2018年5月19日土曜日

落ち込んでるのん?

落ち込んでる、、と思ってたら、
心が静かなだけだった。

人はどっかで、明るい気分のほうがいいっておもってるよなあ。
ほんとはそう決めつけることもないのかもね。

じーっと暗闇にある池の表面を眺めている。
少し風が吹いて、水面がささささと、縮緬のように波打つ。

そこに感情の波を見る。
言葉にならない感情の細かな波。

あれは悲しみの波だ。
あ、あれは怒りの波だ。
今見えたのは、胸をぎゅっとさせるやるせなさ。
あれー嬉しがってる波もある。。。

感情の水面はいつも波立っている。
本当は一個じゃない。
ありとあらゆる感情が一緒くたになって、常に動いているのだ。

それに気がついたとき、
落ちこんでいると思っていた気分は、
ただ静かな感情があっただけだと知る。


2018年5月10日木曜日

親孝行のかたち



「おまえをよろこばせちゃろか」

父がうれしそうに電話をかけて来たのは、父の死の三ヶ月ほど前だった。
「うんうん、よろこんじゃる。何?何?」

年明け、父は退院して家に戻り、その後手厚い訪問看護を受けていた。そのいつも来てくれる看護士さんが、ある日私のこのブログを見つけたのだと言う。
「ウチにある絵を見て、彼女はおまえの絵のファンじゃが、ブログがしょうおもしろいがやと!」(注:しょう=とても/高知弁)

父が私をほめることは滅多にない。理由は「おまえはすぐに調子に乗る」から。
だからその彼がわざわざ私にそんなことをいいに電話をかけて来たのにはおどろいた。うれしそうに何度も同じ話をする彼の笑顔が手に取るようにわかる。

たかがブログでそんなによろこんでくれるなんて。。。
と思った時、はっとした。
あ。これが親孝行だ。


ずっと私は親孝行が出来ていないと思い続けていた。
親孝行とは、親を旅行に連れて行ったり、本を出したり、有名になったりして、
「お父さん、どお!?こんな本を出したよ!」とか「こんなに有名になったよ!」とかいって、
「おお!おまえはすごいなあ~」
というふうに親をよろこばすもんだと。


一度だけ、父との旅行を計画したことがあった。母と離婚したあとの父をよろこばそうと、自分なりのツアーを考えた。まずは鞆の浦の古びた街並と瀬戸内の鯛を堪能し、海の次は山陰の山奥にある奥津温泉にまで足を伸ばし、棟方志功が晩年よく通ったという旅館を用意。私は父とふたり、冒険気分で行く予定だった。

ところが直前になって、別れたばかりの母が「私も行く」と言い出した。
父と私の分だけを用意したお金は、母が参入する事になって足りない。
けっきょく母の分は父に出してもらうという、なんともかっこ悪いことに。これじゃ親孝行にならない。おまけにまさに犬猿の仲まっただ中のふたりのあいだに挟まって、あっちの機嫌、こっちの機嫌と、どっちものご機嫌とりに右往左往する私。

遊覧船に乗ったとき、横に並んだふたりの、互いにそっぽをむいた顔が今でもうかぶ。
そして鯛づくしの豪華な夕食も、母の口にかかっちゃイチコロだった。
「いや。これ冷凍の鯛や。おいしゅうない。。。」
鞆の浦名物の鯛料理にことごとくケチをつける母。一気に気分も盛り下がる。
やっぱり連れてくるんじゃなかった。。。。と後悔すること山のごとし。

しかし最後の奥津温泉での料理は、母を唸らせた。
まず器が良かった。昔ながらの古い本物の漆器を大切に使っていた。その上に美しく盛られた料理のほんとうにおいしいかったこと!目と口のうるさい母は、このすべてに感激する。あとのふたりもツラレて感激する始末。まったくこの一家は、いつまでも母のノリにふりまわされる。
そうはいいながらも、床に入り川からあふれてくるはじめてのカジカの声に耳を傾けながら、母もつれて来て良かったとおもったものだった。

