2010年4月29日木曜日

荒くれブロンクス畑




高尾のふもとのとある畑の中。やまんばは種に向かってこう言った。
「おまえたち。これからお前たちを弱肉強食の世界に投入する。いいかい。その中で戦い抜いてたくましく育った姿を見せておくれ。そのあかつきには、このおばばが褒美としてお前たちを食ってやるよ。ふおっふおっふおっ。。。」


だんだん暖かくなり、いつの間にか畑には草の緑の世界が広がっている。その草たちに埋もれて野菜が存在しているなどと、近所の美しく耕された畑を管理するおっちゃんたちは、恐ろしくて考えも出来ないことだろう。しかしその草の中をよーく観察してみると、草でぎっちりおおわれているところに限って、野菜も元気に存在しているのだ。コレは生存競争のたまものなのか、はたまたホントの共生なのか。どっちかわからない。しかし現実に草の多いところの野菜は大きい。反対に草がないノッペラなところは、野菜もちっとも生長しない。それどころか、でた双葉もいつの間にか消えている。どうもあたりをうろうろしている茶色いコオロギ(?)ちゃんたちにまんまと食われてしまうようだ。

去年の今頃はユンボで大開拓をしたあとの畑だったから、草がまだ生えていなくて、野菜の種と草との関係がわからなかった。自然農は刈った草をまいた種の上にかけるが、その草もどこからか探して来なければいけなかった。だが今は違う。そこらあたり草は売るほどある。そしてそのときいなかった昆虫もわんさかいる。だからなのか、去年鬼のように出た小松菜の親分さんも存在感が薄い。

ここはまるでニューヨークでも一等荒くれの住む町、ブロンクスのようだ。世界を牛耳るユダヤ人や政治家、麻薬王からド貧民まで、有象無象の住むあの町のようだ。
そこは弱肉強食の世界、いったん入ったからには凄まじいサバイバルがまっている。穢れを知らないかわいいうぶな種は、前後左右360度立体的に襲ってくるあらゆる襲撃に絶えねばならない。

土にはすでに居座っている古株の根が密集。空はほとんどアネゴや親分さんに牛耳られ、太陽もそう簡単には拝めない。やっと双葉を出したかと思うと、巨大なコオロギに噛み付かれ、ミミズに根っこを食われ、幼虫にはくねくねと這い回られて初々しい双葉に穴をあけられる。一緒に入った仲間は次々にヤラレていく。それでも踏ん張り絶え抜いたものだけが、晴れて大空を拝めるという寸法だ。

それだからこそ、生半可な野菜ではない、筋金入りの野菜になるのだ。どこぞの坊ちゃんのように、ママにうんと耕したふかふかのベッドを用意されて、草ひとつない清潔なシーツをあてがわれ、
「ボク?何が食べたい?ボクにうんと大きくなってもらわないといけないからね。ほら!美味しい肥料をた〜ぷりたべなさ〜い」
と、黙っていてもお口に運んでくれるわけではない。
大部屋で荒くれどもにすでに牛耳られているベッドに横たわり、ママに肥料なんてもらえない。自分でその根をうんとのばし、自力で栄養を見つけて来て、自力で大きくならなければいけないのだ!こっ、、これはもうマッドマックスかグラディエーターの世界だあ〜〜っ。

さて、かたやぽっちゃぽちゃにふくらんだメタボな坊ちゃんの野菜と、鍛え上げられたグラディエーター野菜。どっちを食べる〜?え、それって固そうだって。。?

「ふおっふおっふおっ。グラディエーターな野菜のうまさをおまえさんはまだしらんだけじゃ」
やまんばは言った。


絵:バーバラストライザンド(やまんばみたい?)

2010年4月27日火曜日

自己嫌悪は自己逃避




自己嫌悪は自己逃避だ。
自己を嫌悪する事は、自分に落ち度があることに気づき、一見それを反省しているかのように見える。ということは、私は毎回反省をしている事になり、ますます性格が良くなるはずだ。なのに、あいかわらず同じ失敗を繰り返して、「ああ、アタシってダメな人間。。。よよよ。。。」となげく。
これはいったいなんなんだ?自己反省しているんだから、改善されてトーゼンではないか!


