2010年7月30日金曜日

クマの襲われて死んだフリ





きのう、面白い記事を読んだ。
クマにおそわれて、死んだフリして助かった58才のおばちゃんの話だ。

それによると、イエローストーン近くの公園でテントはって寝てたらいきなり腕をかまれた。骨が折れる音がして悲鳴を上げたら、それに怒ってさらに歯を食い込ませて来た。おばちゃんは死んだフリしようと思った。ぬいぐるみの人形のようにすべての筋肉をだらりとさせた。身体をリラックスすると、クマのあごから力が抜けるのが分り、間もなくおばチャンを離して去っていったそうな。

アメリカでクマといったら、グルズリーか?めちゃくちゃおっとろしー話だ。でもこの話は何かすごい大事な事を言っている気がする。おばちゃんが悲鳴をあげたら、それに反応してさらに攻撃を仕掛けて来た。しかし、力を抜いたら攻撃は終わったのだ。おばちゃんは恐怖によって身体がこわばり、それに抵抗する。しかしその抵抗をやめた途端、クマにも攻撃する意識が消えたのだ。
犬もそうだ。悲鳴を上げると総攻撃がはじまる。喧嘩もそうだ。抵抗すると殴りたくなる。ウチのトーちゃんもそうだった。ちょっとでも抵抗すると何度も殴りつけて来る。しかし抵抗しないで力を抜いて殴られるままにすると、一回で終わるのだ。生き物は相手次第で攻撃欲が変わるのではないだろうか。

これはすべての事に通じている気がする。
痛みは抵抗するとなおさら痛みが増す。しかし力を抜いて痛みを冷静に観察していると消えていくのだ。痛いと人はなんとかしなきゃとおもう。そのとききっと身体に力が入っている。からだがこわばって痛みに抵抗を始めるのだ。それは動物的な本能かもしれないが、私はそれは痛みはイケナイことと思い込んでいる教育からも来ている気がする。

先日も友だちがリュウマチにかかった話を聞いて、色々調べていたら、痛みは身体が治している最中なのだという話に出会った。だからその痛みを薬で取り除くのは、治すという方向が違うと。身体はおかしい部分を自力で治そうとしているのだ。それをニンゲンの頭がいろんな事を考えて、痛みを取る方向にだけ向かい、それによってまた身体がバランスを崩し、二重三重の苦しみを自分に与えているのだ。

肩が凝ったら、肩をまわしたり、さすったり、もんだり、いろんな事をする。けどそれも一種の抵抗だ。その痛みがイヤだからなんとかして取り除こうとするのだ。最近、私はそれをやめた。肩が凝ったら、そのままにしておく。もんでも痛さがもっと大きくなるだけなんだもん。肩こりとリュウマチは次元が違いすぎる!と怒られそうだ。でも何でも事の始まりは些細な事からはじまるではないか。それを「うわ〜っ!たいへんだあ〜っ!」って、おおさわぎするから、どんどん事が大きくなっていく。クマに襲われたおばちゃんは、悲鳴を上げたとき、さらにかまれて冷静になった。普通の人だったらもっと大騒ぎして抵抗しまくるだろう。そして今は亡き人になる。

何かが起きた瞬間、どう対処するかによってそこから先の運命が変わっていく。誰でも何か起こったら一瞬ドキッとして抵抗する。しかしそこから先は心の問題なのではないだろうか。こんな事は誰も教育してくれない。そんな教育なんて聞いた事ないが、人はあまりにも自分の心の動きに鈍感だ。この心と言う道具をどう使うかによって、絶対的だと思っているものががらっと変わるとしたら?
日頃から痛みにも不安にも抵抗しないで、心を静める習慣を身につけていると、世の中の事はきっと切り抜けられる事だらけなんではないだろうか。

災難にあったおばちゃんは「クマを恐れてはいない。敬意を持っている」と言った。その言葉に彼女の謙虚な気持ちが表れている。

何でも「死んだ気になってやる」と切り抜けられたりするではないか。たぶんこの死んだ気になってと言うのは、必死になってというのではなく、ホントは力を抜いてしまってということなのではないだろうか。
死んだフリは偉大な行為なのだ。



絵:COOPけんぽ表紙「アサガオの妖精?」

2010年7月29日木曜日

自然発酵種のパン作りに挑戦!

まいうう〜ぱぱさんのウチで、変なものを見つけていた。台所の出窓ではちきれそーに膨らんだペットボトル。。。
なんじゃこりゃ?
さわると爆発しそーなので見なかった事にしていたが、いつ爆発するかと気が気じゃなかった。ある日勇気を出して聞いてみる。
「それ。。なに。。。?」
「ああ、これ?これシソジュース。冷蔵庫に入れずにおいておいたら発酵してるんで毎日こーやって空気を抜いているんだよ。けど、夜になると、ほれ、このとおり」

「飲んでみる?」
「え〜〜〜、飲んだの?」
「いんにゃ。誰かに飲まそうと思って待ってた」
げ。つまり私は飛んで火にいる夏の虫ってやつかい。
「じゃあ一緒にせーの、で飲もう」と、ぱぱさんとおおママさんと三人で怪しい発酵液をお猪口に入れた。せーの、で一気に飲んだのは、さすが、腹の据わったおおママ。ぱぱさんはこのやろ、みんなの様子を見ているだけじゃねえか。私はちびちび飲んだ。
んで、なんとスパークリングなシソジュース!うめえじゃないの!
すげー、さすが自然の力。肥料も農薬も入っていない植物は腐る前に発酵するのだ。
発酵。。。?自然発酵?え?ひょっとしてパンのイースト菌って発酵したやつじゃなかったっけ。そーだ、レーズンを発酵させてもパン作るじゃん。

