2011年11月28日月曜日

自分という巨大なモンスター

何の非難もせず、ただ見て欲しい。
「これはいけないんだ」とか、「あいつの方がまちがっている」とか、「あの場合はこうするしかなかったんだ」とかの言い訳や攻撃をしばし横にどけておいて、静かに自分を見て欲しい。逃げたくなる思いをじっとこらえて、「私は逃げない。」といい聞かせながら、自分と対峙して欲しい。その時何かが起る。

お化けと一緒で、「こわいこわい」と後ろを向いている限り、恐怖は決して消えない。ますます巨大化する。しかし勇気を振り絞って自分を真正面から見ると、「なんだ、こんなもんか」とわかる。お化けも実際見るとこわくもなんともないのだそうだ。ダンナいわく。(え?それってホラー映画が成り立たねえじゃねえか!)

それがね、たいした自分じゃないのよ。笑っちゃうくらいちっこい。

現代の人はみんなそうなんだけど、心が不安定になっている人はとくに、自分が肥大化している。自分という意識が巨大になっている。精神的に不安定な人は、顔が無表情になる。まわりの状況に反応しないようにしている。反応したら自分の心が大きく揺さぶられるからだ。まわりを見ないように影響を受けないようにと気を配るのだ。自分を守るための手段なのだ。だが本当はほんの小さなことでも鋭敏に反応しているが、それに振り回されないようにしている。
高校時代、試験の当日、寝ないで覚えた英語の単語。頭を揺らさないようにした覚えのある人、手を挙げて。ほら、そんな人なら分る。ソロ〜っと歩く。頭ふっちゃったら寝ないで覚えた単語がぼろぼろ落ちてしまう!とやった覚えのある人なら分る。(意味が分からん)
自分という手に負えない恐怖のモンスターが後ろに控えていて、いつでも暴れる準備をして待っている。だからこうしてまわりに反応しないようにしている。

だが頭の中は巨大な嵐の中で一人翻弄されている。
イケテナイ自分、こうあるべき自分、理想の姿と自分とのギャップ。そしてそれを指摘した人への怒り、自分の正当化。
あのときはしかたなかったんだ、あいつこそそんなこと言えるほどえらいんかよ、だいたいおれのなにがわかる、許せねえ、絶対許せねえ!おれのことはおれがいちばんわかっている!。。。いや本当は何も分っちゃいないじゃないか。。。だからあんなこと平気でできたんだ。。。ああ、オレ、なんてバカだ。。。こんなオレ、どうしたらいいんだ。。。まわりに迷惑かけてばっかりだ。。こんなオレ、いなくなればいいんだ。。。

元々、彼の心の中には、「こうあるべき」という理想の姿がある。小さいときから二宮金次郎のように勤勉であれ、宮沢賢治のようにやさしくあれ、ガンジーのように非暴力であれ、と叩き込まれている。(別にほかの人物でもいいが)それと自分とを比べているだけなのだ。こうあるべきという条件づけされた心が、勝手に作動しているだけなのだ。このブログで何度も言ってるけど、そもそも自分でもない人のマネをしろ、ということがおかしい。なのに勝手にそれと比べて、それができない自分をなじる。おかしくねえか?
じゃあそれを指摘した上司を怒れというのか?と言っているのではない。上司も同じように「人としてこうあれ」と教えられて葛藤しているのだ。

人を見るのではない。外を見るのではない。今悩んでいる自分自身だけを見るのだ。この問題は人のせいではない。自分の中にある葛藤が起こさせている問題なのだ。だから自分だけを。自分の中にある葛藤を見る。静かな心で葛藤している自分をただ見る。

2011年11月27日日曜日

現代型うつ病?

