2011年12月31日土曜日

心はコトバである

「心はコトバである」
谷口雅春さんの言葉だ。
昨日ポストに小冊子が入っていた。ぱらぱらめくるとその言葉が目に入った。

まさに、心の中は言葉でうめつくされている。感情の高ぶりも言葉でおおわれている。ほんなら、コドバを知らなかった赤ん坊の頃は言葉を知らないので、心がなかったんだろうか。いや、おなかすいたとか、かなしいとかさびしいとかあった。心の動揺があった、だから心はあった。とおもう。

しかしそのおなかすいたとか、寂しいとかという感情の高ぶりも、やはり言葉だ。はじめに動揺がある。それに「これはおなかすいたという種類だ」とか「これはかなしいという種類だ」とか「これは怒っているのだ」と感情の高ぶりに分別を与えたのはニンゲンが言葉を持ったからだ。

もし、人間が言葉を持たなかったなら、その人間は、ここまで心の中が言葉で埋め尽くされていたのだろうか。いや、言葉がないので、ただ動揺だけがある。

しかしその動揺は、ここまで私たちの中を始終埋めつくしていたのだろうか。

2011年12月27日火曜日

昨日夢を見た。

ダンナが私にコンタクトレンズを買ってくれるというんで、店にいった。なぜか黒人のお姉ちゃんが店員さんだった。

最初に試したのは、入れると目の中がごわごわしてイヤな感じだった。でも次のヤツは、目の中に抵抗もなく、よく見えた。でもいつのまにかコンタクトが口の中から勝手にでてくる。入れてもまた口からでてくる。
「ねえねえ、これ、口からでてくるよ。いーの?口からでてくるんでいーの?」
と聞くが、店員さんとダンナはそれには応えず、
「じゃ、それをください」といった。

私はコンタクトは目から入れて、出す時は口から出すもんなんだなと納得した。
夢、おしまい。

ちなみに、それまで裸眼だった私はよくしらないんですが、コンタクトは口から出すもんなんですか?

2011年12月26日月曜日

自分の過去にひたらないのだ


昨日、過去を捨てた。(えらいおーぎょーやなあ)

自他ともに認める世界一怠惰なやまんば。
NYから日本に戻ってからやった約8年間の仕事。これらの資料や、先方さんとのやり取りの手紙や、自分が描いたラフのスケッチなど、てんこもりに残っていた。かっこよく「過去は振り返らない」とかいーながら、要するに机の下につっこんで「なかったことに」してきた。

自分の過去はなかなか捨てられない。
仕事の度に「う〜ん、う〜ん」といいながら、アイディアの産みの苦しみをへて出てきたかわいい私のラフたち。
「ああ、このときのこのアイディアは良かったよなあ。これ、何かほかのアイディアに使える。うん、きっと使える。とっとこー」
といいつつ、そのまま山積み。ふりかえってみれば、一度もその山をほっくりかえして眺めた事はない。どっかで聞いた事があるよなあ、これ。「いつかは着るかも知れないから取っとこー」といって1年半袖を通さなかったものは着ない。というヤツと似ている。

アイディアをとっとこーとするその心理は、「このアイディアはもうでて来ないかもしれないから、念のため残しておく」という心理的保証を意味する。だがそれって、後ろに「ひょっとしたらアイディアは湯水のように湧かないかも。。。」とおもっているのだ。
なぜ?
湯水のように湧かなくさせているのはだれじゃ。
自分だろ。なぜ湧かない?年がいくから?体力なくなるから?老眼になったから?

脳みそが堅くなってくると思い込んでいるのは私だ。こんなもの誰も証明できない。それが確実かどうかも分らない。
だが過去を残しておけばおくほど、それは机の下にたまっていく。それを「過去の勲章」のように取っておくほうがよっぽど脳みそが堅くなっていくんじゃなかろうか。
机の上はすっきりと広々した方がいい(あんたがいえるんか)。頭の中もすっきり広々した方がいい。スペースがあると、あとからあとからまた何か別のものが入ってくる余裕がある。すると過去に思いつかなかったアイディアがやってくるかもしんないじゃん。

そう思って捨てる事にした。中には、NY時代に私の絵や絵本を評価してくれた雑誌の記事のコピーまである。思い出にひたるにはちょうどいいアイテムだ。「ああ、わたしってすてき。。。。」と。だがそれも捨てた。

そんなものにはひたらないのだ。ひたるのは自分の未知の世界なのだ。やまんばがまだ知らないやまんばの、未知なる部分への挑戦のために捨てるのだ。


絵:『江戸めしのすすめ』MF新書表紙イラスト
過去にひたってる?いんや、温故知新なのだ。

2011年12月18日日曜日

たんじゅん農法は挑む

私がたんじゅん農法が好きになった理由は、挑むからだ。
山の木や植物はいったいどんな理由であのように大きくなったり豊かにはびこったりするのだろうか。小さなニンゲンが作り出した自然のミニチュアのような畑の中で、その理を見つけ出していく農法であることだからだ。

それまでやっていた自然農は、自然は偉大なものだから、自然にやさしく、自然を怒らせないように、自然の育つままに任せよう、という考えが元になっている。基本的に慣行農法よりも小さく育つ。その理由は肥料であんなに大きく育てられる事自体が不自然なものだからである。本来はあのぐらいの大きさなのである。という考えに基づく。

一見「自然にやさしい」農法であるが、その後ろに「自然はこわい」という心理がコインの裏側にひそんでいる気がする。自然は理解しがたく恐ろしいものだから、自然がやりたいようにやっていただく。私たちニンゲンはそのおこぼれをいただく、というようなどこか悲観的な気分にさせられる。

創始者の川口さんの本を読むと「本来の姿に戻してやればいい」とか「種を降ろしてやる」とか「大切な全体の姿を悟り取られて下さい」いう言葉があちらこちらにでてくる。その言葉を読むたびに、やさしく言い回しながら、なんだかおごった言葉だなあとおもう。

私が草ぼうぼう畑にしたのは、福岡正信さんの本に衝撃を受けたからだった。もし最初に川口さんの本に出会っていたら、きっと畑はやらなかったに違いない。だが福岡さんの本に出会ってしまった。すごいとおもってしまった。どころがいざやろうとすると、「無から始まって無が終着点となる」という彼の本は哲学的すぎて、どーにもこーにもやりようがない。粘土団子を作ってみてもうんともすんともらちがあかない。そりゃそうだ。彼の理想とする畑の姿は、後ろの山の上から木を変えていかねばならないのだ。ムリ。だからハウツーを教えてくれる自然農にした。

やっているうちに、土は掘り起こしてはいけない、耕してはいけない、とやってはいけないことが色々ある。ちょちょっとニンゲンが手を加え、ただ自然が畑を作ってくれるのを待つのである。そして小さめの野菜が育つ。うんうん、それでいーのだ、それで。。。

だが、あの福岡さんの畑で育っていた写真で見たあの超巨大なカブや超巨大な大根はなんなのだ?福岡さんがわしらに見せてくれたたわわに実った稲はなぜなのだ?あれは野菜の可能性を見せてくれたんじゃないのか?自然がどんな姿にでも変化するという彼らの力を「へへへ〜っ、こうなるんだどー」と、わしらに見せてくれていたんじゃないのか。

だが自然農は「ニンゲンは浅はかな存在なのだから、静かにおとなしくしていなさい。それを悟られて下さい」と言い聞かす。なんだ、仏教みたいじゃないか。

だがたんじゅん農法は、所詮ニンゲンのやる事はすべてが不自然きわまりないんだから、その不自然をいくら自然に近づけようとしたってムリ。だったら何でもやれ。肥料がなんやかんやとか、今までの条件づけを捨てろ。山に行って這いつくばって自然の姿を良く観察しろ!と。
胸の奥の方がワクッとしないだろうか。あれダメ、これダメ、おとなしくしていなさい、と押さえ込まれるよりも、「なんでもやって見ろ」と言われた方がいい。子供も大人もそこら辺は何も違いはない。

多分たんじゅん農法もまだ発展途上なのだ。それが終着点に届くとは私は思わない。すべてのシステムを完成させた途端、自然は「あらよっ」とまた別の世界を表してくるのだ。
この世は常に流転していてとどまる事がない。安定という言葉はニンゲンが作り出した観念だ。そこにとどまっていて欲しい変わらないでいて欲しいという恐怖から作り上げた妄想なのだ。だが現実は否応なく変化し続ける。

その変化の中に自分の身を置く。変化するのがふつうなのだ。たんじゅん農法はその場に押しとどめる法則ではなく、福岡さんのいう「何もないのだ」という所に向かおうとしている、そんな気がする。

2011年12月16日金曜日

大根の死はどこにあるのか?

大根が、畑の外にも畝の道にもあっちゃこっちゃから勝手にでてくるので、それを抜いちゃあ食べている。ウチの雑草、大根だから。ほーっほっほ。
でも問題は大根の葉っぱ。贅沢な悩みなんだけど、葉っぱばっかり残る。毎日ゆがいておひたしにして食べるのも、ふりかけにするのも、つけものにするのも飽きたので、この寒い冬のために、乾燥させてお風呂に入れる事にした。からっからに乾かして湯船に浮かべる。う~ん、いいにおい。お日さまの匂いがする。

ケチニンゲンの私、カラカラの大根の葉っぱを風呂に入れて3日目。ふと気がついた。
あれ、緑色の葉っぱ?
小さなみずみずしい葉っぱが、横に寝かされた大根の葉っぱから頭をもたげている。お風呂を終えれお湯をぬいたあと、バスタブの脇によけておいた葉っぱから、新芽が続々とでていたのだ。茶色に乾いた葉っぱより多い。いつのまにか緑色の葉っぱに戻っていたのだ。

おいおい葉っぱ君、君は大根から切り離されて、お日さまに当てられてからっからに乾燥させられて「死んだ」はずじゃなかったんか?んまあ、それでも水につけられて水を吸収して少しは成長もするだろう。しかしその吸収するはずの根っこは君にはない。いや、そもそもその緑色の葉っぱをぐんぐんと太らせる力はどこにあるのだ?
やまんばは風呂に入りながら一人へらへらするのであった。

そもそも植物の「死」とはどこらへんにあるのだろう。葉っぱは根と切り離される。しおれる。時々雨が降る。また息を吹き返す。またしおれる。黄色くなる。茶色くなる。微生物や菌が付く。それを栄養としてキノコが生える。葉っぱのエネルギーはキノコに移行する。キノコがそのエネルギーを吸い尽くす。土に帰る。土の中にそのエネルギーは入る。そのエネルギーを植物の根っこが吸い上げる。。。。

問題。では大根の死はどこにあるのでしょう?

根っこ切り落とされた時?枯れた時?キノコが着た時?土に帰った時?
あ、やまんばに食われたときか。
いやいやそのやまんばに食われたときも腹の中でエネルギーに転換されていく。

死とは、その生き物が動かなくなるとか、息をしなくなるという事を前提にしているんではないだろうか。それはニンゲンが「見ていて動かなくなる」から「死」とよんでいるだけなんではないか?
ところが植物は基本見ていて動かない。だからどこらへんが落としどころかわからない。つまり「死」というものは、ニンゲンの解釈ともいえる。

だがその死も、山で動物が死ねば、ほかの動物や昆虫や微生物にそのエネルギーは転換されていくではないか。死はほかの生き物に生を与えるのだ。ずーっと命はつづいているのだ。
私らニンゲンが勝手に「これは生」「これは死」と名付けているだけなのじゃないか。

私らはこの地球上を知っていると思い込んでいる。大根が大きくなるのもそのシステムを知っていると思い込んでいる。本当にすべて知っているのなら、そのニンゲンの英知を結集した肥料と農薬ですべてが成り立つはずだ。だけれどもその肥料や農薬のおかげで自然が破壊されていく。すべて知っているのならその問題は解決されているはずなのだ。だが事態はもっと深刻になる。

私たちは何も知らないのだ。知っていると思い込んでいるから、あっちこっちから矛盾がでてくる。知っていると思い込んでいるから、自分たちでなんとかできると思っている。その結果原発や放射能を生み出した。こんどはその手に負えないものも自分たちでなんとかしようとしている。できるのだろうか。

風呂の中で風呂の水で大きく育った大根の葉っぱを眺めながら思う。
この世はわたしたちニンゲンが考えるよりも、とてつもなく大きなものが動いているんじゃないだろうか。私たちニンゲンの知らないところでいろんなモノがせっせせっせと浄化され、バランスを保つように動いているんだろうなと。

それは石けんなし生活をして、石けんというものがどんなにいらないものかを知ったし、自然農やたんじゅん農法で肥料が意味のないものともわかってきたからだ。その両者はともにニンゲンが「これがないといけない」と作り上げて来たもの。だが結果としてそれはニンゲンの身体をアンバランスにさせ、自然界にもアンバランスを生み出した。

今回の原発や放射能問題も私たちニンゲンに何かを教えようとしている。ニンゲンのおごりに対するやさしいメッセージなのではないか。
大根を動かしているこのエネルギーは何なんだろう。広島や長崎が今も人が住んでいるのはなぜなんだろう。そこでとれた野菜が食べられるのはなぜなんだろう。原爆が落とされた土地は何万年も住めないはずではなかったか。ニンゲンが研究によって導きだしてきたものは果たして真実だったんだろうか。

そのメッセージはたんじゅんに「じゃあ原発反対!」や「あぶないから放射能を除去!」と言った今の私たちニンゲンが考える目先の事ではなく、もっと底知れない何かが動いているのだという事を教えられているような気がしてならないのだ。

2011年12月11日日曜日

自然農とたんじゅん農法のちがい?

サラダ用の水菜がそろそろ元気がなくなって来た。11月頃はぐんぐん大きくなって間引きしながら楽しんだ。だけど12月に入ってからグンと寒くなったり、霜が降りたりするうちに、ちょっと黄色くなって成長が止まってきた。

しかし北の方の畝に植えた別の種の水菜は今どんどん大きくなっている。サラダ用の水菜は高さが20センチくらいだったが、野口種苗で買った固定種の京水菜は30〜40センチになってきて、まだこれから大株になろうとしている。緑色も濃い。
この二つの水菜の違いは、前者、自然農仕様。後者、たんじゅん農法仕様。サラダ用の方は近所で買った交配種。同じ種を入れて実験すりゃよかったなあと後悔する。

明らかに持久力がちがう。
上に生えている草を刈って、畝の上に乗っけただけだと、土の下にある微生物のエネルギーが使い果たされてしまうのだろうか。

今畑にある秋野菜、ほうれん草、コカブ、キャベツ、白菜、ノラボウ、ブロッコリー、ケール、大根、タアサイ、絹さや、スナップエンドウ、など、サラダ用の水菜以外、みんなたんじゅん農法っぽい方法でやってみた。

草を根元から刈る。ハミキリで10センチくらいにカットする。畝の上に載せる。剪定チップを載せる。さらさらっと米ぬかと油かすをうすく蒔く。で、さくさくと10センチ程すき込む。その上に、残りの草か、一センチくらい剪定チップを乗っける。(ときどき米ぬかと油かす入れるのを忘れている)というやりかただ。

するとどうだ。去年の今頃の畑とえらい違う様相を呈している。苗で買った白菜なんか、でっかく巻いたりっぱな白菜になってキムチ作っちゃった。なんだか畑っぽいだろー。(レベル低過ぎる?)

コカブと、ほうれん草とキャベツとノラボウが並んでいる。みんな緑色がちがう。コカブは黄緑色、ほうれん草は濃い深緑色、キャベツは青みの強いそして上に白い粉を吹いたような緑色、そしてノラボウは、黄緑色に少し青みを足して、赤みも入った複雑な色合い。同じ野菜なのに、こんなにも色が豊富でみんながそれぞれにちがう色をしているとは思わなかった。スーパーでは気がつかなかった野菜たちの色のオンパレードだ。

あのまま自然農でこの秋野菜を作っても、ある程度は出来たのかもしれない。それはサラダ用の水菜が教えてくれた。だけどその後の持久力、大きくなろうとする力は、やはり土の中に入った草たちの仕業じゃないだろうか。

これからも実験は続くのであった。

2011年12月5日月曜日

頭はテレビのブラウン管

私たちの監獄から抜け出すには、私たち自身が、自分自身から解放されなければいけない。
そのためには、自分が心の手かせ足かせでがんじがらめになっていることに気がつく必要がある。その手かせ足かせとは「過去」である。

私たちの頭はテレビのようだ。
過去自分の身に起ったこと、見たこと、聞いたこと、感じたこと、すべてをこのブラウン管の中に内蔵してある。その映像を時間の経過関係なく、支離滅裂にひたすら垂れ流し状態にしているのが、私たちの思考なのだ。その垂れ流し状態の映像を見続けているのも、また私たち自身なのだ。そしてそれぞれの映像を見るたび、そのときの感情を呼び起こす。「ああ、そうそう、あのときはああだった」「ああ、あれもそう、あんときはめっちゃ腹立ったなあ」
これ、何かに似ていないか?
牛の反芻。。。
言葉自動発令機は、そのまま過去自動映写機でもある。

私たちは目の前にいる人や風景をそのまま見ているのではなく、過去にあった出来事を通して見ている。奥さんを見る時、今目の前で喋っている奥さんをそのまま見ているのではなく、彼女が過去にあなたにしたことや言ったことを思い出している。そのフィルターを通して彼女を見ているのだ。

たとえば、
「ゴミ、出しといてね」と彼女が言ったとする。
すると心の中は、ああめんどくさいな、と瞬間反応する。
事実は、奥さんがゴミを出すように言った、それだけなのだ。だが心は過去にあったイヤなことを思い出している。「何それ!それじゃないでしょ!こっちのゴミ出してっていっといたのに!ったくもう、あんたって人はたよりないんだから!」
とかいわれたことをぷちっと思い出してしまうのだ。
だから面倒くさいなと思う。重い心で、重いゴミをずるずると出す。

そういうことが日常茶飯事につぎつぎとおこる。ぷちぷちとおこる。

反対に、過去に「あらっ。上手ね。さすがだわ。上手にゴミ出しできる人!」なんて言われていたら、その人は面倒くさいなとは思わず、嬉々としてゴミを出すはずだ。

だがどっちにしろ私たちは絶えず過去というものに縛られている。過去というフィルターを通して今を見ている。
私たちは今に生きているのではないのだ。過去に生きているのだ。それが手かせ足かせになって私たちを苦しめている。

2011年12月1日木曜日

否定する快感

心が落ち着いてくると、自分の行為が冷静に見られるようになる。するとそれまで気がつかなかったことや視点があらわれてくる。

だいたい人が怒るきっかけは、ほとんど同じところにある。
いつも似たような出来事に、似たように反応している。それに気がつく。
その時、意識はもう自分の外に出ている。
自分を外から見る事によって理解し始める、けんかした相手の視点、考え方、立場。

もっと引いて二人の様子を眺める。その時、批判的になっている自分がいないことに気がつくだろう。そこには感情というものが存在していないことに気がつくだろう。

この瞬間が何よりも大事なのだ!
ここ!ここ大事!テストにでるよ。(でないでない)

するとふしぎなことに、相手とか自分とかの境界線が曖昧になってくる。こっちの陣地、あっちの陣地、と今まではっきりと引かれていたラインが、ぼんや~りしてきて、どこまでがどこまでか、どうでもいいことになってくる。
ここまで来ると、いい、わるい。正しい、正しくない。善、悪。敵、味方。という線引きがなくなってくる。二元論が消えていく。


やまんばが、ひさしぶりに日本に帰って来たとき、日本の人々やテレビやものもろのシーンで、「敵」とか「味方」とか言っているのに気がついた。それまでいた、人種のサラダボールといわれたニューヨークでは、言葉も文化も違うから、必然的に人種が別れてしまうけれど、日本の同じ文化、同じ言葉が通じ合う中で、なんで敵とか味方とか言ってるんだろと笑ってしまったものだ。
しかし実際はそんな単純なものではなかった。
人々の心が不安定になって、自分と言うものがなによりもたちあがってしまったことのあらわれだったのだ。

ここで質問。

「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「うん、たべる」と応えるのと、
「○○ちゃん、これたべる?」って聞かれると、
「やだ。いらな~い」という。
さて、どっちが自分を強く意識するでしょう。

「お前のことが大好きだ」
というのと、
「お前のことが大嫌いだ」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。