だがこれが父への親孝行になったとは到底思えない。父があの時どんな思いをもっていたのかは今は知るよしもない。

そんないきさつもあり、私は一度も父に親孝行をしていないと思い続けていた。
しかし今、それがひょんなことから親孝行が出来てしまった。
お金もかけない何の努力もしていない、好きなように好きなことを書いているこのブログのおかげで。

なんだ。。。こんなことだったのか。。。
肩から力が抜ける。
彼のうれしそうな声を聞きながら、ああ、これでよかったのだと、心底安堵した。


あとから叔母に聞いた話。
「お兄ちゃんは、つくしちゃんの記事が掲載された高知新聞を、毎月大阪に送ってくれてたんよ。あんたは自慢の娘!」
その昔、毎月シリーズで高知新聞に私の記事が掲載されていた。父はそれを余分に買って、わざわざ親戚に送っていたのだ。

そんなことも知らなかった娘。父の思いと娘の思惑は、どうしてこうもずれるのか。
きっと世の中は、互いの思惑の違いで、心に後悔や罪悪感を抱える親子がいるにちがいない。ほんとうは親孝行なんて大仰な思いを抱える必要もなかったのではないか。
「ただあなたが元気でいてくれるだけでいい」そんな風に親は思っているのかもしれないし、また子は子で、「親がいてくれるだけでいい」そう思っているだけなのかもしれない。


いつのまにか私たちは形で示すのが愛の表現だと思いはじめた。
ほんとうは最初に愛があり、その表現として形にあらわれただけなのに、いつのまにか最初に形ありきになってしまった。形を示さなければそれは愛ではないというまでに。

そうして人は形ばかりにこだわってしまった。逆に言えば、形さえ繕っておけばいいという殺伐としたものにもなりうる可能性もあるのだ。口先だけ、形だけになる世界に。

そしてまたご多分に漏れず、それが私の思っていた親孝行の形であった。厳密に言えばそれは父への侮辱でもあったのだ。
愛はとてもシンプルなものかもしれない。何かをすることによって、そこにいることを許されるのではなく、ただそこにいるだけでいいのだ。

私の場合は、ただ自分が楽しんでやっていることを、人を介して父も楽しんでくれていた。
父は父自身が楽しむというよりは、人がそれを楽しんでくれているのを見て、幸せを感じる人であったように思う。
父の死の間際にそれが知れたのは幸運だった。


あの親孝行の一件から、私は何かが吹っ切れた。父にたいする後ろめたさも後悔も懺悔も消えていた。
親孝行してくれてありがとうと言われたわけでもないのに、父が心底よろこんでいくれていることに気づけた。ひょっとしたらあれが一年前であったなら、私は気づけなかったかもしれない。

ことは自然に起こる。
たとえ大事な人がいなくなったあとでも、ある日ふと気づきが起こる。
それは孝行したい相手が生きていようが死んでいようが、その人にあったベストなタイミングで。

そしてそれこそが、この世が愛に満ちているあかしではないだろうか。





2018年5月3日木曜日

母の煮物



「台所に煮物があるき、お皿に入れて持ってきて。」
私は赤絵の骨董品の小皿を選び、ガスコンロの上に乗っているお鍋のふたを開けた。

「味見してないけど、食べてみて」
大胆に切られた大根とジャガイモがゴツゴツと入っている。その上に大きな鮭の切り身が4枚綺麗に並んでいる。母の言う通り、味付けをしたあとかき回されたり味見をされたあともない。
「え~。これ、大丈夫?味見してからにしてや~」
いささか不安になった私はぼやいた。
「ええから。早う持ってきて」

