って。

自分がうまくできないことを、人に納得してもらうために使うには便利なことばだ。
そして、そのできないことを、自分で納得するために使う。これが一番の利用方法だ。
人にも説得できて、自分にも納得させられる。うん。いいことばだな。

これはちょっと年がちがう人にも使える。
30代に、50代のおばさんが、
「あたし年がいったから、動けんのよ。あなたはまだ若いから」
なるほど。年がいったから動けんのね。
するとその50代に、60代が言う。
「あたし年いったから、動けんのよ。あなたはまだ若いから」
なるほど。
すると、その60代に、70代がいう。
「あたし年がいったから、身体が動けんのよ。あなたはまだ若いから」
すると、その70代に、80代がいう。
「あたしは年いったから、身体が動けんのよ。あなたはまだ若いから」

自分が動けんことを、えんえんと年がいったせいにし続けることが出来るのだ。
それは自分より年下の人に、なにげに自分があなたより年上よ、と圧力をかけることもできるし、その動けないことのいい訳に出来るし、自分にも言い聞かせることが出来る。

だからずーっと心の中で言い訳をし続けて、その自分で発した言葉を耳で聞き続け、ことあげして現実化し、どんどん衰えていくことをよしとできるのだ。


2013年6月13日木曜日

石臼は地球が回る音?



近所の人から、石臼をおかりした。
石臼なんて、使ったこともなければ、触ったこともない。どーやってまわすのかもしらない。
見よう見まねで時計と反対方向に回した。

ゴトゴトゴト。。。
地響きがする。
ウチで作った小麦をおそるおそる穴にちょろっと入れる。

ゴトゴトゴト。。。

なんと!上下の石臼の間から白い粉が出てくるではないか!
嬉しくなって、小麦をめいっぱい入れる。
すると石臼の間から、小麦がそのまんま出てくる。
やまんばは下に落ちた、そのまんまの小麦をまた穴にどばあ~っと入れる。
すると粉とわずかにくだけた小麦が出てくる。それをまた穴にどばあ~んと入れることを何度も繰り返す。
そーやって、汗をかきかき1時間かけて粉っぽいものができた。
それをケーキのふるいでふるう。

砂みたいな粉が出来た。
親指と人差し指で感触を確かめる。ざらざらする。
とーていパンに使う小麦にみえない。

。。。。。

思いついて、ふるいを二つ重ねてふるってみた。
すると前よりはるかにマシな粉が出来た。
やったあー!

重さを量ってみる。
130g。
ふるいに残った、いわゆるふすまの重さ、419g。

。。。。。orz。

どんだけムダだらけやねん。

その貴重な粉でフランスパンを作ってみる。
動揺していたらしく、水の分量を倍近く間違える。
きゅうきょ、市販の粉を足す。
自家栽培の小麦6割、市販の粉4割で出来上がったフランスパン(風)。
ワイルドな、おもたい、そぼく~な味がした。

後でネットでいろいろしらべる。
石臼に入れる小麦は、穴にちょろっ、ちょろっとだけ入れながら回すらしいのであった。
やまんばの豪快な入れ方はありえないのであった。
いったいどんな粉を作ってしまったのであろうか。

だけどあの石臼を回す時間は、なんとも言えないゆったりとした一瞬だった。
何というか、あの、ゴトゴトゴト。。。という音は、地球が回っているような、そんなかんじだったなあ。
昔の人はあんな風にゆったりとした時間を過ごしていたんだなあ。

今はスマホなんか人差し指でさっさっとなでて場面を変えることができる。そのスピード感たるやすごいものがある。すべてを指でどけていくようなそんな気軽さというか、ドライ感というか、バーチャルというか、なんか物質的に実感のない世界に突入している今の私たちの感覚。

でも石臼をひく、という行為は、そんなものとはまったくちがう感覚を呼び起こしてくれた。手には少しまめができたけれども、たしかにそこにある静かに流れる沈黙の時間。
心に浮かび上がるいろんな想いも、浮かび上がっては消えていく。なんともいえない、今というものを実感させてくれる味わい深い時間なのだ。

そこにはただ地球の回る音だけが響いてくる。
ひょっとしたら、すごくだいじなことなのかもなあ。



2013年6月9日日曜日

心のダンシャリ



こないだコストコにいってきた。
初めて入ったときは、NYを思い出すような匂いが立ちこめていたし、あの懐かしいホットドッグもバカ安で、ワクワクした。
でも2度目にいったとき「もう来ないな〜」とおもったので解約した。

ウオシュレットが動かなくなった。
使っているときは、なんてすごい機械なんだ!って感動して、これなしじゃ生きていけないくらいになった。だけど壊れてうんともすんとも動かなくなった後、べつになくてもへーきだった。

これがないと駄目!的なものが、べつになくてもだいじょぶじゃんってな日々である。石けんなし生活だって、じぇんじぇんなくってへーきだし。

ところが、心の中は、いらないもんがごろごろしっぱなしである。
「あんた、部屋ん中ぐちゃぐちゃじゃないの。いーかげんかたづけなさい!」
とは言われても、
「あんた、心ん中ぐちゃぐちゃじゃないの。いーかげんかたづけなさい!」
とは言ってくれないからである。

しかしやまんばはそーじをはじめたのである。
題して、ダンシャリ心バージョン~~~っ!