「人類みな兄弟」というのと、
「戦争反対」
というのでは、どっちが自分を強く意識するでしょう。

いきなり変な質問で、なにがなんだかわからない?
でも、なんとなく否定的に言っている方が、自分の意識をたちあがらせる感じがしないだろうか。

否定的に考えている方が、自分というものを強く意識させる。これは自分に向けられる否定的なことでも、人に向けられる否定的なことでも同じ。
「オレってダメだ!」と思っている方が、「オレっていいヤツ」と思っているよりも自分を意識する。反抗期の時、親に向かってなんでも「いやだいやだ」といっていたのは、自我のめざめともいうが、別な言い方をすると、自分というものを強く意識させてくれる瞬間を知ったからだ。

あれ、快感なのだ。

それ、だめだ。
おまえはまちがっている。
これだから政治家はだめなんだ。
大人ってずるい。
あの人、ひどい人。
それって、ないんじゃないの?
信じらんな~い。

この言葉は、なんでも「うんうん、そうだね」っていうよりは、なんかいい気分にならないだろうか。ちょっとオレはほかの奴らと違うぞ、考えてるぞ、なんて。
昔いなかっただろうか。近所にうんちくたれるオヤジ。
「だいたいだなあ~、世の中は。。。」
そういってるオヤジはいい気分にひたっているように見えなかっただろうか。

それと同じで、こっちが味方であっちが敵、エイエイオー!ってやると、人は燃える。敵を持っている方が燃えるのだ。だから敵を作る。
でもよく観察すると、敵に依存している。
敵がいてくれないと困るのだ。だってそれがいないと、自分が立っている位置が分らなくなるではないか。生きる目標がなくなるではないか。ついでに自分がいる意味も見出せないではないか!
どっかのお国もそうだ。いつも敵を作らないといけないらしい。だから自ら敵を探しにいく。足りないと時々自分で作る(笑)。

これを『敵依存症』と呼ぶ。(呼ばない呼ばない)


問題意識、問題定義がなされている時、心は「オレは正しい」という大義名分の上に乗っかって、いきている実感が得られる。自分という存在を強く意識できる。その快感は延々と持続してくれることをのぞみ、これが言葉自動発令機のエネルギー源になる。

だが、反対に心が静かになった時、感情的でなくなっている時、わたしたちは、自分というものを強く意識しない。そのとき、やっかいな自分というモンスターはどこにもいない。そして相手と自分との境界線がなくなっていく。

これがジル・テイラー博士が言った右の脳の働きなのではないだろうか。

私たちは否定的にものを考えることによって自分を強く意識する。二元論を持ち出せば持ち出すほど、自分がたちあがる。それはある種の快感である。もっとそれをほしがる。だが不幸なことに、それに比例して、自分と他人というくっきりとした境界線が現れ、孤立の道へと導びかれるのだ。

孤立した心は自己保身が強くなる。外からの言葉に過剰に敵対心を持つ。それが「敵・味方」や「仲間」という言葉に現れてくるのではないだろうか。
さながら荒野に放り出された一匹狼のように。

2011年11月28日月曜日

自分という巨大なモンスター

何の非難もせず、ただ見て欲しい。
「これはいけないんだ」とか、「あいつの方がまちがっている」とか、「あの場合はこうするしかなかったんだ」とかの言い訳や攻撃をしばし横にどけておいて、静かに自分を見て欲しい。逃げたくなる思いをじっとこらえて、「私は逃げない。」といい聞かせながら、自分と対峙して欲しい。その時何かが起る。

お化けと一緒で、「こわいこわい」と後ろを向いている限り、恐怖は決して消えない。ますます巨大化する。しかし勇気を振り絞って自分を真正面から見ると、「なんだ、こんなもんか」とわかる。お化けも実際見るとこわくもなんともないのだそうだ。ダンナいわく。(え?それってホラー映画が成り立たねえじゃねえか!)

それがね、たいした自分じゃないのよ。笑っちゃうくらいちっこい。

現代の人はみんなそうなんだけど、心が不安定になっている人はとくに、自分が肥大化している。自分という意識が巨大になっている。精神的に不安定な人は、顔が無表情になる。まわりの状況に反応しないようにしている。反応したら自分の心が大きく揺さぶられるからだ。まわりを見ないように影響を受けないようにと気を配るのだ。自分を守るための手段なのだ。だが本当はほんの小さなことでも鋭敏に反応しているが、それに振り回されないようにしている。
高校時代、試験の当日、寝ないで覚えた英語の単語。頭を揺らさないようにした覚えのある人、手を挙げて。ほら、そんな人なら分る。ソロ〜っと歩く。頭ふっちゃったら寝ないで覚えた単語がぼろぼろ落ちてしまう!とやった覚えのある人なら分る。(意味が分からん)
自分という手に負えない恐怖のモンスターが後ろに控えていて、いつでも暴れる準備をして待っている。だからこうしてまわりに反応しないようにしている。

だが頭の中は巨大な嵐の中で一人翻弄されている。
イケテナイ自分、こうあるべき自分、理想の姿と自分とのギャップ。そしてそれを指摘した人への怒り、自分の正当化。
あのときはしかたなかったんだ、あいつこそそんなこと言えるほどえらいんかよ、だいたいおれのなにがわかる、許せねえ、絶対許せねえ!おれのことはおれがいちばんわかっている!。。。いや本当は何も分っちゃいないじゃないか。。。だからあんなこと平気でできたんだ。。。ああ、オレ、なんてバカだ。。。こんなオレ、どうしたらいいんだ。。。まわりに迷惑かけてばっかりだ。。こんなオレ、いなくなればいいんだ。。。

元々、彼の心の中には、「こうあるべき」という理想の姿がある。小さいときから二宮金次郎のように勤勉であれ、宮沢賢治のようにやさしくあれ、ガンジーのように非暴力であれ、と叩き込まれている。(別にほかの人物でもいいが)それと自分とを比べているだけなのだ。こうあるべきという条件づけされた心が、勝手に作動しているだけなのだ。このブログで何度も言ってるけど、そもそも自分でもない人のマネをしろ、ということがおかしい。なのに勝手にそれと比べて、それができない自分をなじる。おかしくねえか?
じゃあそれを指摘した上司を怒れというのか?と言っているのではない。上司も同じように「人としてこうあれ」と教えられて葛藤しているのだ。

人を見るのではない。外を見るのではない。今悩んでいる自分自身だけを見るのだ。この問題は人のせいではない。自分の中にある葛藤が起こさせている問題なのだ。だから自分だけを。自分の中にある葛藤を見る。静かな心で葛藤している自分をただ見る。

2011年11月27日日曜日

現代型うつ病?

「現代型うつ病」というものがあるらしい。

上司にちょっと注意をされただけで、会社に出て来られなくなり、病院でもうつ病と診断され、休職する。家でふさいでいるかと思いきや、仲間とカラオケいったり、旅行にいったりと活動的だそうだ。従来のうつと違うので、薬の処方箋もないのだそうだ。
精神科医に言わせると「彼らはうまくいかないのをすべて他人のせいにしたり外のせいにする」のだそうだ。

これは、わざわざ「現代型うつ」というお名前を付けていただかなくても、上司にいちゃもんつけられたら、誰だってバックレたいし、憂さ晴らしにカラオケにも行っちゃうわい。ようするにニンゲン誰しもそうやりたいことを正直にやっているのだとおもう。
これは「病気」なんかな?それに「病気」ってつける方が病気な気がするが。。

そんな彼らの特徴的なのは「すべて他人のせいにすること」らしい。ほんまかな。ほんとに全部人のせいって思っているんかな。やまんばは違うと思う。

きっと心の中では「やばい。オレ、マジイケテナイし」と思っているはず。もしそれが本人の意識にも登らないとすれば、その人の心は相当怖がっている。

わしらは小さいときから、ああしろ、こうしろといわれてきた。一所懸命になれ、必死になれ、人生を駆け上がれ、成功しろ、ぼーっとするな、何か動いていろ、と。
これ、すんごい洗脳なのだ。骨の髄までしみこんでいるのだ。わしらは常になにかしてないといけない、行動していないといけない、うまくやっていなくてはいけない、上手に人生を渡っていかないといけない、と本当に心底思ってしまっている。
ところが社長さんの椅子や部長さんの椅子は、そう多くない。みんなが座るわけにはいかない。すると脱落者の方が多くなる。なのに戦え、負けるな、それいけ、やれいけ、とうしろからつっつかれるのだ。

それが骨の髄までしみ込んでいると、ほとんど自動的に何かしていないといけないと脳みそは思うのだ。そしてうまくやれない自分を責める。あたりまえだ。うまくやれないといけないと思い込まされているからだ。だから上司に注意されるとうまくやれない自分を意識させられる。うまくやれなきゃいけないのにできない自分。。。
あせるわな。
空回りするわな。
ますますイケテナイ自分を意識するわな。
その自分を見るのはつらいわな。
なんとか逃げたいわな。
会社でられなくなるわな。
ほな憂さ晴らしと称して、自分を見ないでいられることをするわな。
ほりゃカラオケいくしかないやん。
これ、人間の心理としてふつーに作動してしまうことだ。

それを「病気」と名付けてしまうと、「ほら、お薬」となる。そうだろうか。何でも『病気=薬で治す』という法則を作ってしまっているが、これがかえって、「お薬、お薬」って薬に依存させることになって、結局せっかくの自分の心を見るチャンスも失ってしまう。

そもそも、なんで必死にならんといかんのか。(『必死』って必ず死ぬって書く)うまくやれないといけないとおもうのか。『戦略的ナントカ』なんていう言葉がふつうに言われている。なんで戦って、人を蹴落とさにゃいかんのか。それって人の道に外れると思うが。
「人として人にやさしくあれ」という大義名分と、「人を蹴落としてのし上がれ」という大義名分が、つまり正反対の価値観が私らの中に埋め込まれてしまって、完全にせめぎあっている。これ、自分の中で葛藤を起こさない方がおかしい。

自分を責めていることに気づいて欲しい。
今の価値観は葛藤を生む。そして矛盾をはらんでいることを「人生なんてそんなもんだ」とひとくくりにしないでくれ。それが故に自分を責めていることを当たり前のように思わないでおくれ。
その責めが自分を見させないようにしているのだ。自分自身を真正面から見ることを拒絶している原因なのだ。そしてそれは小さいときから植え付けられて来た「価値観」からきていて、それはあなたに針のように刺さって「針が入っているのが人生」と思わされているからなのだ。

2011年11月22日火曜日

自分を見るのってこえ〜

ところが、私はその「いらんことした私」を真正面から見ることができない。怖い。怖くて、自分自身がやったことを見られない。
だから心は怒るばかり。
「いかんやろ!」
すると小さな子供のままの私は
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。もうしません」というばかりだった。

なんでやねん。

悪いことしたんやろ。それはいかんと思たんやろ。そしたら、どこが悪いんかちゃんと見てみないかんやろ。

理屈は分っている。反省したなら、なんでどこがどのようにまちがっていたかを見ればいいだけだ。見ろ。
ところが理屈は分っていても、自分が「やってしまったこと」を何の臆することもなく、見ることができない。

そりゃ、他人のことは冷静に見たり、観察できたりする。(特にダンナには言える(笑)
「あんた、ここ。ここがいいところ。ほんで、ここ、なおさないかんところ」
ところが、こと、自分のことを冷静に分析してみって言われたら、案外できない。

「え~。あたしい?うーんとね。だらしないやろ。あほやろ。仕事できんやろ。ぶっさいくやろ。のろまやろ。ほんでえ。。」と、悪いところばかりが見える。
ためしにやってみよう。となりの部下、上司、ダンナ、自分の子供、近所のおばちゃん。彼らの性格を冷静に、いいところ、わるいところを言ってみよう。
言えるやろ?

んじゃ、こんどは自分。
自分のこと、彼らを観察するように冷静に自分のいいところ悪いところが同じように言える?



なぜ冷静に観察できないかというと、心に感情的なフィルターがかかるからだ。他人については、感情的なフィルターははずすことができるようだ。なぜなら人ごとだから(笑)。だがこと「自分」という重~い存在には、あらゆる感情的フィルターが挟まっている。引けない、とでもいおうか。

何かを注意されて反省する。
その時自分を怒ったりすることはできるが、自分のした行為を冷静に真正面から見られないのは、「いけないことをしてしまった=批判」という感情的な動揺を挟み込みながら自分を見るから、冷静になれないのだ。
観察とは何の感情も交えず「見る」という行為のことだ。そのためには、まず自分が自分に対して批判をしていることに気がつくことだ。
この批判の感情(批判という言葉に、すでに感情が入っていることに気づいて欲しい)があるかぎり、自分自身を冷静に見られない。ということは怒られたことを真正面から見てどこが悪かったのか冷静に判断できないのだ。だからいつまでたっても同じ感情の繰り返しになる。

まったく批判の感情を抜きにして自分を見ると、他人のように観察できる。「つくしさん」という他人がした行為。それを外から見ると、
「ああ、ここ、気がつかなかったねえ。それはあのとき、心がバタバタして落ち着きがなかったからだ。ああ、そうだ。なぜ落ち着きがなかったかと言うと、自分がやったことを否定されたと思っていたんだ。あの言葉は別に否定ではなく、純粋にそこいけないんだよ、とあの人は教えてくれていただけだったんだ。ああ、そうか。そこだったんだな。じゃ、こんどはそこ気をつけよう」
というふうに。

すると、自分自身を見ることがコワくなくなってくる。

2011年11月19日土曜日

自己嫌悪から自己憐憫へ

夏の間活躍してくれたオクラの木(木みたいになっている)を根っこから切り落とし、畝の間に寝かせた。ここで自然に枯れて土の栄養になってくれるはずだった。あれから二週間。ふと目をやると、畝間に花が。。。
げ。
根元から切り落としたはずのオクラが、畝間に寝たまま、花を咲かせている。よく見ると、そのそばにクキっと首を90度もたげたオクラの実がついているではないか!
え~、いつまで生きてるんだよ~。根っこもないのに。
けなげに実と花をつけているオクラくんに悪くって、しばらくそこを歩けないやまんばであった。
実はもう一個オクラを切り倒さずにほってある畝がある。このまま来年までほっといてみるか。

さて畑と言えば、ある思い出がある。あのシーンで私は自分自身に気づかされた。その役を買って出てくれた友だちにほんとうに感謝する。(無意識にだが)


畑で友だちと二人で草刈りをしていた。
私は彼女に「そこ、草の中にソバが植えてあるから草刈らないでね」とたのんだ。
「うん、わかった」と彼女。
しかし私が他の作業しているあいだに、草と一緒にちょうど実がなったばかりのソバも全部刈ってしまった。
「え~っ、そこソバがあるって言ったじゃない!」
と声を荒げてしまった。
「ごめんなさ~い!」
ちょっとショックだったけど、まあしょうがない。
ところがそれから彼女の行動がおかしくなって来た。もうろうとして心ここにあらずになってしまった。涙目で作業をする手が宙を描いていた。
ありゃ、悪いことしちゃったなあと思った私は
「ごめんね。ちょっと言い過ぎたね。気にしないで。また生えてくるから。ほら、ほかの場所にもあるから」
とフォローを入れた。しかし彼女のその様子はしばらく変わることはなかった。

その時、私ははっとした。
これは私の姿だ!
彼女は今、「私は悪いことした」というおもいでいっぱいになっている。心の中は反省でいっぱいになっている。
「ああ、わたしっていっつもこうなのよ。。そういえばあのときもこうだったし、そのずっと前もそうだった。。。ああ、私って何も変わらない。人に迷惑かけてばかり。。あああ。。。。」という顔をしていた。
彼女はまわりのこともバランスもよく考えて、よく人に気を使ういい子だ。気を使うから反省もいっぱいするのだろう。うんうん、これからは草を刈るとき、よく気をつけておくれ。
。。。き、気をつけてくれるだけでいいんだが。。。
な、なんかようすがおかしい。。。


彼女は自分の反省の渦の中に入っていた。
心は今と同じように前に人に怒られたことを思い出している。
「ああ、わたしって。。。ばか。。。」
そしてそれがいつのまにかそのときの惨めな自分、可哀想な自分へと移っていく。あの時お父様からしかられて雨の中をさまよった可哀想な私、あの時先生から怒られて廊下に立たされた可哀想な私。。。などだろうか。ソバを刈った自分自身の姿を直視するのではなく、自己憐憫に変わっている彼女の姿を見た。


これなのだ。私は彼女と同じことをしている。いくら自分の中に監視人をつけても、ただ監視しているだけで満足してしまっていたのだ。彼女もまた、反省するだけで満足してしまっていた。そしてそこから先は、惨めな自分への愛着。わたしもまたびしびしとムチ打つ監視人とムチ打たれる自分に満足していただけなのだ。そして同じように、小さい時、はだしで家の外に出されたときの、あの惨めさを味わっていたのだ。

ほんとうは、ムチ打った後、どこが悪かったのか自分自身をよく見つめなくてはいけない。やったことを直視していないから、いつまでたっても「いらんことする私」でしかなかった。

つづく。

2011年11月18日金曜日

監視人作動!

私は厳しい父と母に育てられた。
いや、昔はそれがあたりまえで、それほどでもなかったのかもしれない。しかし幼い私にはただひたすら厳しく見えた。父と母の意見は絶対的で、巌のように私の前に立ちはだかる二つの巨大な存在だった。
私は一人っ子だった。これがほかに兄弟でもいたなら、「とーちゃんてさあ。。」とか「かーちゃんてさあ。。」などと、お互い親の悪口やグチを言い合えて、つらいことなどを発散できたかもしれない。その視点は、親を一人のニンゲンとして引いてみられる瞬間であったかもしれない。
しかし家に子供は私一人で、親の愚痴をいうということも、親からもらう厳しいしつけも、引いてみることはできなかった。こういう状況におかれた私には、ある一つの法則が出来上がる。
『怒られる=私が悪いことをした』

何の気なしにやったことをいきなり怒られる。
「こりゃあ~っ、なにしよらあやあ~!」
本人は何がなんだか理由が分からない。
直後、巨大なにぎりこぶしが私に降り掛かってくる。はだしで家の外に出される。
理由は、下駄をそろえなかったり、新聞踏んだり、ご飯残したりしたことのようだった。

こういうことがいつもおこると、だんだん心の中で、「私は気づかないうちに悪いことをしてしまうニンゲンなのだ」とインプットする。だからいつも「何か悪いことをしているんじゃないか?何かとんでもない失敗をしているんじゃないか?」とびくびくした。

大人になって親元を離れると、その思いは一つの親代わりを作り上げた。
「私はいつも気がつかずに悪いことをしてしまうニンゲンなのだから、怒られないように、そして世間に迷惑かけないように、とーちゃんやかーちゃんの代わりになる存在を作っておこう。」

「あんたなんか今、悪いことしてないかね」
と、その監視人はいう。
すると私は一瞬まわりを見渡して、
「うん。今のところやってない。大丈夫」
と確認して安心するのだ。

その存在を知ったのはほんの2年前だった。最初、私は二重人格者なのだろうかと心配した。しかしそのひとり言のような言葉にいちいち気がつくうちに、その言葉はやがて消えていった。しかしその下にそれを作り上げた心の習慣が、さながら大陸の下に眠っている岩盤のように横たわっていたのだ。

それが自己嫌悪という心のパターンであった。
こいつはありとあらゆるところにひそんでいた。朝起きた瞬間からそれは動き出した。「いかん。はようおきんといかん」「ちゃんとせんといかん」「怒られんようにせんといかん」「がんばらなあいかん」「仕事せんといかん」「まじめにせんといかん」「人に迷惑かけたらいかん」「人にいらんことゆうたらいかん(のわりには、よくいらんこと言うが)」

こういう言葉にならない瞬時の思いが、あらゆる場面で繰り返し行なわれていたのだ。
これは小さい時の「知らないうちにいらんことする私」という思い込みのためだ。完璧に無意識で一瞬のうちに判断する。「何か間違ったことしてないか?」
ここまで完璧に自分の行動をちくいちチェック入れているものならば、さぞかしスンバラシー人格が出来上がるはずだ。
しかし。
どこにいるのだ?そんなスンバラシー人格者は?

「はようおきんといかん!」というわりには、起きるの遅いし、「怒られんようにせんといかん」というわりには、わざわざ怒られるようなことをするし、「がんばらなあいかん」というわりには、ものすごく怠惰だ。
これはいったいなぜだ?あの24時間態勢で自分に常にチェックを入れ、完璧なまでに自分を批判する私。それがちっとも効いてないではないか!


