2012年7月29日日曜日

どっかの誰かさんの思考を掘り下げる

自分を知ることは、どこかで怖いことだと私たちはおもっている。それは、知れば知るだけ恐ろしい結果を見る事になるからだと信じているからのようだ。どうして「恐ろしい結果」と思うかと言うと、そこに評価が入り込むからだ。「いいこと」「わるいこと」「してはいけないこと」という評価だ。言葉のまわりには、それに対する感情や反応がまとわりついている。

「オレ、ひょっとして嫉妬深いかも。。」
と思った瞬間、嫉妬深い=わるいこと、という判断が即座におこなわれ、「あっ、見たくない」という拒絶の反応がやって来る。するともう、そこから先に踏み込めなくなる。
のような、反応の習慣が邪魔をするようだ。

その評価をいったん捨てるのだ。なんも評価しない。いいもわるいも考えない。自分だと思うから苦しくなる。どっかの誰かさんの思考のパターンを調べる、とでもおもってさぐる。

パターンを探るきっかけは、自分がなににつねに反応しているかだ。ダンナの言葉、奥さんの仕草、ニュースで聞く言葉、人との関係。

なんかそれをされると、イライラする、カチンと来る、ムカつく、不安になる、心配になる、動揺する、そんなようなものがあるだろうか。そしてそれは、同じことや似たような状況に同じように反応していないだろうか。たいてい夫婦間では、いっつも同じテーマでケンカになるもんだ。

と、こういうと、だいたいこうなる。
「だって、あいつがあんなこと言うんだもん。怒るに決まってるだろ」

いつのまにか、相手が言ったことや、したことの方に原因を求めて来る。それで自分の正当化をはかり始める。
これが視点が変わってしまう瞬間。
自分のことを掘り下げているのに、いつのまにか人のことを掘り下げていく、という事にすり替わっていってしまう。これやっていると、いつまでたっても自分のことを掘り下げられなくなる。

2012年7月28日土曜日

思考のパターンを見つけろ!

ひょんなことから、私は自分の中でしゃべっている言葉の中に、ある種のパターンがあることに気がついた。それはこのブログでいっつも言ってる言葉「ちゃんとしなきゃ」「やばい」「ゲ、まちがっちゃってる?私」「ひや〜、変な事言っちゃった!」「あ〜、どないしょ〜。やっちゃったあ〜〜〜。。」などなど。
ようするに、自分がなにかとんでもないことしでかしちゃったかなあ。。。と言う危機感に絶えずさいなまれていたのだ。

え?そうはみえなかった?え?もっとふてぶてしいとおもってた?
どっちがほんとうや。

いや、表にどう見えているかはさておいて、要は自分がどんだけ心の中で「ぐちゃぐちゃ考えている」かってこと、そしてそこにパターンがあるってことに気がついたわけだ!
何でもかんでも「ひやあ〜やっちゃった!」状態だったのだ。それを見つけたときは、思わず小躍りしちゃったね。というか、あまりの判で押したようなパターンにばかばかしくなって笑っちまった。
 
じゃあ、このおもしろくもばかばかしいパターンは、わたしひとりがやっちゃっていることなんかや?とおもい、その探求をダンナと、自分のかあちゃんに向けた。
さあ、この三つ巴が、互いに、まったくもってみえていない自分の心のうちを探りはじめたのだ。
その作業は1年ぐらいに及んだ。

その結果、おもしろい結果が出た。
みんな、それぞれに自分の内面に、それぞれがもつ独自のパターンを見つけてしまったのだ。それはたとえ親子でもまったくちがう、ましてや生まれ育った所が違う夫婦では、これまたまったくちがう形を持っていた。

2012年7月27日金曜日

言葉は感情を呼び起こす

私たちの心ん中はいそがしい。
目にみることとか、耳で聞く事に、いちいち心が反応し、ぴくんと感情的になる。
「放射能」ってきくと、「あっ、それってわるいこと」って心が言ってるし、
「税金」ってきくだけで、「あっ、それってやだ」って反応してるし、
「上司」ってきくだけで、「おえ〜っ」となる。