「現代型うつ病」というものがあるらしい。

上司にちょっと注意をされただけで、会社に出て来られなくなり、病院でもうつ病と診断され、休職する。家でふさいでいるかと思いきや、仲間とカラオケいったり、旅行にいったりと活動的だそうだ。従来のうつと違うので、薬の処方箋もないのだそうだ。
精神科医に言わせると「彼らはうまくいかないのをすべて他人のせいにしたり外のせいにする」のだそうだ。

これは、わざわざ「現代型うつ」というお名前を付けていただかなくても、上司にいちゃもんつけられたら、誰だってバックレたいし、憂さ晴らしにカラオケにも行っちゃうわい。ようするにニンゲン誰しもそうやりたいことを正直にやっているのだとおもう。
これは「病気」なんかな?それに「病気」ってつける方が病気な気がするが。。

そんな彼らの特徴的なのは「すべて他人のせいにすること」らしい。ほんまかな。ほんとに全部人のせいって思っているんかな。やまんばは違うと思う。

きっと心の中では「やばい。オレ、マジイケテナイし」と思っているはず。もしそれが本人の意識にも登らないとすれば、その人の心は相当怖がっている。

わしらは小さいときから、ああしろ、こうしろといわれてきた。一所懸命になれ、必死になれ、人生を駆け上がれ、成功しろ、ぼーっとするな、何か動いていろ、と。
これ、すんごい洗脳なのだ。骨の髄までしみこんでいるのだ。わしらは常になにかしてないといけない、行動していないといけない、うまくやっていなくてはいけない、上手に人生を渡っていかないといけない、と本当に心底思ってしまっている。
ところが社長さんの椅子や部長さんの椅子は、そう多くない。みんなが座るわけにはいかない。すると脱落者の方が多くなる。なのに戦え、負けるな、それいけ、やれいけ、とうしろからつっつかれるのだ。

それが骨の髄までしみ込んでいると、ほとんど自動的に何かしていないといけないと脳みそは思うのだ。そしてうまくやれない自分を責める。あたりまえだ。うまくやれないといけないと思い込まされているからだ。だから上司に注意されるとうまくやれない自分を意識させられる。うまくやれなきゃいけないのにできない自分。。。
あせるわな。
空回りするわな。
ますますイケテナイ自分を意識するわな。
その自分を見るのはつらいわな。
なんとか逃げたいわな。
会社でられなくなるわな。
ほな憂さ晴らしと称して、自分を見ないでいられることをするわな。
ほりゃカラオケいくしかないやん。
これ、人間の心理としてふつーに作動してしまうことだ。

それを「病気」と名付けてしまうと、「ほら、お薬」となる。そうだろうか。何でも『病気=薬で治す』という法則を作ってしまっているが、これがかえって、「お薬、お薬」って薬に依存させることになって、結局せっかくの自分の心を見るチャンスも失ってしまう。

そもそも、なんで必死にならんといかんのか。(『必死』って必ず死ぬって書く)うまくやれないといけないとおもうのか。『戦略的ナントカ』なんていう言葉がふつうに言われている。なんで戦って、人を蹴落とさにゃいかんのか。それって人の道に外れると思うが。
「人として人にやさしくあれ」という大義名分と、「人を蹴落としてのし上がれ」という大義名分が、つまり正反対の価値観が私らの中に埋め込まれてしまって、完全にせめぎあっている。これ、自分の中で葛藤を起こさない方がおかしい。

自分を責めていることに気づいて欲しい。
今の価値観は葛藤を生む。そして矛盾をはらんでいることを「人生なんてそんなもんだ」とひとくくりにしないでくれ。それが故に自分を責めていることを当たり前のように思わないでおくれ。
その責めが自分を見させないようにしているのだ。自分自身を真正面から見ることを拒絶している原因なのだ。そしてそれは小さいときから植え付けられて来た「価値観」からきていて、それはあなたに針のように刺さって「針が入っているのが人生」と思わされているからなのだ。

2011年11月22日火曜日

自分を見るのってこえ〜

ところが、私はその「いらんことした私」を真正面から見ることができない。怖い。怖くて、自分自身がやったことを見られない。
だから心は怒るばかり。
「いかんやろ!」
すると小さな子供のままの私は
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。もうしません」というばかりだった。

なんでやねん。

悪いことしたんやろ。それはいかんと思たんやろ。そしたら、どこが悪いんかちゃんと見てみないかんやろ。

理屈は分っている。反省したなら、なんでどこがどのようにまちがっていたかを見ればいいだけだ。見ろ。
ところが理屈は分っていても、自分が「やってしまったこと」を何の臆することもなく、見ることができない。