ある日、アリさんは花瓶を割ってしまった。アリさんは自分を
「アタシってばか。。。」となげく。またやってしまった。。。なんてバカなの。。。コレだからアタシの人生ってダメなのよ。。。と、つづく。で、それはじーっと自分の中に向かう。畑の真ん中でぽつねんと立ち尽くし、その思いはぐるぐると渦を巻いて自分と言う宇宙の中に沈み込んでいく。
上からみていたクモさんが言う。
「おーい、やったことはどこいっちゃったのだあ?」


花瓶を割った。という事実がある。その事実は単に事実なだけであるが、この世のジョーシキで測ると、「イケナイこと」となる。アリさんはそのジョーシキで自分を測る。「あたしって、イケナイ子。。。」そうすると、頭の中に過去に自分がやってしまった数々の失敗を押し入れの中から引っ張りだしてくる。あの時、あんな事もやったこの時こんな事もやった。。。ああ。。アタシってどんだけバカなのおおおおおっ!となる。

このとき、花瓶を割った行為はどっかにほっぽっとかれている。
今は、やってしまった自分の愚かさに夢中になっている。これは反省とは言わない。反省とは、やった事を真正面からみて、
「うん、確かに大事な花瓶を割ってしまった。それはわたしが慌てていたからにちがいない。ではこれから落ち着いて行動する事にしよう」というのが反省。

アリさんは、実は自分がやった行為を真正面からみていないのだ。それはその行為を見るのが怖いからだ。ほんとうは反省とみえて、自分の行為を責める事で、その現実を見る事から逃げているのだ。一見、落ち込んでいる姿は反省しているように見える。そして自分を責める事で本人も反省をしている気になっている。しかしそれはその現実を見ないためのすり替えなのだ。
なんてしたたかなのだ?うまい事すり替えて反省しているつもりで自分に安堵している。

もうひとついえば自己嫌悪はすなわち、自己憐憫でもあるのだ。
「アタシってばか。。。」といいつつ、なでなでと自分をかわいがっているのだ。
アタシってばか、アタシっておばかさん、アタシってかわいそうなおばかさん〜〜、きゃ〜、かわいいおばかさ〜ん、るんるる〜〜〜んっ!と、なってしまう。。。。(わたしだけか?)
そうして花瓶は割れたままそこに放置されるのだ。

だから改善されて性格が良くなるはずはない。反省してないんだもん、私。
いやはや自分の精神構造にあきれ果てた。うまいことやったもんだ。こうやってながーいこと自分をごまかしてきたのだ。事実を事実として受け入れる強さがなかったのだ。真正面から見る勇気がなかったのだ。


アリさんの足下に夕日が当たった。気がつけば長い事そこに立ち尽くしていたのだ。
「あ〜あ、こんなにおそくなっちゃった。さ、はやいとこ巣にもどりましょ。」
そういって、足下の花瓶の割れたかけらを拾い集め、ゴミ捨て場に捨て、巣に戻っていった。



絵:COOPけんぽ表紙

2010年4月25日日曜日

虫さん肥料で忙しい




ここんところ、さむい。ホントに寒い。お日様も滅多にでない。
んだもんだからか、単に私が下手なせいなのか、畑のおろした種がなかなか育たない。
そんな中、小麦の穂がプッチプチに太ったお顔でてくれた。大麦はすでに穂がでている。大麦よりも大きい小麦の穂。。。?

大麦と小麦を去年11月にまいた。土壌改良のためである(えらそー)。
何でも麦はその根を2メートルも地中にのばし、土の中に長年たまった肥毒を吸収して放出してくれるのだと言う。長年使われていた畑には、化学肥料や有機肥料が地中に沈み込んで畑の下には固い土の層が広がっているそうな。そのおかげで地の底からの地熱が地上まであがって来ず、植物の生長を止めているのだという。。。

ぜーんぶ、本で読んだ事だから、ホントの事はしらないど。でもなんか納得できるんで、やってみている。植物っちゅうやつは、どうも地中にあるものを何でもかんでも根で吸収してしまう性質があるらしい。化学肥料も農薬も牛の糞も全部自分のカラダに吸収する。
そのせいで細胞が異常に肥大化した野菜をみた虫たちは、
「こりゃ、なんだか不自然な草だぜ」
といって、えっさほいさと食べてくれるのだ。
ところがそれをみた農家の人は、
「あ~~~っ、害虫がおらの大事な野菜ちゃんを食っていやがる!こうしてくれる!」と農薬を撒く。又はその場で見つけて殺す。
それでまた野菜たちはそのまかれた農薬を
「コレは自然にとっていらないもの」
と、えっさほいさと吸収し、
「あーあ、またおかしな草だぜ」
と、虫たちがいっせいに食べてくれる、とこーゆー物語が足下で展開されているようなのだ。(単なる私の妄想かもしれん)