テレビのある部屋のソファで座っている母に持っていく。
「早う。食べて」

昔はきれい好きだった彼女も、年をおうごとにいろんなことが億劫になってきた。高知に帰るたびに汚くなっていく住まい。汚すぎて触る気にもならない台所。シンクの上を小さなゴキブリが我が物顔でウロウロ。
ただでさえ食欲をそそらない場所で、ヨーグルトがあるから食べろだの、野菜ジュースがあるから飲めだの、あれこれ私に食べさせようとする。
そのあげく、味見もしてない煮物を私に食えと。

「拷問以外の何物でもないな。。」
いやいや食べた。
「あ。美味しい。。。」
「そやろ?」
ニヤッと笑う母。

よく見たら、大根の皮もジャガイモの皮もついたまんま。
「大根の皮ついてんのに、なんでこんなに柔らかいん?前もって茹でたん?」
「なーんもしてない。そのまんまゴンゴン入れて、煮付けて終わりよ。」
大根もジャガイモも鮭も皆それぞれが美味しい。大根から出たであろうちょうどいい甘さと塩加減。思わずおかわりした。

高校卒業後、高知を出て久しい。母の手料理は私の記憶から遠のいていた。それが父の容体悪化のため度々高知に戻ることになって、母と過ごす時間も増えた。彼女もずいぶん体の様子が悪い。複雑な思いを抱えながら帰る日々。
気楽な一人暮らしの彼女は、私が帰ることで何かしら緊張もするだろう。
先日もできるだけ母の手を煩わせないようにと、スーパーで買ってきたお惣菜を持っていった。

お惣菜を一口食べた母が言う。
「もういらん」
「え?食べないの?」
「うん。もうえい。あんた一人で食べて」
せっかく買うてきたのに。。。とブツブツ言いながら食べる私。

「お鍋にある煮物、持ってきて」と母。
台所で鍋のふたを開けると、赤い液体の煮物があった。
「何?この赤いの」
「ケチャップ」
「は?」
またまた変な組み合わせをしたもんだといぶかりながら、小皿に乗せてリビングに持っていく。
「食べて」

皮の付いたままのジャガイモと玉ねぎとくちゃくちゃに固まったままの豚。ケチャップで煮たという怪しげな物体を、半ばやけくそで口に押し込んだ。

絶句する。
これはやばい。
「これも、、ひょっとして味見してないが?」
「うん。朝煮たまんま。食べてもない」
かすかな酸味と和風の味付けが絶妙なコクのある絶品だった。

ついさっきまで美味しいと思って食べていたスーパーのお惣菜が、いきなりゴミにおもえる。
彼女が一口食べていらないと言ったわけだ。
もう一度食べくらべてみる。
まずい。
母の煮物を食べる。
うまい。
この違いは別次元だった。

何がちがうのかすぐにわかった。
「気」だ。
スーパーのお惣菜は、まったく気が入っていない。どんな味付けをされていようと、腑抜けなのだ。しかし彼女のはガツンと気が入っていた。

「味付けは何?」
「ケチャップとみりんとお醤油」
「それだけ?」
「それだけ」
出汁も何も入っていない。豚肉と皮付きジャガイモがコクを出していたのだ。
「これ、同じ方法で私がやったら、絶対腑抜けな味になるよ!」



美味しい食べ物は人を幸せにする。
それは味付けが上手とか、そういうことではなく、カタチではない何かしらのものがそこに入っているからではないだろうか。作る人の気持ちのようなもの。

スーパーのお惣菜がそれを教えてくれた。流れ作業の中で作られる料理には「気」など入れてられないのだ。
このごろ、なんとなくまずいなあと思いながらも、面倒なので買っていたスーパーのお弁当。これが理由だったのか。まるでエサのように感じられる。
しかし気の入った料理は身体に染み通ってくる。これこそが本当に栄養になっていくものじゃないだろうか。

母のアパートから東京に戻るとき、鍋にあったタケノコの煮付けを二、三個ほおばっていった。母にうながされることもなく自ら。
それはまるで中学生が学校に行く前のようだった。