そりゃ、他人のことは冷静に見たり、観察できたりする。(特にダンナには言える(笑)
「あんた、ここ。ここがいいところ。ほんで、ここ、なおさないかんところ」
ところが、こと、自分のことを冷静に分析してみって言われたら、案外できない。

「え~。あたしい?うーんとね。だらしないやろ。あほやろ。仕事できんやろ。ぶっさいくやろ。のろまやろ。ほんでえ。。」と、悪いところばかりが見える。
ためしにやってみよう。となりの部下、上司、ダンナ、自分の子供、近所のおばちゃん。彼らの性格を冷静に、いいところ、わるいところを言ってみよう。
言えるやろ?

んじゃ、こんどは自分。
自分のこと、彼らを観察するように冷静に自分のいいところ悪いところが同じように言える?



なぜ冷静に観察できないかというと、心に感情的なフィルターがかかるからだ。他人については、感情的なフィルターははずすことができるようだ。なぜなら人ごとだから(笑)。だがこと「自分」という重~い存在には、あらゆる感情的フィルターが挟まっている。引けない、とでもいおうか。

何かを注意されて反省する。
その時自分を怒ったりすることはできるが、自分のした行為を冷静に真正面から見られないのは、「いけないことをしてしまった=批判」という感情的な動揺を挟み込みながら自分を見るから、冷静になれないのだ。
観察とは何の感情も交えず「見る」という行為のことだ。そのためには、まず自分が自分に対して批判をしていることに気がつくことだ。
この批判の感情(批判という言葉に、すでに感情が入っていることに気づいて欲しい)があるかぎり、自分自身を冷静に見られない。ということは怒られたことを真正面から見てどこが悪かったのか冷静に判断できないのだ。だからいつまでたっても同じ感情の繰り返しになる。

まったく批判の感情を抜きにして自分を見ると、他人のように観察できる。「つくしさん」という他人がした行為。それを外から見ると、
「ああ、ここ、気がつかなかったねえ。それはあのとき、心がバタバタして落ち着きがなかったからだ。ああ、そうだ。なぜ落ち着きがなかったかと言うと、自分がやったことを否定されたと思っていたんだ。あの言葉は別に否定ではなく、純粋にそこいけないんだよ、とあの人は教えてくれていただけだったんだ。ああ、そうか。そこだったんだな。じゃ、こんどはそこ気をつけよう」
というふうに。

すると、自分自身を見ることがコワくなくなってくる。

2011年11月19日土曜日

自己嫌悪から自己憐憫へ

夏の間活躍してくれたオクラの木(木みたいになっている)を根っこから切り落とし、畝の間に寝かせた。ここで自然に枯れて土の栄養になってくれるはずだった。あれから二週間。ふと目をやると、畝間に花が。。。
げ。
根元から切り落としたはずのオクラが、畝間に寝たまま、花を咲かせている。よく見ると、そのそばにクキっと首を90度もたげたオクラの実がついているではないか!
え~、いつまで生きてるんだよ~。根っこもないのに。
けなげに実と花をつけているオクラくんに悪くって、しばらくそこを歩けないやまんばであった。
実はもう一個オクラを切り倒さずにほってある畝がある。このまま来年までほっといてみるか。

さて畑と言えば、ある思い出がある。あのシーンで私は自分自身に気づかされた。その役を買って出てくれた友だちにほんとうに感謝する。(無意識にだが)


畑で友だちと二人で草刈りをしていた。
私は彼女に「そこ、草の中にソバが植えてあるから草刈らないでね」とたのんだ。
「うん、わかった」と彼女。
しかし私が他の作業しているあいだに、草と一緒にちょうど実がなったばかりのソバも全部刈ってしまった。
「え~っ、そこソバがあるって言ったじゃない!」
と声を荒げてしまった。
「ごめんなさ~い!」
ちょっとショックだったけど、まあしょうがない。
ところがそれから彼女の行動がおかしくなって来た。もうろうとして心ここにあらずになってしまった。涙目で作業をする手が宙を描いていた。
ありゃ、悪いことしちゃったなあと思った私は
「ごめんね。ちょっと言い過ぎたね。気にしないで。また生えてくるから。ほら、ほかの場所にもあるから」
とフォローを入れた。しかし彼女のその様子はしばらく変わることはなかった。