野菜は草と同じ植物。自分たちの成長のために一番いい環境を自分たちで作り上げているようなのだ。山の草は肥料も入れないのに勝手に毎年大きくなる。自分たちで自分の環境にあった土を自分たちで作っているのだ。それと同じ事を野菜もやっているとしたら。。。?農薬はいうにおよばず、化学肥料や牛の糞が入った野菜をわたしたちは食べているとしたら。。。?

スーパーで買った野菜は、レイゾーコの中で腐ってとける(そこまでほっとく私はずぼら)。しかしウチの畑で採れた野菜はいつまでーも腐らない。カレカレになるだけだ。大根の葉っぱなんか枯れないどころか、冷蔵庫の中で成長している(!)
コレは本来の野菜の姿なのではなかろうか。たのもしくどこでも育つ。だからこそ人間がそこに目を付け、数ある草の中から選び出し、特別に栽培した長い歴史があるのだ。

「あら~、麦が大きく育っているわねえ~。上手に育てたわねえ~」
と、近所のおばちゃんが言った。

いや、おばちゃん、私が上手に育てたわけではないのです。麦が上手に育ってくれたのです。

絵:単行本表紙

2010年4月22日木曜日

霊能おばば




ウチの母は、いわゆる霊能ばばあで、私が小さいときからいつも変なことを言う人であった。
それは年を追うごとにますます力量をあげ、友だちが絵の相談で電話するときも彼女の目にはその友だちの描いている絵が具体的に見え、
「あんた、いまコスモスの絵を描いているでしょ。その絵の右側の色は変だから、この色に変えなさい」とか、
「あなたのご先祖さまのお墓の上に木がおおいかぶさっていて暗いから、その木を切りなさい」とかはたまた、病気の友だちには、
「この薬草を飲みなさい」とか言って、治したりする。
そんな人を身近に見ているものだから、この世には目に見えない何かが存在しているのだろうなと心底信じていた。
しかし最近私は、そんなものはいないんではなかろうか?という方向に向かいつつある。

「霊は存在する」なんてことが信じられない人が、ある経験を境に「私は霊が存在すると信じるようになった」と言うのはよく聞く話だが、いると思ってはばからなかった私は「ひょっとしていないんではないか?」とおもうようになった。

昔「オーラの泉」という番組を見ていた。江原さんと三輪さんがゲストの背後を霊視している。二人息のあった会話をしているようなそぶりをしているが、よく聴くと、二人で違うものをみているのがわかる。
この二人、テキトーなこと言っているなと思いつつもしばらくは見ていた。でも話の内容がいつも同じで、前世は誰でも武士だとかお姫様だとかいい、だんだんばかばかしくなって見るのをやめてしまった。そのうち知らない間にその番組は終わっていた。

いわゆるスピリチュアルな人と言うのは、だいたい愛に目覚める。平和や平等や穏やかさを求める。いつもニコニコと愛に溢れたお顔をしている。でもそのお顔で自分を防衛しているように見えるのは、私だけだろうか。なにしろ私の場合、ひねくれた性格をしているので、なにもかもが素直に見れないだけなのかもしれない。でもそういう人たちの心には、どこかで「自分は選ばれし者」的な優劣の意識があるように見える。愛を感じたり、神を感じたりするのは、優れた進歩したニンゲンの行いで、けんかしたり怒ったり神を感じられない人は、まだ進化できていない劣ったニンゲンよね、というトーンを感じる。
よく考えりゃ、平和とか平等とかお口にしながら、自分で優劣という不平等を作っている。
ウチの母を見ていても、明らかに「私は特別」という何枚も重ねた座布団の上に座って、高い位置から下々のものたちを見下ろしている感じがする。