「いってきま~す!」
という言葉が、自然に口から出た。





2018年4月21日土曜日

父の葬儀その3




「つくしの存在がまったくないねえ。。。」
受付を手伝ってくれた、私の高校時代の友人が言った。

その日の葬儀はうち一組だったため、会場も一番大きな場所、祭壇は山好きだった父のために、山を連想させるような豪華な花にした。
故人を偲ぶコーナーには、父が生前に「これを飾ってくれ」とプロジュースしてきた、華々しい数々の表彰状や贈呈の品々、それにまつわる記念写真。私がもって来た若いころの父の写真も大きく引き延ばされ飾られてあったが、そこになにかが欠けていた。

「おかしいなあ、なんか足らん。。。。
あ!ウチのかあちゃんとの写真がないんや!」
私の母との31年間が、ごっそり抜けていたのだ。



数日前の会話。
「とーちゃんの写真、これだけしかないのん?」
「たぶん、一階の押し入れの奥にあるわね。あたしゃあ、見たことないがやけど。。。」
葬儀社の人に10枚のスナップ写真を用意してくださいと言われ、選んでいたときのことだ。あるのは最近の父と義母の写真ばかり。昔の写真はないかと聞いたときの、ちょっとふくみのある義母の答えだった。

一階の事務所をかねた部屋の突き当たりに押し入れがある。その奥を覗くと、うっすらと見覚えのある布ばりの古いアルバムが、隠されるように押し込まれていた。

埃を落とさぬよう4冊のアルバムをゆっくり引き出す。虫に食われた表紙を壊れないよう開くと、そこには初々しい警官姿の父がいた。若い父の姿を見て心がワクワクする。「わりことし(悪ガキ)じゃった」と本人が言う通り、牢屋に入って泣き顔を見せてる写真や、犯罪者がクビに掛けるプレートをかけている写真など、悪ガキっぷりが写っていた。

そして、はっきりと見覚えのあるアルバムを開くと、そこには私の母との結婚式の写真が。
次々に出てくる母とのツーショット。そして私の幼いころの写真。
「あ。これはやばい!」
義母がそこにいるわけでもないのに、あわててぱたんと閉めた。
「これはもって帰ろう。。」
だまって私がもらうことにした。


冒頭の友人の言葉は、そのまま父の人生の事実を伝えていた。
葬儀に出された写真は、父の若い頃、そして義母との生活の写真。そこに私の存在はなかった。両親が離婚したのち、私と一緒に写真を撮ったことはなかったのだから。

人は自分の過去の汚点を隠そうとする。
表彰されたこと、努力したことは美談として伝えられる。それだけを演出したかった父。だけど、自然と彼の寂しさはそこに現れていた。

死が近づいていた頃、父は私に母とどうして離婚したのかを話してくれた。父の視点から見ればそれは正当な理由だった。そして私は母からもその理由を聞いている。
ふたりの離婚の理由は、まったくちがうものだった。

それぞれの立ち場から考えると、どっちも正しい。この世は善と悪との戦いではなく、善と善との戦いだ。私はふたりの内のどちらにもつかない。だって、どちらの思いもわかるのだもの。




人の死は、何かを変容させる。
それを強烈に感じさせてくれたのは母の言葉だった。

母は、幼い私に暴力を振るう父を許せなかった。
「この人とは一生平行線。戦友として生きようと思った」
と常々言ってたように、父との結婚生活は、つらい思い出がつまった31年間だったようだ。

子供ながらにも、このふたりの結婚には無理があるなと感じていた。父もきつかったに違いない。それがいろんな所で噴出していたのだろう。じっさい再婚後の父は穏やかになっていった。それが私にはとてもうれしかった。

