2010年9月9日木曜日

みんな正しい




人はみんなそれぞれに正しいんじゃないだろうか。
それぞれの立場でそれぞれの理由によって行動する。しかしそれははたの人から見たら、
「ありえね〜」とか「しんじらんない〜」と解釈される。かくしてその行動した人は影で
「あいつばかじゃねえの?」と揶揄される事になる。
そういう事がこの日常の中でいくつも繰り返されている事じゃないだろうか。

先日も母が知り合いのとった行動がおかしい、ばかばかしいと怒ったり嘆いたりした。
長年日本画の生徒であった人が、先生クラスの画家しかやれない画廊で大掛かりに展覧会を開くと言う。母に言わせれば、彼女はまだ展覧会を開けるようなレべルの絵ではない。しかも申し込んだ画廊から、「生徒さんが申し込むようなところじゃないわよ」と言われたらしい。それでも彼女はがんばった。最近同じ教室の生徒さんが東京で個展を開いた。(それは子供が東京にいるからという事でもあるが)それを聞いて、がぜん闘争心が湧いたようだ。大々的に宣伝をして、わざわざ図録まで印刷する。相当お金が飛ぶ。それでもやりたい。しかし彼女ひとりの絵では空間がもたないらしく、同じ日本画教室の仲間を呼んでの展覧会になる。ところが母はそこに呼ばれなかった。彼女いわく、
「あなたは絵が私よりうまいから出さないでくれる?」

ここまであっけらかんと言われると気持ちがいい。私は笑ってしまった。
しかし
「アタシもそっちの方が楽ぞね。なんちゃあ手伝わんでえいし」
という母の言葉に怒りがあった。そりゃ常識からしたら、見えはりの勝手な人である。母の美意識からしたら、もってのほか。ニンゲンの風上にも置けないひどいやつ。

でもそうなのかなあ。
彼女にとったら、それが「正しい行為」なのだ。見えはるのも、彼女の存在理由を求めるためなのだ。私はここにいていいのだと、外から確かめたいのだ。それは彼女の小さい時の生い立ちも影響しているにちがいない。彼女のひとつひとつの行動がそういう今まで生きて来た間に身につけて来た考えなのだ。

人は自分の中に基準というものを作る。それがいわゆる「常識」というやつだ。ウチのダンナがいつも「フツーこうだろ!」と怒る、その「フツー」とは彼の中にある常識なのだ。それは誰とも同じではない。みんなそれぞれの立場、生い立ち、経験その他、無数の出来事によってその場その場で対応して出来上がって来た考えであり、行為なのだ。
母も同じように彼女の生い立ち、おばあちゃんの考えをもらって基準を作り、その基準でもって行為している。私にはそれは美しい行為にみえる。(時々おバカだけど)しかしそれも私が母の基準をみて育ったからなのだ。

だから先方のおばちゃんの行為はその母からの基準でみれば醜く映る。が、それは一視点から見ただけの事だ。他の視点から見れば、自分の欲望をそのまま表現する素直な人、となる。

「かわいいじゃあないか〜、そのおばちゃん」
とダンナは言う。
「そこまで素直に言えないぜ。あんたの方がうまいから出すななんて」
つまりそれは母の絵を認めている事でもある。

いわれた当事者はそんな事言われたら頭にくる。でもそこでジャッジしてばかりいると、その人がもつ基準の中だけでいる事になる。それでは人はいつまでたっても相交わらない。そんな出来事があったという事は、そこで何かを考えろと言われている。
「あなたの基準だけで生きていてもくるしくなるわよ」と。
人は自分の基準でもって、人や世の中をはかっている。いや外ばかりではない。自分自身の事だって「こうあるべき姿」を基準にして自分を常にジャッジしているのだ。そのおばちゃんだって、「あたしはこうあるべき!」という強迫観念的な基準でもって、自分を今押し進めているのだ。

じゃあ、そんな基準捨ててしまえばいいのか?
いんや。基準は自分ももっているし、人ももっているという事にまず気がつく事なんじゃないかな。そしてその基準でもってみんな行為をしている。そしてその行為はちゃんとそれぞれの心の中で正当化されている。そこを理解すると、ジャッジは必要だろうか。
ほんとうは、みんな正しいのだ。それぞれの立場でものを考えると言うではないか。それはとてつもなく大事な事なんではないだろうか。それは認めあう事でもある。そうなってくると、批判もジャッジもなくなる。自分自身へのジャッジもだんだん意識化するうちに消えはじめる。すると楽になっていく自分に気がつくのだ。

みんな正しい。みんなえらいのだ。


絵:アジアを旅行するガイドブック表紙/ベトナム

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

他人を気にせず、勝手に(に見える・・・)生きてる人見ると、うらやましく思います。何を言われるかを考えると、普通は躊躇しそうなことを、堂々としてる。で、それが当たり前に見えてきちゃう・・・。行列の横はいりやら、傍若無人の席取りやら、万引き見つかっても「お金を払えばいいんでしょ!」とかとか、悪い例をあげればさすがに切なくなりますが・・・。

つくし さんのコメント...

みんな防衛本能なんだろうなあ。
勝手に見える人も、まわりを気にしてバリアーをはっているんじゃないかなあ。自分を守るために正当化もするし、防衛のために攻撃的にもなる。
万引きした人もいけないことしたと分っている。わかっているがゆえに、みつかると防衛本能で攻撃的になる。言葉だけ聞くとひどい事を言うように聞こえる。けどきっとみんな臆病で気が小さいのだ。ばれないで万引きできたらラッキーとおもっている。でももうひとつの心はいけないことしているという罪悪感に苛まれているはず。きっとその人は、自分で自分を責めては「いいや、貧乏だからやるしかないんだ!」という正当化と「ああ、もうやめよう」という後悔と罪悪感の中でぐるぐるしているんだとおもう。

そういう人はそっとしておいてあげたいとわしは思う。みたままを受け取って、その行為をあれこれ、あとで詮索するのはやめたいなあ〜と最近思う。だって、それは自分の基準でモノをみていることでもあるし。その勝手な基準で人を判断したりジャッジしても自分が苦しくなるだけなんだもん。

最近は、意識的に頭ん中を空っぽにしときたいなとおもう。そのほうが、インスピレーションが入って来る空間が出来るし!
恐るべしやまんばの欲深さよ!