「そ、それちょっと分けてくれる?」と私。
「いーよ。なんぼでも」

というわけで、次の日にわけもわからず発酵シソジュースをいきなり小麦粉に投入。塩で発酵促すんだよな。と、うろ覚えのまま塩とちょっとの砂糖とレーズンを入れて焼いてみた。
何と、ちょこっとふくれて固めのパンのようなものが焼けちゃったじゃないの。ぱぱさん所にも持っていって「これいける!」
俄然やる気が出て来た。ある雑誌に載っていた記事を見つける。小麦粉はそれ自体が発酵能力を持っている。その力を借りてパンを作るのだ。
はるかメソポタミアの時代、小麦粉をこねて作っていただけの時代に、あるとき発酵という自然の力が働いた。そこからふっくらとしたパンがはじまった。
そう、小麦粉が発酵することからつくるパンはまさにパンそのものなのだ。

その記事は林弘子さんと言う方が書いた記事だった。さっそくアマゾンで検索。しかしすでに廃刊。古本を手に入れる。『秘伝 自然発酵種のパンづくり』と言うタイトル。
まず、発酵に必要な小麦粉は「生きている」小麦粉でなければならない。世に出回っている小麦粉は製粉する時に高温になるので死んでいるという。なので、低温で製粉したものでないと生きていないのだ。ウチには草ぼうぼう畑に出来上がった全く自然な小麦があるではないか。それを使わんでなにを使う!

おおママから借りた手動のコーヒーミルで、キコキコと製粉する。なんとまあ時間のかかる事よ。これもパン作りのためだ。忍耐忍耐。やっと挽いた全粒粉大さじ2杯と大さじ4杯の水を混ぜる。そのまま室温に放置。それを3日続ける。そこまでは生きた小麦を使う。そこから冷蔵庫の野菜室に移し、国内産の小麦粉を継ぎ足し継ぎ足ししながら発酵菌にえさをやり続けるのだ。
さて、ぷすぷすと泡が立ち初めて明らかに発酵を始めている。酸っぱい匂いから麹のような匂いに変化して来る。2、3週間たつ。そろそろ一度味見してみることにしよう。
パン種に少々小麦粉をくわえ、塩を少々加えてフライパンで焼いてみた。どきどき。心なしか膨らんでいる。ぐふふ。いけそー。。。でもまずは味見。
ぱくっ!と口に入れる。
すっぱい!我慢してそしゃくする。口の中にいろんな味が広がり始める。そのうち苦みまで出てきた。酸っぱくって苦い。その他いろんな複雑怪奇な味がする。しかも、なぜかのどを通らない。身体が拒絶している。これはけっこうヤバいかも!

と、いうことで、一回目のパン種作り失敗でした〜。なんでだろー。こりゃおもったよりてごわいかも。


しばらく更新していなかった林弘子さんのブログが更新されていた。娘さんからのものだった。今月25日にお亡くなりになっていたのだ。メールで個人的にパン種の作り方を聞いてみたが返事がなかったはずだった。。
彼女は食物に関するありとあらゆる事に研究に研究を重ねた実験精神旺盛なお人だったようだ。文章にそのアクティブさが溢れていた。この偉大な発酵種を開発してくれた林さんに感謝し、ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

さあて、またキコキコとコーヒーミルで小麦を挽き始めますか。

2010年7月25日日曜日

恐怖は人をコントロールする




朝起きて、フルーツを食べ、お茶を飲んで、マックに向かった。口の辺りが変な感覚になる。唇の後ろがしびれて来た。めくってみるとプクーッと腫れ上がっている。みるみるうちにそれは大きくなり、そこだけ麻酔をかけたように感覚がしびれて麻痺して来た。こっ、、これはいったいなんだ?ヘルペス?

あわててもしょうがないので、そのままほっておいた。あれから3時間たつ。ずいぶん小さくなった。しびれの感覚もなくなった。あれはなんだったのだろう?
たぶんここんところの暑さで寝苦しかったし、まだ夏の身体になりきっていないのだろう。どこかが疲れているのを教えてくれていたのかもしれない。

こんなときは、慌てて薬局や病院に駆け込む方がいいのか。そうテレビでは教えてくれる。もしもの時のために、万が一大変な事になったら。あとで後悔しないように、などなど、たくさんのキャッチコピーと一緒に。
人をコントロールする方法ってしってるかい?簡単だ。恐怖を植え付ければいい。なんてひどいことをいうの?つくしちゃん。え、だってそんな事みんな日常茶飯事でやっているじゃん。そうするのがあなたのためだから、とかなんとかいっちゃって。