そんな人たちが本当に進化したニンゲンの姿なのか。ひょっとしたら、単なる幻覚を見ているだけなのじゃないのか。
「あなたの前世はこれこれこうだ」
といわれても、それを証明してくれるものは何もない。
「今、あなたの後ろを白い竜が走った」
といわれても、はあ、そうですか、というしかない。

昔はそんなことを聞いて、なんだかぞくぞくした。魅力的な世界だ。へたすりゃ自分が特別な存在のように思えてくる。しかしよく考えたら、これは罠だ。自分を特別視させて、それを言った本人も、自分を特別視する。お互い特別視しあって、楽しんでいるだけじゃねえか。そこにはなんの心の発展も進化もない。あるのは優越感だけだ。

今、スピリチュアルな世界にはそんな感情がいっぱいあふれているようにみえる。人はそれで本当に成長できるのか?人はその考えでもって強く生きられるのか?逆にもっと弱くなりはしないか。繊細で傷つきやすく、より防衛的になり、神や聖なるモノや場所にたより、自分の不幸を前世のせいやカルマのせいにしてしまい、現実的な答えを見いだせず、簡単に精神的に追い込まれるようになり、追い込まれたら愛だの平和だの言っていた言葉はどっかにとんでしまい、動物的本能がむき出しになるのではないのか。

感得や霊感は自分一人のものだ。超個人的なものだ。それを公にすることじたい、危ない世界に入っていく。共感は出来ない。それをしゃべって悦に入ることは間違った道に入る。それは大昔から口酸っぱくいわれてきたことだ。だがそれを戒めるものは今はない。野放し状態だ。

霊的世界とは、ばくぜんとした説明できない摩訶不思議な世界とされているが、その中には、ほんとうは単なる科学もごちゃ混ぜにされているのではないのか?母が人のお墓が見えたのも、自分の背骨がくだけたのを意識だけで直したのも、私たちにはまだ知らない科学(ひょっとしたら忘れてる)があって、その科学を単に使っただけなのかもしれない。

たとえば、ケータイ電話で地球の裏っかわの人とお話をしているのを原始人がみたら、「おわー、チョーノーリョクだあー!」って、驚くかも知れない。わたちたちにとっちゃ、あたりまえのことが。

しかしその原始人は、
「オラ、そんなもん使わんだって、お話できるど」
と、地球の裏っかわの人や、宇宙の向こうっかわの人と素手でお話しできてたかもしれないのだ。


絵:ラブロマンス

お月さん、もーもいろ




最近、月の表面の写真がユーチューブでみられる。『Moon Rising』というものだ。それによると、月のオリジナル写真は、フルカラーだと言う。どっひゃ~ん。
それをみてびっくりした。なんという神秘的な美しさなのだ。全体的にもや~っと霧がかかったような濃いグレーの中に、大小無数のキラキラ光るいろんな色をしたダイヤモンドのようなものがいっぱい映ってる。

ホント言うとそれをみたとき、「これ、どこかでみた記憶がある」と心の奥の方になにやらわけのわからん衝動にかられる。「ああ、これこれ。コレなんだ。ホントのお月さん」という確信めいたものと、なつかしさ。なんじゃそりゃ。わたしゃ、かぐや姫か?何度みても見飽きない。吸い込まれるような美しさだ。

かぐや姫と言えば、ニッポンの月探査機、かぐやの「美しい」映像。アレを最初にみた時、おかしいとおもった。おもわんかった?だって、みごとにモノクロなんだもん。写真とってる人ならわかる。モノクロ写真とカラー写真の違い。モノクロな世界をカラー写真のフィルムでとったって、どっかに光が当たったり影があったりすると、完全なモノクロにはならん。もっとふくざつ〜な色合いになる。あの映像は、くっきりはっきり白と黒の世界しか映ってない。やまんばはおもう。「こりゃ勝手にモノクロにしちゃった映像なんじゃないか?」
ほんでもひとつギモンなのは、何でバックに地球が映っているのに、まわりに星がないのだ?

とにかくやまんばにとっちゃ、かぐやの映像は何にも美しくない月なのだ。あんなところに、かぐや姫が住んでいるわけがない。『Moon Rising』にうつっている月には、まさにかぐやちゃんやら、モチついてるウサギちゃんがいて、時々おりひめちゃんや、ひこぼしちゃんが、あそびに来ているように見えるのだー!

