2010年8月13日金曜日

心ってなに?





小さい時から教育されることは、この世をどうやって渡っていくかである。この世でおまんまを食べるための方法論を教わるのだ。誰よりも成功しろと教わり、人の上にのし上がれと教わり、弱肉強食の中でサバイバルしろと教わり、一方で人にやさしくしなさい、などと矛盾する事を教える。

そういう教育はされて来たが、そのすべてを動かしている心というものがどういったものであるかを、私たちは一切教わって来ていない。せいぜい道徳の授業くらいなものだ。あとは母親や父親がしつけと称して教える事もあるだろうが、それも恐怖という心理作戦の上に乗っけられ、コントロールされた、おままごとみたいなやり方だ。
しかし心はとてつもない影響を及ぼす。この不思議なものを理解しないでいるからこの世は混乱し、矛盾に満ちた状態なのだ。物質的なことではどう生きるかを散々教わった。しかし心という生き物がなんなのかは私たちは何も知らない。最初っからくっついているものだから、あえて教えるというものではないのか。一個も教わっていない心という生き物は、全くうまく使いこなされていないから、私たちの心の教育レベルは1、2才の子供だ。「あ~っ、これなーんだ!?」と興味のあるものに突進して好きなようにこねくり回して壊して暴れている次元なのだ。大人も子供もない。老人も心の中は1、2才の子供だ。怒ったり恨んだり大騒ぎしたり動揺したり心配したり怖がったり。

昔の日本人はそれが分っていたようだ。「見を弱く、観を強く」など、今の人にはいえない言葉だ。目の前に見えるものに心を振り回されるな、その奥の真実を見ろという戒め。真実は心静かにしていないと観えない。今の人は心が暴れ回るに任せている。物質的に眼に見えるものばかりに心が奪われているからだ。

友だちが怒っていた。
「あ、うんの呼吸っていうよね。あれって、お互い分ったつもりでいるけど、ホントはなんにも分っちゃいない。あれはそんな気になっているだけ!」
仕事仲間がお互いにあれはあれよね、というと、そうそう、アレはアレよね。と、分り合ったつもりがじっさいそのつもりで動いてみたら全然違っていて、その「アレ」を理解してもらうためにすべて一から説明しなきゃなんないことがあったという。

先日『剣岳 点の記』という映画を見た。測量官と山の民が二人、山の上でじっとだまっている。交わす言葉はほんの一言二言。二人の間に濃厚な時間がひろがる。山と人とが一体になって、どれが人でどれが山なのか分らなくなる。その美しい風景に私は圧倒された。
阿吽の呼吸という言葉が通用したのは、そんな時代までだったかもしれない。今の言葉はせいぜい「空気読まない」だ。

今は言葉が先行している。言葉に完全に頼っている。マニュアル主義。アメリカは言葉で覆い尽くす。人はひたすら話し続ける。自分がどういうニンゲンかを知ってもらうために、もの凄い量の言葉でうめつくす。それは阿吽が通じないからだ。世界中の文化や言葉や宗教が入り交じる混沌とした文化。その中で唯一仮の道具として使われている道具が英語と言う言葉であるだけなのだ。だから人はやみくもに言葉を発する。怒濤のごとくしゃべりまくる。まるで喋っていないと自分の存在を消されてしまうんではないかという強迫観念のように。

今日本はそんな状況にある。日本が恋しくなってかえって来たのに、阿吽の呼吸はどっかにいってしまった。アメリカ人のように自分を主張する。いや、彼らのように言葉にできない分だけ(空気読まないと思われるから)心の中はもっとすごい。
それが押し入れいっぱいになって、ある日突然キレる。昨今ワケの分らない事件が起こるがこれもその心のなせるわざなんじゃなかろうか。一線を超えるも越えないも、たいして違わない。超えないからニンゲンが出来ている、わけではないのだ。

まずはその暴れまくっている心の動きを自分で知っている事だ。暴れまくっている心を否定することではない。ただ淡々と「あ、私今心が乱れている」とか「あ、今怖がっているんだなあ」と気がついていることだ。決してそれを止めようとしてはいけない。なぜなら止めれば止めるほどその抑圧に逆効果を及ぼして、なおさら暴れる事になる。心とはそういうものだ。押し入れに突っ込んでも、袋だたきにしても、見ないフリしても、逃げても、そこにいる。その自分を批判したりなげいたりすることなく、その心をそのまま見る。怒っている自分、恨んでいる自分、嘆いている自分、苦しんでいる自分、怖がっている自分、その自分を否定する事なく、その感情に気がついて観察する。怒りの対象になっている人物や物事を思い起こさず、ただジッと自分の感情だけを見つめ観察していると、怒りはふっと静かになる。その時、すでに心は静けさを持っているのだ。その時自我が消滅する。自分と他人という境目が消えていく。すべてに境がなくなって「問題」がどうでもいい事に成る瞬間がある。きっとそのとき人は全的になっているのだ。それが阿吽の呼吸につながっているのではないだろうか。すべてに気がついている。山も木も草も「私」も。

心がすべてを握っている気がする。ここにニンゲンの無限の力が、すぐ紙一重のところでかくれているような気がしてならないのだ。


絵:コージーミステリー(めずらしく水彩)

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

じっと黙っていたい時ってありますよね・・。
私は仕事柄、不可能ですけど・・。

つくし さんのコメント...

じっと黙っていたいのに、なかなか黙っていてくれないんですよねー、心って。