まだつづくぜよ。

2011年11月16日水曜日

言葉自動発令機

心はいつも何かにすがっている。

静かなところにじっと座って自分の心を観察してみるとおもしろい。目の前にあるものを見て、「あら、緑がきれい」というかもしれないし、「あ、洗濯物取り込まないと」と思うかもしれないし、「げ、ぼーっとしていると部長にさぼっていると思われる」と思うかもしれない。そしてほとんどそれをきっかけに自動的にその先に展開していく。またはその目の前のものに飽きて、自分がマイブームしている心配事に移っていく。

そう、ほとんど止まらないで思考している自分に気がつくのだ。それは朝起きた瞬間から作動し始める。よく観察して欲しい。その朝から自動的に喋り始める心の中の言葉に、パターンはないか?同じ言葉を喋っていなくてもいい。そのいくつかの言葉ににたようなニュアンスが含まれていないか?

それはたいてい否定的な言葉じゃないか?
「ああ、いいお天気!しあわせ!」
というパターンで毎日起きて来る人は本当に幸せな人だ。
しかしどっちかっちゅーと、
「ああ、はやく起きないと。。。身体がだるい。。。ああ、しんどい。。」とか
「やばい。おくれる!」とかの人が多いような気がするが。。。?

電車に乗っても言葉は続いていく。ぶつぶつぶつ。。。あの満員電車の中で、ひとりひとりの心の中が爆走している。そこに人の心の言葉が聞こえる人がいたら、卒倒するだろう。

私たちの心の中は言葉自動発令機なのだ。
それは小さいときから「考えろ」と言われて来たからなのか、「努力しろ」と言われて来たからなのか、「一所懸命生きないといけない」と思っているからなのか、とにかく、私たちは、何か考えないといけない、そうするとうまい考えがでてくる。「ぼーっ」としているとろくな事にならない、と信じて疑わないようなのだ。だから考える。

ところが、私たちはそうそう毎日はまったく新しい事柄を考えだせない。自販機にはそうそう新しいドリンクは入っていない。お決まりのドリンク類の中で、お決まりの好みで、
「う〜ん。やっぱりBOSSにしよ」とかいって、選択するのだ。

それと同じように(どこが同じなのだ?)、考えも自動的に新しいものは浮かばない。自動的に発令するものは、同じ事柄だ。ためしに意識的に新しいことを考えようとしてみる。たいていどこかで自分が聞いたような言葉しか浮かばない。
ということは、自分の常日頃考えていることは、自分流のパターンをもっているのだ。
そのパターンの中で、以前と似たような状況にあるとき、前と同じ反応をし、同じ感情を呼び起こし、同じようにそれについて思考する。(思いっきりパターン化しているじゃねえか!)

私の場合はこうだ。
自分が何かとんでもない失敗をしでかしているんじゃないか?という思いで、常に自分の失敗を探しているのだ。(なんじゃそりゃ。)
だからいつも自分を見張っている。
「こいつ、ほっといたらろくなことしねえ。あたしがちゃんとみはってやる」
という存在を作って、24時間態勢で監視していたのだ。

これは私の小さい時にその起源をさかのぼる(大仰ないいまわしだな)。

つづく。(まだ続くんかい!)

2011年11月14日月曜日

左の脳

私たちは、小さいときから「何かしなければいけない」と教わって来た。ぼーっとするな、考えろ、と。だが、ぼーっとするのは、子供の特権だ。あのぼーっとしている時間が、大きなカギを握っている。私も授業中よく怒られた。「ぼーっとするな!」

しかしそのボーッの中では、すごいことが展開している。あらゆるものの中に浸透していく貴重な瞬間なのだ。いわば、あなたと私という区別も、木と自分という区別も犬と私という区別も曖昧で、なんとも言えない幸福感に満ちたあの時間。。。それが、はたからみていると、ぼーっとしているようにみえるのだ。

脳科学者ジルテイラー博士が、脳梗塞によって左の脳が全く機能しなくなり、右脳だけで味わった感覚を話している。彼女は左の脳と右の脳の機能の違いをはっきりと自覚したようだ。右脳は、言葉というものをなくし、自分と世界との区別が全くなくなり、自然の世界が手に取るように身近に感じ、前向きで平和で、穏やかで、ものすごい静けさの中にある、いわば涅槃のような境地になったと。ところが、左の脳が機能し始めた途端、言葉がやって来て、自分というものがほかのものとはっきりと分断されてしまい、ぐるぐるとうるさい思考が動きだし、その思考のほとんどが否定的であったと。そしてその否定的な思考は強烈な痛みを伴う。。。と。

まさに「ぼーっとする」ことは、右脳を使っている状態じゃないだろうか。いや、左の脳が停止している状態。。。といおうか。
だが今の私たちの心は「あれしなければいけない、こうしなければいけない、あれじゃだめ、これもだめ」言葉、言葉、言葉。。
私たち現代人の頭の中は、言葉で埋め尽くされている。左の脳ばかりでものを考えるようになってしまった。あの、自他一体となるような感覚、穏やかで静寂の中にある右の脳は今、ほとんど使われていない。

その静寂。。その静寂の中に牢獄から脱出する答えがある。瞑想とはそれを伝える手段だった。ところが、思考は考えないようにしようとすればするほど、ますます考え始める。止めようとすればするほど止まらない。煩悩を止めようとすればするほど大きくなるのだ。

「考えるな、感じろ」という。
「考えるな、考えるな」と唱えろという。
しかしこれでは考えることを止めようとしたり、「考えるな」とただ呪文のように唱えるだけで、心がそれにすがりついているだけのことになる。これでは、自動的に考えてしまうことと同じである。

そうではないのだ。その考えていることじたいにメスを入れる。自分がいったい何を考えているのかをさぐる。自分が何に反応しているのか、それによってどうゆう感情が引き起こされているのかを知る。それが思考の自動発令、止めどもなく続いていく思考を静寂の世界に連れて行くのだ。

つづく。

2011年11月10日木曜日

希望の木




どこから書いていいのかわからない。
大きな誤解をされるだろうこともわかっている。だから怖くて書けないのかもしれない。「これはこういうものだ」と思われていることを、「ひょっとしたら、ちがうかもしんない」と言うのは恐ろしいことだ。特に小さい頃いじめられっこだったものにとっては、血が凍るぐらいこわい。みんなが私に向かって浴びせた、あの凍りつくような視線。自分だけが置き去りにさせるような恐怖。あの恐怖は、50のおばさんになってもいまだに残っている。それが今の私を作った。

今ハヤリの言葉で言うなら、これから書くことを気に入らない人は、スルーしてくださいヨ。

心の動きというものが、いかに人に影響を与えて来たかということを、深く掘り下げて来たことはないとおもう。心と言えば、道徳観や善や悪に対する考え方、これはいけないことこれはいいことという、いわばおもうということに関する「ルール」のようなものは教わって来た。しかしその教えられて来たルールが心の動きの基準になって、その後のその人の人生に大きく影響を与えている、心のからくりについて教えられて来た記憶は私にはない。

しかし自分の心の動きを調べるうちに、これはとんでもない誤解をしているんではないかと思い始めた。私たちは、心の動きに自動的に振り回されている、心の囚人だ。それは自分で作り上げた心のパターンを受け入れたまま、出会う出来事に瞬時に同じ反応をし、同じ行動をし、同じような結果を導きだす。そしてその同じような反応のまま、その人の人生はその人なりの姿カタチになり、終わっていくのだ。

人はその人独自の心のパターンを自分で作り上げる。バックボーンが凄まじい影響力を持つ。親からもらった言葉かもしれない。悲しい出来事を経験したからかもしれない。ありとあらゆる経験を経て、「これはこうしなければいけないのだ」という自分の基準を設ける。ではこれはこうしなければいけないのだと思う意図は何か。それはこの社会で生きていくためのその人なりのわざを見つけたのだ。
「オレは今までこれでやって来たのだ。間違いはない」という人もいれば、「オレは何をやってもだめなんだ」という人もいる。

私たちは自分の基準の中で生きている。つまり、私たちは自分で自分の世界を形成しているのだ。目の前に展開している世界は、自分というフィルターを通して見ている。そこにはあらゆる感情を揺り動かすものが広がっている。それに反応して行動する人もいれば、何もせず立ち去っていく人もいる。立ち去っていくことも行動だ。私たちはすべてのものにつねに反応している。その反応はパターンをもっている。自動的に同じ反応をするパターンだ。

パターンを生きることは楽だし、安心だ。安心?そう、自分にとっての安心。だから同じ反応をし続ける。あのシーンでは怒るし、このシーンでは泣く。ずーっとそれをやっているといいのだ。だから安心。

しかしそれは相当なエネルギーを消耗している。
「え?なに?パターン化すると楽なんじゃないの?会社に通う満員電車だってパターン化すればつらくなくなるし。」
「ほんと?つらくないの?それはそう思い込もうとしているだけなんじゃないの?」

パターン化すると楽。
これも実は思い込みかもしれない。本当は心の奥深くに自分の感情を押し込めているだけなんじゃないか。毎日感情的になっているのがつらいから、ずーっと沼の奥深くに静めているだけ。。。それを無感覚ともいう。

しかしほんとは奥の方で「この満員電車はいやなんだ」と言っている。だけどもう一方の心が「そんなこと言ったって、やめられるわけないじゃないか。家のローンがあるんだ」という自分がいる。
こうしたくない。
いや、それはできない。
だからこうしたくないおもいを封じ込めなくてはいけない。。。

葛藤がある。私たちには心の中につねに葛藤を呼び起こしている。相反する反応を抱えて、摩擦が起っている。これをエネルギーの消耗と言うんじゃないだろうか。

「それが人生というものさ」
と、訳知り顔の人はいう。
おもいの中で矛盾に苦しみ、エネルギーを消耗させ続けること、それが人生。そのパターンで生きていくことが価値と思う方は、ここから先は読まないでください。



私たちは監獄の中にいる囚人だ。
それはこの社会が作ったものではなく、自分の心が作った監獄だ。パターンという牢獄だ。まさか自分の考えやおもいや反応がパターンをもっているとは、あまり意識はしないだろう。みんなそんなふうに反応するものだ、とおもっている。だがもしみんな同じような反応をするのだとしたら、この世に「なんであんなことするかなあ~」と思ってしまう人はいないはずだ。だがいる。確実にみんな独自のパターンをもっている。
ではその牢獄から脱出するにはどうすればいいのか。
 
つづく。。。



写真:『希望の木』新井満  表紙および本文中の写真/海沼武史

2011年11月2日水曜日

秋の畑




秋に入った畑の様子。
うちで種取りした源助大根三世、ほとんど雑草化。あっちゃこっちゃの畝間の道、かったい地面にもかかわらず、どんどんでかくなる(蒔いた記憶なし)。
フェンスの向こう側の単なる山の原っぱ。イノちゃんに耕耘されて平になったところにばんばん出て来る。
ぐほほ。来年も種とって、お墓のまわりにも種蒔いちまおうか(ウチの大根、墓場で育ちました、とかいうのか?)。ついでに山の斜面にも蒔いちまおうか。ついでにとなりの使われていない畑にも知らん顔して蒔いちまおうか(こらー)。

メヒシバを刈って、畝にすき込んだところと、疲れ果ててそのまま自然農(つまり草刈って、そのまま畝の上に置いただけ)で、蒔いた三浦大根の種。その差がどんどん大きくなる。草をすき込んだ方(たんじゅん農法の畝)の方が、がぜん成長が早い。同じ方法でやった源助大根三世も、いつの間にか上の葉だけでなく大根も大きく育っている。いつもより成長が早い気がする。
その大根の足もとに、タアサイの苗を見つける。今年蒔いた覚えはない。去年蒔いた時の、芽がでなかった種からなのだろう。今年蒔いたタアサイの苗より大きいじゃないか。つまりいいタイミングで、芽が勝手にでてくれたって事か。なんだ。やまんばが蒔くより自然に任せた方がいいってことかい。

高知の友だちからもらった落花生の種。
途中までは草刈りして順調だったが、夏、草の勢いに負けた。ちょっとよそ見しているあいだに、あっという間に雑草に被われてしまった。草の下の方にはオレンジ色の花が。。。ああ、もう草動かせない。。なのでそのまま放置する。ごめーん。メヒシバに被われたまま枯れるに任せた。
先日引っこ抜いてみる。なさけなーい数の落花生がぽちょぽちょとついている。プチプチちぎっていると、すでに芽がで始めている落花生を発見!あのかったいかったい殻を破って二世が誕生しようとしていた。すごい。自然はどんなに力強いんや。

キャベツの畝からにょきっと出て来るジャガイモの芽、タマネギの畝から顔を出す壬生菜、ほうれん草の畝から信州高菜の紫色の苗、小松菜の足下に出て来る白菜、三浦大根の畝からででるサツマイモの芽。。。みんな植えた覚えがない。み~んな一年前にまいた種などだ。(記憶にないのもあるけど)



答えはそこにある。
たんじゅん農法は自然農と違って科学的な説明をする。だからなおさら頭でっかちになりやすい。剪定チップは発酵させた方がいいか、させないでいれた方がいいか、それはどのくらい入れるのか、どのくらいの厚さを上に置くのか、炭素素材はどれがいいのか、などなど。だけど主役になる微生物は、とてつもない種類があり、今の生物学ではまだ研究の対象にもなっていない状態だ。だから誰もその土の中身を知りようがないのだ。多分これからも人間には知りきれないだろう。それくらいものすごい種類の生き物がいる。私たちは未知の領域で生きているのだ。知っているつもりで、誰も知らないのだ。

だからこそ、自分の畑は自分で見なくてはいけない。畑はその人がそのまま現れている。林さんも言った。「畑を見ればその人がわかる」
これは自分自身を見る事とまるで同じ事だ。畑を見る行為は、すなわち自分自身を見る事と同じ事なのだ。
「これはどうなの?どうすればいいの?」
と、外の人に聞いても、その外の人は自分の畑を基準にしてものを言う。聞いた人には、それはヒントにはなるけれど、答えにはならない。
自分自身の事だって、
「わたしはどうなの?どうすればいい?」
と聞くと、他人は自分自身を基準にして言うから、聞いた人の答えにはならない。二宮金次郎さんの行いは、彼にしかできない。他人をまねる事は、必然的にそこに葛藤を生み出す。
同じ畑や同じ性質の人間を捜して答えをもらって来ようとしても外に答えはない。
答えはここにある。自分の畑の中にある。自分のその心の中にある。



絵:「恋するオスが進化する」メディアファクトリー新書でたよ〜。おもしろいです。

2011年10月28日金曜日

敵なの?




なんだかね、やまんばは考えちゃうのだ。
3.11があって以降、世の中がぎくしゃくしている感じがするのだ。

それはとてつもないことがいっぺんに起ったからなんだろう。だってこれは、私たちが立っている足下はいつでも揺れて安定しないってことを身をもって知らされたし、文明の頂点みたいな原子力も、あんなにもろいもんだと言う事、ほんでもって、とーってもリスキーなものだという事がバレちゃった。ついでに金融もくずれはじめている。

これは自然にも文明にも頼れないという事を、ドドーンといっぺんに教えてくれちゃったのだ。んで、人々は心が落ち着かないので、「安心、安全」って呪文のように唱えている。不安で不安でたまらないから、ガイガーでいろんなところ測って安心を得ようとする。
するとあっちこっちでホットスポットが見つかっちゃって、しかも福島原発が原因でないものまで発見される。
「え~~~っ、それってどーなの?」
と、不安解消するために測ったのに、安心するどころかますます不安になる。不安の心の置き所をどこへやっていいのかわからないので、東電という敵を作る。敵を作れば、「あいつがわるい!」ということで、心のよりどころができる。やまんばがNYにいた時、911の時のみんなの心理もそうだった。アルカイダがわるい!とみんなで合唱する事で不安な気持ちを他に向ける事ができた。あいつさえ殺せば、不安は解消されるんだと。

だが実際はどうだ?
不安を解消するために他の国に乗り出し、大勢の人々を殺し、フセインを殺し、オサマを殺し、それでテロは解消した?いまだに次の敵を探している。

放射能は敵?原発は敵?東電は敵?

やまんばは、誰も敵でもなければ味方でもないと思う。
「誰かさんがわるい」と、名指しすると、それによって自分の立ち位置が安定する。みんな安定したいから誰かを標的にするだけなのだ。寄らば大樹の陰。敵作りも同じ。本当は誰でもいいのだ。敵にすがって自分を支えているのだ。
原発のデモにでるのも、ガイガーもって測るのも、みんなそれにすがっているだけだ。なにかしてないといけないというおもいにふりまわされているだけだ。


だけど、すごいことが起きたのだ。
今回の事は、自然にも文明にも頼れないもんなんだよ、というメッセージなのではないだろうか。足下はいつでももろく崩れるし、大事にすがっていた文明も危うい地盤の上に立っている。その危うさを肌身で感じている今だからこそ、翻弄される自分をいやでも見せられる。という事は、それを見ろと言われているんじゃないだろうか。

このまま原発反対も放射能除去もやりつづけても、解決はほんの少ししかないに違いない。大きな労力を使っても、果たせるものはほんのわずかだろう。だが人々はそれでもいいと言うだろう。

だけどその間に大事なものを見失う。
私たちが目を向けるところは、敵を作るその心にあるのだ。誰かのせいにする、その心なのだ。ダンナがわるい、子供の学校の先生がわるい、政府がわるい。。。そういい続けていたら、どこかの国がわるいとなって、やがて戦争になる。みんな出所は一緒なのだ。陰謀論もおなじだ。わるい事はトカゲ人間がやったって事にしといて、自分はわるくないとたかをくくる。

そうかとおもうと、今度は宇宙人がやって来て私たちを救ってくれるとか、地球の波動が変わって人類がアセンションするとかいう。これだって、昔で言えば、みんなが救われる大乗仏教のようなもんだ。そして修行を積んでアセンションする現代版小乗仏教もある。

そんなもんで救われるなら、こんなに心が苦しむ意味はなんだ?宗教がいつまでたっても人類を救わないのはなぜだ?むしろ戦争を引き起こすのはなぜだ?

私たちはすべての事を自分の外の物にたよる。外ものと比較して、あっちがいいとか、こっちがいいとかいう。あっちもこっちもないのだ。あっちがだめならこっち、でもないのだ。

問題は自分の心に抱えた習慣なのだ。その教えられた習慣であれがいいこれがわるいと言っているのだ。その習慣に気づくべきだ。私らはそんなに小さな存在ではない。何万年もこの地球上に生きていたのだ。今のこの文明が押し付けて来る価値観にとらわれてはいけない。この文明の価値観は人を小さくする。だけど、その文明によって私たちは洗脳されて来た。その洗脳を一つづつ外していくことでしか、私らは今の状態を切り抜けていけない。原発がだめなら火力発電、それがだめならフリーエネルギー、そんなことではないのだ。外にその解決法はないのだ。

見なきゃいけないのは、今私たちがもっている個人的な心だ。
野心、憎悪、嫉妬、怒り、悲しみ、自己嫌悪、自己憐憫、ありとあらゆるものをもっている自分自身をありのままに見る事だ。何の非難もなく、正当化もせず、完全に観察することは、自分自身の構造そのものを変容させる。たったそれだけの事が私たちは誰もできていない。自分の憎しみはどこかに置いておいて、人が憎しむ事を怒る。外、外、外、だ。
アセンションで悟る?そんな楽な話はない。外に自分を悟らせてもらうのかい?

自分自身を見る。自分自身を知る事によって変容が始まる。それが途方もなく重要な事なのだ。私たちはずっとそれを避けて来た。
「あとでいいや」と。

こんな時代に入ったのだ。きっといちばん大事な時間をもらっているんじゃないかとやまんばは思ったのだ。天変地異が起ってしまってからでは、そんな悠長な事考えてられなくなるだろう。今、まだこうやってコンピューターも作動して、電気もあって、ガスもある。いまだからこそ、心を静かに自分を見つめる事ができるのではないだろうか。

ネットで、敵だ味方だと言いあっているのをみるのにうんざりしたやまんばだった。



絵:二宮和也

2011年10月18日火曜日

林さんご登場!




おとついたんじゅん農法の林さんが、お忙しい中やまんばの畑に来てくれた。
ああ、なんておそれおおい!

