2018年2月24日土曜日

なーんもコントロールできんわーい


十何年ぶりに、寝込み系の風邪を引いた。

何で引いたかわからない。でも引くもんは引く。どんなに気をつけてたって、どんなに万全の体制であっても、引くもんは引く。

しかしいざ引いてみると、布団の中で、あーしたのが悪かったのか、こーすれば良かったのかと、後悔と懺悔のオンパレード。
思考炸裂、感情炸裂、カラダの痛み炸裂、自我の大騒ぎに翻弄されまくる。日頃の非二元の訓練(どんな訓練や)はどっかにすっとんでしまう。

こんなとき、とことん「人生は何一つコントロールできない」と、思い知らされる。
指一本自分で動かせない。勝手に動いているのを見ているだけになる。思考のひとつさえコントロールできない。感情も、感覚も。

やっとマシになって来たかと思ったら、今度はダンナにウツしてしまった。さらに険悪なムードに。看病するのも触るのも拒絶される。ハアハア言ってる相手をただおろおろ見ているしかない。色々気をもんでも空回りするだけで、相手の機嫌はもっと悪くなる一方。


絶望的な気分の中で、ゆいいつの風穴が、久しぶりの営業だった。

病み上がりのカラダをおして冷たい雨が降る中、大きな作品をもって歩く。いったい何十年やって来たのだろうか。35年か。。。新しい作品が出来てはこうやって見せに行って来たが、よる歳なみごとに、直接会ってはもらえなくなる。そんな中の貴重なチャンスだった。

担当の方は、私の最近の作品をとても楽しそう見にてくださった。直接仕事にはむすびつかなかったが、すこしだけ手応えはかんじた。とてもありがたかった。



家に帰り着いた。
何も変わってない。

そのとき、自分の心の状態に気がついた。
わたしは未来に希望を託していたのだ。

今ある現状から逃れるために、営業と言う風穴を開けていた。あっちから、いつかいい風が吹いてくるはずだ、、、と。
それは今おかれている自分の状態から目を背けるための手段に過ぎなかった。

「営業」は、私の心の保険であったのだ。
営業さえやっていれば、いつか、どこかで、ここから脱出できる。。!
逆に言えば、何もしていないとは、ここから脱出は出来ない!と。
だから私は無意識に営業という行為に賭けていたのだ。

それは何をかくそう、「ここ」がいやなのだ。
「ここ」をなんとかしよう、「これ」をなんとかかえて、他の何かになろうなろうとしていた。

自分が今ある感情や思考と向き合うことをさんざんやってきたくせに、こんな所に落とし穴があった。
現実の苦しさから逃れよう逃れようとしている自分がそこにいた。

このゆいいつの希望さえもが、逃げであったのか。


抵抗が苦悩を生むことを知っていた。ありとあらゆる抵抗に気がつき、それと向かい合うことをやって来た。私たちがもっているありとあらゆる抵抗。それと正直に向かい合う、ジミーな作業。それでも成果があった。心の中はだんだんと静かになっていった。
そしてそこにはいろんな理解が生まれる。ああ、こういうことだったのか、そういうことか、と。

そんな中で秘密も知る。

やった!これだ!私は秘密を知ったぞ!
もうここから先は苦しみはない!と一瞬の開放が訪れる。

だがそれもつかのま。
また苦悩がやって来る。

この世は固定された方法論など提示してくれない。一瞬一瞬が前回とちがう姿で現れてくる。対応が同じではまったく歯が立たない。

それがこの世界。
何一つ同じものはない。



苦しさは、どうやっても逃れられない。
ゆいいつ、その絶望的な苦しさの中で、癒される。



2018年2月12日月曜日

探求の衝動


気がつくと、ネットサーフィンしていた。

さんざん見て来た非二元の動画をまた見返している。
どこかに新たな考えをもったお人がいないか。

これも見た、
このひとも知ってる、
このひとはちょっといやだ、
このひとはここまでしかわかってない、
もっと、なにか、すとんと落ちるようなことを言ってくれる人は。。?