言葉は単なる記号でしかない。
なのにそれに反応するわたしたちがいる。それはその言葉にまつわるいろんな情報がその言葉のまわりを包んでいるからだ。「石」と聞いたら、ほとんどの人は反応しない。だけど、尿結石の人が聞いたらぴくんと反応するかもしれない。「机」ってきいたら、おばちゃんは反応しないかもしれないが、受験生にとっては「ああ、うんざり」とおもうかもしれない。
そのように私たちは、言葉のいちいちに反応したりしなかったりする。

なぜそのように反応するのか。
それはそのことばにまつわる人それぞれの物語がよみがえるからだ。
そしてそれには、必ず、
「これはいいこと」
「これはわるいこと」
という、本人が気がつきもしない所で、無意識の判断がおこなわれている。
それを「好き嫌い」とか「拒絶」とか「うざい」と変えてもいい。
どっちにしろ、反応している。

「あした、学校に、7時までに、いかなきゃなんない」
という言葉の中に、反応が入っている。嬉しい反応か。いんや。いやーな雰囲気だ。
「あした」という言葉に、時間を意識し、
「学校」という言葉に、もろもろのイヤな物語を思い出し、
「7時までに」という言葉に、具体的な時間と、それまでに起きなければいけないという倦怠感をくっつけ、
「いかなきゃなんない」という言葉に、強制的な押しつけをかんじている。

じつは「あした学校に7時にいく」だけのことなのだ。そこに諸々のいやな感情をもりつけるから、しんどくなる。


感情は、反応であり、反応は、そこに、いい、わるいというレッテルをはる事から起こる。そのいい、わるいは、本当に必要なことなのか。いちいちくっつける必要があるのか。そのいい、わるいというレッテルが、いろんなものを感情的にさせ、うんざりさせ、しんどくさせ、しいては自分を混乱させている張本人なのではないのか。

近頃ネットを見てて思う。みんながおこりまくっている。ほんのちょっとの意見の違いで、怒りまくっている。
みんなほんとはいい人なのに、ほんのちょっとの違いで、いいのわるいの言い合ってる。みんなそれぞれいい人であろうとするのに、それがちょっと違う視点から言っただけで、悪人にされる。でも、みんないい人であろうとしているだけなのになあ。


言葉は、感情を呼び起こす。だから言葉を使うなと言っているのではないよ。それじゃコインの裏表だ。
そのぐらい言葉は強烈な影響力をもっており、だからこそ、使い方の注意が必要なのではないか。


言葉という箱の後ろに注意書きがあります。
「言葉は、あなたにとって感情の起伏を呼び起こす危険性があります。それに反応している自分に、気がついていましょう」

2012年7月24日火曜日

ホケキキョ君絶好調

うぐいすのホケキキョ君は、今日も絶好調。

ウグイスは、普通「ホケキョ」となくが、ウチのうぐいす君は、音が一個多い「ホー、ホケキキョっ!」と鳴く。

5月頃その声を確認。
「おい、一個多いだろ。おまえへたくそだなあ。彼女できんぞ」
といちいち突っ込み入れていたが、いっこうに本人に直す気配はなく、2ヶ月が過ぎた。

「ホーッホケキキョッ!」
今も家の前で大きな声で自信ありげに鳴く。普通のうぐいすよりちょっと高めの音だ。

実は、「ホケキョ」と普通に鳴ける。
しかし本人は「ホケキキョ」の歌の方が好きなようで、後者の鳴き方が、全体の9割をしめる。
しかもこいつは、なかなか気むずかしい。ときどき「ホー、ホケっ。。。」と途中で止める。およっ?と聞き耳を立てると、半音上げて「ホーホケキキョッ!」と鳴き直す。
どうも最初の出だしの音が少し低くて気に入らなかったようだ。
ホケキキョ君の血液型は、A型にちがいない。


畑はウチから歩いて5分ぐらいの所にある。そこでは別のうぐいすが鳴いている。ちゃんと「ほー、ほけきょ」と上手に鳴く。畑の横の鬼ぐるみの木の枝で喉を大きく膨らませて鳴いている姿をよくみかける。

