2011年1月30日日曜日

怒りの快楽





感情的になるということは、実は誘惑でもある。

怒りだろうが、悲しみだろうが、人はその中にいることによって、一種の快楽を味わっているようなのだ。だから人は感情的になることをやめられない。

ほんとは、仏教はそれを知っていて煩悩はやめろ!といっているのかもしれない。
べつにわたしゃそれをやめろとは言わない。肝心なことは、感情とはそういう性質のものだということを知っていることだ。

怒っている時って、何かが燃えない?
人とけんかした時に、じっさいなんだかエネルギー炸裂しない?
そして反対に、悲しくてさめざめ泣いている時も、それがいつまでも持続したりしない?
先日起こった私の恐怖の体験も同じことだ。グわーっと鳥肌が立つ。恐怖のエネルギーが、からだの中を駆け巡る。
これらは全くちがう感情だけど、自分というものをはっきりと意識する。つまり私たちは感情の中に入ることによって、自分であること、自分がここにいるということを強く意識する。別な言い方をすると、生きているという実感を味わっている、とも言えるのだ。

例えばこの時代の政治家をうれうことも楽しい。
だって「ああ、この政治家ってダメよねえ」という心理の奥には、自分は政治について考えている。ちょっと知っている。だからその政治家をアホ呼ばわりできる、というふうに自分を高みに置くことができる。誰かさんの悪口を言う。それも楽しい。だって、自分はあいつよりも頭がいいから、こんなことが言えるのだ、なんておもえるし。自分の人生を嘆くことも楽しい。ああ、なんて不幸なの。。。という時間は小説の主人公になった気分になれる。
感情的になるとは、自分というものを思いっきり実感できる瞬間なのだ。


絵:「どこいくの?ドロップ君の冒険」

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

感情のない人と、お付き合いしたくない
ですよ。感情があるからお話してて面白
いんでしょ?

つくし さんのコメント...

スタートレックのミスタースポック氏が相手だと、おもしろくないもんねえ。くすぐっても笑わんし。