先日も身体の事に気を使う友だちが教えてくれた。
「つくしちゃん、UVカット使わなきゃダメよ。使わないとこんなことになるのよ」
彼女は肘から先がシミでいっぱいになった腕を見せてくれた。
「え、こんなになるの?手のまわりを何かでおおわなかったの?」
「クリーム塗って、洋服でおおってもこんなになるのよ。あなた気をつけなさい。今は太陽光線がとっても危ないから、どんなにしてもこうなるのよ」
「なんにも塗らないけど、シミにもならないよ」と私。
「それはまだ1年ぐらいしか野良仕事をしてないからよ。私なんか4年だからね」
そこまで野良仕事に精を出しているのかと感心したが、彼女はダンナさんの手伝いをするぐらいだとも言っていた。
しかしUVカットしても布で覆ってもシミになるんだったら、何もしないでもおんなじじゃないだろうか。ひょっとしたら、そのクリームでシミになったのではないかと疑ってしまう。だって、肘から上にはシミは無かったのだ。もし太陽光線でシミができるなら、足にも服でおおわれている身体にもできないといけない事になる。しかし彼女のシミは肘から先だけだった。

人は「気をつけなさい」と言われると、どこかでドキッとする。心がきゅんと小さくなるのを感じた事はないだろうか。反対に「だいじょぶよ。なんとかなるさあ」といわれると、こころがほどける。
実は「悪い事はいわないわ、あなたのためだから」と忠告してくれる言葉の中に二つの意識がある。私は親切ないい人である、と言う自負と、あなたよりしっているという自負。しかしそのもっと下の方に自分のペースに持っていく力があるのだ。
しかしその友だちもまた、「こうでなければいけない。あれしちゃいけない」と、恐怖によって自由をうばわれコントロールされているのだ。

政治が悪い、国が悪い、システムが悪いから私たちは自由がない、この国にコントロールされているのだと思い、この世の不幸を嘆いてもあまりにも漠然としている。それをなんとかしようとするのは、巨大な壁に向かって「コラーっ、倒れろこのやろ」って叫んでいるようなもんだ。

恐怖によるコントロールは、まさに日常の何気ない会話から生まれているのだ。


絵:SFマガジン9月号カットイラスト『トウキョウ=マガイ』

2010年7月24日土曜日

妖怪VSやまんば





ものすごーく暑いので、畑にいくのが恐怖である。近所のおばあちゃんは、草取りに朝4時にいくそうだ。そっか、朝早いと楽なんだ。と、6時に起きる。しかしこのところの夜の蒸し暑さで睡眠もままならない。起きてもほげーっとしている。なんとかムリヤリ7時半に家を出る。
畑で草刈りを開始。もう暑い!ぜんぜんだめじゃーん。死んでまうがなー。
しょうがないので小屋の陰に隠れて乾かしておいた種取りをする。身体がなれて来たのをいい事に、も一回草刈りに挑戦。あかん。もっと温度が上がっている。これはほとんど危険信号。
それにしても草さんはえらいのー。このクソ暑いのに元気だ(いやみ)。

南のフェンス脇に勝手に生えて来た実生のこだまスイカが小さな実をつけ始めた。種取りして苗で育てたものよりも、そこで落ちて育った苗の方が全然強かった。これもサルさまのおかげ。去年そこで食い荒らしてくれたから、そこから種がこぼれたのだ。一番合うところで、ちょうどいいタイミングで植物は育っていくのだろうか。ひょっとしたら時期外れもまた、昆虫に食べてもらうために育つのかもしれない。なんにせよ、それぞれの役割のためにその場所で、そのタイミングで育つのかもしれない。


昨夜、近所の『妖怪』(とわしらが呼んでいるおじさん)が有機農法で育てた野菜をたんまりくれた。わしらの畑になんにも育っていないのを見越して差し入れてくれたのだ。ぷっくり太った加茂ナス、米ナス、白ナス、キュウリ、ゴーヤ、トマト、ジャガイモ!思わず小躍りする。
すると妖怪は、
「文明を信じなさい」といった。
妖怪は、しっかりきっちり有機の肥料を入れ、虫を自然な方法で(?)殺していく、有機農法の達人だ。やまんばの農法は、そこらの山の中の草むらと一緒だという。
「わしらは農耕民族だろ。野人のような事してどーする」
ともいわれた。ニコニコしていうので(いや、元々そういうお顔らしい)、怒られている気がしない。
「野人でいーもん!」
と、やまんばはもらった野菜をゆすりながらたてつく。

別に文明を信用していないわけではないのだ。文明を否定したら、私の仕事がなりたたん。ちゃっかり文明の中で生きているやまんば。
しかし西洋の文明の中で生活してみると、自然と常に対峙する彼ら西洋人の文明に少々(いや、おもいっきり)ギモンを持ったのだ。全的に見ない、目先の事だけを見て、その場限りの方法論を見つけてくる彼らのアイディアの根本的なところに大きなギモンを感じた。その方法論のまま進んでいけば、やがてニンゲンは行き詰まる。(ニンゲンだけが)今、日本はその西洋人が作ってきた道をひた走っている。かつて自然と一体となって自然に耳を傾け、自然とともに生きて来た民族だった日本人。こんな先端の文明社会の中に位置づけられながら、(ま、細かい事は抜きにして)国土の70%前後も自然におおわれている。この信じがたいうまい調節は日本人ならではの感性に違いないのだ。

虫の草も必要だからいる。その中で育つ野菜は自然の姿、野生そのものだ。その野生のパワーをいただく事ほど大胆で贅沢な事はない気がする。
ニンゲンの身体も自然そのもの。汚いからと石けんで洗い、皮膚がぱりぱりするからといって化粧水で補い、油が出るとシャンプーで洗い、ごわごわするといってリンスで補う。虫歯になるといって歯磨き粉を使い、その結果、抜け毛や皮膚病やアレルギーになる。これは野菜に肥料をやって、チッ素過多で虫を呼び、思いあまって農薬かけて、あげくに身体の調子を悪くするのに似ている。
なぜ自然を信じないのか。なぜありのままでいられないのか。なぜ、なんとかしなきゃと思うのか。