絵:ラブロマンス表紙

2010年4月15日木曜日

トイレは臭いか?




トイレそーじをした。(めずらしく)

汚い話で申し訳ないが、前はしょっちゅうトイレそーじをしていた。なんでかというと、おしっこが臭かったのだ。なんでこんなに臭いのだあ?とぶーぶーいいながらやっていた。ダンナのおしっこが床をおおい、におっていたのだ。最初私は彼がわざとぶんぶんナニをふりまわしてやっているのかと思った。(このやろー、けんかうっとんのか?)だがよく考えてみると、彼は背が高いので、おしっこの蛇口が便器から遠くはなれているため水の勢いがついて、ぱしゃぱしゃ便器の外にはねかえってしまうらしい。考えてみりゃ、下にあるちいさな便器の、しかも直径10センチほどの水たまりの中めがけて放水するのは、至難の業だ。男の人はゴクローサマなのである。昔あった男性用便器(洋梨みたいな、イチジクみたいなカタチのやつ)はどっかいってしまった。

だが最近はちがうのだ。ウチのトイレは臭くないのだ。ぐふふ。だからそーじするのを忘れる。(単なる怠慢じゃねえか)
それがはじまったのは、歯磨き粉をつけて歯を磨く事をやめてからなのだ。いきなり、トイレがおしっこ臭くなくなった。まきちっている事は同じ(きったねーなー)はずなのに、ちっともにおわない。
歯磨き粉やめただけでこんなに変化があるのはどーゆーことだ?わたしの喉の痛みが消えたのはわかる。粘膜が保護されたから。だがここまで変化があると、歯磨き粉ってなに?っておもう。単に粘膜が保護されただけではない、もっと何か大きな事が動いている。

これはどーゆーことか。つまりこーゆーことか?
口の中の菌を悪者とし歯磨き粉で除菌したはいいが、その除菌効果は、粘膜という粘膜を荒れさせ、その後食道を通り、胃の微生物を殺し、腸の微生物を殺し、腎臓の働きをおかしくさせ、変な匂いと主にトイレに放出される。

「よくかんで唾液を出して胃の消化を助けましょう」とかいうではないか。ご飯一口に50回かみましょうとか無茶な事を言うではないか。それは唾液がいろんな事を助けている事を教えている。なのに、歯磨き粉は使いましょうと言う。つまりなにか?歯磨き粉を使って唾液のはたらきを殺しておいて、ほんでもってご飯を50回かんで唾液を作りましょうと言っているのか?わけがわからん。口の中の菌のもとは、ご飯じゃないか。

先日母が、「一週間に一日洋画のお教室があるがやけんど、その時だけ歯磨き粉で歯を磨くがよ。けんど磨いたときにだけ、歯のまわりがざらざらするがやき。いっつもは歯ブラシだけでつるつるながやに。なんで?」と聞いて来た。
おかーさん、それは研磨粉じゃないっすか?
ひょっとしたら、歯垢というやつは、研磨粉がたまったものなのかもしれない、ふとおもった。
ネットで探すとまあ色々出てくる出てくる、歯磨き粉の正体。歯にいいとされるフッ素も、殺鼠剤の主原料だと言う。ようするに、何でもかんでも殺すものをお口に入れちゃっているというわけなのである。おーこわ。


話が横にそれちゃったけど、歯磨き粉がなくなった分、自然な唾液が口の中で作られ、その液体は粘膜を保護し、食道を通り、胃を正常にし、腸を正常にし、腎臓を正常に働かせ、ちゃんと分解され、おしっこは浄化されて出てくる。だからにおわなくなる、と、こーゆーことになろうか。

においというモノは、何も言わないカラダからのある種のメッセージだろうとおもう。それをたよりに人間は「はて?なにか自然に逆らった事でもやっているのかな?」と気がつくのだ。石けんを使わない事によってダンナの足のにおいやワキの臭いが消えたことも、メッセージに違いない。

そこのダンナのいろいろがくさいと感じるあなた、いっぺんダンナを実験台にしてみそ。


絵:「ヘルスアップ」便秘対策カットイラスト

2010年4月12日月曜日

大量虐殺〜!