このやまんばのへんてこりんな畑を
「ここの土はやせていてちっとも栄養がないが、ヨゴレもない」
と、ほめて(?)くれた。
これはいわば、借金もないが貯金もない、というその日暮らしのビンボー人のような畑だそうな。なんだ、やまんばの財布の中身とそっくりじゃねえか。

おもむろに支柱の棒をあっちこっちの地面につっこんだ。
「うん、50センチから、1メートル入る。まあまあいいんじゃないか」
つまり、野菜の根はそのぐらいの深さまで入っていけるということなのだそうだ。これから炭素の高いもの、雑草、イネ科の植物、剪定チップ、落ち葉、そこらの糸状菌がついた木の枝、なんと竹(!)までも、どんどん畑に突っ込め。そーすりゃあ、地面は3メートルまでほこほこになる。んーだば、チョーでっかい野菜がうはうはとれるんだと。なんだかおとぎ話みたいな話だが、今うちの野菜はちっこいちっこいありんこのフケぐらいのちっこい野菜しか育たないが、
「あとは、野菜は大きくなるだけだ」
とお墨付きをもらったどー!

一時間ほど畑でお話を聞き、その後うちに戻って講義を聞く。今回の参加者さんはなんと14人もいた。はじめてお会いした林さん。その世話人の城さんご夫婦、そして全く見知らぬ人々がうちに集まった。いやびっくり。なにがなんだかわけわからぬ。みんな熱心に林さんのお話を聞いた。

3ヶ月にも及ぶ日本中を回るご講義巡礼の旅もおとついが最終日だったようだが、疲れた様子も見せず、淡々とお話しされた。自己管理のゆきとどいたお方のようだった。何か使命のようなものを感じておられるのだろう。彼の言葉はとどまる事を知らなかった。あっという間に時間が経ち、3時半にお帰りになられた。

野菜は肥料で育つ。という私たちが当たり前に信じていた視点ではなく、全く違う視点から野菜や植物や虫をとらえた林さんの視点は、今のわしらの文明のありかたに大きな疑問を投げかけた。
「野菜にエサを与えて育てるんじゃない。土にエサをやるんだ」
「窒素は人間が作れるものじゃない。微生物に作ってもらうのだ」
一体何を言ってるのだ?とおもう。

林さんは「これはとっても単純な農法なのだから、たんじゅん農法。(ホントは炭素循環農法の略だが)むずかしいことはなんにもない」といってのける。
だけどわしらにはチンプンカンプン。それはたぶん、当たり前だと思っていた視点とまるで違う視点から見た理論だからだ。

わしらはイメージでモノを見る。そのイメージができるのは、過去にどこかで見聞きしたものと照らし合わせて見るからだ。
ところが林さんの視点は、わしらは今までもった事のない視点。つまりそれについて何もイメージができないのだ。だからむずかしい。
多分この世で常識とされている事のすべてのはじまりは、きっとこんなふうに誰もイメージできなくて戸惑った経緯があるに違いない。
「太陽が地球の周りを回っているんではない。地球が太陽の周りを回っているんだ」と言った誰かのように。

林さんは畑を見ればその人が分ると言っていた。頭が固い人の畑は固い。頭の柔らかい人の畑は柔らかい。この農法をいち早く理解できるのは、家庭菜園の人だと。むしろプロの方が理解できない。そしてもっと固いのは、自然農をやっている人々だとも。「あの人たちがいちばん頭が固い」そーだ。でへへ。わしだす。
「けど、今日の畑は柔らかい。あなたの頭は柔らかいな」といわれた。
げげー、ちょーはずかしい。

たんじゅん農法は、新しい農法ではないという。その昔マヤやインカやアステカでおこなわれていた農法だったという事が最近の発掘調査で分って来たのだと言う。そんなやまんばの心をくすぐるような事を言わんで欲しい。

山に近づける畑。いつのまにか福岡正信さんが言っていた理論とおなじところにある。林さんはそれを科学的に理論立てた方だった。

次の日畑に立つ。山と地続きになっているこの畑に、未来の姿をかいま見た。

林さん、城さん、そして参加されたみなさま、ありがとうございました。

その様子はたんじゅん農法の広場に掲載されていました。ありがとうございます。
http://tanjunnou.blog65.fc2.com/blog-entry-302.html



絵:今日の絵は、いつもコメントくれるぱぱさんのお子さんに影響されて作ったGANTZスーツの二宮和也の似顔絵だす。ビデオを見せられるたび、彼の魅力にとりつかれるやまんばであった。くそー。

2011年10月14日金曜日

ヒアアフター




きのう、「ヒアアフター」という映画を見た。「来世」という意味だそうだ。
臨死体験をしたり、あっちの人に繋がる人の話だった。

人は死を怖いと思う。なんでこわいのか。死んだらどーなるのか「知らない」からだ。亡くなった人ががばっとおきて
「おら、今あっちの世界見て来たど。あっちはなあ、こうなってああなって、こなってたど」と教えてくれるわけでもない。
中にはそうなって教えてくれた人もいるし、死者の言葉を自分の声を通してしゃべった人もいる。
しかしホントのところは、誰もそれを信じていない様子で、やっぱり「知らない」のだ。だからこわい。
わしらは、知らないことは怖いようだ。

だから何でも知りたがる。
「これは一体なんだ!?」
と発見したものがあると、得体が知れないから怖がる。すると誰かがやって来て、「これはこーゆーものです」というと、
「なんだ、そんなものなのか」と、ほっとしたり、
「これはこーゆーもので、おそろしーものです」というと、
「えーっ!そんなにおそろしーものなの!?」といってこわがる。
そしてその同じものを今度は
「使い方によっちゃあ、そんなにおそろしくないです」といってみたりする。「えー、そーなの?」
だんだんごちゃごちゃになる。

わしらは知りたがり、聞きたがり、やがてわけわからなくなる。安全と危険が入り乱れ混乱する。
すると結局「それ、わけわかんない」ということになって、やっぱりこわくなる。

わしらはこの世を知っている事で埋め尽くしたいようだ。なぜか。それが安心だとおもっているからだ。だけどホントに、この世に知っているものがあるんだろうか。自分の事だってわけわかんないのに。知って安心したいと思うのに、知りきれない事実があるのだ。だからいつまでたっても恐怖はすぐ自分の横にある。

でも人はどっかで恐ろしがりたがるところがある。
「死?ああ、しってるよ」
ってすでに死に対して解決ずみなら、誰も怪談話を聞いてぞぞ〜っとしないだろう。
「お化け?あんなの作り話でしょ」で終わるんじゃないか。
だけど、どこかで
「ホントかもしれない。。。」
とおもうから、背筋がぞぞぞ〜っとするのだ。
恐怖を取り除きたいのに、その恐怖を楽しんでいる。
君、バカじゃないの?
そうやってスリルとサスペンスを味わっているのが人生かもしれん。


さて、そもそも死後の世界というものがあるんだろうか。
ひょっとしたらそれは、わしらは死というものを知らないから、それは考えだされたアイディアなんじゃないだろうか。

死とは必ずやって来るもの。逃げたいのに逃げられない。どーする?
じゃあ、きっと死んだらその後があって、そこには天国や地獄があるにちがいない。だから天国にいくためには、生きているあいだにいいことをしなければいけない、という(人を恐怖によっておとなしくさせる)教え(おどし)も含めた、一石二鳥のグッドアイディアを生み出したんじゃないか。などとふとどきもののやまんばはおもう。

死後の世界を見た人はどーなる?
その人の背景が影響しないだろうか。クリスチャンだったり仏教の信者だったり、どこかで見たり聞いたり。。。本当に本当に誰からも何もそんなアイディアをもらっていない人はいるだろうか。わしらはみんな誰かに育てられているのだ。
死者とつながった人は?
その人の思いが伝わったのじゃないだろうか。死者を思う強い思いが、霊能者の心に響き、言葉を導きだした。そしてそれは、その人自身が深いところでそれを自分に伝えたくてやった事かもしれない。


絵:ラブロマンス表紙

2011年10月7日金曜日

私は何も知らない




借りたガーデンシュレッダーを返しにいこうと、その重いヤツをおっこらしょっと持ち上げた。瞬間、背中にピキッと何かが走った。
「あ。やっちまった。。。」
そうは思ったがそのままどすんと地面に落とすわけにもいかず、痛いままシュレッダーをかかえたまま階段を5段おりた。
「あ~あ、ぎっくり腰来ちゃったなあ。。。」
腰をさすりさすりおじさんところに返しにいく。そのまま畑に行こうとしたが痛みはどんどん増すばかり。こりゃ、畑まで歩けないと思い、部屋に戻って横になる。トイレに行こうと起き上がって、痛みがもっと増しているのに気がつく。
「やっべえ。。。本格的に来ちまった」

ぎっくり腰は何度もやっている。慣れっこにはなっていたが、ここ何年かぶりだった。あの痛みはやった人でないと分らない。
いちばん最初は、紙を切るためにもっていたえんぴつ型のカッターの向きを変えただけでなった。そのまま机の下に座り込んで全く動けなくなった。そのあとの長患いったら。思い出しただけで背筋が凍る。はあ~、ああなりたくないなあ。。。

近所の針をやっている人のところに電話する。いない。こりゃ、自分で治せってことかあ。。?

やまんばはじっと考えた。
私がぎっくり腰を怖がっているのは、過去にぎっくり腰をやった事を思い出しているのだな。あのときどんな痛みだった、あれからこんなに長患いをした、等々。
と、いうことは、知っているから怖いんかもしれん。その怖さが痛みを増幅しているのかもしれん。ということは、今回私がはじめて体験するぎっくり腰だったらどーなる?
ぎっくり腰というものを、「ぎっくり腰」という名前もしらず、どんな症状になるのかという知識もないとしたら。。。。

そこでやまんばは、歩きながら
「私は何も知らない」といってみた。
つまりこの痛みに関して、何も知らないのだ。この痛みの名前も、これがこの先どうなっていくのかも。
するとほんのちょっとだけ身体が軽くなった。もういっぺん心でいってみる。
「私は何もしらないのだ」
すると痛みが小さくなった。
「私は何も知らない!」
どんどん痛みが小さくなる。
な、なんじゃこりゃ?

やまんばは畑に向かって歩いた。一歩一歩身体を感じながら。
いつの間にか畑についた。あのさっきまで私を苦しめていたぎっくり腰の激痛は消えていた。かすかに腰が痛いのみになった。
あとは身体が自然に調節してくれるのだろう。それにまかせた。

あれから数日。痛みは消えた。いつもの私なら、今頃寝込んでいただろう。
一体何が起ったのか。私はただ、過去に経験した似たようなことをことごとく忘れただけだった。

私たちは何もかも知っているとフんでいる。文明がうんと進んで、うーんと人間は進化したと思っている。しかし知っているのはほんの一部だけなのだ。ぎっくり腰だってどんなメカニズムでなったり治ったりしているのか、本当のところは誰も知らないのではないだろうか。お薬飲んだり治療したりするけど、いろいろやるけど、けっきょくのところ、自然治癒しているだけなのかもしれない。だとしたら、誰も知らないのだ。ウイルスとかDNAとか言うと、なんだか知ってる気になるけど、だれもそのDNAを肉眼で見たこともない。どっかのおえらいセンセが仰せになったから、ご発見されたから、庶民はそれを鵜呑みにしているだけだ。
それにお名前を付けて
「これはこーゆーものですから、こーんなふうに症状が出ます。だからこれからこーんなふうに大変な事になるのでお薬、用意しときましょうね」
といわれたら、誰だって、
「センセが言うんだからまちがいない」
とおもう。
それを鵜呑みにしてそうなるもんだと思うから、そーなるだけのことだったりして。。。単にそれだけの事だったりして。。。

なとどふとどきもののやまんばは思う。
ほんとは私たちは何も知らない。それについて知っていると思うから心配したり、恐怖したりする。

世間は「知っていないといけない」とおもいこまされている。
「アーラ、あなた。そんな事も知らないの?」
なんて白い目で見られたりする。だけどどこまで知っていればケーベツされないのだ?どこまで知ってても、自分でまだ足りないと思ってしまうこの強迫観念。

このさい「私は何も知らない!」といってみよう。
心がなんだか軽くなるでよ。



絵:ハードカバー表紙

2011年10月3日月曜日

剪定チップ投入!



ぐっと寒くなり、畑の作業もやりやすい。今、秋野菜の種まきで忙しい。1メートル越えしたメヒシバちゃんも勢いを失い、黄色く枯れてナヨッと倒れ込んでいる。このチャンスを逃す手はない。

やまんばはそれを根元から刈って脇に置き、裸の畝を出現させる。ほお、こんなところに畝があったのかい。と独り言を言う。

それからうちからもって来た剪定チップをバケツ一杯運び込み、その畝の上にばらまく。先日近所のおじちゃんから借りて来たガーデンシュレッダー。ジャングルになったうちの庭の枝を「ぎゅわ〜ん、うい〜ん」と1、2センチのチップにした。袋に入れておくと、中が温かくなる。一人発酵がはじまっているらしい。たんじゅん農法はそのエネルギーを土の中で生かしてもらおうという発想だ。

ばらまいたチップの上に、今度はメヒシバちゃんをハミキリで5センチ程の長さに切り、これもばらまく。米ぬかがあったらこれも入れる。発酵を促すようだ。中くらいのクワで、浅く畝の土をほっこり返してチップとメヒシバと米ぬかをスキコする。どーよ。たんじゅん農法もどきの畝、できあがり〜。仕上げに油かすもちこっと撒いてみた。
この方法でシュンキク、ほうれん草、小松菜、ノラボウ、ミズナ、壬生菜、サンチュ、などを撒いてみた。さて。どーなるかなあ。

今年の夏は、ピーマン、トマト、シシトウ、オクラが頑張ってくれてそれなりにとれた。だんだん畑が変わっていくようだ。そうそう、今は去年までいたコオロギちゃんがあまりいない。なんでだろう。畑で一歩踏み出すたびに、50匹くらいのコオロギちゃんがびょんびょん跳ねていたのに。

買ってきたキャベツ、白菜、ブロッコリー、スティックセニョ〜ルの苗は、スティックセニョ〜ル以外順調だ。チョウチョがキャベツやセニョ〜ルのまわりをひらひら飛んでいた。あとからハッパの後ろを見ると、ちゃんと卵を産んでいる。スティックセニョ〜ルについたヤツだけを取り除いた。ところがその後、そのスティックセニョ〜ルだけが枯れてしまった。掘り起こしてみると、根っこがちっこくなっていた。そのまわりに落ち葉の白いはんぺん。ちょっときつすぎたのかなあ。。。それにしてもやはりチョウチョは知っていて卵を産みつけたのだろうか。「あ、こいつそのうち弱る。。。」って。。
キャベツに卵がついていたかは確認していないが、穴もあかず元気に育っている。
自然はいろんなことを教えてくれる。。。

絵:絵本英語教材

2011年9月30日金曜日

不自由にするのは私たち自身




母は身体が動かなくなった。

今年のお正月に帰った時でも随分歩けなくなっていたが、この2か月程でほとんど歩けなくなったようだ。
彼女は、私が小さい時からゆっくり歩く人だった。親子3人で道を歩くと、最初は3人並んで歩いていても、そのうち父と母との距離が開き始め、私はその間を行ったり来たりした。


母は美人と言われて育ってきた。
二つ違いの姉と一緒に高知の田舎道を歩く。
「あんたらあ姉妹が道歩くだけで、わたしらあうれしいよ。」
ホコリっぽい田舎道をビロードのワンピース、エナメルの靴、レースの靴下で歩く幼い姉妹。村の華であったことは想像に難くない。浜まで出るのに、他人の土地を一歩も踏まずにいける大地主の娘。蔵の石段は大理石。じいちゃんは見渡す限り自分の領地である畑を馬に乗って闊歩する。5歳の娘が使用人を呼び捨て。会社に勤めるまでお金という存在を知らなかった。お茶の世界に入り審美眼を極め、料理も絵もセンスは抜群。彼女は完璧だった。あの時までは。

あるとき、会社で「あんた歩くの遅いねえ」と言われた。ショックだった。それまで仕事もすべて完璧にこなしていた彼女。同期の、その何気ない一言で彼女の人生は大きく変化した。
「私は歩くのが遅いんだ。。。。」

彼女は、うまれてはじめて人に劣っている自分の部分を見つけた。
考えてみれば、今まで何でも「優れている」とほめられ続けた人が、「劣っている」といわれたのだ。(言われてないけど、そんなニュアンスで受け取った)
プライドが傷ついた。

しかしどうなんだろう。もしかしたら、その同期の人にとって遅いと感じただけだったかもしれない。たまたま急がないといけないから、同期の人は急ぎ足だったが、彼女はそれについて来なかったから、いらついていったのかもしれない。ほんとは遅い歩きじゃなかったかもしれない。

だが、そんな現実はどーでもいーのだ。
彼女は自分のあり方にケチつけられたのだ。(と思い込んだ)
負けん気の強い彼女は、それから自分をけしかけた。
「はよう歩きたい」
「はよう歩かんかね!」
それが彼女の人生を通してのマイブームとなった。早く歩きたい。普通の人のようにしゃんしゃんと歩きたい。
その言葉の後ろには、私は速く歩けない、という確固たる確信があった。その確信は現実のものになっていく。思いは、思いを現実化していくようだ。
彼女が結婚して、私が生まれた頃には、もうすでに歩くのが遅くなっていた。

私が生まれてからずっと付き合って来た彼女の口癖は「はよう歩きたい」と「はよう喋りたい」である。
で、結局「はよう歩く」どころか、動けなくなった。
これは「はよう歩きたい」という努力が報われた結果なのだろうか。

近所で70過ぎのおばあさんが、毎日巨大なイエローラブを一日二回、2時間づつ散歩させている。
「今日も高尾山登ってきましたのよ~」という。
彼女にとって「はよう歩きたい」というアイディアはおくびにも入ってなさそうである。


マイブームは人によって違う。
私はおなかがすぐピーになりやすい。と考える人はすぐピーになる。その人はいかにピーにならないようにするか、ということを無意識に四六時中気にしていたりする。だから「これ食べたら、ひょっとしたらピーになるかも。。。」と思いながら食べると、ピーになる。「ほら!やっぱりピーになった!だから食べなきゃよかった!」と後悔する。しかしたいていそういう人はイヤシかったりする。逆に食欲にとりつかれる。
母はそんな人を見ると、「あはは、ばっかねえ。なんでそんなもん食べてピーになるのよ。わたしなんかちっともならないのに」という。そのピーにすぐなる人は、母の2歳上の姉、わたしのおばさんである。

うちの母は、ピーにならない。なぜか。「私の内蔵はすごい」と自負しているからである。だからちょっと壊れたって「ほっときゃ治るわよ」と思っているので勝手に治っている。しかしおばさんはピーがマイブームなので「なったらどーしよー、なったらどーしよー」とつねに考えているから、それはそのようになるのではないか?
母は身体はそのうち治ると信じてそれについて気をもまないので、身体は自然に治癒に向かう。しかしおばさんはつねにそのことに気をもむので、身体が自然に治そうとすることを逆に妨げているのではないだろうか。
だとすると、はよう歩けないという思いが、自然に身体が二足歩行することを妨げているのではないのか。

母は、いつも足に向かって
「ほら、ちゃんと歩きなさい。歩けるかね。どうぞね。右足。はい左足、ほれ、右足。よし。よくできた。ほら今度は左足。。」といっているそうだ。

この世のどこに、病気でもない人が自分が歩くことを右左右左と言いながら歩く人がおる?
人はいちいち心で指示しながら動くもんだろうか。いや逆に指示しないから、自然に歩けるのだ。

先日、この世はすべてが秩序でできていて、人間の心だけが無秩序なんじゃないか?と思ったが、まさにそーゆーことじゃないだろうか。自然に流れていくもろもろのことを、心がストップかけたり邪魔をしている。それはこうあらねばならないこうあるべき、という理想の姿をつねに思い描いているからではないだろうか。私たちは理想と現実の狭間でつねに葛藤を生み出しつづけているのだ。これに使われるエネルギーはとてつもなく大きい。
母がいつも自分の足に向かってハッパをかけているエネルギー(これじゃあいかんという葛藤と、なんとかしようとする努力)は、彼女のもっているエネルギーのほとんどをそこで消費している。だが使えば使う程、身体はますます動かなくなる。
それをやる意味が本当にある?