それにしてもうぐいすはなんてじみ〜な装いなんだろう。彼らの身体の特徴を言えというなら、一言「何の特徴もないのが特徴」というしかない。プロでさえもその姿を簡単に見つけられないのだそうな。天はニブツをあたえんのだな。

うぐいすは声の届く範囲をなわばりにするらしい。そういえば、二羽のうぐいすが同じ所で鳴いていたのは、春頃だけだった。次第にお互いの縄張りが確定するのだ。だもんだから、あのホケキキョ君は、ウチの家のまわりを縄張りにしたようだ。

野良仕事をしていると、遠くの方で「ホー、ホケキキョっ!」と聞こえて来る。
うちのほうからだ。あいつが鳴いている。
なんだかわけもなく恥ずかしくなるやまんばであった。

2012年7月20日金曜日

今年の夏野菜

「草がすごいんでい。くっそおお~、あったまにくる!」
近所の農家の兄ちゃんが、草刈り機の手を止めて、やまんばに怒りをぶつける。

「ったく、草ばっかりでっかくなりやがってよお。野菜なんかこれっぽっちも育ちやしねえ。ジャガイモなんか半分でえ。おまけに土の中で腐り始めるしよお」

今年はジャガイモがダメなんだろうか。妖怪んちのも半分よりちょっと多いぐらいと言っていた。
やまんばの畑と言えば、ジャガイモ?そんなもん、畑に植えたっけ?ってなぐらい壊滅状態。一個の種芋につき、一個とれればいい方だ。6mぐらいの畝をぜーんぶさくっても、バケツに3分の1ぐらいしかない。それもちっこいちっこいまめつぶみたいなやつばかり。買って食った方が全然お得だったあー!

他の野菜も同様のようだ。
「盆にウチのキュウリが間に合わなかった」
となげく。ここいらの盆は7月。本家の跡取り息子でもある兄ちゃんは、ご先祖さまを迎え入れる迎え火をたく。そのとき、キュウリの馬とナスの牛を盆棚に置くのだが、それが間に合わなかったらしい。スーパーで買ってきたんだろうか。本家としてのつとめが果たせなかったようだ。

キュウリばかりじゃない。オクラもピーマンもみんな背が低い。なりもちっこいのだという。なんだ。うちとおんなじじゃねえか。いや。やまんばんちほどひどくはないとおもうが。

ウチのオクラは背丈30センチ(笑)。
なのに、ちっこい花を咲かせて、ちっこいオクラの実をつけて頑張っている。ピーマンもこれまた背丈30センチ。だけど、彼らもまた、ちっこい身体に一所懸命、たわわに実をつけてくれている。
一人元気なのがトマト。重そうにぶんぶん実をつけて、どんどん真っ赤になってくる。

「太陽が元気がねえんだ。だから野菜が育たねえ」
兄ちゃんはその原因を太陽の活動に求める。
「こんなに暑いのに?」
「いんや。ほんとは元気がねえんだ。太陽の黒点が全くねえ。今は氷河期に向かってるんでい」

最近、地球が様子が違う。あきらかに今までと違う。何かが起こっているようだ。近所の草取り名人のじっちゃんまでもが、今年の草の勢いにはすっかりまいっちまっているそうだ。
まあ、かといって、やまんばのちっこい野菜を、地球さんのせいにするのはなんなんだがね。

とりあえず、やまんばの野菜のちっこいのんは横においておいても、野生の草が旺盛に育っていて、野菜が育たない、と言うのは、何か意味するものがあるんではないだろうか。

近所の化学肥料と有機のセットで育てている畑の野菜たちにその傾向はみあたらない。相変わらずどんどんでかくなっている。
本家の兄ちゃんの所は、一切化学肥料を使っていない。やまんばの所も、もちろんその有機肥料さえも使っていない。だからなおさらその自然の変化をまのあたりにするのかもしれない。

草は原始の姿をその中にとどめているが、野菜は長い間の人間の智慧が入って作られた、いわば人工的なものだ。その彼らが、それぞれ力をつけはじめたり、小さくなっていったりするのには、なにかわけがありそうだ。

この地球上で何か変化が起こっているとするならば、植物の中に変化が起こっても不思議ではない。なんかしらのリセットがおこなわれているのかもしれん。

野菜育てている皆さんはどうですか?
なんか今年に限ってのかわった変化は見当たりますか?