告別式までのあいた時間に母のアパートに行く。

「お父さんが逝ったのを聞いてから、ずっと寝れんかった。。。」
あんなに嫌っていたのに、寝られなくなるとはと、すこし驚く。

「今の私があるのは、あのひとのおかげ」
思わず耳を疑った。
「え?!そんなこというの、はじめてやん!」
すこしやつれた顔で微笑む彼女。

「過去の辛かったことあるやろ?昔はそれを思いだすと、辛い感情ばかりがあふれていた。だけど今、そのつらかった過去は、痛みとともにはない。それをそのまんま見ることが出来る。なんちゃあ、つろうない。ただあったかい感じがある。今はお父さんと過ごした幸せな時間しか思いだせない」

父の死を聞いて、彼女の中で何かが動いていた。過去に起こった出来事を拒絶していない彼女がいた。


そしてこう言った。
「お父さんはねえ。この世でふたりの女を幸せにした男!」
ちょっとはずかしそうな顔をした母。
ふたりの女とは、だれでもない、母と、今の奥さんのことだ。


ふたりが離婚した後、私は二つの顔をもたざるをえなかった。
母との顔。そして父との顔。
離婚した夫婦の子供は、片親と会う時、もう片方の親の存在を消しながら会う。まるで「私はあなただけから生まれた子供よ」という、ある意味ムチャな役割を演じるのだ。

私の中にある、母に受け入れられない父の血が、ひそかに分裂を起こしていた。


それが、母のその言葉を聞いたとき、私の中でなにかがはじけた。
内側からなにかわからない大きなエネルギーがぶわっとあふれでた。
私のすべてが受け入れられている感じがしたのだ。
子供のように一瞬大泣きした。
それは分裂していた自分の身体が統合されたような、不思議な感覚だった。

それから母と抱き合って泣いた。
それは悲しみからではなく、何かが溶解した胸が熱くなる涙だった。

死は決して悲しいだけのものではない。言葉では解き明かせない変化をまわりにもたらす。父の死はそのことをはっきりと伝えてくれていた。


最後のお別れの時、父にそっと伝えた。
「とーちゃん。これはかーちゃんからの伝言。
『この世でふたりの女を幸せにした男!』やて。
すごい言葉もろうたね。
とーちゃん、ほんとにありがとう。
そして、おつかれさまでした」

火葬場で父を待ちながら見たすぐ近くの山は緑がムンムンしていた。『山笑ふ』とはまさにこのことだ。

それはまるでとーちゃんが笑っているかのようだった。



2018年4月18日水曜日

父の葬儀その2



父は葬儀場から、お金の準備まで用意してくれていた。

私といえば、会場のお花選び、棺選び、骨壺選びなどのもろもろの葬儀のための道具の選択、父のスナップ写真、新聞広告に出す内容のチェック、お香典返しに添える言葉、弔電を読む人の選択や順番、香典の管理、その他いろいろの細かい作業を葬儀社の方にうながされるままにやっていただけだった。

亡くなってから葬式会場を探す人たちから比べれば、はるかに楽な作業にちがいない。どこまで行っても、父の手際の良さに感心、ほれぼれする。




こんな人だったっけ?
と子供心に思う。

幼かった私にとって、父はあまりにもしつけの厳し過ぎる、恐ろしい人だった。

お膳の上の箸がそろっていない、新聞を足で踏むなどの私の失敗を見つけると、間髪入れず父の鉄拳が飛んで来た。固いグーの手が私の顔面にめりこむ。岩のような父の圧倒的な破壊力に、幼い私は後ろに吹っ飛んだ。よけようものなら、倍になってよけいに殴られる。よけられないと思った私は、父が向かってくるその様子をただじっと受けとめ続けた。

お酒を飲んで帰ってくると家で暴れる。投げたり壊したりしたので、電化製品はどこかがかならずへこんでいる。
照明器具をバットで殴って、ガラスがバラバラと布団の上に落ちる様子を見ながら、母は私をかばいこう言った。
「お父さんは、あんなことするけれど、本当はいい人なのよ」
目の前で展開する彼の行為と、母のいい人だという言葉が、私の中で分裂した。