畑の草を刈りまくった。大量虐殺だー!
賞味期限過ぎた(?)種を何種類も混ぜこぜにし、フェンス脇の畝のないエリアにばらばらとまきちらす。ほんでもって、その蒔いたところの草という草を刈りまくったのだった。刈っている間中、罪悪感が充満する。
「ごめんよ。ごめんよ、草ちゃん」

「草も虫も敵としない」というのが、自然農の合い言葉なのだが、敵とはしないが、刈りまくる。はっきりいって、フツーの草のない畑のほうが、ここまで残虐行為はしないだろう。ちょろっとでたら、引き抜く程度なのだから。しかし自然農は、ばっさばっさとそのイノチを絶やす。共存はさせつつ、しっかりその優先順位を作る。

これはどこかで、おごりたかぶる人間のサガを刺激する。
自然農は科学的な肥料や農薬を一切使わない。そしていわゆる有機肥料も使わない。それはすべてが自然に帰っていく、山も川もよごさない、いわゆる今ハヤリの(私の嫌いな言葉)「地球にやさしい」農法だ。その自然にやさしいはずの農法は自然をぶった切る。「コレは草だから刈って良し。コレは野菜だから刈らない」などと差別する。
私はそーゆー自分の行為をよく肝に銘じておくのがいいと思うのだ。


ところで動物愛護の人はビーフを食べないのか?
自然愛護の人は野菜を食べないのか?
ベジタリアンの人は、肉や魚は感情を持っていて殺すと痛がるから食べないと言うが、はたして野菜は痛がっていないと誰がわかる?悲鳴が聞こえないとか、いやがる動作をしていないからというのか?

それこそ人間のおごりではないか。人間の視点からでしかモノを見ていないではないか。山にオオカミが増えたと言っては「調節」し、その結果シカが増えたと言ってはまた「調節」する。だが大自然ははじめからもっと大きな何かを調節するためにオオカミを増やしたのかもしれないではないか。狭い範囲の中だけでモノを解釈していたら、必ず矛盾する事にぶちあたる。

「わたしは自然にやさしい」と思って自分のやさしさに乗っかってしまうことほど危険な事はないように思う。いい事をしている、という気分は自分にとっては気持ちいい。しかしその足下には何億何兆という生物がいて、その踏ん張った足の下で無数のイノチが、今そこであなたに殺されているのだ。

だれ一人自然にやさしくなんかない。いや、やさしくなんかできない。やさしくするってえのは、上から目線だ。人間は、ただ偉大な自然に、ちっこい存在として守られているだけだ。人間は井戸の中だけが世界だと思って右往左往するカエルだ。井戸の水は上から降って来て、下から溢れてくる。カエルはその意味が分からない。

そーゆーことを肝に銘じて行為する。
コレはいい事とか悪い事とか判断するのではなく、自分が今やってる行為に、つねに気がついていなくちゃいけない。判断や解釈は、単なる井戸の中だけの法律だ。
高尾のやまんばは、草を刈りながらおもうのであった。


絵:「モンスター列伝」坪内寿夫(うちのばあちゃんにそっくりだ)

2010年4月9日金曜日

花を食らう

今畑にはなんにもない。しかしあるのだ。
こんな食べ方があるなんて、わしゃ知らなかった。

バラのように開いた白菜。冬の終わり、ヒヨドリちゃんにその葉っぱぜんぶをしっかり食べられた。にもかかわらず、白菜はその真ん中からにょきにょきと顔を出し、花を咲かせる。
近所の畑のおばちゃんから聞いた。
「今の時期はなにもないから、ほれ、その花を食べるのよ」
なんといい事を聞いてしまったのだ。よく考えればアブラナ科は全部菜の花だ。菜の花はわざわざ植えなくても、勝手に出てくるのだ!

そうと聞いてしまってから、畑にはわんさか菜の花があるのに気がついた。花と言ってもつぼみだけどね。手でおって、ぽきっと折れるような柔らかいやつ。
今食っているのは、白菜の菜の花、タアサイの菜の花、小松菜の菜の花、ノラボウ、そして大根の葉っぱ。ちょっと晴れてくれると、どんどんわきからでてくる。みんな自分の子孫を残そうと必死なのだ。で、それを私が次から次へと食べてあげる。
白菜はあっさりとおいしい。タアサイは苦みがぴりっときいてうまい。ノラボウはもちろんうまい。そして大根の花!ゆがくと、サツマイモのような味がするのだ。
花はその存在自体にすごいエネルギーを持っているんではなかろうか。だって子孫を作るいわば胎盤のようなモノだ。子孫を残すためのあらゆる力がみなぎっているに違いない。私の花粉症がなくなってしまったのも、この菜の花のおかげなのかもしれない。