2012年7月17日火曜日

飲み過ぎたあ〜。。。?

夜中に目が覚めた。
全身汗だくだ。
うっきもちがわるい。のみすぎた。はきそう。はこうか。どーしようか。そんなにのんでないはずなのに。ああ、はきたくない。。。
身体は、真ん中で線を引いたように、くっきりと、右側が燃えるようにあつく、左側がひえきっている。
やばい。まただ。なんで左ばかりがこんなに冷える。。。おかしい。ああ、はきそうだ。なんとかしなきゃ。。。

しばらく布団をかぶったりはがしたり、あついの寒いの、ともだえて、その状況に抵抗する。

そのとき思った。
前も同じようになった。同じように半分冷えて半分あつくなった。そしてはきそうになった。はきにいったが、出るものはなく、胃液ばかりだった。
あれ?ひょっとしたら、これは身体がバランスをとるためにおこなっている状態なんじゃないのか?この半分冷えて半分あついというものは、身体にとって必要な作業なんじゃないか?だったら、何もこれに抵抗する必要はないんではないか?

そう思い、大の字になってその状況をそのまま受け入れた。
するとほどなくして吐き気がなくなり、気持ちが落ち着き、知らないあいだに眠っていた。
朝は早くから目が覚めた。あの吐き気や酒の存在が跡形もなく消えて、爽やかな身体がそこにあった。


私たちは、身体や、ある種の状況が、いつもと違うとおもうとあせる。あせって、その状況を、いつもと同じ姿になんとかもとにもどさなければいけないとおもうようだ。

だけど、どうしていつもと同じにしなければいけないと思うのか。それはそのとき起こった状況が未知だからだ。その後がどんなふうに変化するのかわからないから不安なのだ。だからいつもの状況になんとか戻そうとする。

もうひとつある。
酒を飲んだ事への罪悪感だ。ああ飲み過ぎたからこんなふうになってしまった。ああ、私がわるかった。早くこの状況を元へ戻さなければ!というおもいだ。
自分が引き起こしたわるいこと(と、おもっている)への罪悪感が、よけいにその状況を冷静に見えなくさせ、吐き気ももよおして来るのだ。

ひょっとしたら、身体は完全なるコンピューターで、
「あん?バランス崩れちゃったから、戻しちゃおうっと」
といって、いじくっているだけなのかもしれん。
それがわたしの目から見れば、
「ああ、左が冷えきってて、右が熱い!おかしい!」
と思い込んでいるだけなんじゃないか。

それはちっとも酒飲み過ぎたからわるいわけでもなんでもないのじゃないだろうか。ただ現実として、身体がバランスをとっている、ただそれだけなのではないか。

ここでも、いい悪い、という判断が、勝手に自分で自分の首をしめているのを見つけるのであった。

2012年7月14日土曜日

自分に貼るはサロンパス

やまんばはいじめられっこだった。
言葉のいじめ、身体でのいじめ、モノでのいじめ、いじめのオンパレード山のごとし!だもんだから、いじめられるとどんな気分になるのか知ってる。

キホン、いろんなことが自分がいけないんだとおもう。自分の顔、身体、性格、能力、出生地、名前。。。およそ考えられる自分に関することすべてが、いけないんだ、まちがっているんだ、とおもう。
すると次に考えつくのはだいたいこうだ。
「自分がこの世にいたら、みんなに迷惑かける。だからいなくなればいいのだ」


ある日誰かが、やまんばをみて「あ、こいつのろまだ」と発見する。
「あ、ほんとだ、こいつのろまだ」とあいづちをまわりがうつ。するとまわりもそんな目で見始める。
するとやまんばは、「あ、あたし、のろまなんだ」とおもう。
その「のろま」ということばには、わるいこと、という焼き印が押されている。遅い、という言葉より、のろまという言葉の方が、「いけないこと」のようなニュアンスが含まれていないだろうか。
自分にそのレッテルをはることが、いかにその人の人生を大きくまげていくのかを、やまんばはそのとき気がつかなかった。