その時、私ははっとした。
これは私の姿だ!
彼女は今、「私は悪いことした」というおもいでいっぱいになっている。心の中は反省でいっぱいになっている。
「ああ、わたしっていっつもこうなのよ。。そういえばあのときもこうだったし、そのずっと前もそうだった。。。ああ、私って何も変わらない。人に迷惑かけてばかり。。あああ。。。。」という顔をしていた。
彼女はまわりのこともバランスもよく考えて、よく人に気を使ういい子だ。気を使うから反省もいっぱいするのだろう。うんうん、これからは草を刈るとき、よく気をつけておくれ。
。。。き、気をつけてくれるだけでいいんだが。。。
な、なんかようすがおかしい。。。


彼女は自分の反省の渦の中に入っていた。
心は今と同じように前に人に怒られたことを思い出している。
「ああ、わたしって。。。ばか。。。」
そしてそれがいつのまにかそのときの惨めな自分、可哀想な自分へと移っていく。あの時お父様からしかられて雨の中をさまよった可哀想な私、あの時先生から怒られて廊下に立たされた可哀想な私。。。などだろうか。ソバを刈った自分自身の姿を直視するのではなく、自己憐憫に変わっている彼女の姿を見た。


これなのだ。私は彼女と同じことをしている。いくら自分の中に監視人をつけても、ただ監視しているだけで満足してしまっていたのだ。彼女もまた、反省するだけで満足してしまっていた。そしてそこから先は、惨めな自分への愛着。わたしもまたびしびしとムチ打つ監視人とムチ打たれる自分に満足していただけなのだ。そして同じように、小さい時、はだしで家の外に出されたときの、あの惨めさを味わっていたのだ。

ほんとうは、ムチ打った後、どこが悪かったのか自分自身をよく見つめなくてはいけない。やったことを直視していないから、いつまでたっても「いらんことする私」でしかなかった。

つづく。

2011年11月18日金曜日

監視人作動!

私は厳しい父と母に育てられた。
いや、昔はそれがあたりまえで、それほどでもなかったのかもしれない。しかし幼い私にはただひたすら厳しく見えた。父と母の意見は絶対的で、巌のように私の前に立ちはだかる二つの巨大な存在だった。
私は一人っ子だった。これがほかに兄弟でもいたなら、「とーちゃんてさあ。。」とか「かーちゃんてさあ。。」などと、お互い親の悪口やグチを言い合えて、つらいことなどを発散できたかもしれない。その視点は、親を一人のニンゲンとして引いてみられる瞬間であったかもしれない。
しかし家に子供は私一人で、親の愚痴をいうということも、親からもらう厳しいしつけも、引いてみることはできなかった。こういう状況におかれた私には、ある一つの法則が出来上がる。
『怒られる=私が悪いことをした』

何の気なしにやったことをいきなり怒られる。
「こりゃあ~っ、なにしよらあやあ~!」
本人は何がなんだか理由が分からない。
直後、巨大なにぎりこぶしが私に降り掛かってくる。はだしで家の外に出される。
理由は、下駄をそろえなかったり、新聞踏んだり、ご飯残したりしたことのようだった。

こういうことがいつもおこると、だんだん心の中で、「私は気づかないうちに悪いことをしてしまうニンゲンなのだ」とインプットする。だからいつも「何か悪いことをしているんじゃないか?何かとんでもない失敗をしているんじゃないか?」とびくびくした。

大人になって親元を離れると、その思いは一つの親代わりを作り上げた。
「私はいつも気がつかずに悪いことをしてしまうニンゲンなのだから、怒られないように、そして世間に迷惑かけないように、とーちゃんやかーちゃんの代わりになる存在を作っておこう。」

「あんたなんか今、悪いことしてないかね」
と、その監視人はいう。
すると私は一瞬まわりを見渡して、
「うん。今のところやってない。大丈夫」
と確認して安心するのだ。