農薬も肥料も何も科学的なモノは入っていない。ただ自然のままに育った野菜だから、何でも食べられる。ついでにその横に生えている草も食えるかもしれないと調べりゃ、そこらの雑草も食べられるモノが多いようなのだ。

こーゆー事を知っておくと、いざというときに役に立つ。畑からの帰り道、はっちい隊長から教えてもらったノカンゾウが咲き乱れていた。さっそくいただくことにする。ノカンゾウのカルボナーラはサイコーなのだ。

気がつけば、お山に山桜が咲き始めている。ふもとにはソメイヨシノの大宴会。そろそろお山が、ふおっふおっふおっ、と笑い始めている。

2010年4月3日土曜日

どこでもせいち〜

「あなたの前世はこれこれこうで。。。」
「あなたの背後にこういうお方が見えます。。」
と言われたら、ぞくぞくする。
おお、この世には私を守ってくれているお方がいらっしゃるのねとか、私が不幸なのは、過去世にイケナイことをしてしまったからなのね。と、想像するのは楽しい。
聖地というところに赴き、その空気をありがたくちょーだいするのもまた楽しい。私もアメリカやイギリスやエジプト、そして日本国内の聖地巡りをしたたぐいだ。
いわれのある場所に出向き、そこから溢れ出るエネルギーをちょうだいする。ちりあくたにまみれた自分のココロがきれいにされる感じがする。お伊勢さまにいったときもなんともいえない清々しい気分になったものだ。
今も高尾の麓に住み、高尾の聖なる空気を頂いている。。。。。

と、おもうでしょ?
でも聖地は遠きにありて思うものかもしれないなどと、ふとどきものはおもうのだ。(そりゃ、ふるさとは、だろ)

じっさい高尾山はそれこそ清濁合わせ飲んだ場所のようにおもえる。神仏混合、日本中の神様は節操なくあっちゃこっちゃに祭られているし、四国出身のわたしにとっちゃなじみ深い八十八カ所巡りもある。これがまたちっこいんだー。1分で巡れる(笑)。現世利益、来世利益、当たり前。数々の人の願い事で溢れている。おまけによく人が死ににくる。ここいらの町内会の人は滅多にお山に入らない。よく「でくわす」からだ。
近所のじじいが「おう、あそこの沢に今度一緒にいくべ。おもろいもんみっけたど」何でも服毒自殺する人は、最期に水を飲みたがる。それで沢で水を飲んだらさいご、あっというまにいってしまうのだそうだ。じじいの話だからほんとかどうかはしらない。
「このまえなんか、スッポンポンのネエちゃんが見つかってよお。ええもん見たど」とほざいておった。
「んでその沢にいる仏さまはどーするんじゃ?」ときくと、
「ほっとく」とのこと。それでええんかーっ!
ほんとにもお。私が知らないのをいい事にからかっている。じっさいほっとくわけがない。

現実問題、高尾のボランティアの人に聞いた。山に遭難者が見つかるとその人を運び出すのに、21人は必要なのだという。山道は険しい。人が担いで降りるしかない。運び出す人、途中で後退するメンバー、そして医者、その他専門的な人々も必要になる。
「もう、本当に大変なんだよ、だからやめてね」と言われた。
はい。すいません。


聖地と聞くと、つねに清々しい清浄な空気が溢れてるように思うが、ここ高尾は、住んだかぎり、もっと地べたに近い、いやめり込んでいるといった方がいいか。なんといおうか、すべてを飲み込む大きなおなかを持ったお山なのだ。ニンゲンの業を全部ひっくるめて「ええど。何でももってこいや」という場所。だからその土手っ腹にトンネルほられてもへーきなのだ。(へーきってあなた、だまってるからそうおもうだけでしょ)

そこらへんにお山の懐の大きさを見るのは私だけか。近年はあれがいけないこれじゃだめだとなにかにつけてうるさい。けど、高尾山はふおっふぉっふぉ。。と声高らかにニンゲンのどたばたを笑っているように見える。人間の視点とは全く違う視点を持ったものにみえる。
今のわたしにとって高尾は、触れて壊れるような繊細な存在ではない。彼等(?)は、人間の解釈になにもいちゃもんをつけない。ただ、そこにあるのだ。この感覚をどう言葉で表現していいのかわからない。あまりごちゃごちゃいうと、言葉の遊びみたいになってしまう。でもなんと言うか、そのおおらかなふところは、人間とはまるで違う視点を持っている。そういうかんじがするのが、私は大好きなのだー!

