2012年1月7日土曜日

枕詞「年いったから」




先日ひさしぶりに髪を切りにいった。
明るい店内にでかい鏡が設置されており、その前に座るとドドーンとやまんばの姿が映し出された。

げげーーーーっ。フケてる。
やまんばは化粧をしないので、家に化粧台というものがない。だから自分の顔は風呂場で湯気の中で見るか、べんじょのとなりの薄暗い鏡に映る自分しか知らない。
これでもかというぐらいの明るさの中で自分の顔を見たのは久しぶりであった。額にシワ、眼の下はツキノワグマが出来て、おちくぼんでいる。口の横にホウレイ線もバッチリ、右のでっかいシミも相変わらず存在を誇示している。

み、見れない。。。自分の顔を直視できない。。。
わしはこんな顔を日頃世の中にさらしておるのか。。ああっ、ご近所のみなさま、ご迷惑をおかけしております。
髪を切ってもらっている間、ちらっちらっとおののきながら自分の顔を見る。
見るたび「ああ、年いったなあ。年いったなあ。。」と心がつぶやいていた。

ふと、いつも母がその言葉を吐いているのを思い出した。
「あたし、年いったから動けんなったがあよ」「あたし、年いったから描けんなったがあよ」「あたし、年いったから歩けんなったがあよ」「あたし、年いったから。。。」と、枕詞のようにくっついて来る。

そのつど「おかあさん、そんなにしょっちゅう『年いったから』っていいなや。ゆうたらもっと年いくで」と、怒ったもんだった。
ああ、今になってその気持ち分る〜。老けた自分を見ると言葉自動発令機が『年いったから〜』と出て来るのだ。

なんでその言葉が出るのだ?
それは醜くなった自分を見て、「年がいったせい」にしようとしているのではないか。
ゲゲゲーっ、フケた。どないしょー。。。
よし、そーか。
それは年がいったから老けた事にしよう。そう。わたしは年がいったから老けたのだ。しゃあない。うん。これが自然の原理だ。自然の成り行きだ。しゃあない、しゃあない。なっ、やまんば。そーだろ。

と、ゆーふーに、自分で自分を説得してるんじゃないだろか。

ほんでもってその言葉をわざわざ人に言うのは、一種の照れ隠し。
「いんやあ〜、みにくいねえあたし。まっ、年いっちゃったからねえ。これはしゃあないのよ。うん。こらえてね。わっはっは」
と、ハズカシーのをわらってごまかしている。(誰を?早い話が自分を)

どっちにしろ「年がいったから」という枕詞は、自分に向けて発している言葉だな。
あせる自分があせらないようにと、あせって説得している。その現実を見るのはおそろしーから、なにかしなきゃいけないとおろおろする。ほーじゅんやどもほるんりんくるがはやるのは、この心理にうまく乗ったお仕事なんだろな。
やっぱわしらって「若いって素晴らしい」って思い込まされているから「老けている=悪」と刷り込まれてるんだろうな。やまんばもまんまとそれにのっかっちゃっているのだ。

でも他人は案外その、ほかの人が老けていくことなど気にしてなかったり(興味がなかったり?)するのだ(笑)。



絵:MF新書「暴言で読む日本史」こりゃまた別の視点からの日本史。おもろいで〜。

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