しかしそういう父もよくよく見ていると、ただ寂しかったのだと言うことがわかってくる。

私はよく父の晩酌の相手をした。そうすると、とても機嫌が良いのに気がつく。
父は父として、自身の人生にたくさんの苦悩をかかえていた。それを受け止めてくれる誰かを必要としていただけなのだ。

通夜の夜、父の親戚の人たちと話をした。父の幼年期の話しもまた壮絶なものだった。
父はただ祖父からもらった激しいしつけをやっただけだ。

だが残念なことに、受ける側がもらう傷は深い。
私の中に残ったトラウマは父に謝ってもらって取れるものではない。これは自分自身で解消していくものだ。そう簡単にはいかないだろう。

しかしこうやって受け継がれていくその家のやり方も、私の代で消えていく。
それがゆいいつの救いだ。


今回、お通夜や葬式に来てくれる人々が、口々に私に言う。
「お父さまには、本当にお世話になった」と。
父がどれだけたくさんの人の面倒を見、真摯になって相談に乗っていたかを知ることになった。

私は娘の視点からでしか、父を見ていなかった。父と一緒に生活をした18年間で味わったものでしか、父を判断して来なかった。

それがだんだん溶けはじめたのは、父の死が近づいてきはじめてからだ。

何度かの手術の度ごとに帰って、父と会話をする。回を重ねるごとに、私の中で何かが溶けはじめる。それは一個一個、音もなく自然に溶けはじめるなにかだ。
病気や手術や入院することは縁起でもないことなのだけれども、そのおかげで私は父に近づいていった。

いつのまにか、殴られたことも恨みにも怒りにもなっていなかった。
あのとき、どうしようもなくそうなったこと、そしてそれはすでに過去ものであること。父を責める気持ちもなにもなかった。
病床にいる父に
「とーちゃん、わたしはつらかったよ」
と、伝える必要も感じなかった。
時には冗談を言い合って、時にはただじっと2人だけで、何も言わずにただいる時間がすてきだった。

そして今、こうして父とかかわりのあった人々に触れて、葬儀の準備をしている。
それは二度とやって来ない貴重な時間だとしずかに受けとめていた。



写真:父と5ヶ月の私。





父の葬儀その1




「お父さんが、息があらいきねえ。はよう帰って来てや」
そう母から電話があり、あわてて飛行機の手配をして電話をかけなおす。

「最終便しかとれんかった。まにあうやろか?」
「うん。もう大丈夫。さっき息を引き取ったぞね」
おもわず、
「はやっ!」と、言ってしまった。

その四日前に高知に帰って来た所だった。その時の父の様子で、もう先はないなと感じていた。亡くなる直前まで血圧もなにもかもが正常だったと言う。しかし母が電話を切って、数分もしない内に息をしなくなったらしい。
父らしい、あっぱれな行き方だった。

きっと私が飛行機の手配やら、仕事の手配やら、バタバタしているのを近くでにやにやしながら見ていたんじゃないだろうか。
「何をあわてよらあ、おれはもう逝ったぞ」とかいいながら(笑)。


最終便で戻ると、父がベッドにいた。
すぐに目を開けそうな、でも、もうここにはいないような、どっちとも言えない不思議な父がそこにいた。

「今日はここでお父さんと一緒に寝よ」
父が私の母と離婚して、一度も泊まったことのない父の家。はじめてのお泊まりは、死んだ父と、再婚相手の義母と、狭い布団の中で川の字になって寝ることだった。

緊張してなかなか寝られない。そのうち小さな揺れに気がつく。「あ、地震が来る」と思った直後に揺れが。高知は震度3だった。
いろんなことが起こるなあ。。。
これからやってくる未知の体験に、ハラをくくらされた瞬間だった。