しかしだなあ。そうやってぶつぶつ考えたところで、やまんばは、妖怪にその一言も言えないのだ。この気の小ささよ。しかもわしらの畑のナスが長さ3センチなのに、妖怪んちのナスは直径が15センチはある!人は比べて不幸になる。思わず比べて哀しくなる。3センチのナスを持って、「この方法がいーのだ!」と言ったところで説得力まるでなし。

自然の摂理の中で生きると覚悟するには、自然が持っている時間の流れも自分の中に組み込んでいかねばならないのだ。はあ〜。



絵:SFマガジン9月号カットイラスト『トウキョウ=マガイ』

2010年7月21日水曜日

不都合の真実





ニンゲンは自分にとってナニか不都合な事が起こると「何かしなければ!」と行動に移そうとする。しかし待てよ。このナニか不都合な事、と言うのは、ホントに不都合な事、なのか?不都合な事、と思わされているだけなのではないのか?そっから疑ってしまうのがやまんば道なのだ。

女は化粧しなければいけない、髪染めなければいけない、ブラジャーしなければいけない、UVカットしなければいけない、いいにおいしなければいけない、ダイエットしなきゃいけない、云々。なんで男はそれしなくてもいいのだ?ブラジャーも化粧もしないのに、誰にも文句を言われない。

女はほんとにいろんなこまごまとした事をやらなきゃいけない。家の事とか子供の事とか。なのに最近は女性解放(古い?)なんちゃって、女の人も社会で働く。料理掃除洗濯出産子育て。ほんでもって働いて、その上、ブラジャーしなきゃなんないし、おきれいなカッコウしなきゃなんないし、化粧したり落としたり、UVカットしなきゃなんないし、デオドラントしなきゃいけないし、毎月月のものに悩まされるし、付き合いで酒の一杯も飲まなきゃなんないし(これはうれしいけど)。ものすごーく色々やらなきゃイケナイことだらけな訳だ。その点、オヤジは働く、食う、飲む、寝る。時々家庭サービス(あと、時々匂いを気にする)。なんてシンプルなの?お化粧まけで右往左往する事もなく、ブラジャーがあわなくてイライラする事もない。

この差は一体何か?と考えると、要するに私ら女衆が、勝手にこうでなければいけないと決めて来たいわば女衆伝統なのだ。ホントのところは男衆が化粧してくれとも、ブラジャーしてくれとも言ってないのだ。料理洗濯掃除は分担すると言う事で解決することができる(これもまたむずかしいんだけど)。しかし化粧やダイエットやもろもろの事は、私ら女衆が勝手にこうしたい!と思って来た事なのだ。それはなぜかというと、こうすればきれいになる!と思い込んできたこと。いわば自己満足のためなのだ。その自己満足はどっからやって来たかというと、情報から。きらびやかな世界を見せられて「ああ、私もこうなりたい!」と思う、いや思わされる。テレビで髪はこのシャンプーでさらさら〜っといわれれば、「あたしもこんなふうになりたい!」とおもう。
今の時代、女衆はあまりにも心配事が多すぎる。いろんな問題をぜーんぶテーブルの上に広げて、あれもこれも悩み続けているのだ。

女衆はすごい影響力をこの世にもたらす。家で奥さんがふさいでいると、家族全員に影響する。それが広がって社会全体に影響を及ぼす。

不都合なものは暗に外から思わされている。
もうそろそろそんな洗脳から脱出するのだ。ホントにシャンプーでさらさらになるのか?そのおかげでどこかにしわ寄せが来ていないか?子宮に影響を与えていないか?歯磨き粉で内蔵やられていないのか?免疫が落ちるのは過剰な除菌から来るんではないのか?ホントにこの世は太陽光線でシミになるのか?UVカットの商品はホントにUVカットしているのか?そもそも太陽光線は本当に身体に悪いのか?それにニンゲンの皮膚は絶えられないのか?そのUVカット商品でシミができているかもしれないではないか。

やまんばはもっとシンプルに生きたいのだ。自分の匂いも、シワも、シミも、いいではないか。自分の欠点と思わされている(ここ、強調!)ものをそのまんま受け取るのだ。がははと笑ってしまうのだ。明るい心は魅力を放つのだ。その顔にシワやシミがあっても、男衆はホントは気にしない。彼等はどうしようもなく原始時代からその女衆の英知と魅力のパワーに圧倒されつづけているのだ。


絵:つくしのクレイジーマップ:西新宿(歩けねえよ)

2010年7月14日水曜日

おジャガ、チョーすくな。





「オタク、入られた?」
「いえ、まだです」
「うちはもうこれで2回目よ。」
今年もまわりの畑にはイノちゃんが思いっきりやって来ていた。しかしウチには来ない。
「ほら、ウチはオタクみたいに、栄養たっぷりの大きなお芋じゃないから、見向きもされないんですよ〜、ほほほ〜」
などと、余裕かましてみょーに謙遜ぶっていた私。まさかそれが図星だったなんて。。。

今年3月に3種類の種イモ、メークイン、男爵、インカのめざめを買って畑に植えた。それから4ヶ月。上に伸びた葉っぱも枯れ落ちて収穫どき。嬉々としてほってみる。
。。。ない。
え?ジャガイモちゃんどこいった?まわりを掘り返す。
な。。。ないーっ。