何を捨てるって?

ほら、よく心ん中で口にしない?
「あたしってだめだ。」
「ああ、あたしって、まだまだだ。」
「なにやってんだろ、あたし」
なんてゆーよーなことば。

自分を否定することば。
これはじつはエネルギーを多大に消耗している。

否定的なことばを発した時、心に何かかすかにでも、ズシン、という重みを感じないだろうか。カラダが重くなるような、心が沈むような。
その時そこにエネルギーが注がれている。

人の心は複雑に入り乱れていて、その否定的なことばを発した時は、過去の何かしらの傷に触った瞬間でもあるようだ。その傷にふたをするようにエネルギーを注ぎ続けている。

私たちには過去にたくさんの心の傷を持ち、それに当て布をするようにエネルギーを注ぎ続けているらしい。だからただじっとしていても、そこに使うエネルギーは消耗している。それに気がつくには、自分が自分に否定することばを見つけていくことが早いようだ。

だから部屋にゴミが満杯だと、いつの間にかリビングがせま~くなっているように、心の中もゴミに占領されて、それに家賃とられているようなもんだ。
家賃とられるならまだしも、エネルギーとられ続けて、どんどん老けていく。

一度否定をやめてみると面白いことがわかる。
心が軽くなる。

なんでもいいんだ。
例えば、おなかがポッコリ出ているとする(現実、出てるんだけど)。
すると、「あ、おなか出てちゃだめだ」って瞬時におもう。
おもわなくても、そこを触っているだけで、心が否定していることに気づけば、もっといい。

そのおもっている自分に気がつくんだ。
今、おなか出ていることを否定しているな、と。
そして「どっちでもいーじゃん」ってひとこと言う。
そのとき、カラダか心がちょこっと軽くなったら、それでオッケー。

このとき、「あ、否定している、否定しちゃいけないんだ」とおもってはいけない。だって、またそれは否定の否定なのだから、おなじことになってしまう。
否定も肯定もしない。本当はどっちでもいいことなのだ。
どっちかにしなきゃいけないとおもっているのは、そう思い込まされているだけなのだ。それが私たちを縛り付け、そこにエネルギーを使い果たしてしまっているのだ。

そうやって自分を否定していることを、ひとつづつ、表に現していくんだ。
だって、心の部屋の隅っこには、いっぱいクソみたいなどーでもいいことの自分への否定が、いーーーーっぱいたまってるんだもの。
それは表にだしてこないと消えない。見て見ぬ振りしたって、同じようなことが起きれば、そのホコリはがばって起き上がって「出動開始!」って大騒ぎするんだから。

『自分否定』がお得だった期間はもう過ぎたのだ。賞味期限切れ。ひっぱりだしてきて食ってもうまくない。
そういうものは、どんどん表にだしてあきらかにしていこう。すると日を浴びて「ぎゃ〜〜っ!」と消えていくドラキュラのように、こっぱみじんになる。
そうやって心の部屋はきれいにそーじされていくんだ。

心のダンシャリ、どおよ。



2013年6月7日金曜日

ドビーはイタイ



やまんばはきょーれつな自己嫌悪ニンゲンだった。
自分の悪いところ、いたらないところ、劣っているところ、あらゆるネガティブなことをさがしあてて、お仕置きするのが大好きなニンゲンだったのであーる。
もうそこから脱出しようとおもう。
なぜなら、そこにいても何もメリットがないばかりか、自分がどんどん縮こまっていくのを発見したからだ。

ほら、ハリーポッターのどっかのシリーズで出てくる、ドビーってやつ。
「ご主人様。ドビーは悪いことをしました。だからこーやって、アイロンを自分の手に押しあてて、お仕置きしておきました。だからお許しください」
あいつ、わしにゃあ、イタイんだな~。ちっとも笑えなかったんだな~。

最近、どっかのタレントが浮気をしたかなんかで、レギュラー番組を何本も降板したらしい。他にもどっかのアイドルが、なんかしたからって、自らマルボーズにしたのもあったよな。
かれらはドビーに似ている。

