2012年3月16日金曜日

トンネルビジョンは思考の中にもひそむ


母は、(こないだのつづき)つまり、トンネルビジョンをやっているんじゃないだろうか。先日ふれたインディアンの視点の話になんか通じている。それは単に物質を見るということだけじゃなくて、心の中の思考の世界もまたおなじことなんじゃないだろうか。

これがいけないんだ。これさえなくなれば、私はしあわせでいられる。
だからこれをなくす努力をすればいいんだ。

だがこの世はそれだけが独立してあるわけじゃない。あらゆる事が共鳴しあってかかわり合って存在している。その事だけを抽出してコトが済むという考えは、狭い視野なのではないか。そしてそれこそがトンネルビジョンじゃないのか。

頭が痛い。この頭の痛さをなんとかして取ろう。そうだ、アスピリンを飲めばいいんだ。
そうやって私たちはその場しのぎの対処法をとる。だけどそれは頭の痛さを感じなくさせただけで、どうして頭が痛いのか、なぜ頭が痛くなるのかという事の始まりをみようとしない。痛さだけ取ればいーのだ。からだの中がどんな状況になっているかは後回しにされる。
次第に一個では効かなくなり、だんだん量が増えて、大量の薬が必要になる。そこから逃れられなくなり、薬に依存するようになる。。。。そのうち身体の様子がおかしくなり。。。。
そもそも頭が痛かった原因はどこへ行った???


私たちは努力をする事が好きだ。試験に受かるために努力をする。それはそれで大事な事だ。だけどその努力はオトナになってもあらゆる事に向けられている。別に試験があるわけでもないのに、お肌をきれいに保つ努力をする。マイナス5才肌になるために努力をする。近所の人に悪口言われないように努力をする。もしもの時のためにお金を貯める努力をする。
これは『他人の目高校』というお受験のために努力をしているんだったりして?

努力するとは、その背後に「そうでない自分がいる」というものをはらんでいる。こうありたいのに、そうでない自分を嫌っている。
マイナス5才肌の努力は、あるがままの自分を否定し、抵抗し、単に今そこにある自分自身をみようとしない。
それはこうあるべきだという条件づけをもらってしまったからだ。
「お肌はマイナス5才肌がいいのよ」という条件づけ。

これって、ものすごく抽象的な言葉じゃない?漠然としてて意味もない言葉。
なのにその言葉によって、「今の自分は恥ずかしいんだわ」と思い込んでしまう。
これは母がもらった言葉の効果に似ている。「あなた歩くの遅いわね」

「マイナス5才肌」「歩くのが遅い」
どれも具体的なものがない。なのにその言葉に引きずられて、「あたしはこれではいけないんだ」とおもってしまうのだ。

(世の中プラス思考ごのみだから、このさい「プラス5才肌」ってのどや?)


絵:MF新書「心が折れない部下の育て方」表紙イラスト
  『現代型うつ病』の部下をもつ上司のための本です。マンガ入りでわかりやすく。

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