彼女は多分、パワフルな人だと思う。パワフルだからこそ、そこまで「歩けない」という思いの中に没頭できたのだ。そのエネルギーをそこに使うのをやめたら、きっといい絵を描き始めるんじゃないかと思っている。

私たちの人生を不自由にしているのは、実は私たち自身ではないだろうか。


絵:COOPけんぽ表紙イラスト「ぶんぶくちゃがま」

2011年9月25日日曜日

妖怪んちの屋根とんだ



 
台風15号が高尾に吹き荒れた。
大雨の中、ケータイがなった。
「妖怪んちがたいへんみたいよ。様子見にいって」
珈琲屋のマスターからからだった。
暗闇の中、庭に何かが散乱している。家の中は水浸しだった。
「屋根がね、飛んだのよ。。。」

裏の木が風にあおられて壁に当たり、ゴンゴン音がするといっては外に出てずぶぬれになり、となりのとたんが飛んで来たといっては、またずぶぬれになって対処し、やれやれと家に入ってホッとしたのもつかの間、
「バリバリッ。。。。どお〜〜〜〜〜ん!ってでっかい音がしたのよ。んで、な、何?って思って庭を見たら、何かでっかいものがある。ほんで『こ、これは、どこから。。。?』って上の方見たら、テレビのアンテナがグニューってひん曲がってて。。。うちの屋根だった。。。」
二階に上がると、天井から水がぼたぼたぼたぼた。。ふとんの上にもぼたぼた。。。天袋あけたら、天井のベニヤがぱたぱた風にあおられて、そのすきまから「お空が見えた。。。。」のだそうな。
それから妖怪は、プラスティックの衣装ケースを中身をほっぽり出して雨漏りのする畳の部屋に置きまくる。そうしているあいだにも雨漏りはなおさら部屋中に広がった。

やまんばとダンナが妖怪んちにいった時には、パンツやストッキングが散乱する水浸しの凄まじい状態だった。雨漏りを止めるためにほりなげた衣装ケースは、たまたま下着類のケースだった。
「こ、、これ、どーするの。。」
「もう。。。どーしていーのかわかんない。。。」
とりあえずバケツや洗面器で水を受け、シートでぬれちゃまずいものをかこった。しかしどんどん雨漏りはあらゆる箇所からやって来て、家の中で傘ささないといけないぐらいになった。畳は今ものすごい重いんだろうな。
そうするあいだにも何度も停電がおこり、ショートするとまずいので、とりあえず電源を切った。真っ暗闇、みんなで雨水の音を聞く。妖怪は保険屋さんや消防署などに電話。消防署さんもその日は忙しく、人命に関わることでないと来てくれなかった。
妖怪は被災者になって、やまんばのうちに避難してきた。やまんばは被災者に炊き出しした。被災地に行かずしてプチボランティアになった。

翌日起きてみると、近所はどこも被害がなかった。妖怪んちだけがピンポイントで被災していた。裏はJRの線路。その後ろが山で、木が無惨におれている。どうも妖怪の家の幅だけくっきりと一直線に風が北から南に吹き下ろしたようだ。ピンポイント竜巻でもおこったか?隣のお家は屋根の上にいろんなモノが乗っかっているのに何も被害がなく、きっちりと鉄の屋根で被われた妖怪んちの屋根だけがめくれあがって飛ばされていた。それにしてもそのめくれ上がった屋根がどこにも行かず、誰のうちも被害に巻き込まず、お行儀よく自分ちの庭にだけ落ちてくれたのは不幸中の幸いだった。ちなみにその一部がずっと南の畑の上に落ちていた。やはり相当な風だったようだ。

「なんで、おれんちだけ。。。?」
「さあ。。。。。」
人生とは不可解なものである。


よーかいんちがとんだ、
やねまでとんだ
やねまでとんで、
あなあいてぬれた。
あーめあめふるな、
よーかいんちがぬれる。
(「シャボン玉飛んだ」の替え歌で)


絵:「The Drums of Noto Hanto」より

2011年9月24日土曜日

人間の心の中だけが無秩序




この世に現れて来るものは、すべて秩序があるのではないだろうか。

朝そんなことを考えた。人生いろんな事がある。突然突発的なこともおこる。病気にもなる。台風もやってくるし、地震もおこる。
しかしそれらはすべて秩序だった事で、必然なのかもしれない。おこる出来事は、摂理にそって整えられていく過程であって、決して無秩序におこる事ではないのではないか。

この世は無秩序に問題がおこるのではない。。。
だとすると、なぜ人間はこうまでも不幸なのか。それはたったひとつ、人間の心の中が無秩序だからなのではないだろうか。。。そんなふうに思ったとき、心がぞくっとした。

問題ということばには、これはいいことである、これはわるいことである。という二つの意識がある。それはある種のものを基準とおいて、それに対して、悪い事といいことという判断が下される。がいして問題という言葉には、これは悪い事であるという意味が含まれている。では自然界にこれはいいことであるというものと、これはわるいことである、というものがあるのだろうか。

台風が突風を起こし、木をなぎ倒す。これはわるいことだろうか。
大木がなぎ倒されたあとは、その地面に光が当たり始め、そこに眠っていた種が芽吹き始める。その大木は微生物に分解され、栄養となって他の植物にエネルギーを与えていく。ということは、いいことなんだろうか。
しかしこの木が民家の裏にあって、家を呑み込んで倒れたらどうなるのだろうか。わるいことなのだろうか。
いやしかし、その大木が倒れることによって新しい芽が吹き始め、これはいいことなのだ。と、いうのだろうか。

結局それは単に人間が言う、いいことと、わるいことなのだ。自然界には、「いいこと」も「わるいこと」もない。ただ順々に摂理が働き、時とともに変化していく。これは無秩序なのだろうか。私には秩序のように思える。

今、放射能をめぐって矛盾する問題が浮上している。被災地を助けるために企画されるイベントが、放射能がまき散らされるといって中止される。これは困った人を助けたいという思いと、面倒なことは避けたいという思いが渾然一体となった、今の人々の心の葛藤がよく現れている。
困っている人を助けることはいいことで、放射能はわるいことである、という考えがごっちゃに入っている。

私たちは小さな時から、これはいいこと、それはわるいこと、と繰り返し教えられて来た。だがそれは人間が生き延びるために考えだされた基準である。私たちはその基準にがんじがらめにされている。

今朝、長いことほっておかれた扇風機を片付けた。
水で濡らした雑巾で扇風機をふく。こんな単純な行為が私には恐ろしかった。なぜなら、扇風機をホコリだらけにするあなたはいけない人、と自分で思っていたからだ。だから見て見ぬ振りをしてほっておいたのだ。いつもの私なら、ざっとふいてさっと片付ける。それは見ないようにしてあわてて片付けるというような心持ちだった。心の中に罪悪感を抱えつつ。
しかし今日はちがった。心は静かなままだった。それは多分、自分の中に非難がなかったからだ。これはいいこと、これはわるいこと、という考えがなかったのだ。

自分の中にジャッジがないと、それをそのまま見ることができる。そのまま受け止めると、行為は自然に動く。「問題」がおこったとき、「これはわるいことだ」「これはたいへんだ」と、普通はパニクるもんだ。しかしそれは秩序なのだと思えたなら、そのときその人はその出来事をただ受け止め、必要な行為を必要に応じて即座に動くのではないだろうか。それがまさに秩序だった行為なのかもしれない。

なあーんて思ったんだ。
そうはいいつつも、いざ自分に大きなことが降り掛かると、きっとパニクるだろうな。だけど今朝考えたものは、何かヒントを教えてもらった気がするんだな。


絵:「MF新書」表紙イラスト/江戸将軍が見た地球

2011年9月17日土曜日

世話焼き妖怪




妖怪の正式名称は、「世話焼き妖怪」である。
ことあるごとに、なんかやまんばが問題抱えるごとに
「なんか世話焼かせろ~」
と、やって来るのである。
その世話の焼き方は極まっている。ありとあらゆる事を想定して準備おこたらなくやってくれる。
「これ、もってるか?もってってやろうか?」
「これしってるか?おしえてやろうか?」
「これ、くうか?ほれ、くえ」
妖怪は妄想が暴走する。瞬時にあらゆる状況を想定できるものだから、何が必要か、どうやったらうまくいくかわかっている。
だもんだから、やまんばがいたらないのを傍でいつもイライラしながら見ている。
「もううううううう~~~~っ。だ、か、らあ~~~~っ」



先日その妖怪の畑にご招待された。自慢じゃないが、有機農法の畑を間近で見るのははじめてである。妖怪は油かすと鶏糞をどばどばと畑の畝に撒いた。やまんばは今年はじめて油かすというものを買ったが、畝に撒くといってもひとつかみをさらさらとうっすら地面に色がつくくらい。さすが妖怪はちがった。10キロ入りの鶏糞と油かすの袋を抱えたままバケツの水を撒くがごとく撒いた。やまんばはびっくらこいた。あの巨大なナスやゴーヤはこれで太ったんか。。。畝の中の土は3分の1鶏糞と油かすでできているようにみえた。

思わず聞く。
「土はなんのためにあるの?野菜の土台?」
「バカたれ。土と肥料が混ざっていいあんばいになるんじゃ」

サトイモのツルの巨大さは圧巻であった。実はやまんばと同じ種類のイモを買っている。やまんばの畑のツルはせいぜい1メートルちょっと。妖怪んちのは、軽く2メートルを超えていた。根元の太さは4、50センチはあろうか。太ったおじさんが小さいサイズのTシャツを着ると首元がパンパンなのとそっくり。黒いビニールマルチがパンパンにはちきれそうだった。
「いったい何入れてあんなに大きくなったの?」
「あれはだなあ、牛フンと鶏糞と油かすじゃ。まず先に効く牛フンで大きくなり、時間差攻撃で鶏糞で大きく育つのよ。小中一貫教育みたいなもんだな」
なるほどー、うまいことゆーなあ。


やまんばの畑の一角に落ち葉堆肥をしたところがある。先日はぐってみたら、カブトムシかクワガタの幼虫がいっぱい出てきた。その話をしたら、
「お、やまんばんちの畑半分仕切ってミミズ育てろ。それ売って一儲けするんだ」
という。
「やだ。ミミズなんていらないもん。」
最近やまんばの畑はミミズがほとんどいなくなった。これをいけないという人もいれば、良しという人もいる。
「ミミズがいなくてどーする!ミミズがいてはじめて肥えたいい土になるんだ」
そこでやまんばはたんじゅん農法の林さんのうけうりを口走る。
「ミミズ自慢は恥じ自慢。。。。」
「なんだってえ?んーなわけないだろ」
「だって、、、、山にミミズいっぱいいる?ミミズいないのに、山には草木があんなに生い茂ってるじゃない」
妖怪は身体をユサぶってこう言った。
「山にダイコンは生えてないだろう!」

カンカンカーン!妖怪の勝利ーーーーーっ!


朝、昨日の妖怪とのバトルを思い起こす。ちえっ、ちっとも妖怪を説得できないや。。山にダイコンねえ。。。言えてるなあ。。。生えてるわきゃないわな。。。
そのとき、ふっと夏の日の暑い浜辺を思い出す。アレ?浜にダイコンが。。。
あーーーーっ。

浜ダイコンがあるじゃないかーーーーっ!!!!


絵:似顔絵モンスター列伝

2011年9月14日水曜日

妖怪の草刈り機




有機農法で成功を収めている妖怪が草刈り機を貸してくれた。はじめて使う機械にやまんばは圧倒される。早い。あれほど高く生えそびえた草たちをバッタバッタとなぎ倒していく。それもこの轟音と振動のおかげなのだろう。
しかし刈り終わったあと、手にぶるぶると振動が残る。手の皮膚と骨のあいだに無数のミミズがはいまくっているような、なんともきみょうな感覚。さすが妖怪が貸してくれた草刈り機だけの事はある。妖怪ぶるぶるまでおまけしてくれた。

小さく刈り取った草たちを畝にスキコする。手でやっていた時、刈る、草を小さく切る、という作業を、一気にやってくれる草刈り機。簡単にスキコできる。じつにありがたい。

しかしなんだか心が痛い。なんでだろう。
草たちの切り口が無惨なのだ。繊維を引きちぎられたような痛々しい姿が散乱している。たんに私の切り方がへたくそなのか。草たちの威厳も何もあったもんじゃない。

ちょうど同じ頃、高知のとーちゃんがハミキリを送ってくれた。むかしからある、草を小さく切る道具だ。草を束にして歯の上に乗せる。上からハンドルをおろして切る。それだけなのだが、面白いように切れる。しゅぱっときれいに繊維を断ち切ってくれる。切り口は美しい。草たちの威厳も保ってくれる。

この二つの草を刈る道具は、何かが明らかにちがう。草刈り機は作業が早い。効率を考えたらもっともいいだろう。だが破壊的なのだ。その破壊力は振動を感じる手にももたらす。白蝋病という病気もそういった振動をともなう機械によって起こされる。

一方クワで草を刈り、ハミキリで草を切る。これは能率効率悪い。しかしその作業は穏やかで、地面と自分を近くし、土と草の関係を確かめながら切る事ができる。ゆっくりした動きだから、草の中や下にいる虫たちの逃げる時間も与えられるし、私もかれらをよけながら切る事ができる。思わず鼻歌もでる。機械はスピードが速いために生き物たちの移動を遅れさせ、時には殺してしまう。鼻歌なんかでない。
クワは根元から切るため、草はきれいに集められる。ハミキリも入れやすい。何より破壊音のしないゆったりとした時間が、草たちの生まれて死んでいく過程を味わっているようなそんな感覚にさせてくれる。草刈り機は立ったままで草の死を眺め、ハミキリは座って地面に近いところで草の死を見届けるからなのかもしれない。

先日知り合ったおじさんがいっていた。
「草刈り機で刈った草は、あとから生えて来るのが早いんだ。なんでだろうね。草がコノヤロ〜って挑戦して来るんかね。でもクワで刈った草は、あとから生えるのが遅いんだ。おもしろいね」
彼の言葉は、何か深いところを話してくれているのかもしれない。

絵:COOPけんぽ9月号イラスト/コスモスと妖精

2011年9月12日月曜日

自分の価値をお金で決める




あなたの価値をお金に換算してみる。。。そんな恐ろしー番組があった。なんのことはない、銀行からお金を借りるのに、今のあなたの状態から、どこまでお金を借りられるのか、というものだ。
なのに、何となく番組のトーンとしては、「あなたの価値はいくら?」というニュアンスがある。まるで銀行さんがあなたの価値を決めてくれる、と言わんばかりである。

やまんばは、銀行さんとはてんで縁がない。イラスト料を銀行に振り込んでもらい、それを銀行から下ろす。そんなことぐらいにしか利用させてもらっていない。ましてやそこで自分の価値をはかってもらうなどと。。。おお、おそろしー。

査定する人は聞く。あなたの収入は?現在その業界においてのあなたの位置は?資産はどのくらい?不動産は?金の延べ棒はいくつもっていますか?持病は?コレステロールは?数値はどのくらい?お酒は飲みますか?おつきあいは週にどのくらい?お金の管理は奥さん?それともご主人?矢継ぎ早に突っ込んで聞いてくる。それに応えるタレント。査定人はフムフムと物知り顔で話を聞く。

き、金の延べ棒。。?そんなもん、もってて当たり前なんか。。。
査定さんの話を聞く限り、やまんばには何の価値もないとみた。たぶん0円だろう。ふはははは~。

ようするに、価値と言いながら、銀行さんにとっての価値なのだ。
「こいつに金貸したら、どんだけもうかるか」
という価値なのだな。ところが世の中はいつのまにか、何でもお金で価値判断をする、という様な風潮が出来てしまったために、自分の値段を付けてもらうことがなんだか重要になってしまった。
人=お値段

人の価値をある一定のものだけではかる。なんじゃそりゃ。
銀行の査定さんがもっている物差し。不動産、健康、仕事の位置。ほとんど物質的なものじゃないか。
人ってそれだけ?

その人がもつやさしさや、気遣いや、感性や、情緒や、おおらかさや、ユーモアや、臨機応変さや、人への理解力や、その人独自がもつ空気感のようなもの、その他、山のようにある、数値で証明も立証もできないものでいっぱい満たされた人間を、単なる目に見えて明らかなものだけではかるのか?自分の年収でもって自分の価値を決めるのかい?
インターネットのホームページにはだいたい隅っこに「私の年収って低いの!?」ってなものがある。そーやって危機感をあおってくる。
おお。他と比べて低いわい。それがどーした。

ジョーダンみたいな単純なはかりで決める最近の価値基準パターン。そう笑ってもいられない。落ち込んだりすると、自分の価値をだいたいそんなところで無意識に測ってしまうものだ。「ああ、オレってこんなちっぽけな安い価値の人間なのさ。。。」
やがてそれが習慣になってしまい、ことあるごとに「おれはだめだ」と、自動的に考えてしまう。フッと自分を笑ってこの世を斜に構えて見る。つらくなると「こんな世の中だし、オレもこんなふうになる」なんて言ってみたりする。

それは事実とは全く違う。
空気を読めるあなただし、それってやさしいってことだし、ボケと突っ込み入れて人をなごますし、人の悪口もあんまり言わないし、人の失敗も「ま、しゃあないか」と受け流せるし、街の中で風を感じて楽しめるし、家族のために頑張ってみたりする。そんな豊かな心の持ち主なのだ。
それをお金で測って、自分をいやんなるなんてもったいない。

やまんばの価値はお金に換算すると0円だけど、「やまんば」っていう価値はあるんだ。


絵:「サクサクわかる世界経済の仕組み」MF新書表紙イラスト/こりゃおもしろいよ〜!

2011年9月7日水曜日

気になりだしたら止まらない





おとついの夜中おしっこに起きたあと、ふと庭の木のことが気になった。
わが家は庭に木がたくさん植わっている。引っ越して来た当初は、年に一度職人さんに来てもらい、木の剪定をお願いしていたのだが、毎年かかる経費を削減しようと、3年目から頼むのを止めた。それから私が庭の草を刈り、低木を剪定し、上の手の届かないところはダンナに剪定してもらっていた。
畑をやり始めてから、草や毎年の剪定に疑問を感じて、ほったらかしてみることにする。草は毎年冬になると枯れて消えていくんだし、木の枝も毎年剪定するのにやっぱり春になるとぐんぐん伸びて大きくなる。
「切っても切っても伸びるぜえ。。。」
と、いやんなるので、一回ほったらかしにするとどーなるかやってみるか、とそのまんまにした。

その結果。ジャングルになった。
今わが家は、ジャングルにかこまれたおうちになった。これはよろこんでいーのやら、かなしんでいーのやら。。。

そんなこんなで今の状態に至るのだが、そう、おとついの夜中、突然そのことが気になった。
近所はちゃんと手入れが行き届いている。うちだけぼーぼー。いつだったか、近所の畑のおっちゃんが、畑見りゃ、あんたんちの様子が分かるっていわれて、そのまんまじゃないか!これはウチの畑と全く同じ状態!やばい!ちょーみっともない!

心が動揺にうちふるえ、ぶるぶるしたまま止まんなくなった。すると次から次へと、あそこのあれが汚い、ここのそれがだらしない、とどんどん出て来る私の怠惰さ。こーなったら、寝るどころの騒ぎじゃない。お目目ぱっちり、心臓どきどき。いけない。寝ないと。心のうるさいの、止めないと!
止めようとすればするほど、なおいっそう暴走する。夜中に一人暴走族になる。
おりゃあ~~っ!

止めようとする意識は、それに対して抵抗していることだ。状態に抵抗するということは、それがいけないこととして否定をしているということだ。心は、押しとどめようとすればするほど、なおいっそう強烈に暴れだす。

そう、私は自分が怠惰だということを認めたくないのだ。心は、草ぼうぼうなのも、庭がジャングルなのも、これこれこう言う理由があってやっているのだ、と言い訳しているのだ。
誰に?自分に。
夜中に自分が自分に必死になって言い訳をしている。でも言い訳を聞いている自分はちっとも納得していない。だからなおのこと必死になって言い訳する。それが心が暴走する状態なのだ。

キリのない自分の中の葛藤にうんざりした私は、別の方法を思いつく。よし、私は怠惰なのだ!とひらきなおった。
私は怠惰なのだ。怠惰なのだ。だらしないのだ。きたらなしーのだ。
そしてひとつひとつだらしなーい場所を思い出す。
庭のジャングル。じっとながめる。あーきたならしい。。台風の時電線に引っかからないようにと切った枝。枯れて茶色になってきたならしく駐車場に放置したまんま。あ、大根のぬか漬けをあまりに臭いのでビニール袋に入れたまんま庭の東側に放置したままだ。ゲー、あれの中どーなっているのだ?それもじっとみる。心がいちいち言い訳をしそうになるが、それも無視。何の解釈も言い訳も非難もせず、じーっとみる。部屋の中に飾った枯れた花。冷蔵庫のぐちゃぐちゃ。畑の草ぼーぼー。小屋の中のぐちゃぐちゃ。床下の得体の知れないもの。。。あらゆるだらしなさをじーっと頭に思い浮かべて見続ける。
すると、いつのまにか心が静かになっているではないか。
え~、単にだらしないことしてあるものをながめただけなのだ。それだけで心が静まる???