あ。。
クリックし続ける手が止まった。
何探しているんだろう。。
そのとき、ある動画の女性が言った。

「じっとしていられないのよ。
今ここに、ただいることがとっても居心地が悪いの。
常に、次へ次へと行こうとしている衝動があるの」

それ、わたしじゃーん。

だからクリックし続ける。
次の何か、次の発見をさがして。

これが無意味なことは百も承知だ。
外には探すものなどないと知識ですでに知っている。
外に答えなどない。

マウスをもった手をそっと離す。カラダが何かを探して振動しているのを感じる。
椅子から立ち上がり、キッチンでインスタントコーヒーを入れた。
裸足で庭に出て、石の上に座る。
目の前にある一枚の木の葉っぱを見た。

だめだ。
じっと見てられない。
カラダはじっとしていられない。目を一点に集中させることも出来ない。
探している。次の何かを。。。

地面に視線を落とし、全身を感じる。胸のあたりがざわざわする。
く、、、、苦痛だ。。。
それでもじっとその苦痛の中にいた。


ふと、これもエネルギーなのではないか?と気づく。
エネルギーが揺らめいている。エネルギーが波打っている。

それを私は、「衝動」ととらえた。
それを私は、「探求」ととらえた。

自我はあらゆるものに「名前」をつけた。
このエネルギーは「怒り」
このエネルギーは「悲しみ」
このエネルギーは「恐怖」
このエネルギーは「コーヒー」
このエネルギーは「椅子」
このエネルギーは「パソコン」
このエネルギーは「人間」。。。

そして、今のこのエネルギーの波に、
「探求の衝動」と名付けたのだ。。。

それに気づくと、その「衝動」は一気に冷めた。
さっきまであった落ち着かなさは消えた。
目の前の一枚の葉っぱを、静かに見ていられる私がいた。



「Mayhem & Mass」ミステリーシリーズ表紙イラスト



2018年2月10日土曜日

うほ♥



ふと「○○をやってみたい」と浮かぶ。

「うほ♥」と、心がウキッとする。
未来に起こることにドキドキワクワクする。

んが。
その直後、それとは正反対の言葉があふれてくる。
「それやって、どーするの」
「またあんなことになるんじゃないの」
「それ、意味なくね?」

とたんに、浮かんだことが、膨らんだ風船の栓をぬくように、しゅるしゅるしゅる~~~っとしぼんでいく。

過去起こったかなしー出来事が走馬灯のように一瞬で広がる。

「そうだそうだ。ジェッタイそうだ。何考えたんだろ。あほじゃね?あたし」
「あーバカバカし。さっさとやること終らせよ」
といって、またいつもの変わらぬ日常にもどる。

こういうあたまの中のやりとりが日常的に起こっている。



若いときは経験がないので、やりたいと思ったことをすぐ実行した。
しかし段々経験が増えていくと、「経験」という場所から判断やジャッジが始まって、インスピレーションは、ただの「妄想」に片付けられていく。


自我は過去を追いかける。
「今度はティラノザウルスにおそわれないよーに、身を隠すのだ」
という肉体的に傷つくリアルな肉体的保持のために利用できる道具だ。

と同時に、心が傷つくというものにまで肉体保持をしようとする。
どうも自我は肉体的に傷がつく体験と、心が傷つく体験の区別がつかないらしい。どっちもリアルな体験として保護をしようとするようだ。