わたしはのろまだ。というおもいは、自分を小さくする。それは「成績が悪い」もそうだし、「どんくさい」もそうだし、「ケンカに弱い」もそうだし「暗い」もそうだし、「変なやつ」もそうだし、「あんたはいっつも3日坊主よね」もそうだ。およそ考えつくマイナスのニュアンスを自分にくっつければ、いつもそのことを気にし始める。

びくびくしながらまわりの人たちと自分を比べ、自分がみんなより劣っていることを確認し始める。そうやって「ああ、やっぱりそうだ、わたしはのろまなんだ」と確信にいたる。
のろまは、みっともないし、惨めだし、人間としてなってないし。。。と心の中がいう。するとたいてい、こそこそビクビク生きることになる。

じつは、そういう仕草はいやでもみんなの目につく。それでなおさら目だち、目につき、みんなをイライラさせる。弱い犬に噛み付く強い犬のように、めためたにされる。

負の連鎖という言葉はだいっきらいなんだが、まさしくこれが、負の連鎖だ。どこが始まりなわけでもない。
最初にのろまなやまんばがいたから、誰かにあいつはのろまだと言われたわけでも、誰かが勝手にのろまでもないやまんばを、のろまだと言い出したから、でもない。原因も結果もない。誰が最初にわるいわけでもない。

ただ、そののろまだと言われたとき、それを自分にサロンパスする必要はなかったのだ。そのだれでもやる単純なサロンパス張りが、それからのちの自分の性格を確実に形成し始める。その恐ろしさに気がつかなかった。

今ちまたで騒がれているいじめ自殺の問題、うつの問題、みんな自分にあらぬサロンパスをはることでおこっている。
「こうでなければならない」という考え、でもこうなれない自分へのいらだち、すると即座にはじまる自分への否定的なサロンパス張り。はじまりはささいなことなのだ。それが巨大になっていくことへの危険性を、誰も指摘して来なかったのだ。

やまんばは、自分の考えの中に、いい、わるい、自分を否定する言葉を見つけていった。
これはいいこと、これはわるいこと、と考えていると、そこに矛盾が起こってきて、にっちもさっちもいかなくなることに気づく。いい、わるい、という考えは、時代とともに変わり、絶対的な価値観ではないのだ。その枝葉のような価値観で自分を測り、しいては自分を小さくする。


たとえば私がAさんに対して、つねに罪悪感を持っていたとする。
「ああ、わるいことしちゃったなあ。わりいわりい」
で、Aさんは、やまんばにそれを思われて何の得があるだろうか。
やまんばはAさんに罪悪感によっておいしいモノを持っていってたとする。でもAさんは、おいしいモノをもらっただけでうれしい。それだけなのだ。
「私ってねえ、あなたに罪悪感を持っているのよ」
と言われた所で、
「はあ、それがなにか?」とうれしくもなんともないだろうし、
「そんな罪悪感でもって、ものを持って来ないでよ!」
と気をわるくするのがオチである。

つまり罪悪感とは、その対象になる人が、そんなものをもたれても、痛くもかゆくも嬉しくもなんともないことなのだ。罪悪感を持っていることは、単に自分にとって「あたしはここまでかんがえているのよ」と自分に言い訳しているだけなのだ。

世の中には、いらないものが多そうである。
いい、わるいという考えは自分を小さくする。罪悪感もちっこい自分にありがたがられているだけで、ますます自分を小さくする。

自分の心の中を観察する。今、なにを考えて、なにに反応して、どう感情を動かしているのか。すべては今現代に貼付けられた条件づけで起こっているものだ。ありがたがって反応するほど大した価値じゃない。反応しているだけエネルギーがもったいない。それが私たちに相当のたがをはめているのだ。


世界は異常気象の様相をていしてきている。
あれもこれもだめ、人間はこんなに弱いんだから、あれをしてこれをして、あれぬって、これぬって、これのんで、これたべて。。。。ってやってるばあいじゃない。