なんと、ひとつの苗にサクランボほどの大きさのおジャガが1、2個しかついていない。大きくても7、8センチのが一個だけ。4、5箇所掘り返してみたが、出てきたのは、ちっこいちっこいおジャガが8つだけ。これはものすごーい小収穫だ。去年は南の方の畝で育てて、ゴロゴロと収穫できた。今年は北の畝。ここは元々畑ではなく、木が生い茂る薮だった所。去年ソバを育てたところだ。それがいけなかったのか?植えた芋より少ない収穫〜〜〜。ごめ〜ん、まいううーぱぱさん。イモ、買って食った方がマシだった(笑)。

ウチの畑にはこないはずだ。あいつら、わしらの畑の匂いをかいで
「くんくん、ちぇっ、ここ、イモねえよ」
とそっぽむいたのだ。
イノちゃんはイモ類というよりは、ミミズを食べに来ると言う。ここだけの話、ウチの畑にはでっかいミミズがいる。イノちゃん、それを知ったら、やってくるにちがいない。黙っておこう。
しかし昨日南のフェンス向こうが、がんがんにほじくり返されているのを見つけてしまった。う、ばれてしまうのも時間の問題か。。。

それにしても野菜は育てず、豊かな草とミミズを育てる自然の宝庫の畑になりつつあるわしらの畑であった。
なんだかうれしいなあ。(ナニ余裕かましとんねん)

絵:カットイラスト/ラベンダー

2010年7月13日火曜日

ルールってなんだ?




『人類の隠された歴史』と言うユーチューブを見た。
エクアドルなどで発見されたスレートでつくられた笛や医療器具や何かのディスクなどが紹介されている。矢追純一の番組のような鳴り物入りの、いかにもあやしげな解説ではなく、学者が淡々とそのものについて説明する。あるいは目的がわからないという。現代の技術を持ってしても不可能なモノがそこにある。

そういうものを見ながら、私たちはいろんな事を知らされずにいるんだなあと言う事を実感する。それは、狭いかごの中だけがこの世界であり、その世界以外はなにもないのだから、よそを見てはいけないと言う暗黙のルールのような。それは明らかに意図的にそのように思わされている。


小学生のとき、あるテストがあった。
私はその白い紙の上に書かれたことが何の事か分らず、自分の名前だけを書いて先生に提出した。先生は「つくしちゃん、何んちゃあ書いちょらんが。ちゃんと書きなさい」といった。私はその紙に書いてある事が何の事か分らないので、先生の言う通り、空白の中をとりあえず知っている文字で埋めていった。そしてまた提出。すると先生は「またでたらめを書いて。ちゃんと読んで書きなさい!」といった。

考えてみたら、この世はテストばっかりしている。人が優れているとか、優れていないとかという「基準」を、一枚の紙で決めているのだ。それはあるルールにのっとった考え方をしていないものは、脱落者と決められる基準の紙だ。一番二番三番、最下位、などとレッテルをはられるのだ。
たかが人に教えられた通りに書かなければ、人間としてサイテーみたいにあつかわれるし、またその人自身も「自分って、サイテー」と思ってしまうのだ。

最近は何でもかんでもランク付け。ランク付けされて、喜んだり、悲しんだりしているのだ。誰かが考えついたレールの上を歩いているだけなのだ。人はひとりひとり違わないか?

基準ってなんだ?レールってなんだ?ルールってなんだ?絶対的なもの?
歴史だってどれが正しいのだ?
間違いを教えられて、それをその通りに書いたら100点もらえて、
「なんか違う気がする。。」
と思って、それを書くと0点をもらう。たかだが誰かが作ったテストなのに、そのテストがすべてになる。違っているかもしれないものを違った方向になぞるのが正しいのだ。そこから外れると「あんた、サイテー」といわれる。これはほとんど、世渡りジョースの人にしかデキナイ代物だ。だから私みたいにブキヨーなやつはセンセに怒られて自己嫌悪の固まりになってしまう。


冒頭のユーチューブは、そんな狭いかごに入って必死で考え込んでいる私たちを外から眺めている。
「そこで、なにやってんの?」と。



絵:カットイラスト/ヴァーベナ

2010年7月11日日曜日

種取り物語〜





ここんところ立て続けに仕事がまいこんで、嬉しい悲鳴を上げている。そーゆー時にかぎって、だらだらやっていた野良仕事もうれしがってやるもんだ。それまでぐだーっとやっていたのに。人って勝手よね。

気持ちのいい晴れ間なので、作業小屋にずっと吊るしっぱなしになっていた、アブラナ科の野菜たちの種をとる。からからに乾いたさや付きの枝をそーっとおろす。それをそーっと大きなビニール袋に入れて、そーっと地面におろしたかとおもうと、いきなりばたばたばたあーーーっ!と、ビニール越しに両手で一気にたたくのだ。それまで寝ていたさやは、びっくりしてパカッと二つにはじける。中から黒くて丸いちっこい種が飛び出す。種は重いのでビニールの下にたまる。それをステンレスのボールに入れ、まわしながらふーっといきを吹きかけて種以外のさやや虫やごみを飛ばすのだ。へへへ、チョー簡単種取りの術〜。水菜、壬生菜、チンゲンサイ、白菜、小松菜の親分さんの種が取れた。この畑2世ちゃんは、ちゃんと育ってくれるだろうか。秋が楽しみだ。みんな近所で栽培しちゃったものだから、交配しまくっているに違いない。どんな野菜になって出てくるのか。うちオリジナルのおかしな野菜が出て来るかもしれない。それはそれで面白いじゃないかあー。