であるから、何か新しいことをしようとすると、過去の経験を持ち出し、
「それはあぶない」といってくるのだ。

新しいことは未知だ。過去の経験が通用しない。
なのに過去の経験を引っ張り出して来て、最悪の状態を思い起こさせ、未知の中に入っていくことをとどめようとする。

年がいけばいくほど、未知に入りたがらないのはそこだ。経験がいっぱいあるからだ。自分自身の経験、他人から聞いた経験、メディアが教えてくれる経験。

そうやっていつもの場所におさまりたがる。
「あ~~、いつものここで、あ~んしん♥」と。



だが、どこかで沸々と心が騒ぐ。
「ここじゃないどこか。。。」
「なにかが欠けている感覚。。。」
「あるべき姿。。。」


ある時ふと浮かぶ、今までになかったインスピレーション。
「あ!うほ♥」とワクワク。

その直後、自我は言う。
「それ、意味なくね?」

「ああ、そうやそうや。やってなんになる?」
と過去の失敗を思いだす。

で、「あ~やっぱ、ここで、あーんしん♥」
と、ほっこりする。

の、繰り返し。



そういう心の繰り返しに気がつくのはおもしろい。
そうやって、心があっちゃこっちゃしているのに気がつくのはおもしろい。
その時、あなたは無意識の自動反応の中にない。
否定もせず、ただ見ている。

そのときあなたは、外にいる。







2018年2月6日火曜日

「それがある」と意識した時から、それがある。


「それがある」
と意識したときから、それはある。

先日畑からの帰り、雪の重みで倒れた竹の枝が額に引っかかった。
「いて」と思ったが、まったく忘れていた。


ある日、トイレの鏡で、自分の額に一本の赤い筋が入っているのを発見。
「あ。あんときの竹の枝で引っ掻いたんだ。。」
と気がついた。

それからすぐに、
「なにそれ!どうしたん!?」とか、
「えらい傷があるけど、猫でもいるんですか!?」
と、皆ビックリしながら言ってくる。

自分でみえないから、傷の自覚なし。
化粧もしないし、クリームも塗らないので、鏡を見る習慣がない。
だから自分の顔がどうなっているのか、2、3日まったく知らなかった。

おもしろいなあとおもう。
それまでだーれもその傷に気がつかなかった。
トイレで私自身がそれに気がつくまで。

「私の額には傷がある」
と意識した瞬間から、それは存在し、皆に見つけられるのだ。

2018年2月5日月曜日

恐怖はこの世をリアルにする


恐怖って、この世をめちゃくちゃリアルにするんです。

先日、雪の降る日にダンナと都心に出る予定があった。その日は飲んべの日なので楽しいはずが、ある一点だけ気がかりなことが。。。
ダンナは車で都心に出ようとしていた。ノーマルタイヤで。

「状況を見て、その時決めよう」
と言う話しだったが、当日雪はどんどん降り続いた。

「こりゃ、絶対車じゃ無理だな」とおもいつつも、
「でも。。。あいつのことだから、無理やりにでも車で行こうとするかもしれない。。。」
と思いはじめたら、恐怖が止まらなくなった。


日頃の非二元訓練(どんな訓練や)で、鍛えているはずの私。
恐怖のひとつや二つ、軽く乗りこなせるはず。。。。

恐怖を感じている自分にオッケーを出す。
「おお、怖いんだね。怖いって思ってるんだねー。いいよー」
すると、
「ハイ。おっしゃるとおり怖がってます。では、また怖がることにします」
と、また恐怖が襲ってくる。

いかんいかん。
そうだ。これは未来のことばかりを考えているぞ。
今だ!今にあればいーんだ。
「今!今!今~!」
と、頭で言い続ける。
そればかり言い続けて疲れてくると、
今度は高速道路でスリップして横転するイメージ、他の車に激突するイメージ、なぜか私だけ死んでしまうイメージなど、怒濤のようにイメージが襲ってくる!

ギャーーーっ!恐怖がとまんなーい!!!