どうも自分の内側に答えがありそーだ。

2012年7月12日木曜日

偽善者なやまんば

台所にゴキちゃんがいる。
夜電気を消したり、私が歩かなくなると、ごそごそでてくる。でかい。
「ゴキちゃん、でた~」
とさけぶと、ダンナが網を持っていそいそやって来る。ダンナはゴキちゃん捕獲の名人だ。ちょっとどんくさい所はあるが。
網で捕獲すると、ゴキちゃんを外の駐車場の向こうまで持っていってポイしてくる。自由になったゴキちゃんはサササーッとどこかの家に向かって走っていく(おい、こら)。

キホン、殺さない主義の私。
しかしこう毎晩毎晩出て来ると、もういても立ってもいられなくなる。ついにゴキブリホイホイを買ってしまった。

夜。
痛む心を抑えながらホイホイをセッティングする。ほら、またでた。あっという間に引っかかった。3つしこんで3つとも入ってもがいている。ああ。キホン殺さない主義の私。やってんじゃん。罪悪感が頭をもたげる。ぐぐぐ~っと。

じゃあ、やめればいいじゃん。ピダハンのように、ゴキちゃんが腹の上をはおうが、タランチェラが額の上をはおうがじぇんじぇん気にしなければいーじゃん。

でっ、、、できない。。。


畑で草を刈る。
バシバシ刈る。草を殺しながら考える。キホン殺さない主義とスローガンを掲げながら、蚊は殺す。バシッと躊躇なく殺す。草はバシバシ殺すのに、野菜の苗を切っちゃったら「ああ~、野菜さん、ごめんなさい~」という。
どこがキホン殺さない主義だ。(このキホンという言葉にゴマカシが入っている)

ガンジーは言う。暴力はいけない。殺してはいけない。徹底して殺さない主義だ。だから自ら差し出されたフルーツを食う。すごいりっぱな生き方だ。
ほんとに?
ガンジーは、今自分が立っているその足下の虫たちも、微生物も、草も、おしつぶして殺してはいないんだろうか。


いいことと、わるいこと。
この二つの分別のはじまりが、この世に矛盾をおこしはじめる。
殺すことはわるいこと。という教えが私たちの中にどっぷり入っている。
こんな事を言うと、
「ああそうか。じゃあ、殺すことはいいことなのか」
というヒトがいる。それがコインの裏表だ。こっちじゃなければあっち。いいことじゃなければわるいこと。得じゃなければ損なこと。その二元論の中でコインをあっちこっちとひっくり返しているだけだ。私たちはすぐそういう考え方を自動的にやっている。

私はゴキちゃんを殺すのはわるいことだと思っているが、蚊を殺すことはわるいことだと思っていない。そこに何の分け隔てがあるのか。大きさ?身をかばいきれないものと、かばいきれるものの違い?

結局、自分のことを考えているだけなのだ。
自分の身にとっていいこととわるいこと。無意識にそういう判断がおこなわれている。ゴキちゃんを殺すのはわるいことなのに、自分が安心して寝られるようになるために、わるいことをする。二つの相反するおもいが葛藤を起こし、マレーグマのツヨシ君のように頭を抱えて振り回す。
その矛盾に罪悪感を発令するのだ。
「ああ、残酷な私。。なんて罪深いの。。」



なぜ人間は罪悪感というものを作ったのか。
罪深いと言いながら、それをやってしまう。でもでもでもそれはいけないことなのよ。。。(つまり私ってやさしい人)と言ってる自分を良しとする、という善意のすり替えがおこなわれている。そんなばかばかしい事を繰り返してやっているのだ。これって偽善じゃねえのか?

ではなぜそれが「使える」と思っているのか。
罪の意識は、自分が今そこにいるという感覚を強く持たせる。そして横には罪悪感をもたせた対象物が存在する。罪悪感は「自分」というものを実感する快感をもたせると同時に、自分以外のものという分裂を生み出すのだ。

反対に、幸せな気分というものは、対象物を作らない。おいしいモノを食べてたのしい時間を過ごしているとき、横にいる人と自分の断絶を感じたりするだろうか。むしろ一体となってその場所を共有している感じがないだろうか。するとそこには、「自分」「私」「私のアイデンティティ」というものが存在しない。