ついでにちょこっと小麦を脱穀する。なんとウチには脱穀機があるのじゃ。先月骨董品やで見つけたものだ。千歯こぎ。鉄の歯の部分しかないので、それをささえるものがない。しょーがないので片手で歯を持ちつつ、もう片一方の手で麦を引っ掛けグイーッと引っ張る。こんなどシロートのアナログなやり方でも、けっこうこれがいける。あっという間に小麦が穂から落ちてくれる。二束脱穀した。これをウチに持ってかえってちまちまと小麦とゴミを分ける事にしよう。
夕食のあと、ダンナとしゃべりながら取り切れていない実を穂から外す。そんな手作業が楽しかったりするのだ。

え?仕事?あ。ヤバい。


絵:カットイラスト/シア

2010年7月10日土曜日

草と野菜の共存





八列トウキビがぐんぐんのびてきた。その畝は去年紫花豆と白花豆が育っていたところ。こぼれ豆が残っていたらしい。トウキビに絡み付いて、これまたぐんぐんおおきくなる。今、赤と白の花をつけてとうきびと共存している。あいかわらず北海道の田中さんからもらった種はウチの畑にあうらしい。何でも大きく育つ。食べるために買った虎豆も手亡も植えてみた。虎豆と言えば、高級食材なのに、かわいそーにジャガイモの豆マルチにさせられている。ポリマルチならぬ、豆マルチ。これで草の生えるいきおいを抑えられるか実験しているのだ。こんな状態で虎豆がどんな姿で実を付けるのか楽しみである。

わしらの畑は全然耕さないので、去年のこぼれ種が変なところから出てくる。草刈りをするたびに、
「あれっ、こんなところにトマトの葉っぱ」とか
「げ、大根が」とか
「おお、キュウリちゃんの芽じゃねえか!」
などと、新たな2世の誕生に驚きよろこぶのだ。
だから草刈りもココロしてやらないと、
「あ”〜〜〜、野菜の苗切っちゃった〜〜〜」となる。
そういうわけで、自然農をする人は「野菜目」が出来上がるんだと思う。チッ素たっぷりの緑の濃い一般的な野菜と違って、ウチの畑は草とほとんど同じ若葉色。完全に保護色(?)になっている。だから野菜独特のカタチや感触、彼等から発せられるオーラを読み取らなきゃいかんのだ。いや、しょーじき、双葉の段階で草と野菜は違う。草は小さい時からすでに大人の姿をしている。しかし野菜の双葉はぷっくりと厚みがあって大きいくせに、なんだかたよりなげだ。案の定、そういう双葉は柔らかくってうまいらしい。あっという間に虫ちゃんに食われる。まるで野生動物が生まれた瞬間から立ち上がるのと、人間のように生まれてからしばらくは母親のお世話にならなければ生きていけないのに似ている。

しかしその中でたくましく育つ野菜がいる。どこでどういう取引が行われているんだろうか。残る苗もあれば消えていく苗もある。力の強いものだけが生き残っていくのだ。それを弱肉強食といってどこかで嘆かわしいと思ってしまうかもしれないが、それを嘆かわしいと思うと感情列車に乗ってしまう。もっと大きな視点で見ると、それこそが愛なのではないだろうか。弱い野菜を与えることで虫たちが生き延びる。虫たちは強い野菜には手を出さない。その野菜はやがて大きく育ってまた子孫をつくるのだ。その中に弱い野菜もいて、そしてまたそれは虫たちに与えることができる。彼等は大きな英知の中で生きている。今、私はその大きな英知の中に立っている。これを見ないで何を見て学ぶと言うのだ。本のなかでは学びきれない。彼等の生き方を観察してそれによって何を学ぶかは、私次第なのだ。
(きっ、決まったあ〜〜〜っ)



絵:メディアファクトリー新書表紙/「こんなに違う!世界の国語教科書」

2010年7月7日水曜日

自分の匂い





だんだん暑くなって来ると汗をかく。畑の中で上半身や額に汗している自分に気がつく。わたしゃ、今までこんなに汗をかいたことがない。運動だいっきらいおばさんなのだ。

べたべたになったまま家に帰る。このごろシャワーも浴びないし、べたべたのTシャツも着替えない。実はその方が、あとで皮膚がさらさらになってくるのを知ったからだ。汗はあえてとらない方がいいような気がしている。その汗が乾くと皮膚のまわりにビロードのような自然な膜ができ、触ってべたべたするような不快感がなくなるのだ。ところがシャワーを浴びて石けんでこすると、皮膚は乾いてもべたべたといやな感じが皮膚に出来る。

私たちはどーしても、「身体から出るモノは汚い」「イケナイもの」「即、除去!」というパターンを持ってしまっている。デトックスなどという流行ものも同じ頭のパターンから来ている。一度ついちゃったパターンはそう簡単にはとれない。それにギモンを感じる瞬間もない。そりゃそーだ。テレビをつければ薬のコマーシャルばかりだ。シャンプーリンス、化粧品、消臭剤、歯磨き粉、除菌石けん、洗濯洗剤、食器用洗剤、医薬品。。。みんな、これで治る、あれで除菌できる、それできれいになる、とタタミカケルように洗脳して来る。身体から出る皮脂油はいけないもので、外にある菌はいけないもので、頭痛など身体がおこす支障も、即とりのぞかなければいけない。畑はつねに消毒しなければいけないから真っ白い石灰を蒔く。

