2013年3月30日土曜日

マンガ「アセンション居残り組」













アセンションはなかった。
そーおもっているそこのあなた。
ひょっとしたら、わしらは居残り組なのかもしれないのであった。



最近のあたまをかかえるような事件を見るうち、やまんばはふと
「アセンションってさ、とっくにわしらのしらんところで終わってね?」
なんておもったのであった。
選ばれると思ってたやろ?
しょーじき、わしもそうや(苦笑)。



あなたのまわりに、あなたの記憶から消えた友人はいないか。
(消えてんだから覚えてるわけないやろ)




2013年3月25日月曜日

わしらは情報でビビってる



情報ってさあ、なんでもかんでもありだよな。
あれとこれを食べないといけない!と言ったかと思うと、あれとこれは食べてはいけない!というし、あれとこれがからだにいい、というかとおもうと、あれとこれはすこぶるからだに悪い!ともいう。
ヘーキで矛盾することをばんばん言う。
で、そのつど、視聴者は、ひえ~、こうしなきゃいけないのか。あ~れ~、ああやっちゃったのがいけないのか。と始終振り回される。

なんかね。
やまんばはだんだんばかばかしくなってきたのよね。


石けんだって、絶対必要だという人もいれば、じぇんじぇんいらないという人もいる。
放射能も微量だとかえってからだにいいという人もいれば、その微量が問題なのだ!というひともいる。

もしこの世が、量子力学で見つけられたこと、99%以上なにもない空間なんだとしたら、その1%にもみたない物体に影響される必要はあるんだろうか。

30品目以上食べないといけないんなら、北斎は89歳まで生きたんだけど、30品目毎日食ってたんか?日本のご長寿さんたちは、毎日30品目食っているんか?
そーかとおもうと「不食」な人もいる。これどっちが正しい?

情報ってなんかおかしい。
そのつど、ビビらせたり、納得させたりして、いっぱいいらんことを詰め込まれているだけにおもえてくる。

情報はこの世の99%占めている空間に入り込んで、わしらの意識をあやつっているかのようにみえる。

んでわしらもその99%の中の意識をそれら情報にその領土を明け渡して、喜んだり、おこったり、心配したりと踊らされているように見える。

ふりまわされてんのは、結局わしらの意識なんじゃないだろうか。

あれがいけないこれが正しいと、二元論にたって大騒ぎしてるのは、そういう価値観を埋め込まれただけのことなんじゃないだろうか。

健康や幸福であるには、何かを飲んだり食ったりすることよりも、そのビビりまくっている意識にヒントがあるんじゃないか。

わしらはまず、自分の意識にちゅーもくすることなんじゃなかろうか。99%は意識なんじゃないか?

ひょっとしたら、1%の物質じゃなくて、99%の意識にわしらの人生は影響されてんじゃないか。



2013年3月23日土曜日

花粉のでないスギちゃんは偉大なるニンゲンさまのお知恵



ここにきてやまんばの花粉症もほぼなくなった。
やっぱ、あの砂嵐のような絶頂期がピークだったようだ。
しかし杉の花粉に反応するやまんばのカラダはなんじゃ?
元々自然界にある物質だぞ。


進化進化と言うが、はたして人間は進化しているのだろうか。
こんなに文明が進んでも、一個のちっこい花粉にピーピー文句を言う。

すると、いやいや、多過ぎるのだ。
それが人のからだを蝕むのじゃ。
いやいや、そもそもそんなに杉が多く植わっているのがおかしいのじゃ。
じゃあ、切ればいい。
いやいや、切るったって、そこいらの雑草を引き抜くようにはいかん。スギの木一本切るだけでも大変な作業なのじゃ。
じゃあ、スギの花粉が出なくなる杉を植えればいいのじゃ。
エー、じゃあそれが育つまで待たないといけないわけ?
じゃあ、防虫剤(だったっけ?)をかけて花粉が出来る枝を殺すのだ。
なあんて、ニュースは言ってる。

これって進化?
目の前にある問題をその場しのぎで対処しようとしているだけじゃん。
そんなこと、この日本国中のありとあらゆるところに植えまくった杉山に出来るのか?そんなことしたら、また生態系が~~!という別の問題が浮上するのは目に見えてあきらかじゃん。

こんなこと、ちょいと昔のニンゲンはいわなかった気がする。少なくとも30年前は、こんな発想は持たなかったはずだ。山師の人に「ふんっ」て鼻で一笑されて終わるような発想だもの。ところが最近はそれを大真面目でやろうとする大人たちがいる。