カラダはメチャクチャ忙しく動き回っているのに、頭だけがまったくちがうことで恐怖を感じ暴走している。
カラダも心もヘロヘロになった。

雪道に足をとられながら歩いていると、
「あ。。。恐怖って、この世をリアルにするんだ。。。」
と、気がついた。

何の問題もないと、人は何となくほわ~んと生きてる。
ところが問題を見つけると、いきなりこの世はガッチガチにリアル感満載になるのだ。

ダンナと自分というはっきりとした分離が生まれ、車と高速道路という分離が生まれ、生と死という分離が生まれ、物質が確固とした物質としてリアルに立ち上がり、イメージまで膨らませて、臨場感ターップリになるのだ。


家に帰り着くと、車のやねに10センチほど雪が積もっていた。
「ムリムリ」と言いながら、家に入る。
ヘロヘロなカラダをコタツに滑り込ませて30分ほど寝る。

目が覚めると、なぜか作業着に着替えて、スコップをもって外に出る。
「いやいや。何やってんねん。私」
と、心は言う。
心とは裏腹に、スコップで車のまわりの雪かきをはじめた。

30分ほどで、まわりの雪かき終了。
家に入りながら、車の屋根の雪を見つける。
「いやいや。これやったら、本気で車で行くことになっちゃうでしょー」
と、ひとりツッコミをしながら、家に入る。
ヘロヘロがますますヘロヘロになって、コタツに滑り込む。


ところが、ダンナが帰るちょい前に、カラダは勝手にコタツから這い出て、倉庫からほうきを持ち出し、ちゃんちゃんこのままで、屋根の雪下ろしをしはじめる始末。。。

またコタツでカタツムリしていると、ダンナが帰って来た。

「どーすんの?」
「車で行くさー」
「はあ。。そーですか。。」

そのまま車に乗って都心に向かう。
なーんの問題もなく、スイスイ。
都心に雪などなかった。

そしてとーっても楽しい飲んべの時間を過ごし、スイスイ帰ってきましたとさ。
ちゃんちゃん。


って、あのものすごい恐怖感は、いったいなんだったんだあ~~~!

「はい。リア充、感じさせていただきました」


「カリスマ社長の大失敗」/MF新書表紙イラスト

2018年1月31日水曜日

はーるよこい。


大雪ふってから、畑にはしばらく顔出してなかった(飲み屋か)。

畑に向かう北の斜面がいつも吹きだまりになってて残り雪もすごいので、シャベルをもって出かける。

「どこいくんでい」
「畑」
「雪残ってるんかあ?」
「わからん」

道すがら、隣の町会長さんや、宅急便のお兄さんから声をかけられる。
おばさんがショベルをもって、道を歩いてるのが不思議なんか。

それにしても、シャベルなんか、ショベルなんか、よおわからん。スコップとも言うらしい。
名前ってのはほんとに面倒くさい。

まあいいや。
んで、畑に行くと、思ったほど雪は残っていなかった。

ウチの農法は、この時期何もすることがない(と、勝ってに思っているだけだが)。普通は石灰をまいたり、耕したり、春の種蒔きのためにあらかじめ肥料を仕込んで準備をするらしい。

そういう作業は全部すっとばかすのが、やまんば流。
これからろーじん大国突入。何事も楽にできる方法を探すに限る。

やまんば流は、種蒔きする時にちょこっとホックリ返して、種ぱらぱら、ハイおしまい。追肥などもしない、成長途中で手をかけたりもしない。あとは種さんが勝手に気のむくまま芽を出し、気のむくまま大きくなったりならなかったり(笑)してくれる「種さんの気分次第」な農法なのであーる。

もっともやまんばは、最初はそれなりに計画性をもって望んでいたのであった。しかし、長年この畑と関わるうちに、計画性とは、とても人間的なものなのだなとおもいはじめる。

というのも、人の計画無視して野生動物は季節構わずやって来て畑を襲撃していくわ、季節は毎年同じようにやさしくやって来ないわ、植物は毎年同じように生えて来ないわで、とてもじゃないが人間様の計画通りには事は進んでくれぬと言うことをいろいろ痛感したのであった。