私たち現代人の頭は、ニンゲンが出す自然なモノは、基本イケナイものだから、まず除菌や駆除しないといけない思い込んでいるようだ。人類という生き物が出来て、いったい何億年たつか知らないが、そんな昔っから除菌していたんだろうか。少なくともアメリカじゃ、除菌なんてえものはなかったど。(私がいた2004年までは)
だからそうヒガチになって「じょきーん、じょきーんーと、人馬ーは進む~(それを言うなら徐州だろ)」とお題目唱えなくてもいーのだ。かえってヒステリックになって、よけい病気を生んでいるように見える。

「ビンボー草(ハルジオンのこと)は、とらなきゃいけないのよ」
近所のおばさんは私に忠告してくれる。
「花粉でもねえ、いい花粉と悪い花粉があるのよ。これは細かい花粉で皮膚についたらとっても身体に悪いのよ。だから悪いことは言わないわ。早くこれを処分しなさい」
確かにスギ花粉に私は反応して苦しかったけど、別にスギ花粉が悪いわけではなくて、どっちかっちゅうと、過敏に反応してしまう私の身体に何か問題があったのだ。その過敏に反応してしまう私の身体と除菌は、関係ないことだと思うだろうか。あらゆることを「取り除く」ことで、私たちは大事な何かを失っているのではないだろうか。

今の世の中、あれもこれもだめだだめだと言う。そのおかげで、人はたいへん生きづらくなった。いっぺんぜーんぶ肯定してしまったらどうだろうか。自分が出すうんこもへも汗も体臭もフケも皮脂油もぜーんぶ受け入れる。するとそれを取り除こうとする石けんもシャンプーもいらなくなる。

実は今、私は自分の体臭を感じている。これがなんとも言えずカグワしい甘い匂いなのだ。昔、犬のユタの毛の中に顔を埋めて嗅いだ、あのにおいがする。生き物が持つ独特の匂いなのだ。包まれるような、あったかい甘い匂い。きっとこれが私が持つ匂い。生命が自然に働くと、みんなこんな甘い匂いがするのではないだろうか。野菜もそうだ。ぴりぴりしたり、苦かったり、いがいがしたような感触のものは警戒心をおこさせる。それはこれは毒だぞというシグナルのようなもの。しかしこの甘い匂いはそれとはまるで正反対の、安全を確認させてくれるような匂いなのだ。ところが残念なことに、この匂いはあまり外には発散されない。むしろ無臭に近いようだ。

この季節、自分独自の匂いを知るいいチャンス。
貴方も自分の香水の匂いをかいでみませんか?
(うげ~っていうなよ)


絵:メディアファクトリー新書表紙/「アイドルと病」

2010年7月5日月曜日

お姫ばあさん




あるところに、お姫ばあさんがすんでいました。
お姫ばあさんは、薄暗い蔵の中で毎日楽しく過ごしていました。

「これはAちゃんの筆箱。これはBちゃんの筆箱。そしてこれがアタシの筆箱。うふっ、アタシのがいっちば~んステキッ!」
蔵の中には素敵なお洋服と素敵な食器と素敵な家具で埋め尽くされています。
「ここにいるのが、い~っちばんしあわせ!」
そういって、蔵にあるひとつのちいさな窓から外を見下ろします。人々が忙しげに大きな荷物を抱えて往来しているのが見えました。
「ああやだ。下々の者たちって下品よね。あの汚い服を見てちょうだい。あのおばさんを見てよ、背中が曲がって、ああみにくい!」
窓から顔を背けると、薄暗い蔵の中にはキラキラ光る絹でゴブラン織りされたソファがありました。
「うんもう。やっぱりここがいちばん!」お姫ばあさんは、どさっとソファにもたれて、心ゆくまでくつろぎました。

りーんりーん。
電話がなりました。電話に出ると、彼女が毎週一回通っているお教室のお友達からでした。
「お姫ばあさん、来週来れる?私、素敵な服をつくったのよ。貴方にぜひ見てもらいたいわ」
「あら、すてきね。貴方センスがいいから、きっと素敵な服ね。ぜひ楽しみにいくわ」

電話を切ったあと、紅茶を入れました。ボーンチャイナのカップでダージリンを飲みながら、お姫ばあさんはだんだんイライラしてきました。すると、ちいさな列車がすっとおばあさんの横に止まりました。
列車には『感情列車』と書かれています。列車は、
「感情列車にようこそ~っ!」
といいました。お姫ばあさんは、それにヒョイッと乗っかりました。

ガタン、ゴトン。。。列車はゆっくりと動き出しました。
「なんであんなこといっちゃったのかしら、アタシ」
おばあさんはつぶやきました。
列車はじょじょにスピードを上げていきます。
「だいたいあんな人、どこがセンスがいいのよ」
しゅっしゅっぽっぽ、しゅっしゅっぽっぽ。。
「それなのに、アタシったら、ウマをあわせて『素敵な服ね』なんて言っちゃった。ああ、何言ってんだろ、アタシ!」
ぽーっ!汽笛が鳴りました。
「アタシに見てもらいたいだなんて、100年早いわよ!」
「ぽっぽっぽーーーーっ!
「ああああっ、けがらわしい!だから下々の者たちってきらいなのよーーっ!」
列車は猛スピードで走り始めました。おばあさんの心もそれにあわせるかのように暴走し始めました。いや、実はおばあさんの心が列車の燃料になっているのです。列車はいつの間にかジェットコースターに変身。猛スピードで登ったかと思うと猛スピードで急降下。その勢いで一回転してはまた登る。。。そうやって、お姫おばあさんは、三日三晩列車に乗り続けました。