これを進化と呼ぶのだろうか。
花粉が出ないスギをつくれることが「ニンゲンの進化」なのか?
進化しなきゃいけないのは、自然界でもニンゲンのカラダでもなく、ニンゲンの意識なんじゃなかろうか。

やまんばは、このカラダはコンセントのないスーパーコンピューターのような気がする。自然界はとてつもなくパーフェクトで、ニンゲンさまのお知恵で組み替える必要も、いじくる必要も、ナーンにもないように見える。
いじくる必要があるのは、そのニンゲンさまのお知恵そのものなんじゃないかと。

このスーパーコンピューターのカラダを、まだわしら地球人はうまく使えてないだけなのだ。このすごい自然界をあたえられても、へんちくりんにいじくってるだけで、うまく使えてないだけなのだ。

わしらの意識はまだ原始人なんじゃないのか。
ものすごいお道具があたえられてるんだけど、そのすごさがちいとも分らず、赤子のように口に入れて味わったかと思うと、全部ぶっ壊して安心する、みたいな。

やまんばは自然界の花粉をコワがっている。
その意識のレベル自体が、なんだか子供が夜トイレにいけないのと似たようなレベルなのかもしれん。。。とおもう。
でへ。

2013年3月20日水曜日

空間の中に光るひもみたいなやつ



やまんばは、最近空間を見ている。

この世は空間の中に物質が存在しているようにおもうが、実際物質のほとんどは空間で出来ている。なのに私たちニンゲンは物質ばかりを見ている。目の前にある空間の99%は空間なのに。

んで空間を見る。すると、何かがうごめいているのが見える。ひもみたいな変な生き物が、空中をくねくねとしゅるしゅると、無数にとびまわっているのがみえる。ときどきキラキラしている。それは青空をバックにするとよく見えるんだが、夜中に山の景色をバックに見ていても見える。やっぱり部分的にキラキラしている。

こりゃいったいなんだ?



ラムサは言う。
「それらの小さな光は、このエネルギーの波が崩壊し、軌道を回る光をもつ電子と呼ばれる粒子に変化する時に出来るものなのだ」

つまり私たちは、意識をそこに向けることによって、存在させているということらしい。そこにフォーカスされないと、それは単なる波となっているだけだ。だがそこにフォーカスされるとそれは崩壊し、電子という姿になって物質化される。

ひえ~~~っ。
つまり、わしらは、それを見ることによって、そこにないものを顕現化させるって言ってるのだ。

だから夜中、わしらが眠りにつくと、部屋も冷蔵庫もテレビも何もなくなり、混沌とした状態になる。だが薄目を開けると、あわてて冷蔵庫に変身するのだ!

おもしろくね?

2013年3月19日火曜日

苗が、なえ〜



やまんばに育苗された種さんは、お気の毒さまなのである。

あれはたしか2月ごろ、
「よっしゃ、ゴールデンウィーク頃の畑デビューに向けて、育苗やー」
と、コタツの天板とコタツ布団のあいだに、水に浸したティッシュのあいだに夏野菜の種を仕込んで「芽出し」ちゅうのんをやったなあ。。(ナニ思い出に耽っとんねん)

それから芽がでたやつをつぎつぎにセルトレーに入れて、「衣装ケース育苗」に挑戦したんだな。。。。(すでに過去形になっとるがな)

あれから1ヶ月以上たつ。
やまんばはある日、「あれ?なんか。。まだコタツの中になんか残っていたような。。。」と頭をよぎった。
「ど、、、どーなったんや、、、?」
やまんばはオソロしくてしばらくそれを見られなかった。

が、しかーし!勇気を奮い起こして天板をずらした。。。
「な、なんかふくらんでる。。。」
ティッシュに挟み込んでぺったんこのはずなのに膨らんでいる。
勇気を振り絞ってあけてみると、なんと!トマトのもやしが出来上がっておるではないか!



これをどーしよー。。。。
もやしとして食っちまおうか。。。?
しかしトマトっちゅうのんは、もんすごい生命力やな。是が非でも生きようとする。

んで、無事芽出しの後、ポットに入れられた種たちはというと。。。。
双葉が出たままいつまでたっても本葉がでない。そのうち衣装ケースの中でカビ発生。つぎつぎにヤラレる双葉たち。。。ああ。むざんやな。。。


なんとへたくそなのだ。毎年これだ。えーかげん、自分がイヤになる!
今年もまた、近所の苗屋さんでF1苗を買うんかな。。。

2013年3月14日木曜日

発達障害に向いているのはイラストレーター?