なんか問題起こしたら、それを上回るような自分へのいたぶりをして、許しをこう、みたいな、どこか自傷行為のようなものってあるよね。
あの気持ちわかるんだな。
だけど、あれはあるいみ脅迫である。そして策士である。

「あっ、あたしはこんなにひどいことをしてしまった。こんなやつはもっとひどい目にあわさないといけない!だからこうしてやる!」
すると、
「まあまあ、なにもそこまでしなくても。。」
と、まわりは言いたくなる。
「だって、だって、あたし、わるいことしたんだもの。。だから、。。」
「いいよ、いいよ。そこまでおもうんだったら、ゆるすよ、わかったわかった」
「えっ?いいの?ほんとにゆるしてくれる?ほんとに?ほんとに?」
と、ここで心はこう言う。
『わーい!ばんざーい!やったあーっ!』

これ、ホントに反省してるんだろうか。。。。

これは「わるいことをしたら、お仕置きされねばならない」という大昔からあるアイディアが作り出した、すり替え作業である。
罪は償わなければいけない。という。

ドビーは、償うことだけに意識がむかっている。
それは、「誰かの許しをこう」ことが大目的だからだ。

だけど本来は、悪いことをした自分を直視することなのだ。その直視によって、なぜそんな行為に及んだのか、それはどんな影響を与えてしまっているのかを自分で完全に見る行為なのだ。
そこに「誰か」は必要ない。

この作業はとても怖い。
なぜなら悪いことを発見してしまうと、その先にお仕置きが待っている、とおもっているからだ。

本当にお仕置きが待っているのだろうか。
宇宙はそんなふうにちっこいことでお仕置きをするだろうか。
それとも、そう信じているから、お仕置きが待っているのではないだろうか。


ドビーのあのなさけない顔。自分がこんなにもちっぽけな存在だと思い込んでしまっている。
あのすがたは私たちに何かをおしえてくれている。

私たちは、小さいときから私たちにしみ込んでしまった昔話から、今抜け出す時に来ている。




2013年6月3日月曜日

おばばのまっしろいおケツ



朝、5時半、カーテンを開けた。
いきなり目の前に、おばばのおケツがあった。

あろうことか、わが家のとなりの空き地で、しかもわが家のフェンスのすぐ横で、ノグソをたれておられたのだ。
おばばは、そのまっしろいおケツをやまんばに惜しげもなくあらわにし、用を済ませた後、中腰になってチッシュで菊の御紋をフキフキされておられたところであった。
 
なんというタイミングなのだ。
やまんばが一分でも遅くカーテンを開けていたら、そんなものにご対面させられなくともすんだのに。
その日に限って早く目が覚め、その日に限って早めに起き、実にタイミングよく出会ってしまったのだ。これを運命と言わずしてなんと呼ぼう。

後で考える。
そのノグソおばばが誰か、窓からこそっと確認も出来たかもしれぬ。
うんこはやがて消えていくが、チッシュはなかなか消えないものだ。山でも時々チッシュが隠れひそんでいる。そーゆーのを見ると、なんとも言えない気分になるから、
「せめてチッシュは持ってかえってね」
と、ひとこと声をかけてもよかったかもしれぬ。

だがどっちもできなかった。
だって、あんな時間によその土地の人がわざわざここにやってくるはずはなく、ましてや60すぎの(70すぎかもしれない)都会のおばばがうろうろしているはずもない。
ということは、十中八九ご近所のはず。
その顔を見てしまったやまんばは、きっとこれからそのおばばを、ノグソおばばと呼んでしまうであろうし、ずっとそのことをわだかまってしまうかもしれない。
そして「チッシュは持ってかえってね」なんて声なんぞかけてしまったひにゃ、ただでさえノグソはどこか罪悪感を伴うであろうに、そこに駄目押しをするがごとく、目撃されて声かけられたら、ショックで卒倒してしまうかもしれぬ。

ダンナにその事を話すと、
「あんた、いっつもうんこの事ばっかり考えているからよ」
といわれる。
ダンナにいわせりゃ、
「きょうはうんこでた」とか、
「きょうはうんこでない」とか、
聞きたくもないのに、何かにつけていちいちうんこの話ばっかり言うそうだ。(しらなかった)
だからそんなもの見るんだ、という。

そーいえば、やまんばは、男衆がノグソならぬ、ノションをするのをしょっちゅうみかける。そのおばばがノグソした場所は、いつもノションされる場所なのだ。やまんばはいつもそれを目撃してしまううううう。。。

やはりしょっちゅう考えている事は、現象化する。
ああ、また引き寄せたくもないものを引き寄せてしまった。。。

だけど、ほんとはそれが好きだったりして。

午後、現場を覗く。
チッシュの上に、不自然に草がのっけてあった。