2008年8月24日日曜日

地下室の扉


 
私は最近、自分が「ちゃんとしなきゃ病」という病にかかっていることに気がついた。
この聞いたことのない病いとは、心の中で「ちゃんとしなきゃ。ちゃんとしなきゃ」と言い続けることである。
困ったことに、息をするように四六時中言っている。24時間態勢だ。朝一発目の目覚めの瞬間に、「あ、起きなきゃ」という。
「ふとんたたまなきゃ」「朝ご飯作らなきゃ」「洗濯しなきゃ」「掃除しなきゃ」「仕事しなきゃ」「仕事先にメールしなきゃ」「庭の草むしりしなきゃ」道を歩いていると「あ、ご近所さんに挨拶しなきゃ」「町内会の行事に出なきゃ」...。
エスカレートすると「お酒飲まなきゃ」「旅行いかなきゃ」「友達の家に遊びにいかなきゃ」「たっ.....楽しまなきゃ!」と、なってくる。楽しむことまで強迫観念のように、「そうしなければいけない」という義務感になってしまうのだ。これでは人生の楽しみ方ができない。この心理状態の根底には、「ちゃんとしないと怒られる」という恐怖がどどーんと横たわっている。
誰がそんな恐怖を与えたのだ?
「ちゃんとせんかあ〜っ!」と父。「ちゃんとしなさい!」と母。自分に向って最初にこの発言をするのは、親という存在に決まっている。ところが親に罪はない。だって、ちゃんと育てないと、なにしでかすかわからない。とりあえずは親の義務だ。

ところが、私はその両親からのしつけを、今度は自分自身でやり始めたのだ。高校を卒業して親元を離れ、怒ってくれる人がいない、監視してくれる人がいなっくなっちゃうと、心の中でもう一人の自分をつくる。その名も「監視人」。この監視人が24時間態勢で目を光らせている。その存在によって、冒頭の「なになにしなきゃ」というある種切羽詰まった状態に自分を置いてしまうのだ。その監視人を置いてしまう心理は「自分は野放しにしたら、なにしでかすかわからない」というものだ。

さて、その監視下に置かれた状態が47年間も続いた。私はある日、その監視人という存在に気がついた。
「あれっ?これって、ちっとも人生を楽しんでないんじゃないの?」それにも気がついた。遊ぶことさえも、義務にしてしまう私がいたからだ。でもこれは、ひっくりかえせば、自分ひとりでやってたことだから、自分でなんとでもなることなのだ。「しなきゃ」は、「しちゃえ」や「っちゃお!」にも、いかようにも変換できるということだ。
「楽しんじゃえ!」「旅行行っちゃお!」「掃除しちゃお!」「草むしりやっちゃうぞ〜」「よ〜し。仕事やっちゃうぞ〜!」となんだか、前むきで、楽しげじゃないか。
自分の行為をいやいややるのではなく、るんるんしながらやろうという姿勢に変わる。なんだか、この違いは大きくないか?

案外、そういう人他にもいるように見える。しかめっ面をして庭掃除するおばさん。人生最悪...みたいな顔をしたおじさん...。ひょっとしたら彼らは別な種類の病いを抱えているかもしれない。
「何にもしてくれない病」?それとも「オレだけ不幸だ病」?

たしかに監視人がいてくれたおかげで、私はここまで人並みに生きてこれたのだと思う。しかしこの存在はもう私には必要なくなったのだ。だから、その存在に気がついたのだと思う。
バイバイ、監視人さん。私は、あなたの目がなくとも、もう自分で楽しく生きていきます。

絵:ミステリーマガジン掲載

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