テレビで大人の発達障害っちゅうのをやっていた。
何でも空気読めなくって、コミュニケーションが出来ない人の事を言うのだそうだ。

職場で新しいことや、変化する情勢についていけなくて、色々と問題を起こし、一人孤立するのだそうだ。
だけど彼らにも特技はある。ものすごい集中力なのだそうだ。そーゆー問題児も適材適所で、「それに見合った仕事を提供してあげればいいのだ」そうだ。
「それはイラストレーターとか」と、言った。

ん?
イラストレーターとか?
やまんばは聞き逃さなかったぞ。
イラストレーターは、大人の発達障害の人に適材適所なのか。ほほー。
するってえと、わしもそうなのか。。。?やっぱし、そーなのか?

その解説員さんの言うことにゃ、まわりの空気読めなくて、コミュニケーションがうまく出来なくて、人一倍集中力があると、新しいことは要求されないイラストレーターになれるらしい。


そんなもんっ、。。。なれるかいっ!

イラストの仕事は、つねに「新しいもの」「見たことないもの」を要求されるのじゃ。そもそもイラストを描くのは写真じゃ撮れない世界だからなのじゃ。実際にないものを描かないといけないお仕事なのであーる。

コミュニケーション不足はつまりは想像力不足なのだ。まわりの空気が読めないのも、そもそも相手の考えを想像することが出来ないからなのだ。
残念ながらイラストの仕事は正反対。
クライアントが何を言っているのか、何を求めているか、頭ん中で妄想が爆走しなければいけないのだあー!
何言ってるおっさん!


やまんばは大人の発達障害に適材適所は、政治家じゃないかとおもうんだなー。
だって、空気読まなくていいし、コミュニケーションは無視してるし(国会中継見てるとそうおもう)、いっつも同じことを繰り返しているし、自分のアピールのために、ものすごい集中力で駆け回るではないか。

発達障害の人達が政治家になったら、もっと世の中楽しくなるんじゃないかなあ。
などと一人妄想してほくそえむやまんばであった。


世の中、最近、空気読みすぎなんだよ。

絵:「漫画うんちく居酒屋」MF新書表紙イラスト やまんば、がんばりましたあ〜。お気に入りのイラスト。
こっこれはっ。。。!
酒好きのそこのおにーさん、おねーさん、こりゃたまらん内容だぜえ〜。

2013年3月12日火曜日

花粉のほとんどは、空間であーる



みなさん、かふんにちは。(おこんにちはの春バージョン)

きのうのつづき。

気を取られることによって、エネルギーはそこにばっかり使われて、へとへとになる。
ではそこへエネルギーを使わないようにするにゃどうすればいいのか。
北野タケシが
「頭痛をなおすにゃ、目をつけばイイ。目の痛さで頭痛を忘れる」
と言ってたが、言い得て妙である(っちゅーか、できんだろ)。ようは意識を別の所にやるということだ。

花粉は物質である。
花粉さんを細かく分解していくと、原子になる。原子は原子核とそれを回る電子でできている。彼らの間の距離は、例えて言うなら、原子核がパチンコ玉の大きさまでひきのばすと、電子は東京ドームの端を回っているらしい。という事は、原子はほとんど空間でできている。なのになぜ物質が存在するようにみえるか。電子さんがぶんぶん回っているから、ちょうど扇風機が回っていると丸い存在があるように見えるけど、実際は3枚の羽根があるだけ、というのと同じ原理のようだ。目ん玉も同じように原子で出来ている。その目ん玉さんの電子も同じようにぶんぶん回転しているから物質として存在しているように見えるのである。
という事は、物質として存在しているようにみえる花粉さんと、目ん玉さんが接触すると、かゆさが起こる、という現象が起こっている。

ところがじっさいは、花粉さんも目ん玉さんも99%が何もないもので出来ているのだ。空間と空間がぶつかり合っているだけなのだ。
つまり私らニンゲンは、たった1%でしかない物質の世界だけに注目しているのだ。
そのちっこい狭い世界の中だけで生きて、これが最重要事項だ!と大騒ぎしている。

ニンゲンの脳はかのアインシュタインでさえも10%前後しか使っていなかったというではないか。じゃあ、わしら凡人は一体どんだけ使っているのじゃ?(おそろしくてかんがえたくない)
残りの90%の脳は、一体何のためにあるのか?お飾りか?

ふとどきもものやまんばは、この原子の空間は、残りの脳の使用方法と何かしらリンクしているのではないかと考える。
1%の世界にだけ注目して、必死であーでもない、こーでもないと四苦八苦するのは、えーかげん疲れたのじゃ。

この世はまだ前人未到の残りの99%という巨大な世界が目の前に広がっているではないか!物質の世界の向こうにある、何かわけの分らん世界に注目してもいいころではないか!