分離には矛盾が生じるが、一体に矛盾は生じない。なぜならそこには断絶がないからだ。

では断絶するものは何か。
いい、わるい、という判断なのではないか。

それに気がついたとき、やまんばは自分がいい、わるい、と判断しているものを探してみた。すると、でてくるでてくる柿の種。。。
便が出ない=わるいこと。(便のでがいい=いいこと)
おかずが少ない=わるいこと。(おかずが多い=いいこと)
ネットをみている=わるいこと。(ネットをみない=いいこと)
お菓子を食べる=わるいこと。(お菓子を食べない=いいこと)
腹が出ている=わるいこと。(腹が出てない=いいこと)
庭が草ぼうぼう=わるいこと。(草のない庭=いいこと)
仕事の直しが多い=わるいこと。(一発で通る仕事=いいこと)
顔のシミ=わるいこと。。。(シミのないお顔=いいこと)
ホーラ出て来る。山のように!

私たちは瞬間的に無意識のうちに、これ、いいこと。これ、わるいこと。という判断をおこなっているようなのだ。それは一歩足を踏み出すごとに土ぼこりが舞い上がるようにわき上がって来るのだ!

目にするもの、頭をよぎるものに「○」か「×」かを瞬時に判断して(たいてい「×」に集中しているが)、罪悪感をみなぎらせているのだあ〜!

そうやって四六時中頭の中を思考が旋回しているのだ。
だから「善悪の彼岸に立て」っちゅうのんは、そーゆー、空回りしている努力が人間を疲弊させて、本来持っているぼーだいなエネルギーを無駄に消耗させているだけなんだから、やめときなさい、と言ってるだけなんかもしれん。


で、ゴキちゃんへの罪悪感はどーなったのだ?

2012年7月9日月曜日

2世は強い

3年越しの挑戦、ズッキーニの栽培がなんだかうまくいってる。3度目の挑戦にして、やっとこさあこがれのズッキーニを食べて、ほくほくしているやまんばである。なんでセーコーしたんやろ?
今から思うに、ようは、手をかけたからか?

苗で買ってきたズッキーニは、最初ウリハ虫に食われまくって、もうお陀仏寸前だった。だけど不織布をかけてウリちゃん攻撃を防いだり、足下の草を刈ったりひっこぬいたりしているうちに、どんどん元気になってきた。種から育てた固定種のステラも実を結びはじめている。これはぜひ種取りしたいもんだ。
トマトとモロッコインゲンもとれはじめている。キュウリはまだちょいとかかりそうだ。ナスはまだまだ。とれないかもしれん。でも様子を見る。
とにかくすべてが無肥料だから、肥料食いと、なくても平気なやつとの差がはっきり出てきた。

今まではやまんばの「育て方の下手さ」ゆえにできなかったのかもしれん。
よく考えりゃ、まだ小さいとき、草の中にいる小さな双葉や苗に向かって
「お前、たくましく育てよ!」
と言った所で、所詮長い間人工的に栽培されてきた「野菜」という名のついた野草に、それは無理な注文だったんかもしれん。
文明慣れしたスーパーのパック入り食材しか知らないボクちゃんに
「ほれ、ピダハンの生活して大きく育てよ!」
とアマゾンの奥地にほり投げた所で、ゴキブリひとつ捕まえられず、日干しになるに決まっている。

ところが一度そこに根を下ろして実を結んだやつは、どうも強い。所構わず出て来ようとする。
スナップエンドウを回収して、そこにキュウリの種を仕込んだが、そこからこぼれ種のスナップエンドウが芽を出し始めた。
あんた、今から芽だしてどーするねん(本来は11月頃種を降ろすもの)。
でもま、どーなるか様子を見よう。そのキュウリの畝には、去年のサトイモの芽まで出始めた。キュウリとサトイモとスナップエンドウの畝になりそうだ。
他の場所に去年のトマトも出ている。これは交配種だが、好きに大きくなってもらうことにする。

なんだか交配種だろうが固定種だろうが、いったんそこで種を落とすと、
「わし、ここで育つことにする」と決めているかのようだ。

パック入り食材しか知らないボクちゃんも、ピダハンの村でよめっこさもらって、子供作ったなら、その子はりっぱなピダハンの男になるんだろう。そこで生まれ育った2世は、そこの環境でたくましく育つのだ。