その存在を知ったのはほんの2年前だった。最初、私は二重人格者なのだろうかと心配した。しかしそのひとり言のような言葉にいちいち気がつくうちに、その言葉はやがて消えていった。しかしその下にそれを作り上げた心の習慣が、さながら大陸の下に眠っている岩盤のように横たわっていたのだ。

それが自己嫌悪という心のパターンであった。
こいつはありとあらゆるところにひそんでいた。朝起きた瞬間からそれは動き出した。「いかん。はようおきんといかん」「ちゃんとせんといかん」「怒られんようにせんといかん」「がんばらなあいかん」「仕事せんといかん」「まじめにせんといかん」「人に迷惑かけたらいかん」「人にいらんことゆうたらいかん(のわりには、よくいらんこと言うが)」

こういう言葉にならない瞬時の思いが、あらゆる場面で繰り返し行なわれていたのだ。
これは小さい時の「知らないうちにいらんことする私」という思い込みのためだ。完璧に無意識で一瞬のうちに判断する。「何か間違ったことしてないか?」
ここまで完璧に自分の行動をちくいちチェック入れているものならば、さぞかしスンバラシー人格が出来上がるはずだ。
しかし。
どこにいるのだ?そんなスンバラシー人格者は?

「はようおきんといかん!」というわりには、起きるの遅いし、「怒られんようにせんといかん」というわりには、わざわざ怒られるようなことをするし、「がんばらなあいかん」というわりには、ものすごく怠惰だ。
これはいったいなぜだ?あの24時間態勢で自分に常にチェックを入れ、完璧なまでに自分を批判する私。それがちっとも効いてないではないか!


まだつづくぜよ。

2011年11月16日水曜日

言葉自動発令機

心はいつも何かにすがっている。

静かなところにじっと座って自分の心を観察してみるとおもしろい。目の前にあるものを見て、「あら、緑がきれい」というかもしれないし、「あ、洗濯物取り込まないと」と思うかもしれないし、「げ、ぼーっとしていると部長にさぼっていると思われる」と思うかもしれない。そしてほとんどそれをきっかけに自動的にその先に展開していく。またはその目の前のものに飽きて、自分がマイブームしている心配事に移っていく。

そう、ほとんど止まらないで思考している自分に気がつくのだ。それは朝起きた瞬間から作動し始める。よく観察して欲しい。その朝から自動的に喋り始める心の中の言葉に、パターンはないか?同じ言葉を喋っていなくてもいい。そのいくつかの言葉ににたようなニュアンスが含まれていないか?

それはたいてい否定的な言葉じゃないか?
「ああ、いいお天気!しあわせ!」
というパターンで毎日起きて来る人は本当に幸せな人だ。
しかしどっちかっちゅーと、
「ああ、はやく起きないと。。。身体がだるい。。。ああ、しんどい。。」とか
「やばい。おくれる!」とかの人が多いような気がするが。。。?

電車に乗っても言葉は続いていく。ぶつぶつぶつ。。。あの満員電車の中で、ひとりひとりの心の中が爆走している。そこに人の心の言葉が聞こえる人がいたら、卒倒するだろう。

私たちの心の中は言葉自動発令機なのだ。
それは小さいときから「考えろ」と言われて来たからなのか、「努力しろ」と言われて来たからなのか、「一所懸命生きないといけない」と思っているからなのか、とにかく、私たちは、何か考えないといけない、そうするとうまい考えがでてくる。「ぼーっ」としているとろくな事にならない、と信じて疑わないようなのだ。だから考える。

ところが、私たちはそうそう毎日はまったく新しい事柄を考えだせない。自販機にはそうそう新しいドリンクは入っていない。お決まりのドリンク類の中で、お決まりの好みで、
「う〜ん。やっぱりBOSSにしよ」とかいって、選択するのだ。

それと同じように(どこが同じなのだ?)、考えも自動的に新しいものは浮かばない。自動的に発令するものは、同じ事柄だ。ためしに意識的に新しいことを考えようとしてみる。たいていどこかで自分が聞いたような言葉しか浮かばない。
ということは、自分の常日頃考えていることは、自分流のパターンをもっているのだ。
そのパターンの中で、以前と似たような状況にあるとき、前と同じ反応をし、同じ感情を呼び起こし、同じようにそれについて思考する。(思いっきりパターン化しているじゃねえか!)