そもそも、毎年同じように事が進んでくれる上での計画ではないか。それこそ人間の机上の計画。。。。
こうあるべきをいつも裏切ってくれるのが人生。こうじゃないとこまる~~!というのを、スコーンと裏切ってくれるのが畑だった。

だったらこっちも無計画だ!と、気のむくまま動くことに方針を変えた。
人生の方も、もう無計画だ!と、気のむくまま動くことに方針を変えた。



菊芋を掘り起こしてると、枯れ草の中から去年仕込んでおいたオブジェがみえた。

ゴボウをラクチンに掘り起こせるナイスなシステム。
米10キロ用のビニール袋の上下に穴を開け、4本の支柱でそれを立たせ、その中に土を入れる。土が入った筒状のオブジェのてっぺんにゴボウの種を仕込み、ゴボウの根が出来た暁には、そのビニールをタテにシャーーーッと裂いて、土の下に埋もれたゴボウを根こそぎゲットするという画期的なシステムだった。

しかし種を間違えて、去年はうんともすんとも芽が出なかったのだ。それでそのオブジェはそのまんま放置されたまんまだった。

やまんばは、ビニール袋のてっぺんに生えた草をとりのぞき、去年そこらに勝手に生えて来たゴボウの種を新たに仕込んだ。
今ゴボウの種蒔きする時期ではないが、蒔いてはいけない法律はない。自然界は勝手に好きな時に芽を出す。その力にまかせた。
ゴボウさんも気がむきゃ、育ってくれるだろう。

作業のあと、畑で大の字になって寝る。
もちろん長靴はぬいでアーシング。
青い空が春がくるのを告げていた。


2018年1月27日土曜日

勝手に浮かぶもの


人生は、自分の思うようにいかない。
ホントに。

こうあってほしいのに、そうならないことがおお過ぎる。
てか、それしかないんちゃうか?ってなぐらい、裏切ってくれる。

それで疲れていると、そもそもの、なんでこうあってほしいのかな?っておもう。
それ、考えたことでしょ?

考えって、自分で考えた?
自分で考えたっておもってるから、そうなってほしがっている。

しかしほんとに「自分」で考えたんなら、その考えをコントロールできるはずだ。自分で考え出したんだもの。

だけどじーっとその考えの様子を見ていると、どうも「自分」で「考え出した」んじゃないな。。。。と、気がつきはじめる。

勝手に浮かんでいる。。。
が、正解なような気がしてくる。

だって、考えを消そう!としても、ものの5秒ももたないんだもん。

わしらは、「勝手に浮かんでくる考え(言葉)」に、ふりまわされている。




目の前を飛んでいく鳥をみる。
ただ鳥が飛んだだけだ。気にもしない。
だけどカラスが飛んだら、どっかがざわつく。
目の前を天狗が飛んだら、ざわつくどころじゃない。おおさわぎだ。

これがわしらが頭の中でやっていることかもしれない。

布団の中で、
「ちゅうちゅうたこかいな」
って浮かんでも、気にしない。(別な意味で気にするかw)

けど、「このままでいいのか?」
ってことばがうかぶと、いきなりがばっとおきあがり、
「そうだ!そうだ!このままじゃいけない!」
と、あせりだす。

単なる言葉だ。
単なる音だ。

だけど、ものすごく反応する。
これ、コントロールしてる?
どっちかっちゅーと、コントロールされてね?

ちゅうちゅうたこかいなって、音も、
このままでいいのか?って音も、
どこからともなくやって来る。

どこからともなくやってくる音に、ふりまわされてんのは、あんただよ(笑)。

まいどまいどやってくる同じフレーズの言葉を間に受けて苦しんでいるだけなのかもしれない。

一度、頭に浮かぶものを疑ってみるてはある。

そして疑っていくうちに、鳥も天狗も、目の前を通り過ぎるだけになってくる。


心に浮かぶものも、外にあるものになってくる。
それにともなう感情も、外を流れる雲になってくる。