2012年7月6日金曜日

ピダハンすき〜。

ピダハンって知ってる?
ひよこ豆が入ったピタパンじゃないよ。
アマゾンの奥地に住む未開の民族だ。
いやー、まいったね。おもろいね。ぶっ飛ぶね。やまんばはおもいっくそ元気になっちゃったもんね。

野良仕事と仕事の合間に未開の民族の話を書いた本を読む。
こっちはコンピューターを駆使して机の前にへばりついて仕事しているというのに、ピダハンはサルを食って、大人どおしがちんちん触り合って、大笑いして、ジャングルを駆け巡る。今の話だ。

ピダハンは、数をもたない。過去とか未来をさす文法がない。左や右もない。心配という言葉もない。
好きな時に狩りをする。夜中だって狩りに出かける。夜中の3時だろうと、捕ってきた魚は家族全員でごそごそ起きてきて、獲物を全部食う。キープする事を知らない。残しておくことをしない。あったらあるだけ食う。ないと何日も食わない。それでもぜんぜんへーき。腹減らしていることも大事な事なのだ。
栽培もしない。ジャングルに入ってイモやくだものをとってくる。それはそれで重労働だけど。だけどそれをみんな楽しげにやっている。よくしゃべりよく笑う。ほとんど寝ない。

彼らの様子を読んでいると、私らが「これはジョーシキ」と思っていたことが、それがどーした?というところまで押しやられる。

一日8時間の睡眠。
一日三食。
できるだけ沢山の種類の野菜を食べる。
一生懸命努力する。
人間は信仰心を持つ。
大人は子供のように遊ばない。
大人になるほど心配事が増える。

これが、ピダハンでは、
一日のあいだで寝るのは断片的。まとめて2時間以上寝ない。
一日一食食えればラッキー。
ピダハンは葉っぱは食わない。
努力しない。
神という存在を持たない。
儀式がない。
大人も子供も同じように遊ぶ。(捕まえたアナコンダで女衆をおどかしてあそぶ。ちんちんいじり合って遊ぶ)
著者は心配しているピダハンを見たことがない。

著者はアメリカ人で、伝道師としてピダハンの村に入った。
そして彼らとの30年の付き合いの結果、その信仰を捨てた。人々を救うために伝道をおこなったが、そもそも救う理由がない。彼ら程幸せに満ちた民族はいなかったのだ。天国に行く道筋を教える必要もない。だって、そこがすでに天国だったからだ。

台風で家の屋根が飛んだら、真っ先にその持ち主が大笑いをする。みんなつられて笑う。ダンナの浮気がバレたら、奥さんの膝に頭を押し付けられたまま3時間好きなようにされる。パシパシ殴られようが髪の毛引っ張られようが、されるままにする。その間へらへら笑っている。
本当によく笑う彼らなのだ。

彼らは過去を引きずらない。誰かの又聞きを聞かない。今、今、今。この今ある事だけにいきている。だから2000年前のいたかもしれないヒトの話を又聞きの、そのマタマタマタ又聞きの、○○さんの話なんか聞こうとしないのだ。
「お前がそれを見たのなら聞く」のだ。

彼らは過去を引きずることによっておこるリスクを、そして言葉を新しく招き入れる事によって起こるリスクを知っているようなのだ。

私らの文明は、日々新しい言葉を増やしていく。KYなどの形容詞、病名、薬、運動、。。。
それらによって分裂が起こり、混乱をまねく事に気がついていない。

彼らはレンガというものを知ったが、彼らにとってそれが必要でないと思うと、もう次の日にはその言葉は発せられる事がないのだと言う。

世界で一番未開の生活を送っているように見える彼らだが、本当は一番洗練された民族なのではないだろうか。そういう人々が今、この現代に確実に存在しているのだ。疲弊した文明のまっただ中にいる私たちに、何かものすごいヒントをくれている、そんな気がするのだ。


*『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観・ダニエル・L・エヴェレット著』(みすず書房)