では、その残り99%の空間に着目する。
どーやって?
その空間を見るのじゃ。

人の目はつねに何かにピントを合わせている。はたからみたらぼーっとしているようでも、その目はテレビに合わせていたり、テーブルの端っこに合わせていたり、ソファに落ちた食べかすを見ていたりする。部屋の中はモノだらけである。あらゆるものに視点を合わせて、目をうろうろさせているのが現代人なのだ。

目がかゆいとき、つねに何かを見ている。
ところが、視点がモノに合っていないと、かゆさが薄れるのだ!!そしてピントを外し続けると、かゆみは消えていくのだ!

心の内側に着目してみよう。
ピンぼけにしてると、心が静かじゃないか?
モノにピントを合わせると、とたんに心が騒がないか?

それは我々がつねにピントを合わせるものに対して判断を下しているという、無意識の心の動きがあるからじゃないだろうか。たとえばソファにおちている食べかすを見て、なんとも思わない主婦はいるだろうか。意識にのぼらないとしても、こころのかたすみに「これはいけない」と思っていないだろうか。
そういう心の動きが、心をザワザワさせている。
だとすれば、ピントを外すことは、そのザワザワから解放されることだ。だって、モノ見てないんだもん!

ピントを外すという事は、物質界を見ていないことになる。今その時、物質界に着目していないという事になる。するとわしらは残りの99%の世界にいることになるんじゃないか!?99%といわなくても、すくなくとも物質界1%の世界以外のところに意識を持っていっているという事になる。

目がかゆいとき、かゆさを忘れるために目を突っついて、痛さでかゆみを忘れるよりも(これはタケシ流)、視点を空間にもっていく。モノからピントを外すと自ずと心が静まり、かゆさも消える。
すると物質界から意識が外れて、別の次元を垣間みていることになり、脳みその使っていない部分を刺激し始めるんではなかろうか。

これはやまんばだけの現象であろうか。仕事中「うっ。。。うまいこと描けない。。」と、ちょっとストレスを感じたとたん、目がかゆくなるのだ。
誰かとしゃべってていきなりくしゃみがはじまるとき、なんとなくその場の会話に飽きてきたりしてないだろうか。
そういう現象と、自分の心の動きを調べてみるのもおもしろいじゃないか。

空間はその意識と連動してるんじゃないだろうか。
それは結局物質界に影響をもたらす。
では、残りの空間にその根本原因がひそんでいるとしたら、それに着目しないわしら現代人はいつまでたってもアホなままなんじゃないか?


インディアンは知っていたのかもしれない。
かれらの視線が、いつもワイドアングルビジョンであったように。
いや、日本人だってその昔は知っていハズだ。
宮本武蔵の「見を弱く、観を強く」という言葉のように。

石けんなし生活は、物質界の限界を教えてくれているように思える。やまんばは、この花粉症はもはや、何の特効薬、何の食事療法をつかっても完全に「直せる」ものではないようにおもう。それは物質にとらわれているからこそ起こる現象なのかもしれないとおもいはじめている。


物質界以外と言うと、かならず霊やオカルトが出てくるが、まあそれも一部だろう。

99%の中には、私たちがまだ知らない、いや、意識下に置いてもいないが、いつもすぐそこにある大きな何かが、私たちが見つけてくれるのを今か今かと待ってくれているような気がする。


2013年3月11日月曜日

スギ花粉ちゃん、ワイルドだぜエ〜



いんやー、今年の花粉はきついぜよ。
きのうも砂嵐のごとく山中にふりまかれる黄色い粉に絶句するやまんばであった。

石けんなし生活で、いっきにあの「花粉症地獄」から切り抜けた!とおもったが、この目のかゆさはどーいたことぜよ。
今年の量は今までで一番ダントツ多い。すごすぎる。
いやー、やるなあ、スギちゃん。ワイルドだぜエ~。

さて、感心してる場合ではない。やまんばは考えた。なんでこーなるの?
確かに石けんなし生活で、花粉症の一部はクリアした。それは喉である。もし石けんを使った生活をまだしていたら、今年はさらなる地獄にはまり込んでいたことだろう。

どんだけ鼻つまって、どんだけ鼻汁出まくって、花粉たっぷりの粘液が喉の皮膚を削りながら(?)流れようと、喉の痛手はあの石けんあり生活の頃の比ではない。鼻つまって大口あけて寝てようと、カラカラに乾いた喉は、あの頃のひどいかゆさではない。これは断言出来る。
だが目のかゆさは石けんなしではカンケーナイのか。あらゆる皮膚は強くなったが、スギちゃんのワイルドさには、まだやまんばの皮膚はカナワナイのか。


そこでやまんばはこの考えを一気に別のジゲンにもっていく。
こんだけすごい花粉に、じぇんじぇん反応しない奴らがいる。
「花粉?なんじゃそれ?」
ってなもんで、同じ環境にいながら、まったくかんじないやつ。この差は一体なんなのだ?
奴らはちっとも気にしていないのだ。だが、やまんばは花粉を気にしている。気にするやつと気にしないやつがいる。これはなに?