現実を見ることは、おそろしーことだ。特に自分がいけないことだ、と思っていることをしている現実を。いけないことだと思っているくせに、それをやっちまわなきゃいーのに、「あとでやろ~っと」といって、ほったらかす。そんで時々気になって横目ではちらっと見るけど、見なかったことにしたりする。そんな自分の至らなさを思い起こし、また自己嫌悪する。
いけないことだといーながら、やり、それをやっちまったあとで自己嫌悪する。君、バカじゃないの。

だけどねえ、人はそう、おもわずやっちまうのよ。それはそれでいいじゃないの。んで問題はそっから先。自分批判が始まるのよ。私も私の中に監視人を作ってしまった。いちいち「そこ、ダメ」「ああ、それもいけない」と自分で批判する存在。それが自動的に動くの。んでその監視人をもっている間は、まだマシ。と思っている。ところが、それが心につねに批判とそれに対する言い訳を繰り返すと言う、葛藤を生み出したのだ。
そうすると、実際自分がやったことを直視することが怖くなる。だから見ないようにする。避ける。逃げる。ほかのことをする。そのうち忘れる。だいたいこんなことをニンゲンは心の中で常日頃やっているようだ。

非難も批判もしない。ただそれを直視する。たったそれだけでいいのだ。もしそこで心がそれについて非難も批判もしなければ、自分で言い訳も正当化も出て来はしない。
キーワードは、非難と正当化。
とにかく自分を非難するな。いけないとか、いやだと言おうとしたくなる衝動をぐっとおさえろ。
ただそれをじっと見る、観察する。そこから逃げない。するといつのまにか心が静かになる。さっきまで自分で恥ずかしいと思っていた心がどこかに行ってしまった。

しーんとした夜の空気の中で、やまんばはいつのまにか眠っていた。


絵:「密室入門」MF新書表紙イラスト

2011年9月5日月曜日

変な台風



台風すごかった。高知に上陸するっていうんで、あくせくして親に電話する。
するととーちゃんは、
「こっちゃあ、風も雨もなんちゃあこんぜえ。みょーな台風じゃ」
という。ま、高知県人にしてみたら、風速30メートルでもそよかぜに感じる県民性だから。(ちがうちがう)

上陸のコースよりも、東っかわがすごかった。基本台風はそういうもんだが、それにしても和歌山や他の県の方々は本当に大変な思いをされている。
それに比べれば高尾なんてへのカッパかもしれんが、それでも雨風がすごかった。東と言えば、北海道は旭川まで浸水の被害が。一体どこまで東に影響させればいいんじゃ。それも台風さん、ちゃりんこに乗って走っている。移動が遅い遅い。どんだけ雨を降らせれば気がすむんだろう。

高尾の雨のふり方も変だった。さっきまでぽつりとも降らなくっても、いきなりドッバア〜ッ!とバケツひっくり返したみたいに降る。かとおもうと、1分後にいきなりぷいっとそっぽをむくようにやむ。でもそれも長い事持たない。また1、2分後にどっばあ〜っっとくる。で、またぷいっとそっぽをむく。のくりかえし。なんか呼吸しているみたいに降るのだ。どんな雲の形が、そんなみょーな雨の降りかたをさせるのか。生き物みたいだ。まるで何かの存在が、雲の形を装って、日本の上におおいかぶさって、雨と風を降らせているみたいだ。

真っ暗な夜、ごお〜っというすごい風の音と大雨の音。それを交互に聞きながら、なんだか何かを洗い流しているようにもおもえた。

ニッポンは今洗濯されているのかもしれんなあ。

2011年9月2日金曜日

畑を泳ぐ



 
最近の畝の作り方。
まず1メートル越えしたメヒシバを根元から刈る。(どんだけハヤカしとんねん)
裏山から落ち葉を拾ってくる。真っ白いカビの生えたものを(糸状菌か?)、ウホウホ言いながらバケツに入れる。それを裸になった畝にばらまく。そこに米ぬかを薄くまく。そして、先ほど刈ったメヒシバを一部15センチぐらいの長さにカットし、またその上にまく。
そして畝の上に立ち、クワでそれらを土にすき込む!これがまたむずかしいんだが。
すき込んだ畝の上に、残りの大量のメヒシバをドサッと乗せる。
以上、畝作り完了。一個の畝作りに大汗かく。
最近こってる「たんじゅん農法(炭素循環農法)」のまねごとである。これが「自然農」だったら、草刈って、そのまま畝に乗っけてはい終わり。で簡単なんだがなあ。。。

最初の年は小松菜が1メートルになるほどでかかった。その2年目は、全くできない。ショックを覚えた。これはどーしたことか。
最初、その畑に残っていた牛フン肥料が一気に出たのだろうと思っていた。しかし5、6年放置された畑にまだ肥料が残っているのなら、開墾2年目の畑にも少しは残っているはず。でも全く野菜は育たなかった。とするならば、土自体が持っている栄養素が使われてしまったのではないかと思った。
たんじゅん農法はその事を言う。「土にエサをやれ」
5、6年放置されている間に、畑の上に草や竹やくずなどが生い茂り、微生物がたんまりと育ち、土に栄養が行き渡っていたのかもしれない。それを開墾1年目で使うだけ使ってしまってたのかもしれん。これはたとえるなら、乳牛さんにエサもやらずに「乳出せ」といってるようなもんだ。ならば土さんにエサあげんでなんとする。

たんじゅん農法は、なんやらむずかしい理屈なんで、はしょるが、ようするに土の中にエサを入れておるわけだ。だから畝に、落ち葉と草を入れる。栄養が行き渡るのに、乗っける方法より3倍速いと言う。くほほ。
すき込むのは、自然農ではあり得ない。キホン土は動かしちゃなんねえから。けど、すきコするったって、せいぜい5センチから10センチ程。そしてちょっと土を動かす事で、草がぼーぼーとすぐには生えて来ないという利点もある。
秋野菜を蒔き始めた。北の畝に壬生菜。南西の角に白菜。さすがにまだ暑いのか、白菜は見事に双葉を虫さんに食われまくっている。北の壬生菜は今のところ順調。やはりここは涼しいらしい。

今年は草がすごい。刈っても刈ってもすぐ伸びる。今はメヒシバだらけ。見事に1メートルを越えている。近所の畑のオヤジが見たら、めまいを起こしてぶっ倒れるだろう。なもんで、今ウチの畑は草をかきわけながら前進する。ほとんど泳いでいるかの様。平泳ぎで草をかき分けながら野菜を探す。いそいでいる時はクロールで。水じゃなくて、草でできたでっかいプールだ。
ドーダ、すごい畑だろー。


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2011年8月30日火曜日

われわれは競争すべし!か?




ふと思ったんだよなあ。
現代人がこーんなに忙しいのは、単に競争させられているからだけなんじゃないの。売り上げ上げろとか、もっと成績を上げなさいとか、いわれてさ。

ちっちゃい時から、もっとお勉強しなさいと言われて育ち、晴れて社会人になったら、今度はお金の成績上げろと言われる。もっともっと、上へ上へと言われる。そんなに上に登ったら、成層圏に出ちゃうじゃないか!息できないし。

だけどさあ、てっぺんはだいたいにおいて狭いわけだし、そこに全員が登っちゃえるわけないし。という事は、ほとんどの人が脱落するわけで、そーすると、なんか人生いやんなっちゃう人続出。そのいやんなっちゃう憂さを晴らすために、今度はゲームやっちゃったりなんかする。するとそこにも、敵と味方がいてさ。それ戦え、やれ点数かせげ、とあおってくる。
スポーツ観戦してもどっちが勝った負けた、メダルとったとらないと気になるし、ゴルフやってもボーリングしても数字気にするし、休みになると渋滞の高速で、なんとか目的地に早く着けないかとあくせくするし、バーゲンセールで誰よりもお得なものを勝ち取ろうとする。

自分の子供が成績上がっていい学校にいっても、就職口あるかどうかも保証ないこの世なんだけど、その子にはしっかり競争しなけりゃ生きていけない!とインプットされてしまう。他の子を蹴落としてまで上に上がろうとする子供を作ってしまう。自分の子に敵対心を育てていいのか?ゲームでも人を抹殺しまうものをさせてていいのか?いじめの問題だって、まわりにそれを助長するものがあるからなんじゃないかなあ。

結局、仕事しても遊びしても競争させられているわけだ。
これはホントに人間の生き方なんかなあ〜。
「我々はあらゆることに競争するべし!」というお告げでももらったんか?

いや、ほんとにもらったんかもしれん。
競争させときゃ、我を忘れるし、競争に勝てないととんだことになる、と恐怖を植え付けときゃ、いやでも競争して人を押しのけて、我先にと人が群がる。そうしたら、人は一人でじっくり考えたりする事はないし、次々に目新しいものを「はい!つぎこれを越えなさい!」と提示しとけば、「あ!次はコレを目指すのね!」と飛びついてくれる。なんとコントロールしやすいのだ。

でもこの世の競争社会を見ていると、どー見てもこの先崩壊にしか向かわない。それは、いきなりのドッカーン!という崩壊かもしれんし、はたまたじんわ〜りと崩壊するんかもしれん。ドッカーン!と来てくれると、「あ、しゃーないか」あっさりと人は腹をくくるが、じんわ〜りがきつい。真綿で首を絞めてくる。

自然界の崩壊は、大津波がドッドーン!と、鳴り物入りで映画みたいにやっては来なくて、ひたひたと恐ろしいスピードで黙ってやってくる。確実にすべてを壊しながら。
そういう事が世界中でひたひたと起って、ひたひたと私たちを呑み込んでいくんではないだろうか。

それに気がつけよと言われている気がする。
人間が競争にうつつを抜かしている間に、ひたひたと人間世界の崩壊が始まっている。いっとくが、地球の崩壊ではなく、単に私ら人間の視点から見た崩壊。人間が消えてくれりゃ、また地球さんはたんたんと美しい自然を取り戻していけばいいだけの事なのだ。
劇的にドッバーン!とやって来ないのは、ある意味では地球さんのやさしさかもしれん。

だからわしらは、さっさと競争をやめるべきなのだ。そろそろ地球さんにうっとおしがられているのだ。

だが会社の社長さんに向かって
「社長!もう売り上げ上げるの、やめるべきだとおもいます!」
と、いったところで
「君、あしたから来なくていーから」
といわれるのがおちである。

まず自分の内側から競争をやめる事にする。
近所のオヤジと野菜の大きさ競わないとか(ちっこいのー)。おとなりさんが洗濯物干してるからウチも負けずに干すとか(こりゃまたちっこいのー)。インターネット見て、ぶつぶつ言わないとか、他のイラストレーターの方が仕事が多いとあせらないとか、ギャラが安いと文句を言わないとか(生々しい話じゃのー)。

とりあえず、会社の成績目標は競争しているフリをする。
だけど心の中の競争がやまると、比較する事がなくなる。自分が他人が世の中が、、とイライラする材料がへる。心が落ち着く。冷静に周りを見る事ができる。
すると、なんで成績が上がらないのか外から原因を見る事ができるかもしれんではないか!

もしこの世に競争がなくなったらどうなる?なによりのんびりする。あくせくする理由がない。学校の成績上げる必要もない。空の雲の流れを見て会社に通い、教室もお天気になれば青空教室。草の匂いをかぎながら寝そべってやる。なんだか愉快じゃないか。それでもきっと世の中は回っていく。スピードが遅くなるだけだ。それでいいじゃない。コンビニ弁当すぐ手に入らなくても、死にはしないとおもう。(人によっては死んでしまうかもしれんが。いや、コンビニ弁当はかなりやばい。食わん方がかえってイイかも。。。)

わし、競争をやめる。いち抜けた。
と、今朝起きたとき思いましたです。告白。
 

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2011年8月27日土曜日

鏡の中の自分を整える



鏡の中の自分の髪の毛がボサボサだからといって、鏡に近づいて、鏡の中の自分の髪を整えるバカはいないだろう。さっさと自分自身の髪を整える。

この世は自分が映った鏡である、とはよくいわれる言葉だ。
人は自分に気に入らないヤツがいると、その気に入らないヤツを変えようとする。ダンナを変えようとしたり(交換する意味ではない)、システムが悪いんじゃといってシステム変えようとしたり、あの宗教がいけないんだ、といって戦争をしてみたり。
それってつまり、鏡の中の自分の髪型を変えようとする行為なんじゃないのか。(それってバカって意味?)

あるときAさんと一緒に歩いていた。彼女は人とすれ違うごとに、
「いやっ、あのおばさん。妙なカッコウして歩いてる。」
「あ〜あ、あんな風に着飾って。一人悦にいってるんだわ」
一人ぶつぶつとつぶやくこと山のごとし。
彼女は町を歩く一ひとりひとりがいちいち気に入らないらしかった。

それをいうことは彼女にとって何の意味があるのか?人のフリを笑って、自分を高みに置いているのだ。
彼女の口からよく「あの人は悦にいっている」と言う言葉を聞く。
わたしゃ、最初そんなもんかと気にしてなったが、あるときふと分った。
妙なカッコウして歩いているのも、着飾って悦にいっているのも、本当は彼女自身が、そんなふうに他人に見られているんじゃないか、と気にしているんだと。


そういう姿を見ると、外は自分の鏡だなとおもう。自分が思っていることが外に現れているのだ。
これ、自分じゃない誰かがやっているのを見るから分ることであって、自分自身がやっている行為はそう簡単にはわかんない。だけどヒントになるのは、どーも「気に入らない」ことなんだな。他人がやっている行為で自分が「気に入らないこと」があると、たいてい自分でもそれをやっている。
この世はえらいご親切にも、自分の欠点を人様が演じてくれるのだ。


人のフリ見て笑って自分を高みに置くというのは、ほんとはとっても自信がなくて、他人の目が怖いから、その怖さを隠すために、人を批判して自分の自信のなさを覆い隠しているのだ。鏡に映った自分の姿を、おばさんを批判することで覆い隠して見えなくさせているだけのことなのだ。その下に自信のない自分がいる。それを見たくないから人の批判という風呂敷でもって、その鏡を覆ってしまっているのだ。
だけどその風呂敷をいくら厚くかけ続けたって、はずせばいつでもそこにいる自分の姿は消えない。そのおばさんに文句を言いにいったって、それは鏡の中にいる自分だから、鏡をいじくってなんとかしようとするようなもんだ。

鏡に映った自分の姿を(ひえ〜)おっかねえけど、ハラくくって見なきゃいけねえや。。。ほんでもってさっさと自分自身の髪整えることにしよ。
ほんなら、この世はかってに整って来るのだ。

でもさ、その彼女のことを気にしている私も、実は彼女と一緒ってことだな。ゲゲゲー、鏡ってこえ〜。


2011年8月23日火曜日

パスカルにケンカ売る?



人は考える葦である。

考えることはえらい!と言われている。でもさ、考えることって、ほとんどどっかから聞いたり、見たり、体験したりしてきたことを「考えている」んじゃないのか。そりゃ、えら〜い偉大なる人は、考えて考えてなんかすごい発見をしたらしいが、一般的な私らは、考えて考えて考えても、知らないことは考えだせないではないか。ということは、考えることといえば、「過去」のことだけなんじゃないだろうか。その過去のことはすでに終わったことで、そのすでに終わった古いものをなんとか駆使して使い直そうとする。でも人生は一時として同じところにとどまっていない。まったく同じことが繰り返されれば、同じパターンでやり過ごせるけれど、口から食べ物を食べたらお尻の穴からうんこが出るとか。でもコレって考えてやっていることじゃない。そーか、肉体のパターンは、頭で考えてできることじゃない。こりゃ、自動的に肉体の英知がやってくれていることなんだ。

肉体の英知と違って、人生いろんなことが起きてくる。それをどう処理するかは、ニンゲンは考えて処理しようとする。だが、出来事は常に新しいのだ。その人にとって、未知なるものがやってくるのだ。なのに、人がやったことや、かつて自分がやって来たことを、ほじくりかえして、「あ、これこれ、これ使える!」とかいって処理するのは、なんか違うような気が最近するのであった。結局自分が知っているものを、思い出して来ているだけなのだ。

わたしゃ高校のとき、学校でやっている学びと言うもんが、ほとんど記憶力に頼っていることに気がついた。英語しかり、世界史、日本史、理科、国語、数学だってパターンを覚えなきゃいけない。いわゆる頭のいい人は、「記憶力のいい人」ってならないかい?あ、それと「ヤマカンのいい人」ね。「ここ、テストで出る」とわかるやつ。だからやまんばは記憶力もヤマカンもさっぱりなもんで、成績は下の方をずるずると。でも美術に記憶力はいらないから、あれだけは5だった。

と言うことは、私たちが「考える」と言うことは、ちっちゃい時から鍛えて来た「記憶したものを思い出す」と言うパターンにはまっているだけなんではないか?

一時としてとどまっていない瞬間瞬間を、過去のやり方で答えを導きだしていーのだろうか。ほんでもってそれでオッケーなんだろうか。いや、そんなこといったら、きっと「当たり前じゃないか。それで人類は今までやって来ているんだ」と反論食らうの分っているよ。けどさ、何かこう、腑に落ちないんだな。だからわざわざ書くわけよ。ほんとにそーなの?って。一人ぐらいあまのじゃくなヤツっていたっていいでしょ。

じゃあ、未知なことをどーやって未知なことで処理するか。別にとんでもなく前人未到の未知なことをを思いつく必要はないんだ。その答えは、きっとその人にとって、いつもは考えられない答えなんだ。どーやってその考えられないことを思いつくか。
考えないことじゃないか?

いつも私たちは、自分の考えの中で頭がいっぱいになっている。それはほとんど同じパターンの中でぐるぐるしてるんだ。その同じパターンで埋まっている空間は、他に何も入る余地がない。そこに、今まで思いもつかないアイディアが入って来られるように、空間を明けておくことなんだ。きっとそのアイディアは、中にはいって来ようとしている。新しい方法で解決しろよと待ち構えている。でもその人が過去の考えでいっぱいになっていたら、その空間の中はぎっちり埋まっている。だから入って来られない。けどひとたびそのことに気がついて、
「あ、入ってくれる?空間明けとくから」としておくと、
「じゃあ、こういうアイディアがあります」と入って来れるのだ。

心を自分の考えで埋め尽くさないで、静かにしていよう。すると、今まで考えもしなかったアイディアが、そこに、すっと当たり前のようにいるのだ。
多分偉大な人々も、考えて考えて考えて、もう、考えつかなくなって疲れ果てて、ふっと空間が開いた時に、偉大なアイディアが入って来たんではないだろうか。

げげげ〜、これはフランスの思想家パスカルにケンカ売ってんのかなあ。。。

絵:「ひまわりと妖精」COOPけんぽ表紙

2011年8月18日木曜日

夏真っ盛り石けんなし生活



勝手に石けんなし生活もはや2年と5ヶ月を過ぎた。
相変わらず、石けん、シャンプー、リンス、歯磨き粉、まるで必要性感じず。畑に出ても日焼けもせず、シミもふえず、野良仕事のあとはぬるいシャワーを浴びるだけ。さらさらと手で身体洗うついでに頭もバシャバシャお湯だけで洗って、はい終わり。さらさらヘヤーは相変わらず。

最近、顔になんでシワがいくかと言う記事を読んだ。それによると、頭の皮膚が緩んで下に落ちてくるからなんだそーな。あら、以外と簡単な理由なのね。シャンプーリンスを使うことによって頭皮が緩んで来ると言うものらしい。そういえば、お年のいった方は、頭のトップが薄い。あれは上からじょじょに皮膚が伸びて下におりていってる証拠じゃないだろか。映画「ブラジル」でも皮膚をのばして若返るおばあさんがいた。実際、そうやってシワを引っ張って後ろで束ねている話を聞いたことがある。

ということは、逆にシャンプーリンスしないと、頭皮が緩まないってことなんじゃないか?と推測する。やまんばは、頭マッチロなのに、あまりシワがないほうなのは、そのせいか?くほ。なんじゃ、そんなことかい?