りーん、りーん。
電話がなりました。へろへろになって出ると、やまんばからの電話でした。
「も。。し。。も。。。し。。。?」
「あれ?また疲れてるね」
「うん。。。お友達から電話があったの」
「それくらいのことでそんなに疲れるわけないでしょ。あ、また列車に乗っちゃたんでしょ」
「列車?」
「その友だちのこと、悶々と考えてたでしょ。そのとき列車が横付けされなかった?」
「ああ。そういえば列車が来た」
「それ、感情列車にようこそ〜っ!っていわなかった?」
「言ってた、言ってた」
「んで、ひょこんと乗っちゃったでしょ」
「あ、乗った、乗った」
「どーせ、ジェットコースター並みにビュンビュン飛ばしてたんでしょ。疲れて当たり前だわい。で、何日乗ってたの?」
「三日間。。。」
「さっさと降りなさい」
「はーい」

翌日、お姫ばあさんからやまんばに電話がありました。
「あのねえ、あれから列車から降りて色々考えたの。ホントにあの人のこと嫌い?って自分で聞いてみたの。そしたら、アタシはみんなのことが大好きだってわかったの」
「へえへえ、さいですか。そりゃ、よござんした」
「アタシって幸せ者ねえ〜」
「そりゃ、けっこーなこって。
でも、くれぐれもその列車にゃ、もう乗るなよ」
「はーい」


絵:メディアファクトリー新書表紙/「睡眠はコントロールできる」

2010年7月1日木曜日

ヤクザイシの成功



 
ギャラが入ったので、その足でのこぎり鎌と剪定バサミを買いに園芸品店に向かう(あんたはナニ屋さん?)。
店の入り口に山と摘まれたビニール袋をみてあぜんとする。すべて園芸用の土と肥料だ。みんなこれを買って畑に投入するんだな。
店に入ると陳列棚にはこれまたあらゆる殺虫剤、栄養促進剤などがずらっと並ぶ。のこぎり鎌のコーナーより全然充実しているじゃないか。野菜作りのメインはこれなんだな。みんなこれを買って畑に投入するんだな。

考えてみれば、現代人はなんて薬漬けなんだろう。朝起きた時から歯磨き粉、石けん、シャンプー、リンス、ご飯のあとに栄養補助食品と称してビタミン剤をのむ。電車に乗れば除菌された椅子、つり革、会社の入り口には除菌用のスプレー、お昼はコンビニで保存料の入ったハンバーグやカップラーメンを食べ、腐らない缶コーヒーを飲む。んで、仕事帰りに晩ご飯の食材探しにスーパーによれば、野菜のほとんどは、あらゆる薬のお世話になって育った野菜。うちの近所のおばさんはプロの家庭菜園家。虫が寄り付かないりっぱなキュウリをつくる。そして持病の薬は毎日欠かさず飲む。


高1のとき、自分の将来の進路を決める話があったとき、おばさんが突然
「つくしちゃん、あなたヤクザイシになりなさい!」
といった。生まれて初めて聞いた職種だった。
「ヤ、ヤクザイシ。。。。?(ヤクザの医師?そんな職業があるのか?)」
「そうよ!ヤクザイシになればすっごく儲かるのよ!」
それを聞いた時、このひとはなんという職業をわたしにふるのか?とおもった。そりゃ、ヤクザのお医者さんにでもなれば、ものすご〜〜〜く儲かるに決まっている。
「でも、おばさん。私はその職業は遠慮しときますわ」といっておいた。だって、わたしゃ、ケーサツカンの娘だもの。。。

今になって考えるとおばさんは先見の目があったんだなあ。今、何もかもが薬、薬、薬。テレビつければほとんど薬の宣伝ばっかりじゃないか。
昔、ニューヨークで友だちがカウンセリングに出かけるとかならず薬をもらうのを聞いてなんで心の病に薬?とあぜんとしていたが、今じゃ日本もあたりまえになっている。
そりゃ、ヤクザイシさんは大もうけして大笑いしていることだろう。


のこぎり鎌と剪定バサミを買って畑にいく。
草刈りをしていると眼の回りに何かの虫が2、3匹飛び交った。一匹が眼の中に入って来た。
「あちゃっ」
虫が眼の中で暴れている。とることも出来ず、そのままにして野良仕事を続ける。だんだん眼の回りに違和感が。家に帰って鏡を見ると、顔がお岩さんになっていた。眼の中に入った虫はいいとして、目頭近くと、ほおの上あたりの2カ所を虫にかまれていた。たぶんアブあたりだろう。
朝起きてみると、誰かにぶん殴られたような顔になっている。ほとんどホラー映画だ。
薬局もいかず、このまま様子を見ることにしよう。

わたしにゃ、やっぱしヤクザイシさんは向かなかったようだ。


絵:メディアファクトリー新書表紙「FBI式人の心を操る技術」