私の場合はこうだ。
自分が何かとんでもない失敗をしでかしているんじゃないか?という思いで、常に自分の失敗を探しているのだ。(なんじゃそりゃ。)
だからいつも自分を見張っている。
「こいつ、ほっといたらろくなことしねえ。あたしがちゃんとみはってやる」
という存在を作って、24時間態勢で監視していたのだ。

これは私の小さい時にその起源をさかのぼる(大仰ないいまわしだな)。

つづく。(まだ続くんかい!)

2011年11月14日月曜日

左の脳

私たちは、小さいときから「何かしなければいけない」と教わって来た。ぼーっとするな、考えろ、と。だが、ぼーっとするのは、子供の特権だ。あのぼーっとしている時間が、大きなカギを握っている。私も授業中よく怒られた。「ぼーっとするな!」

しかしそのボーッの中では、すごいことが展開している。あらゆるものの中に浸透していく貴重な瞬間なのだ。いわば、あなたと私という区別も、木と自分という区別も犬と私という区別も曖昧で、なんとも言えない幸福感に満ちたあの時間。。。それが、はたからみていると、ぼーっとしているようにみえるのだ。

脳科学者ジルテイラー博士が、脳梗塞によって左の脳が全く機能しなくなり、右脳だけで味わった感覚を話している。彼女は左の脳と右の脳の機能の違いをはっきりと自覚したようだ。右脳は、言葉というものをなくし、自分と世界との区別が全くなくなり、自然の世界が手に取るように身近に感じ、前向きで平和で、穏やかで、ものすごい静けさの中にある、いわば涅槃のような境地になったと。ところが、左の脳が機能し始めた途端、言葉がやって来て、自分というものがほかのものとはっきりと分断されてしまい、ぐるぐるとうるさい思考が動きだし、その思考のほとんどが否定的であったと。そしてその否定的な思考は強烈な痛みを伴う。。。と。

まさに「ぼーっとする」ことは、右脳を使っている状態じゃないだろうか。いや、左の脳が停止している状態。。。といおうか。
だが今の私たちの心は「あれしなければいけない、こうしなければいけない、あれじゃだめ、これもだめ」言葉、言葉、言葉。。
私たち現代人の頭の中は、言葉で埋め尽くされている。左の脳ばかりでものを考えるようになってしまった。あの、自他一体となるような感覚、穏やかで静寂の中にある右の脳は今、ほとんど使われていない。

その静寂。。その静寂の中に牢獄から脱出する答えがある。瞑想とはそれを伝える手段だった。ところが、思考は考えないようにしようとすればするほど、ますます考え始める。止めようとすればするほど止まらない。煩悩を止めようとすればするほど大きくなるのだ。

「考えるな、感じろ」という。
「考えるな、考えるな」と唱えろという。
しかしこれでは考えることを止めようとしたり、「考えるな」とただ呪文のように唱えるだけで、心がそれにすがりついているだけのことになる。これでは、自動的に考えてしまうことと同じである。

そうではないのだ。その考えていることじたいにメスを入れる。自分がいったい何を考えているのかをさぐる。自分が何に反応しているのか、それによってどうゆう感情が引き起こされているのかを知る。それが思考の自動発令、止めどもなく続いていく思考を静寂の世界に連れて行くのだ。

つづく。

2011年11月10日木曜日

希望の木




どこから書いていいのかわからない。
大きな誤解をされるだろうこともわかっている。だから怖くて書けないのかもしれない。「これはこういうものだ」と思われていることを、「ひょっとしたら、ちがうかもしんない」と言うのは恐ろしいことだ。特に小さい頃いじめられっこだったものにとっては、血が凍るぐらいこわい。みんなが私に向かって浴びせた、あの凍りつくような視線。自分だけが置き去りにさせるような恐怖。あの恐怖は、50のおばさんになってもいまだに残っている。それが今の私を作った。