シミやシワの原因は、たぶん、やまんばは知らんが、いろんな化粧関係のお品物をいろいろお顔に塗るのもあるような気がする。やまんばの右ほほにあるシミも,NYでいるとき、がんがんにきついシャンプーリンスを使ってからなったと疑っているのだ。
科学的なアレコレって、それぞれに一長一短あって、副作用もあり、アレが駄目ならコレ使い、いや、コレが駄目ならソレ使いして、お金と精神的な労力使わされる。それだったら自分の身体から出た分泌物が何より心強いとおもうんじゃが。

でもそもそもホントに、紫外線ってシミやシワの原因なのか?そんなに紫外線は悪いヤツなのか?自分から出た分泌物って悪いヤツなのか?

それって恐怖をあおって、人に物を買いに走らせる、例のぷろばガンダムじゃないのかと疑っちまうのだ。だって、なんにも顔にぬらないで畑に出ても、コゲもしなければ、シミもできないのだから。

まあ、こーやって人体実験して自分で確認するわけなんだけど、ニンゲンってしみじみ、環境に適応する肉体を持っているなあとおもうのだ。


絵を紙を切って貼ってしてたころ、ほとんど「おまえは棟方志功か!」というくらい紙に顔くっつけて切っていた。ところが、パソコンだけの仕事になると、絵が、勝手にモニターの中でおっきくなったり、ちっこくなったりしてくれる。いつの間にか、私の眼は、パソコンとの距離だけで固定されてしまった。おかげさまで遠くのものは見えるが、近くのものは見えないという、いわゆる「老眼」というものになった。おお、わたしもついに老人の域に達したか!と、一人ほくそ笑んでおったのだが、そのうち、絵を描くのも裸眼でママならず、100円ショップで老環境を買う。だが、合わないのか眼が痛いので、正式に老眼鏡を買い求めた。

さて、晴れてリッチな老眼鏡をかけてさっそうとお仕事をこなすが、そのうち便利なものだから、それまでパソコンにメガネなど必要なかったのに、「ようみえるわい」とメガネ使っているうち、ついに、裸眼でパソコンも見えなくなった。
そして極めつけは、食べているご飯がぼけちゃったのだ!なんとかなしいことよ。自分で食べてるご飯がぼけているのだよ。一日の一番楽しい時間がぼけているなんて!!!!

ニンゲンの身体はこうもその場の状況に合わせて調節するのかと言うことを味わう。ニンゲンが身体をそれに合わせて変えていくことは、いいも悪いもないのだ。
「あん?メガネかけたのね?じゃ、それに合わせましょ」
となっただけのことなのだ。
これって、シャンプーしたら、
「あん?シャンプーしたのね。大事なあぶらがとれちゃうわね。じゃあ、あぶら出さなきゃ!」
と反応する頭皮と同じパターンじゃない?

石けんなし生活でニンゲンの適応能力をしったこのやまんば、ここでまた再び人体実験をせいで何をする!

と、いうことで、昨日から老眼回復のため、ジコジコと実験を開始しておるわけであります。しょーじき、今パソコンはメガネかけて打っております。よくみえるでえ〜。
しかーし!今朝は朝ご飯が、裸眼でちょいと見え始めたのであります。
ぐふふ。わだば超人になるぞー。


絵:たばこひろい

2011年8月13日土曜日

息子はママの期待に応える




ある日、息子が「ママ、地震の夢見たよ」という。
すると「まあ、なあに坊や、どんな夢?」
「うんとね。大きく揺れたあと、海からいっぱい水がやって来て、ビルとか流されちゃうの」
「まあ、すごい!それでそれはいつおこるの?」
「さあ、知らない」
「そんな事言わないで、見たものをちゃんと言いなさい。テレビでなんか言ってなかった?」
「う。。。ん。。と。あ、テレビでお姉さんがなんか言ってた。」
「そっ、それはなに?」
「え。。と。。」
「東京とか大阪とかなんか場所、言ってなかった?」
「あ、東京は、こわれたから、大阪でやってますって」
「え~~~ッ!いつなの!?いつ!?新聞見なかった?」
「新聞?あ、、、みた」
「何日って書いてあった?」
「8月の、、、、1のあとの文字が読めない」
「も一回寝て聞いて来なさい!」

勝手に妄想するある親子の会話。
その後その日にちをお母さんは息子から聞き出し、ブログに書いた。
その後、そのブログは閉ざされた。

彼女は彼の夢に期待をした。きっとこれは神様からのメッセージだ。そして私はそれをお伝えするお役目があるのだと。そのときから息子はママと一緒に過ごす時間がふえた。ママは聞く。「ねえ、神様はなんて言ってたの?」息子は答える。ママと一緒にいる時間がうれしい。ママに期待されている自分がいる。ママの期待に応えなきゃと思う。そうやってママの期待に応えているかわいい坊やがいる。

最初に見た夢は、予言なのか、東北大震災を見た事を語ったのか、どっかで見た映画のシーンかもしれない。だがその後、ママの期待が入る事によって、どんどん歪んだものになっていく。
ママはメッセンジャーとしてのお役目があるのだと思い込む。ブログでそれを披露する。大きな反響を呼ぶ。共感者があふれる。ママは有頂天になる。それはいつ?どこでおこるの?どうやったら逃げられる?ママはコメンターからの質問を神様に聞いてくれるように息子に頼む。それに答える神様。


そんなものがもしこの世にいたら、人生はもっと楽に違いない。聞けば答えてくれる神様。地震がいつどこでやってくる。どこに逃げたらいい。どうすればいい。次どうすればいい?仕事は何をすればいい?どこに住めばいい?
そんな便利なものがあったら、自分で考える事を放棄するにちがいない。困ったら神様に聞けばいいのだもの。



みんなどこかでそんな存在がいるほうがうれしい。そのお告げを伝えてくれるブログがあったらラッキー。お金はかからんし、覗き見するだけでいいし、自分の家族だけどこかに逃げて助かっちゃえばいい。するとみんな同じ場所に逃げ込んでて、
「あ~、あんたあのブログ、見たわね」となる(笑)。(やまんば、おめえも見てるだろ)


ママは怖くなったのだろう。もしその「予言」があたらなかったらどーしよー。息子の言っている事が違っていたらどーしよー。
きっとコメントに誹謗中傷もよせられていたのだろう。
「あんた、違ってたらどーなるかわかってんの」
予言された日より前にそのブログは閉ざされた。そして予言の日は過ぎた。。。


今頃彼女はどうしているのだろう。それが心配される。真面目そうな性格だから、相当落ち込んでいるに違いない。自分の身分は誰にも見つかってはいない。しかし自責の念に押しつぶされそうになっているはずだ。

今の彼女の気持ちは、どっちかになっているのだろう。
一つはその神様からのお告げは今も続いていて、
「あれは、こうこうしかじかで、地震は免れたのです。。」
というお答えをもらって、ほっとしている。
それか、息子を信じなくなる。。。

どっちにしたって、自分を正当化するために彼女の心は必死で動いているはずだ。
気の毒なのは息子さん。ママのためを思って一生懸命「お告げ」を「聞いた」のだ。それを「あんたがへんなこといいはじめるから。。。」
と言われたり思われたら、なんてかわいそうなのだ。
だが、それで
「アタシってばか。なんでこんなもんに引っ張り回されたんだろ」
って、「お告げ」から冷めてくれたらまだいい方だ。問題は、最初のほう。

その後も神様からのお告げを聞き続け、いや、神様からの「いいわけ」を聞き続け、ああしろ、こうしろと振り回され続ける事だ。。。
心のどこかで当たらなかった予言に不信感を抱く。その苦しさから逃れるように、自分への正当化が頭をもたげる。
「いーや!、この神様が言う事は本当なのだ!」
とムリヤリその中に没頭する事の方が危険だ。
そのうち、まわりもおかしな事になって来たと気がつく。
「ママ、それおかしいよ。。」
「パパ!なんてこと言うの。これは神様からのメッセージなのよ!」
こうして現実とかけ離れた世界の中に没頭していくことになる。そして日常生活はおくれなくなる。。。


じつはそういう存在は、いないんではないだろうか。
彼女の意識していない深いところにある思いが、「神様」を作り上げたのではないだろうか。息子さんはそんなママの思いに答えたかっただけだ。スピリチュアル系の人は、それを「悪いヤツが入った」と言う。そうではないと思う。ママの個人的な思い、鬱屈した思い、いろんなストレス、心の奥深くにたまっているネガティブなおもいが、「神様」という存在を作って、救いを作ったのだ。それは何よりも彼女自身が救われたかったからではないだろうか。このメッセージをみんなに伝えてみんなを救いたいとおもう。それはそうする事で、彼女自身が救われるからだ。
このやまんばだって、へなちょこな野菜をもってぱぱさんちにもっていくのがうれしい。それは何より喜ばれたいからだ。みんな人に喜ばれて幸せを感じるのだ。

その眼に見えない存在からの、地震の予言以外のメッセージは、感謝しなさいとか、やさしい心になりなさいだ。そんなものはそこらの霊能者さんはみんな言っている。霊能者さんだけでなく、お坊さんも、牧師さんも、先生も、幼稚園の園長先生も、おばあちゃんも、おかあさんもみ〜んな言ってくれる言葉だ。
それを宇宙人や、死んだ人や、神様からもらったといってありがたがる必要はない。だからママさんもその「神様」にすがりつく必要もないし、それを見る読者もありがたがる必要もないのだ。

その神様の言葉は、そのままママが願っている言葉なのだ。感謝したり、やさしくみんなを思う気持ち。それを自分自身に向かっていっている。それが今回こんな形で現れたに過ぎない。
そんなママを
「しかたねえなあ〜。ま、わたしでも同じ事になったら、そうなるわな」
と、彼女を非難する事なく、自分の事のように受け取って欲しい。


今は、極端に心が走る時代になって来ている。今の今まで味方だと思っていた人が、何かの拍子にいきなり敵に変容する。人々の心が不安定になって来ている。だからこそ自身の心を淡々と見る必要がある。
ある日、突然自分にメッセージがおりて来た!と言う現象が簡単に起るかもしれない。
しかしそれは外からのものではない事に気づいて欲しい。鵜呑みにしないで欲しい。これは自分のどこかにそれを望んでいたからこういう形で現れているのではないのか?と、自分自身を観察して欲しい。

ママと息子さんの出来事は、今の日本をよく表してる出来事だったとおもうなあ。。。



絵:「バンドネオンの豹」表紙イラスト

2011年8月12日金曜日

何でみんな東を向く?




なんで植物は東に向かって伸びるんだろう。

地場いキュウリも、カボチャも、サツマイモのツルも。インゲンのツルのさきっちょも支柱を超えてしまい絡まるところを見失うと、東向けに空中を泳ぐ。み〜んな東の方向にいきたがる。
畑の管理人やまんばとしちゃ、「そっちは隣の畝!そっちいっちゃだめなの!」と、方向転換させるんだけど、やっぱり東に行きたがる。

東側に何があるんだろ。太陽を拝むんだろうか。「あ〜ありがたや、ありがたや」と。そしたら、日が沈む西側にだって向かわないといけない。でも太陽が西に沈もうと無視。ひたすら東を拝んでいるようす。ニンゲンだってご来光をありがたがる。同じ太陽がぐるぐる回っているだけなのに、東側から出る太陽の方を尊ぶ。なんでや?

東から出るお日様には、何かこう、スペシャルなビームでも出てるんだろか。生命を活発にさせるようななにか。ときどき何も食わんと生きられるっちゅうお人がいたりするが、そんなお人たちも、朝日を拝み、朝日からエネルギーをもらうって言ってたなあ。水と大地とお日様から栄養をもらっている植物たちにとって、朝日から出るスペシャルビームは、特別な栄養をくれるんかいな。栄養って言うと、物質的だけど、英知みたいなものかもしれんなあ。


やまんばは膝を痛めてしまった。どうも、草刈りに没頭し過ぎて、無理したようだ。うんこすわりのまま、草刈り移動を続けていたのだ。膝に負担が来たんかもしれん。はたはた「おめえ、草刈り過ぎ!」と言うメッセージかもしれん。しばらく畑は草が生えるままにしておこう。秋が来たら、種まきの時に草刈ろう。

そんなふうに思えるのも、畑のおかげだと思う。人も自然もそのままで完璧なのだなあとつくづく思う。意味があって草がそこにはえ、意味があってみんな東を向く。意味があってやまんばは膝を痛める。そこで右往左往してなんとか治さなきゃとあせる必要もない。

自然の姿はそれだけで完璧だなあと思うんだけど、わしらニンゲンだって、この肉体は自然の姿なのだ。背の低い人も背の高い人もみ〜んなそれは個性であって完璧なのだ。何かの基準を設けてそれと比べ、「これは優れている」とか「これは劣っている」と言うのは、短絡的でアホな考えだ。だからそんなアホな考えを止めよう。ひとりひとり全くもって完璧な姿をしているのだ。その完璧なものは、その完璧さんに任せようじゃないの。大自然はその英知でもって、勝手にバランスをとって進んでいく。

今は何でも「怖がれ」という。「何かあったときのために」「自己責任ですよ。なんかあっても知りませんよ」これは暴力のような言葉ではないか。恐怖でもって人の判断を惑わしてくる。
それは薬屋さんやお医者さんや保険屋さんがウホウホ儲かるためのインボーかもしれん。
緊急を要するものは、きっと本能が動く。とっさに動き始めるものだ。

わしらはもっと優雅に豊かに生きていけるんじゃないかなあ。山見て、虫見て、草の匂いをかいで、風の音を聞いて。

やまんばの膝は、今は動くなよ、と教えられているのかもしれぬ。それは、草刈り過ぎと言う事かもしれんし、身体使い過ぎと言う事かもしれんし、もっと他の深い意味があるんかもしれん。ただそれをそのように素直に受け止めるだけでいいんではないかと思うようになって来た。そこで「なんとかしなきゃ」と思うのは、きっとそれに対する怖れと、抵抗なのではないか。

すべての事は思考を離れると、ひたひたと、粛々と、淡々と進んでいくのだ。


絵:「怪談皿屋敷」

2011年8月10日水曜日

怪談は無形文化だなあ〜





いや〜楽しかった~。
舞台美術家の江頭良年さんが手がけた稲川淳二さんの『怪談ナイト』を見てきた。

江頭さんが稲川さんの舞台を手がけ始めて7年ぐらいになるという。
舞台は毎年設定を変える。彼が演出した舞台をバックに、稲川さんが怪談話をするというもの。今回はどんな演出?それは見てのお楽しみ。いやはや、ほんとに本物そっくりに作り込んである。あれは○○だと思っていたら、「あれは布だよ」という。近くで見たって色といい、さびといい、○○にしか見えない。なにげないところに紙が挟んであったり、昔の牛乳瓶の木箱がかけてあったり、そしてコンクリートの間からのぞく雑草まで!その繊細な仕掛けが、舞台の雰囲気を見事に演出している。本当に手を抜いてないほんまもんのお仕事を見せていただきました。

稲川さんは、謙虚なお人柄。お肌つやつやしてテレビで見るより、はるかに若い人だった。彼は言う。「江頭さんの作ってくれた舞台で、私は何も演出する事がない。もうその中に入るだけでいいんです。」
それは彼の舞台の空間作りが、非常に心地よい、理にかなったものだと言う事だ。稲川さんはその中に立つだけで、その空気感の中に入るだけで、すでに怪談話がはじまっているのだ。

稲川さんは、舞台のお話の中で、怪談には日本人の感性があるとおっしゃっていた。暗がりの中でふと聞く足音、雨水のたれる音、風がイタズラをする音、ふっとにおうお線香のにおい、遠くにぼんやり光る明かり。。。その一つ一つに日本人は感覚を研ぎすませ、そこに物語を見る。これはまさに日本人ならではの、りっぱな文化だ。

私は怪談話と聞けば「こわ~い!」としか思わなかったが、彼の一言でハッとさせられた。これは日本のエンターテインメントなのだ。心霊写真もたのしんでくれ!という。なるほど。そういう「楽しみ方」もあるのだ。日本人は昔から、繰り返しの多い普段の生活の中に、ハッとしたり、ぞくっとしたり、悲しんだり、笑ったりしてハレの瞬間を作り、そこに新鮮な空気を入れ、生きてぬいて来たのだ。と同時に、雨音一つに世界が広がる感性を養って来たのだ。心霊写真を楽しまんでなんとする!(やっぱりこわいけど)

普段の生活とは違う演出された異空間と、無形文化とも言える日本の怪談話。この二つの日本の文化を満喫できたぜいたくな時間だった。

ちなみにその夜は寝られたかって?
寝たよ~。だって日本の文化を味わったんだもん。

2011年8月6日土曜日

無駄なテイコーは止めろ



恐怖とは、観念のようなのだ。
んな事言ったって、怖いもんは怖いのだ。これのどこが観念なのだ?

しかしよーく考えてみたら、恐怖している時、そこにその恐怖のものはない。例えば、お金なくなったらどーしよーとおもうだろ?こわいわな。でもなくなったら、と考えるだけで、とりあえずはそこにある。10円でも20円でも。これがゼロになったらどーしよーとおもう。という事は、今ゼロじゃないんだ。
ここで誰か家の中に侵入して来て、ピストル突きつけられたらどーしよーと恐怖する。でも考えているそのとき、目の前にピストル突きつけている人はいない。ほら、それって今ここにない事を、あったらどーしよーと妄想して怖がっているわけだ。病気だってそうだ。ガンになったらどーしよーとかんがえる。しかしその時ガンではない。だからそんなふうになったらどーしよーと考えて、恐ろしがっているのだ。

じゃあ、ホントにお金がゼロ円になったらどーする?目の前にピストル突きつける人がいたらどーする?ガン宣告されたらどーする?