たぶん高尾だけじゃない。他のお山も全部同じなのだろう。人間が勝手に「ここは聖地!」と決めただけなのだ。だれかが何かを感じてここに印を付けると、そこが目印になって他の人もやってくる。やってくると人はなんだかありがたーい気持ちになって拝む。それを見ていた人もまたありがたーい気持ちになって拝む。んでせっかくだからと、ほこらが出来て、人が集まるからと、お茶屋さんが出来て、ついでに記念にとお土産物まで作ってもってかえらせる。そうやって人が集まれば集まるほど、そういう空気が漂い始め、またそれを感じたくなって人が集まってくる。
そんなふうに聖地って出来たのかもしれない。という事は、どこでも聖地なんじゃないか?
ドラえもんじゃないけど、「どこでもせいち~!」っちゅうて、どこでも拝んじゃえるわけだ。

そうなってくると、いちいち聖地に行かなくても、そこが聖地なのかもしれない。私が静かな気持ちになったとき、私は聖地にいるのだ。前は毎年お伊勢さまに行きたくなったのに、今はどこにもいかなくなった。行かなくてもここがお伊勢さまだ。

心を清めてくれるものをそとに求めても、それはかえって心を窮屈にする。もしアレがなくなると困るし、そこに行けなかったらこのケガレは祓えない、のでは苦しくないか?行った場所であれこれ「記念品」をもってくるのもやめた。その物にどこかでたよってしまうからだ。そしてあったらあったで、その呪縛にとらわれてしまう。

そう考えると、自分の前世がアレで、守護霊がコレでというのも、どこかでそれにすがって、今あるこの自分の状況から逃避しているようにおもえてきた。聖地や前世や守護霊は、今あるがままの自分の姿を見ないためのレジャーの一つなのじゃないのだろうか。遊びで言っている分にはいいけど、それが本気になってしまうと、自分の不幸を過去世のせいにしてみたり、うまく行かないと守護霊にばかりたよってみたりしないか。元気がなくなるとエネルギーをもらいにあっちの聖地、こっちの聖地と渡り歩いて、かえってへとへとになったりして。

苦悩の原因を外に求めたり、救いを外に求めたりしてもぐるぐる回るだけのような気がする。聖地と呼ばれる場所に住んでみて、色々思う。自分探しでぐるっと旅して、けっきょく自分の中にすべての原因やすべての救いがあるのだと思った。
私の本棚は、神秘主義、宗教、オカルト、スピリチュアル、そして誰も買わない怪しげで、ちょーオタクな本などで埋め尽くされている。でもなんだかそれも卒業しつつある。

高尾のお山がうながしてくれたのだ。

おフランス




友だちがアンティークの家具の買い付けにおフランスに出かけている。フランスと言えばいいのだが、何となく「お腐乱す(ちがーう!)おフランス」といってしまうのはなぜだろう。日本人はその存在に尊敬に値すると感じると(?)何でも上に「お」をつける。「お母さん」「お父さん」「おビール」「お酒」「お米」「お茶」「お紅茶」。でもなぜか「おアメリカ」とか「おイギリス」とはいわない。(尊敬に値しないのか?)「おワイン」とか「おウイスキー」とか「おパン」ともいわない。なんでや?その一線引かれた基準はなんや?単に言いにくいか、言いやすいかのちがいか?「おパン」なんて言いやすいと思うのだが。

ともかく、そのお友達は、今おフランスに行って、おアンティークのお家具をお市場でお物色なさって、お買いになり、おプチプチでおくるみになられておヒコーキでお帰りになりあそばされるのだ。きっと今頃、おいしいおフランスのおレストランでおビシソワーズなぞお飲みになられて「おトレビア〜ン」とお舌鼓をうたれていらっしゃることでせう。


絵:「モンスター列伝」出光佐三