今ハヤリの言葉で言うなら、これから書くことを気に入らない人は、スルーしてくださいヨ。

心の動きというものが、いかに人に影響を与えて来たかということを、深く掘り下げて来たことはないとおもう。心と言えば、道徳観や善や悪に対する考え方、これはいけないことこれはいいことという、いわばおもうということに関する「ルール」のようなものは教わって来た。しかしその教えられて来たルールが心の動きの基準になって、その後のその人の人生に大きく影響を与えている、心のからくりについて教えられて来た記憶は私にはない。

しかし自分の心の動きを調べるうちに、これはとんでもない誤解をしているんではないかと思い始めた。私たちは、心の動きに自動的に振り回されている、心の囚人だ。それは自分で作り上げた心のパターンを受け入れたまま、出会う出来事に瞬時に同じ反応をし、同じ行動をし、同じような結果を導きだす。そしてその同じような反応のまま、その人の人生はその人なりの姿カタチになり、終わっていくのだ。

人はその人独自の心のパターンを自分で作り上げる。バックボーンが凄まじい影響力を持つ。親からもらった言葉かもしれない。悲しい出来事を経験したからかもしれない。ありとあらゆる経験を経て、「これはこうしなければいけないのだ」という自分の基準を設ける。ではこれはこうしなければいけないのだと思う意図は何か。それはこの社会で生きていくためのその人なりのわざを見つけたのだ。
「オレは今までこれでやって来たのだ。間違いはない」という人もいれば、「オレは何をやってもだめなんだ」という人もいる。

私たちは自分の基準の中で生きている。つまり、私たちは自分で自分の世界を形成しているのだ。目の前に展開している世界は、自分というフィルターを通して見ている。そこにはあらゆる感情を揺り動かすものが広がっている。それに反応して行動する人もいれば、何もせず立ち去っていく人もいる。立ち去っていくことも行動だ。私たちはすべてのものにつねに反応している。その反応はパターンをもっている。自動的に同じ反応をするパターンだ。

パターンを生きることは楽だし、安心だ。安心?そう、自分にとっての安心。だから同じ反応をし続ける。あのシーンでは怒るし、このシーンでは泣く。ずーっとそれをやっているといいのだ。だから安心。

しかしそれは相当なエネルギーを消耗している。
「え?なに?パターン化すると楽なんじゃないの?会社に通う満員電車だってパターン化すればつらくなくなるし。」
「ほんと?つらくないの?それはそう思い込もうとしているだけなんじゃないの?」

パターン化すると楽。
これも実は思い込みかもしれない。本当は心の奥深くに自分の感情を押し込めているだけなんじゃないか。毎日感情的になっているのがつらいから、ずーっと沼の奥深くに静めているだけ。。。それを無感覚ともいう。

しかしほんとは奥の方で「この満員電車はいやなんだ」と言っている。だけどもう一方の心が「そんなこと言ったって、やめられるわけないじゃないか。家のローンがあるんだ」という自分がいる。
こうしたくない。
いや、それはできない。
だからこうしたくないおもいを封じ込めなくてはいけない。。。

葛藤がある。私たちには心の中につねに葛藤を呼び起こしている。相反する反応を抱えて、摩擦が起っている。これをエネルギーの消耗と言うんじゃないだろうか。

「それが人生というものさ」
と、訳知り顔の人はいう。
おもいの中で矛盾に苦しみ、エネルギーを消耗させ続けること、それが人生。そのパターンで生きていくことが価値と思う方は、ここから先は読まないでください。



私たちは監獄の中にいる囚人だ。
それはこの社会が作ったものではなく、自分の心が作った監獄だ。パターンという牢獄だ。まさか自分の考えやおもいや反応がパターンをもっているとは、あまり意識はしないだろう。みんなそんなふうに反応するものだ、とおもっている。だがもしみんな同じような反応をするのだとしたら、この世に「なんであんなことするかなあ~」と思ってしまう人はいないはずだ。だがいる。確実にみんな独自のパターンをもっている。
ではその牢獄から脱出するにはどうすればいいのか。
 