そんときゃね、そこには恐怖なんてないんだよ。あるのは、ただそれがあるだけ。財布の中がゼロ円になったとき、その時その人はその瞬間、なぜか淡々としているもんなのだ。(なった事あるみたいな口ぶりだな)

だが思考が動き出した瞬間、恐怖が立ち上がる。
「え~~~~っ、家賃払えないじゃん!どーするのー!」
ピストル突きつけられた瞬間、(私の友だちがそうだったんだが)そこに恐怖はない。だが次の瞬間「撃たれたらどーしよー!」と思考が動く。
ガン宣告された瞬間、そこに恐怖はない。しかし次の瞬間思考が動く。
「え~~~っ!死ぬの!?治療費は?お金は?ああ、どうしよう!」

私たちは、おそれていた恐怖そのものがやって来たその時、実に淡々としたものなのだ。だが次の瞬間、思考が過去を振り返って、こうなったらどーしよー!と言い始めるのだ。ほら、思考が恐怖を生み出していないか?
その次の瞬間、またもや今ここにないものを恐怖している。つまりあった瞬間は何も恐怖はないのだ。思考が恐怖を生み出しているのだ。


私の友だちの、そのピストルを突きつけられた彼女は、そこで抵抗しなかった。もし撃たれたらどーしよーという恐怖があったなら、逃げようとしたはずだ。しかし彼女はそこにとどまった。無抵抗になった。つまりその状況を受け入れたのだ。するとどうなったか。なぜかその犯人は彼女を撃たず、逃げていったそうだ。
ああ。彼女の心にわたしゃ感謝したい。そうでなかったら、友だちをなくしていたかもしれない。

やまんばがニューヨークで出会った怪しい兄ちゃんのときもそうだった。いきなり誰もいない公園ででくわした。「どこいくの?」そう声をかけて来た兄ちゃんは、いかにもすぐキレそうな顔をしていた。あきらかに何かをもっている。ここで拒絶をしたら、ナイフが出てきそうなくらいの緊張感を持っていた。そこでやまんばは親しげに話をした。「あなたはどこからきたの?」イスラエルからNYの親戚のうちに遊びに来たそうだ。ホントかどうかは知らない。よく聞くと日本にいった事があるそうだ。それで日本の良さやアメリカの文化の話やいろんな話を歩きながらした。一本道の公園。まわりはうっそうとした森。どこにも逃げられない。しばらく歩くと、道路に出た。それで「私はこっちにいくからね。お話しできて楽しかった。じゃ、よい旅を。」といってにっこり別れた。

抵抗は恐怖を作る。抵抗はすなわち、思考の始まりだ。瞬時に過去あった出来事を思い返して、又はテレビで聞きかじった最悪の内容を思い出し、そうあって欲しくないと抵抗するのだ。先日書いた地震の話もそうだ。揺れると過去にあったいろんな出来事を瞬時に思い起こす。恐怖が走る。思考とは、過去の記憶の産物なのだ。知っているものしか知らない。だから思考は新しい事を生み出せないのだ。インスピレーションは突然やってくる。そのとき思考は働いていない。だからわしらみたいな平凡なヤツが考える事と言ったら、過去の出来事の御託を「あ~でもない。こ~でもない」と並べるだけなのだ。

「無駄な抵抗は止めろ!」
というきまり文句があるだろ?あれ、ホントの事なんじゃないか?
抵抗はそもそも無駄なのだ。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶が出てくる(思考)→ たいていチョー怖い記憶を思い出す → そうなりたくない!と思考する → そこから逃げようとする(抵抗)→ 恐怖が増大する。→ 恐怖からなんとか逃げようとする → 過去の記憶から方法論を見つけ出してくる → だがケースバイケースでその状況にぴったりなもんなどない → あせる → もっと他に方法はないかと探す → 人のパターンに自分があうわけない → あせる → 無理矢理あわせる → しっくりこないが、とりあえず解決しているはず。。。と頭で考える → だけどどこかで不安。。。→ ずっとその恐怖をもち続ける → そのうちテレビを見て、恐怖している事も忘れてしまう(心の押し入れの中にしまい込む。なかったことにする)→ 同じ恐怖の対象が起る → 淡々と受け止める → 次の瞬間過去の記憶が出てくる → エンドレス。。。

これが私たちが通常おこなっているパターン。しかしこれをこう変えるとどうなるか。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶から恐怖がやってくる → だがこれは観念だと気がつく → 無駄な抵抗しない → その問題から逃げない → 心が静かになる → 自分のこととして真摯に受け止める → いいとか悪いとか、非難とか正当化とかしないでハラくくる → 思考を停止する → 解決方法が自ずとやってくる。

どうもこういうシステムになっているよーな気がして来た。その人にやってくる問題はきっとその人に必要な問題なのだ。
厄介な事がやって来た!えらい災難だ!ということは簡単。まるで「ぜんぜん聞いてな~い!」と、いきなり不幸が訪れたようなフリしとけばいいんだから。人に言えば同情してくれるし。
それでいーんだろうか。セーフのせいにしたり、ダンナのせいにしたり、システムのせいにしたりすると、怒っているだけでいい。恐怖におののいているだけでいい。だけどきっと棚上げした問題はやがてどっちみち自分ところに帰ってくる。

ただそれだけのことなんじゃないか?
逃げてはいけないとか、ごまかしたりしてはいけないと非難してるんじゃないんだ。単にこの世はそんなふうになっているんじゃなかろうかとやまんばは思っているのだ。その仕組みを理解しさえすれば、人はなんて事なくこの世の『不幸』と思っている事をさら〜っと乗り終えられていくんじゃないかと。

海の中でうんこすると、自分の隣にプカ~ってういてくる。「やだやだ」とそこから逃げようとすると、なぜかうんこは一緒についてくる。もっと逃げるともっとついてくる。(何で知ってんのや?)しかしそこでじーっとその場にたたずんでいると、潮の流れがゆっくりとうんこを流して沖の方に去っていくのだ。
自分の出したうんこに抵抗すると、うんこがずっとつきまとうという深い教えだな。

その恐怖、自分であおってないかい?


絵:似顔絵/西森マリー

2011年8月1日月曜日

地震で足をふんばるやまんば




やまんばは地震が来ると、足をふんばる。なんでか。何となく地面が揺れるんが収まるような気がするからである(お前の力はそんなに強いんか)。だから地震が来るたびりきむんで疲れる。

こないだ近所の幼稚園の子供たちの話を聞いた。あの大地震があった時、幼稚園児たちは、一緒になって自分たちも揺れて大騒ぎしたのだと言う。たぶん、彼らにとって地震が恐いという記憶も体験もないからだろう。だから「あ〜っ、地面が揺れてる!おもしろ〜い!」となったんだろうな。

子供は、地震についてのイメージがない。だからそれそのものを受け取る。地面が揺れるっておもしろいことじゃないか。ところがここで大人が「危ないじゃないの!」というと、地震=危ない事、という記憶がインプットされる。
そうやって地震はこわいものだと私はインプットして来た。だから足をふんばって揺れないようにする。はたまた机の下に隠れる。

さて先日も揺れた。ウチのダンナが「わ〜揺れてる〜、オレも揺れよう」といって身体を揺らしだした。すると私もなんだか揺れたくなって、揺れた。大の大人二人が地震に会わせて身体を揺らしたのだ。するとどうなったか。
おもしろかったのだ。

今朝までその事を忘れていた。
友だちからのメール「宇宙に安定などないのだ」という言葉に触発された。そうだ。ニンゲンなんて大しけの中にいる大型客船に乗っているお客みたいなもんだとおもった。右往左往するだけで何にも打つ手はない。だけど心がなんとかしないといられないので、船の中でうろうろする。きっと足をふんばってみたり、テーブルの下に隠れたり。その姿ははたから見たら、こっけいにうつるんだろうな。

恐怖は人を翻弄する。しかしその恐怖も自分が作り上げるとしたら。自分で自分に恐怖の種をまいているとしたら。

自分で揺れた時、そこには何も恐怖はなかった。あるのはただ、楽しかったのである。それはダンナと一緒に揺れたからか?多分、子供たちもあの時楽しかったに違いない。みんなで一緒に揺れたのだ。

足をふんばるのと、一緒に揺れること。この二つに何の違いがあるのか。
前者は揺れへの抵抗である。そして後者は揺れを受け入れているのだ。

人は恐怖を感じると、とっさに逃げようとする。肉体的にも、心理的にも。けれども園児たちにその恐怖はなかった。だから抵抗もなかった。ただその揺れを受け入れた。それはただ楽しかった。
しかし私たち大人はすでに揺れる事に対する恐怖がある。だから揺れると即その場から逃げようとする。抵抗である。するとその恐怖はより増幅される。ところがそれを受け入れると、そこに恐怖は存在しないのだ。

それはあらゆる事に通じる事ではないのか。あるがままを受け入れる事は、エネルギーになっていくのではないだろうか。あるがままに抵抗するとそれがマイナスに転じ、あるがままだったら、ゆかいな事になるのかもしれないではないか。

だからといって、大揺れの最中にへらへら笑って揺れて踊って、上から天井が落っこちて来たらあほであるが。

やまんばが家の下敷きになって発見されたら、
「あ、こいつ踊ってたな」と思っておくれ。


絵:似顔絵「松尾貴史」

2011年7月28日木曜日

親のしつけ





先日、あるお母さんがなげいていた。
「息子がぜんぜん朝起きないのよ~」

「もう、がんがんに怒って怒鳴ってやっと起きてくるの。朝からたいへんよ~。こないだなんか、あまりに起きてくるのが遅いから、私のパートまで遅刻しちゃって。。」
「そんなの『じゃ、お母さん先いくからね』ってほっぽっといたらえいやん。」
と私。
「だめよ~、そんなことしたら。学校ずる休みしてたんだから!」

学校から電話があって発覚。彼一日中、なにしてたんだろな。
彼はなかなかいい子なのだ。近所のおばさん(やまんばにも)にもぶっきらぼうながら挨拶する。最近は、大人を無視する子が多いのに、大人の存在をちゃんと尊重している。それはとーちゃんかーちゃんが厳しく育てたからなんだろうな。まだ彼がちっちゃかった頃、よく彼女に頭小突かれてたのを思い出す。

入学した中学校には、知らない生徒がいっぱいいて、戸惑っている様子。こっちから声をかけても気のない返事をされたりして落ち込んでいるそうな。だから学校には行きたくない。だけど母ちゃんとしては、「そんな事でこれからの人生どう渡って行くの!」という熱い思いがあふれているから、「早く行きなさい!」となる。わかるわかる。私もそうやってハッパかけられて育って来た。


多感な少年時代、ちょっとした事で傷つくもんだ。自分の事に興味がないんだ。。。と思い込んで、奮起して声をかける勇気がない。自分に自信がないのだ。そりゃそーだ。単純に考えて、学校で友だちに無視されるわ、家ではいつも怒られるわ。お前はだめだだめだと言われ続けるし。
そーゆー状況にいて、自分に自信が持てるだろうか?
「かーちゃん、友だちに無視されるよ~」
「だからお前はダメなんだよ」
「。。。。」

子は親を見て育つ。子には親しかいない。親を離れるということは、即、死につながっている。だから必死で親のいう事を聞く。
「お前はダメだ」
と言われると、そうかオレはダメなんだ、とおもう。親は愛情のつもりでハッパをかけるが、子供はその言葉をそのまま受け取る。
「オレはダメなんだ」
最初のそのインプットは、いろんな場面で確信につながる。友だちに無視される、遅刻する、ずる休みする。ほら。やっぱりオレってダメな人間じゃん!とね。

彼の目の動かし方を見ているとわかる。おどおどしている。人の顔色をいつも見ている。けっこう大きな身体をしているが、それに似合わず格好は小さくなっている。

親は親で大きくなる息子に脅威を感じている。今でこんなに問題があるんだからこれからどんなことが起るかも分らない。。。と。だから息子に気を使いつつ、怒る。


「そんなふうにいつもダメだダメだっていうから、自信なくすんじゃないの?」というと、
「だって、それ言ってないと、何しでかすかわかんないじゃない。朝起きる事さえうまくできないヤツは何やってもダメじゃん」という。

朝うまく起きられないことが、人生のダメモードの始まりだと言っている。だけどやまんばがおもうに、そもそもなぜ起きられないかと言うと、学校がイヤなわけで、その理由は、友だちに無視された事で、それを大きくとらえてしまう心があるわけだ。それは、自分がひょっとしたら、ほんとにダメなニンゲンなんじゃないか?という結論に導かれてしまうという怖れがあるわけだ。だからそれを導きだしてしまうかも知れない学校にいきたくないのはトーゼンだ。そもそも学校とは公の社会であって、今その彼の資質を試されている!ともいえるからだ。ほんとはそんなことでその人の資質が決まるわけでもないのに。

ところが彼女の頭は、遅刻するのは人生の脱落者という構図が出来上がっている。自分の息子を人生の脱落者にするわけにはいかぬ。親の責任として言って聞かせるべきなのだ。「そんなことでどーするの!」
この言葉は、彼が遅刻を止めるまで、言い続けなければいけないのだ。なぜなら、「言わないととんでもないことになるから」
とんでもない事とは、学校休んじゃうし、勉強はできなくなるし、成績落ちてグレるし、そのうち悪い奴らに捕まっちゃうし、犯罪なんか侵しちゃうし、そーなったら、もうここには住めなくなる!
ちょっと待っておくれ。それって自分の事心配してね?


そんなことでどーする、と息子に言い続けるのは、じつは「これ言い続けているうちはまだマシ」と思う彼女の心の保証であって、彼の保証ではないのだ。
反対に、そんな事でどーすると言われれば言われるほど、彼はますます自信をなくし、ますます学校に行けなくなる。だって、友だちに声をかけて無視された事にぐじぐじ悩むのは、自分が「オレっていけてねえし」と思ってるからでしょ。そのいけてねえしを作ったのは、親の言葉なのだ。その親の言葉が容赦なく降り掛かる。「そんなことでどーする!」

親は、子供に常にそう言ってないと、何しでかすか分らんと思って言い続ける。しかし子は親の言葉によって「おれいけてねえし」という確信に向かう。
するってえとどーなるかっちゅうと、学校休んじゃうし、勉強はできなくなるし、成績落ちてグレるし、そのうち悪い奴らに捕まっちゃうし、犯罪なんか侵しちゃうし、そーなったら、もうここには住めなくなる!
ほーら。親の思った通りの子になるのだ。
そーゆーのを今ハヤリの言葉で言うと、負の連鎖ってことかいの。なんかいやだね、この言葉。

どっちもなんとか頑張っていい親でありたいと思うし、いい子でありたいと思っている。昔は厳しく育てて立派な大人に成ったという歴史がある。だから子は厳しく育てろと。そーやって、厳しく育てられたもんだ。たいていどこの親も厳し〜く育てた。んで、この世の中さ。りっぱじゃん?りっぱな世の中じゃん?


「ほめなよ」と私。
「へ?どこほめるところがある。」と彼女。
「あるじゃん、いっぱい」
「どこよ」
「お肌」
「なんじゃそりゃ。。。」
「何でもいーから朝一発ほめる。『あ〜ら、今日はお肌つやつやね〜』と」
「え〜〜〜〜、そんなことお?」

『おれ、ほめられて育つタイプだから』がはやったのは、ある意味真理をついている。
誰が彼を育てるのだ?ほめる事は何よりも彼にエネルギーを与える。ほっぺのひとつでも、プチって触ってあげればいい。「やめてよ〜かあちゃん」って言うかもしれない。でも心のどこかがウフッてよろこぶ彼がいる。ほんのささいなことで、朝から少し空気が和む。
言葉は諸刃の剣だ。それで人を斬る事も出来るし、生かす事も出来る。今の時代は阿吽の呼吸なんてえもんは、もはや存在しない。言葉をフルに使って人を生かすのだ。

「オレ、肌きれいなんだな。。。」
と思いながら学校にいくはずだ。彼の心にエネルギーの明かりがポットともる。身体が暖かくなっている。かあちゃんはすかさず、次の一手を打つ。弁当残さず食った事、ちょっと筋肉がついて来た事、玄関の靴がそろっていた事。。。。
きっと彼の反応は、「フン」だ。でもそれが確実に彼の心にはいってくる。

エネルギーをつくろう。そのささいなことがいつのかにかその人のパワーになる。
そのパワーは、友だちにもう一度声をかける勇気を与える。すると友だちからの反応に対する彼の反応にも変化があるはずだ。気のない返事をされても、「あ、今忙しいんだな」という解釈になるかもしれない。不思議な事に、こっちにエネルギーがあると、向こうもそれなりの反応を示してくる。学校にいくのが楽しくなる。朝起きるのがおっくうでなくなる。遅刻しなくなる。

かーちゃん、あんた次第で家庭は変わる。家庭が明るくなると、とーちゃんも仕事で明るい。仕事場が明るくなると、従業員も明るくなる。営業マンも明るくなると、その得意先も明るくなる。そーやってこの世は連鎖していくのだ。


絵:似顔絵「ドクター中松」

2011年7月25日月曜日

ウチの雑草、大根だから。




こないだの巨大カイワレ大根さん。アレから白くなって虫が出て消えつつある。やはりちょいと早すぎたのかいの。
ところが今度はべつのところからわらわら出始めた。こぼれ種で勝手に育って勝手に花咲いた南西の隅の大根。そこらあたりいったいが草がすごかったので、先日思いっきり刈り倒した。ついでにさやのついた大根も刈り倒した。今そこからカイワレがわらわらと。。。足の踏み場もない。
大根様、おみそれいたしました。「さやと一緒にすき込む」なんてニンゲンのこしゃくなマネは必要なかったのでございますね。ほんとは種もまいちゃいけないのかも?

それにしてもこんなに大根が元気だとは知らなかった。これが果たして私の足のように大きく育ってくれるのかどうかはわからんが、その土地にあっちゃったものは、雑草のように育ってしまうのかもしれん。

そーいえば、ジャガイモ。去年は一個の種芋に一個しか実らなかったが、今年植えてない場所からもわらわらと芽が出る。昔植えていたところだ。ちっちゃな種芋でも残っていたのだろう、と思いつつひっこぬいてみると、でてくるでてくるりっぱなジャガイモちゃん。あっという間にバケツ一杯に。今年はジャガイモの当たり年なのか?
ジャガイモも大根も仕込まなくって出てくるってどーゆーこと?つまりウチの畑は大根とジャガイモの雑草がはえるってこと?
どっちもいったんここで実になったものばかりだ。ということは、ここにあっちゃえば、ほっぽっといても出るってことか?イヌコロ草のように。

いまんところ、この二つしかそんな気配はない。でも。。ぐふ。。ひょっとしたら小松菜もレタスもナスもキュウリも雑草のように出てくるのかもしれん。そーすると、笑いが止まらんではないか。

「うち?ええ、キュウリやナスが雑草のように出て来て、そりゃーもーたいへーんでごじゃいますのよ〜。ほーっほっほ」
と、声高らかに近所の口うるさいオヤジどもを制する事が出来るかもしれん。(そこかい)

去年イノちゃんにみごとにぜーんぶ食べられた里芋。その畝から新たな里芋の芽がでて来た。下に何かしら残っていたようだ。今、キュウリと一緒に共存している。
見渡せば、ものすごい量のイネ科の雑草でおおわれた畑。あまりの草の勢いにぼーぜんとする。しかしその土の中では、わしらの考えの及ばないところで、いろんな存在たちが粛々とお仕事をなさっているのだ。


絵:MF新書「セックス嫌いな若者たち」いやよーするに、妄想の方が大きな存在になっているということでしょうなあ。

2011年7月20日水曜日

腐敗を好んで食べるヤツ





カラカラに乾いた畑に、久々に大量の雨が降った。
近所の畑には水たまりが出来ている。やまんばの畑にはもう水がたまらなくなった。草さんのおかげで土の中に変化があるようだ。水はけがいい。

それまでアリがビッチリついていたインゲンのツル。雨の後、アリさん、ほとんどいなくなっている。心なしか元気そうなインゲン。炭素循環農法の林さん風にいうと、野菜が元気になると、虫が「こいつは食えねえな」といって退散した、ということか。

虫は腐敗するものを好んで食べると言う。食物は腐敗か発酵に向かう。発酵に向かうものはニンゲンが食べ、腐敗に向かうものは虫が食べる。虫にとって食べた後、からだの中で発酵するものは、命取りのようだ。だから食べない。
一方、ニンゲンにとっては、腐敗するものより発酵するものを食べる方が生きられる。道に転がったフンには虫はつくが、人が好んでフンは食べない。(いや、一部愛好家の方もいらっしゃるが)Dr.スランプに出てくるハエブンブ星からやってきたブビビンマンは、地球でうんちのおいしさを知る。人の姿をしながらも、やはりキホン虫であった。

腐敗に向かう野菜は虫さんに食べてもらい、発酵に向かう元気な野菜は我らニンゲンが食べる。ほら。虫さんとわしらニンゲンは共存できるのだ。害虫といわれるのは、ニンゲンが「これわしが食いたいのに、お前らが食いやがって。。。。」という目先の欲にとらわれた勝手な解釈であった。ほんとは虫さんは「あっ!これ、腐ってく!腐ってくもんはわしらが処分するのだ」とお仕事に取りかかっているだけの事なのだ。

ということは、虫さんがたかっている野菜は、食わん方がいい、ということになる。だが雨が降って野菜の苗が元気になり、もりもり育ち始めると、虫はつかなくなる。じゃあ、野菜が元気になると、虫さんの食べるもんがないじゃあないかとおもうだろ?ちゃんと隣の草を食んでいる。インゲンの葉の横にある葛の葉を食べている。虫さんは虫さんで生きてらっしゃるのだ。
そういう自然の法則を知っておくことはなんだか大事な気がする。

実は草にもそれがいえるような気がしている。
野菜が元気に育っているところの畝には、イヌコロ草(エノコロ草のこと)がちょろちょろしか生えない。だけど、ひとたび「この野菜、ダメね」と、草さんが見下したら、がぜん草さんの勢いは増す。だもんで、畝によって草の勢いが違っているのだ。同じエダマメの畝でも、草におおい尽くされている畝と、ちゃんとエダマメが太陽を浴びるに十分なお日様をくれる草の高さとがある。この二つは撒いた時期も違っていた。そして畝の中身(土の内容)にもよるのかもしれない。どっちにしろ、虫と草は、その野菜の今の状態をよく教えてくれている。

わしらニンゲンはどーも目先の事ばっかりに気をとられる傾向があるらしい。確かに物質的に目に見えると、「あ〜〜〜っ!」とおもう。だけどその時反対の側から眺めると違ったものが見えてくる。ほら、よく相手の立場になってモノを考えなさいっていうじゃない?これって、たぶん何でもいえる事なんじゃないかなあ。やまんばもいっつも自分の立場でしかモノを考えない。欲にまみれてモノが見えない。林さんの視点は自分がやっている事を気づかしてくれる。いつも向こうの立場になってモノを考える習慣を身につけたいなあ。。。。

みょ〜な動きをする今回の台風さん。きっと何かお考えがあっての事なのだろう。日本を洗濯しているのかもしれない。。。


絵:MF新書「田舎の家のたたみ方」トーキョにいる田舎人にささげます。うち?家無いし。