父プロジュースの元(笑)、喪主としての仕事が始まった。と言っても、葬儀社の方にやっていただく内容を次々に選択していくということのようだ。

父のカラダは死後硬直が始まっていた。納棺師さんがこられて、身体から出る液体を吸い上げていく。死後変化していく父を告別式までもたせなければならない。あいにくこの時期火葬場が込み合っていて、予定より一日ずれ込んだ。なによりもまずは火葬場ありきで予定が組まれていく。

父の肉体の変化に応じて、いろんな処置をしている納棺師さん。
父の家は二階がメイン。玄関までの階段は狭く急で、二度折れ曲がる。
膨れて重くなったからだを降ろすのは、出来るだけ早い方が中のいろんなものが出なくて済む、、、などのリアルな話しを聞きながら、
「じゃあ、早いとこ葬儀社さんの方に連れて行ってもらっていいですか?」
と、父を早めに運んでもらうことに。
長い闘病生活のために、肉体に水がすごくたまっていた。最後は足が自分でもち上げられないほどに。

父の身体は、男性6人によって無事会場に運ばれた。


注:写真は、父がまだ母と結婚する前のもの。
押し入れの中から古いアルバムをみつけた。
立ちポーズが決まっている(笑)。

2018年4月5日木曜日

父、自分の葬式をプロジュースする


「葬式のことで話しがあるから、帰って来い」
父からの電話で高知に戻った。

自分の葬式にはあれを置いて、これを納骨して、名簿はこのように。。。
と、色々注文をしてくる父。
はいはいとメモっているうちに、なんだかおかしくなってくる。

「とーちゃんさあ。今、自分の葬式のプロジュースしてるじゃん。それって、覚悟出来てるってことなん?」

何度ものがんの手術に耐え、抗がん剤治療も全部受け、今は全身にがんが転移している。そしてついに何の抗がん剤治療も行なわれなくなった。
父はそれを見て、自分の死を身近に感じたようだった。

父は私の言葉にちょっと考えて答えた。
「出来てない」
素直な父の言葉におもわず笑った。

離れて暮らして40年たつが、今になって父がどんな努力家だったかみる。
術後の回復力はすさまじいもんだった。日々のリハビリでみるみるうちに回復していく。人がみていないあいだにひそかに訓練して、杖をつかないで歩ける姿を見せて、医者や看護士さんたちをあっと驚かせるお茶目な所もある。
目標を持って、一歩一歩確実に前進していく人だった。

それが今は、何の努力もいらないと言われることになる。

「起きたいのに、起き上がるなと言われる。。。歩きたいのに、危ないから歩くなと言われる。。。なんちゃあできんじゃいか。。。。」
自分が情けないというような、泣きそうな顔をする。

日々後退していくカラダの状態。
トイレに行こうとしてこけると、もうおしめにしようと言われる。
今度はベッドで起き上がって後ろに倒れ込むと、もう起き上がってはいけないと言われる。

だんだん自分では何もしてはいけないと言われていく。努力の人が、もう努力はせんでええと言われる。努力こそが、彼のアイデンティティだったのだ。看護して下さる方々にご苦労をかけてまでの、その無念な気持ちは彼にしかわからないだろう。

人は何かを「する」ことで安心を買う。その何かを「する」ことさえも出来なくなると、彼の安心はどこで買うのだ?

「とーちゃんは、ほんとに努力の人やでねえ。すごいわ。でもねえ。ときにはなんちゃあせんでもええときがあるがよ。人生、決して悪いようにはならん。安心して起こることに身をまかせてみたら?」

レースのカーテンから漏れる薄明かりの中で、父はどこかホッとしたような顔になり、そのまますーっと寝てしまった。

私が生まれて来て、最初に出会った存在、父と母。
かれらを通してこの世のルールを知り、そしてまたかれらを通して人間の生き様をみせてもらっている。


高知の山は、今、緑がムンムンし始めた。