花粉症になる人は、だいたい過去に何かしらのアレルギーをもった経験をしていたりする。やまんばも子供の頃ひどい皮膚のトラブルに悩まされていた。だからある日テレビで「花粉症」という言葉を聞いたときから、反応が始まってしまった。つまり、忘れていた頃の「あのつらい記憶」がよみがえってしまったのだ。
だから春になってカラダがもぞもぞしだすと、「あ、、、きおった。。。」とカラダの反応に気を取られてしまうのだ。

ここだ。
やまんばは、春になると、つねに「花粉に気を取られている」のだ。
気を取られている?日本語って面白い。
気をとられるとは、「気」を花粉に「取られる」のだ。まさに。気というエネルギーはそれにつねに取られ続ける。

考えたら、ずーっと意識してないか?
寝てる時も起きているときも、つねに花粉やからだの状態に気を取られていないか?
忘れているのは、朝忙しくてバタバタしているときや、上司に怒られている瞬間などで、それが過ぎ去って、心がひまぶっこきゃ「あ~、目が。。。」と、意識はそこに吸い寄せられている。
忙しそうに見えても、ある程度同じパターンの中で動いているとするなら、心はひまぶっこきだすのだ。すると今一番マイブームな花粉症へと向かう。こうやって、ひたすら気を取られる。ほんで仕事のポカやっちゃったりする。

後半につづく。。。

2013年3月9日土曜日

この時間が大事なのよねー。



今日は暑かったなあ~。なんでやねん。

スギ花粉舞いちる(どころではない。小麦粉をふりまく感じ)今日この頃、みなさまはいかがおすごしでせうか。
やまんばは花粉に反応する自分が恐くって、一歩も足を外に踏みだせましぇん。軟弱なやまんばをお許し下せー。

んで、今日のお仕事も一段落し、シャンパンをあけ、クラッカーとチーズ(ブリード・モーと、ゴルゴンゾーラとマスカルポーネをサンドイッチしたやつ)をのっけて、スギから出る小麦粉を眺めながらほろ酔い気分でやんす。

昼間のクソ熱い空気と、夜に向けてそよそよと吹いてくる冷えた風の夕暮れの空気。
この温度差が、ああ、おもいだすなあ、アテネでのひと時。パルテノン神殿を眺めながら、ちょいとしゃれたタベルナで、地ワインとムサカをいただきながら過ごしたあの時間。。。。

裏高尾にいても感じられる世界の時間。人の記憶っていかようにでも利用出来るのよねん。これがこの物質世界におりてきたこのカラダの醍醐味なのよ。

花粉症で目がかいーのも、シャンパンでほろよい気分になれるのも、風の冷たさを感じながら、あの旅のひと時を思い出せるのも、なにもかも、この世に物質として生まれてきた醍醐味を味わわせてもらっている瞬間なのだ。

やまんばも、この本のタイトルのよーに、第二の人生を生きてみようと思うのであった。過去を捨て、新たに生まれ変わるのじゃ。


絵:「武将に学ぶ第二の人生」MF新書表紙イラスト
昔は40歳はもう老後であった!
だけど老後とかそうでないとか関係なく、自分の生き方を変えていくのは、まさに第二の人生。この本はそういう重みを持っております。

2013年3月5日火曜日

マンガ「ダメだし肥料で育ったニンゲン種」




ちいさいとき、




親などに



ダメだしをいっぱい食らったニンゲンは、




いつのまにか、ダメだしを肥やしにして大きくなる。



こーゆーニンゲン種は、



と、他人に言われただけで、


小さい頃のことを思い出して動揺する。

すると一気に大量のダメだし肥料を吸い上げ、


栄養過多になる。

過剰栄養摂取はつかれるのであった。



絵:「あらゆる領収書は経費で落とせる」MF新書表紙イラスト
これは役立つ!おすすめ!
特にこの確定申告の時期、ダメだし肥料で育ったやまんばには心強い虎の巻であーる!