つづく。。。



写真:『希望の木』新井満  表紙および本文中の写真/海沼武史

2011年11月2日水曜日

秋の畑




秋に入った畑の様子。
うちで種取りした源助大根三世、ほとんど雑草化。あっちゃこっちゃの畝間の道、かったい地面にもかかわらず、どんどんでかくなる(蒔いた記憶なし)。
フェンスの向こう側の単なる山の原っぱ。イノちゃんに耕耘されて平になったところにばんばん出て来る。
ぐほほ。来年も種とって、お墓のまわりにも種蒔いちまおうか(ウチの大根、墓場で育ちました、とかいうのか?)。ついでに山の斜面にも蒔いちまおうか。ついでにとなりの使われていない畑にも知らん顔して蒔いちまおうか(こらー)。

メヒシバを刈って、畝にすき込んだところと、疲れ果ててそのまま自然農(つまり草刈って、そのまま畝の上に置いただけ)で、蒔いた三浦大根の種。その差がどんどん大きくなる。草をすき込んだ方(たんじゅん農法の畝)の方が、がぜん成長が早い。同じ方法でやった源助大根三世も、いつの間にか上の葉だけでなく大根も大きく育っている。いつもより成長が早い気がする。
その大根の足もとに、タアサイの苗を見つける。今年蒔いた覚えはない。去年蒔いた時の、芽がでなかった種からなのだろう。今年蒔いたタアサイの苗より大きいじゃないか。つまりいいタイミングで、芽が勝手にでてくれたって事か。なんだ。やまんばが蒔くより自然に任せた方がいいってことかい。

高知の友だちからもらった落花生の種。
途中までは草刈りして順調だったが、夏、草の勢いに負けた。ちょっとよそ見しているあいだに、あっという間に雑草に被われてしまった。草の下の方にはオレンジ色の花が。。。ああ、もう草動かせない。。なのでそのまま放置する。ごめーん。メヒシバに被われたまま枯れるに任せた。
先日引っこ抜いてみる。なさけなーい数の落花生がぽちょぽちょとついている。プチプチちぎっていると、すでに芽がで始めている落花生を発見!あのかったいかったい殻を破って二世が誕生しようとしていた。すごい。自然はどんなに力強いんや。

キャベツの畝からにょきっと出て来るジャガイモの芽、タマネギの畝から顔を出す壬生菜、ほうれん草の畝から信州高菜の紫色の苗、小松菜の足下に出て来る白菜、三浦大根の畝からででるサツマイモの芽。。。みんな植えた覚えがない。み~んな一年前にまいた種などだ。(記憶にないのもあるけど)



答えはそこにある。
たんじゅん農法は自然農と違って科学的な説明をする。だからなおさら頭でっかちになりやすい。剪定チップは発酵させた方がいいか、させないでいれた方がいいか、それはどのくらい入れるのか、どのくらいの厚さを上に置くのか、炭素素材はどれがいいのか、などなど。だけど主役になる微生物は、とてつもない種類があり、今の生物学ではまだ研究の対象にもなっていない状態だ。だから誰もその土の中身を知りようがないのだ。多分これからも人間には知りきれないだろう。それくらいものすごい種類の生き物がいる。私たちは未知の領域で生きているのだ。知っているつもりで、誰も知らないのだ。

だからこそ、自分の畑は自分で見なくてはいけない。畑はその人がそのまま現れている。林さんも言った。「畑を見ればその人がわかる」
これは自分自身を見る事とまるで同じ事だ。畑を見る行為は、すなわち自分自身を見る事と同じ事なのだ。
「これはどうなの?どうすればいいの?」
と、外の人に聞いても、その外の人は自分の畑を基準にしてものを言う。聞いた人には、それはヒントにはなるけれど、答えにはならない。
自分自身の事だって、
「わたしはどうなの?どうすればいい?」
と聞くと、他人は自分自身を基準にして言うから、聞いた人の答えにはならない。二宮金次郎さんの行いは、彼にしかできない。他人をまねる事は、必然的にそこに葛藤を生み出す。
同じ畑や同じ性質の人間を捜して答えをもらって来ようとしても外に答えはない。
答えはここにある。自分の畑の中にある。自分のその心の中にある。



絵:「恋するオスが進化する」メディアファクトリー新書でたよ〜。おもしろいです。